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そこに喜びなくしては善人でなどいられない

謙遜していると話が進まないので、謙遜抜きで始めようと思う。

かつて(大昔)の私は、所謂「お人好し」タイプだったように思う。――いや、もっと正しく言わないといけない。

私は、善人でもないのに必死に「善人面」を作っているタイプであった。

しかし、そういうことをしていると、時々、「何故自分ばかり?」とか、「損している気がする」とか、そういう「不満」が、胸の内に発生していた気がする。(つまり所詮、そんなの大した「善人面」ですらないのだ。笑)――「お前が好きで勝手にやっているだけだろうが!」と、どなたかから突っ込まれても、これは仕方ないことである。


そもそも。

「不公平」というものが、とにかく私は好きではない。

ならば、「自分自身も、他人同様、公平に扱う」でなければ、そりゃあ「不満」もわくであろう。

例えば、「自己犠牲」について。――「公平であること」を望むのであれば、本当の意味での誰をも「犠牲」にしてはいけないはずだから、その「誰をも」には、「自分」も含まれなくてはいけない、ということだ。――そうしなければ、私は「不公平を厭う」自分を、裏切ることになる。


そこから導き出された結論は、私が犠牲に「されている」と、どこか受け身で感じるような、そんな「自己犠牲」は、一切やめよう、ということであった。――それは、見えない圧力であるとか、あるいは自らの「悪く思われそう」といったどこか被害妄想的な感覚であるとか、そういうものから「どうしようもないからしてしまいがち」なのだとしても、「いや、しないようにしたほうがよろしいこと」であると、私はある時から判断するようになった、ということだ。


私は、「善人面」をしたいわけではない。
「お人好し」になりたいわけでもない。

そして、善人だと、誰かから「思われたい」わけでもまた(少なくとも今は)ない。

しかし、「本当の意味での善人」で、「ありたい」と、願ってはいるのだ。
「本当の意味での善人」――そこには「他人の評価」は一切いらない。それを狙い出すことが、「ただの善人面」になる元であると思うから。

善い行いであろうとも、そのことで、自らの胸の内に「悪いもの」――「不満」「不服」であるとか「わだかまり」であるとか――が残るのであれば、それは純粋な意味での「善行」とは言えない気がまたする。

そこでは「自分」という、――そう、それはたとえ「自分自身」であっても――「一人の人間」の気持ちを、蔑ろにしていることに変わりはないからだ。


「善い行い」にこそ、
嘘偽りない、本心からの、他の誰でもない自分自身の、
「同意」「承認」と、
そして「よろこび」が、
まず真っ先に必ず伴わなければならない
と、私は思っているのである。


まとめると。

「自分がモヤモヤする」ような「善行(っぽいもの)」は、「善行」とは言えないと思うから、なるべく避けて行こう。
――そうしない限り、(私自身が考える)「本当の意味での善人」には、いつまでたってもなれない。

と、いうのが、私が導き出した結論、というわけである。