「洗脳」は誰もがされている?
「洗脳」とは、何だろう?
多分、多くの人に共通する定義としては、
『他者がその人の精神の部分に介入して
「コントロール」し、
ある思想を植え付けること』
と、なるだろうか?
私は、
「他人が人の心の中に手を突っ込んで
その意のままに
どうこう変えようとする」
つまり、
「人の心の中を『操作』しようとする」
みたいな行為は
昔々の若い時分から大っ嫌いではあるのである。
(するのも、されるのも。)
――が。
「なので、私は自分で考え、
自分ですべて判断しています」
とは言ってみても。
その「判断材料」の
「情報」は、
外部、つまり「他人」からしか
得ようがないわけである。
もしもである。
その情報自体が「操作」されていたら?
――情報というのはいずれも
「人から人へ」伝わるものなのだから
(人が介在していない媒体はないわけであるし)、
そこには必ず、
多かれ少なかれ
人による「思い入れ」なり、
――いや、あえてもっと悪く言えば
「作為的な要素」――「小細工」「企み」は
入っていてもおかしくはないはずである。
(そこには「悪意」がある場合もあれば、
ない場合もまたある。)
しかし、そんな部分を
私達はそれとは気づかず、
(あるいは気づかぬようにして、)
だいたい「鵜呑み」にしてしまう。
――そのほうが、面倒くさくなくて簡単で、
その上、心が安定するからである。
その「鵜呑み」こそが、
自分で自分を「洗脳」へと引っ張っていっている、
とも言えるのではないかと私は思うのであるが、
――いかがだろうか。
以前にも書いた繰り返しになるかもしれぬが、
なので私は
「すべてを疑ってかかる」人間でいようと思う。
「すべて」なのでそれは、
「こっちは疑ってこっちは信じる」
でもないし、
「こっちが本当だからこっちが嘘」
でもない。
なので言うまでもなく、
「意見が同じだから味方で、違う人は即ち敵」
という
「仕分け」もまたしない。
(もう「ファイティングポーズ」はいらない。)
また、例えば、こういうこともある。
好きな、あるいは
「尊敬」の対象なら猶のことだと思うが、
そういう
「作家」「思想家」「アーティスト」がいたとして。
その人の言ったことは、
「全て」信じてついていきたくなるし、
疑いたくもないし、
と、なるのは、
自然と言えば自然なのだと思うが。
私はそれも意識的にやめようと思っている。
(てか、それは既に結構前からやめているかな?笑)
それは、「尊敬」「憧憬」はしても、
「崇拝」はしない、ということである。
――いやいや、どうして、
それでも人間は
何かと「信じたがる」動物だとは思う。
で、同じことを信じている人同士で
「群れ」を作りたがる。
そうしないと、
気持ちが揺れて定まらないし、
安心できないし
そして「孤独を感じる」し。
また、
全てをいちいち疑うのは、
揺れる地面の上に立つようなものだから
胆力がいるし、
兎角疲れもするものだ。
だから、
我々はついつい、
「必ずこうである」とか
「こうなるにきまっている」とか
言いがち、思いがち、
で、集いがち、である。
――この世には、
「絶対」と言えるものなど何もないのに、
それにもかかわらず、
あらゆる面で、あらゆることを、
信じたがるし、
「絶対」を求めたがるものである。
――まあ、それは、
「人の習性」であり、
「仕方のないこと」とも
言えるものなのかもしれない。
しかしである。
「洗脳」と聞けば、
「怖っ!」って思うわけなのであるから。
「自分が判断して自分が信じた」その行為を
もう少し「それは怖いことを孕んでいる」と、
一度考えてみてもいいのかもしれない。
――つまり、それは、
「信じ切る」という行為に対して、
もう少しだけ恐れを抱いてもいいような気が
私はする、ということである。
極論を言えば。
「洗脳」とは、
人からされるものばかりとも限らない。
――「信じている」というのは、
「自分で自分を洗脳している」ようなもの、
とも言えるのかもしれない。
『そもそも、いかなることも
「絶対」も「必ず」も
あり得ないはずであるし。』――と、
私はこれから何事もいちいち
思うようにしてみようかな?と考えている。
まあ、そうしてみるのは、
「何も信じない」「すべてを疑ってかかる」
そのほうが、
「自分としては面白そう」だと
思うようになったから。
――動機はとしてはそれが主である。(笑)
なので、
私のこのやり方だけが
正しいということではなく。
――と、いうわけで、
もちろん、別に今回のコレは、
あまり人に薦めたいというものでもありません。
(以上、本日の「極論」でした。笑)
