自己承認欲求・他者承認欲求
と、タイトルの通り、
「承認欲求」とは、
「自分で自分を」と
「他者から自分を」との
この二つに分けられるそうな。
で、
自分が目指すは、
「自分で自分を褒めてあげたい」
(これ、かつて流行語にもなりましたよね。笑)
と、思えるようになる、
「自己承認欲求」を満たした、
その状態になることなのだけれどもなあ。
――「自己承認欲求」だけだと、
「不満」になるものだろうか??
(自分でもそこはよく解らん。
自分にも「他者承認欲求」自体は、
厄介なことに、
少なからず、どうしようもなく、
あると思うから。)
さて、昨日の記事で、
「強者に隷従したがる人」は
何故そうなるのか?
という理由を
以下の通り考えてみたのだが。
・自分で考えて動くのが面倒?
・「権威」「大きなもの」に
同化して安心を得たい?
(でもそれはいかなる場合も
安心とは言い切れないのに。)
・幼少期から繰り返し擦り込まれた
条件反射的なもの?
あと、もう一つ
新たに付け加えてしまえば、
・「他者承認欲求」?
ということも考えられるかもしれない。
つまり、
「強者に隷従することにより承認を得たい」
という、この場合は、
「自分より強いものに、
いいように使われる存在になってでも、
承認されていたい」
ということになるとも思われるが。
ただ、この場合って、
「付き従い、言いなりになる」
その代わりに承認を得るわけだから、
「自己承認欲求」のほうは
「不満」になったりしないのかな?
なんてことも私はふと思ったりしながら、
そういう人々を
常日頃より観察しているのだが、
――うん、この人たちはならないのかも?
という結論に達したりもしている。
(あるいは、
その「不満」を今度は
他者を自分に隷従「させる」ことによって
晴らしている、
それでバランスを取っている、
というのも多いだろうか?)
(その話は話で
また別の機会に書こうと思うが。)
「自分で自分を認められる」という
その手続きを捨ててでも、
あるいは後回しにしてでも、
「強者に付き従う」ことによっての承認欲求を
優先的に満たしたい派なのだなあ、
こういう人々って、
――と、
私はとりあえずは「単純解釈」した。
(「全く違ったらゴメン」であるが!笑)
で、昨日の記事で、私はこうも書いた。
「隷従すること」について、
それが本人にとって、本当に好きなことなら
自由にすればいいとも思うんだけど。
――そう、それは本人の自由。
私がとやかく言うことではない。
(まあ、こういう人って
「同調圧力」強めな場合も多くて、
それがこちらにとっては
面倒だったりもするのだが。)
(しかし、それはそれでまた別の話で、
そういう行為には、別途
対処していけばいいだけの話なんだろうな。)
と、いうわけで。
私個人としては、
「他者承認」を求めない方向に
どうにか行けないものだろうか、と、
試行錯誤している今日この頃なのである。
言うなればそれは、
そんなものなくても、
「自己承認欲求を満たす」
――「自分で自分を認められる」
その状態になるだけで、
まず一度は満足できるようになりたい、
ということなわけであるが。
例えば
(「ごく一例として」ですが)、
「書くこと」について。
どこかで私はいまだに
自分の書いたものについて
「自己満足」ではやはり飽き足らず、
「他人から承認されたい」という
気持ちがあったりするのだが、
しかし、
「世間」は私に
「書くこと」について、そこまで
「需要」してくれてはいないわけである。(笑)
――にもかかわらず、
私はどこまでも、
「書くこと」で、
「他者から承認」されて、
「需要」されたい。
(「需要」「されたい」って、
わかってます、変な日本語使ってます。笑)
――これがなあ、
「私はいいものを書けている、
よし、満足!」
と、自分が自信をもって思えるだけで、
「完結」できたらいいのになあ、
と思うのだ。
「……え、『自己満足』って、
そんなの、虚しくないですか?
他者から承認ゼロでもいいんですか?」
と、思う方もいると思うが、
だって私は
まったく世間から必要とされていない
「書くこと」で、
満足を得たいわけだから、
これは「取り急ぎの現況」としては
仕方ないわけである。(笑)
――まあ、私のこの感覚は、
「行き過ぎ」なのかもしれないけど
(自覚アリです。笑)、
でも「他者承認欲求」ばかりで
全てを満たせばいい、となると、
多分、
他者から「コントロール」されやすい人には
なると思う。
(「そういう人」を観察していて
個人的につくづくそう思うもので。)
「顔色窺い」によって、
「他者承認欲求」を満たそうとするのは、
私はあまりお勧めできない。
(実はそっちのほうが
手っ取り早いとしても。)
「自分が失くなっている人」を
傍からみていて、
なんというか、
この世間の「息苦しさ」の「元凶」を
そこに見る気もしているし。
(※個人の解釈です。)
(てか、この話はまた別記事で
そのうち書こう、長くなるから。)
と、いうか、
――私個人としては、少なくとも、
「そうなりたくない」ので、
(その一番の理由は、ただただ、
「面白くなさそう」だからであるが、笑)
「他者承認欲求」の手前に、
「自己承認欲求」を置いておきたい。
と、そんなふうに考えている。

――ちょっと今回の記事、
解りにくかったかもしれないので、
以下、ごく簡単にまとめてしまうなら。
「自己承認」より「他者承認」を
常に優先していると、
自分自身の「魂みたいなもの」の
その「置き所」が、
自分の外側になるというか、
その比重がどうしても
「自分ではないところ」に
いってしまうので、
どうも自分としては、
それはしっくりこない。
という、ただ単に、
そういう話なのかもしれないです。

