断捨離で手を動かしているといろんなことを考えますよね
いや~、ただいま絶賛断捨離活動中なのですが。
(夏前からやっている気がするけど、いつまでやっているんだい?!?!)
(少なくとも、この↑記事の日付からは三ヶ月が経過していて、我ながら信じられない時の流れの早さよ。)
(いや、時の流れが早いというより、お前の作業が遅いんだよ!)
(でも、すこ~しずつ、ちゃんとやってますから!!笑)
それにしても、家の中にある「モノ」の山を前にして、ふと気づいたことがある。
どうも人には「余分に取りすぎる」そして「溜め込む」習性があるのだろうなあ、ということである。
(特に私みたいな「貧乏性」の人間は、その傾向が顕著だと思う。笑)
いやはや、今回、出てくるわ出てくるわの、「すっかりとって置いたことを忘れていたモノ」の数々――使い捨てカイロ、ポケットティッシュ、ウェットティッシュ、試供品(シャンプーとか洗顔料とかクリームとかサプリメントとか)、等々。
(あと、忘れてはいなかったけど、一か所にまとめていなかったせいで、割り箸も思っていた以上に大量に在庫があった。笑)
(あとはあるあるの手提げ紙袋とペタッとしたマチ幅がないタイプの四角いビニール袋な!)
(カイロとか清涼剤入り汗拭きシートとかなんていくらでも使いたい場面がこれまでにあったと思うのに……ずっと使わずに置いておいたから、これらはもしかするともはや効力がなくなっているかもしれない。笑)
(これまでの「断捨離」まで含めて振り返れば同じようなものがまだ出てくる。)
(「いつかまた読むと思いながら結局読まない本」「いつかまた聴くと思いながら結局聴かないレコードやCD」「いつかまた着ると思いながら結局着ない服」「いつかまた使うと思いながら結局使わない道具・機器類」、……)(まだまだ続きます!笑)
(とにもかくにも、)
人間、まず「しまい込む」とダメだ、と思った。
(まあ、箱とかに収納すると、見た目がスッキリとはするんですけどね!)
(でも、)慌ただしい日常ルーティンの中では、「しまい込んでその存在(中身も含む)が目に入らない」モノのことなんて、すっかり頭の中からなくなって、「なかったも同然のモノ」になってしまう。
常に目に入るようにしておくほうがいい。
と、いうより、「何かの時のためにとって置こう」みたいな「取って置くモード」つまり漠然とした「溜め込み主義」は、コレ、このようにかえってもったいないことになるので、やめたほうがいいのだろうな。
「何かの時」は、ほとんど来ません。
あるいは来ても、取って置いたモノのことなんて「その時」には忘れています。(笑)
『使えるのであれば、とっとと使ってしまう。使い切れるものは、どんどん使い切る。』
これからは意識してそうするようにしようと思う。
生きとし生けるもの――つまり生物は、絶えず、血と水分を体内に巡らせ、酸素を吸収し続け、といった形で、「絶え間ない流れの中」に元々いるものなのである。
(ここから「論理の飛躍」が始まります、いつものです。笑)
ヒトで喩えるなら、肺も心臓も脳もずっと休みなく動いているし、細胞も分裂し続けるし、となると、形も実は一瞬の休みもなく、変わり続けているのである。
しかし、「モノ」もまた、ヒトの所有物となった時点でそこに、ある意味での「生命」が宿って、「生物的なもの」になる気がするのである。
だから、絶えず「使う」という意識でそんな「流れの中」に置いておくほうがきっと正しいのだろうと思う。
そういや、私がつい過食してブクブク体重増加し続けた時期って、ちょうど「人生の先行きが不安に感じられた」時期と一致していた気がする。(今でも状況はさしてそんなに変わりませんが、心理・精神的には落ち着いてまいりました。笑)
――そういう心理・精神になると、(単純にその不安感がストレスになったという部分ももちろんあるだろうけど、)「危機感」「飢餓感」が募るというか、「備えておかねば!溜め込んでおかねば!」という心理も、どこかそこに働いていた気がする。
うむ。
考えてみると、あれだけ必要以上(それは明白だ!笑)に栄養摂取しようとしていたのも、どこかの何かが精神的にズレてしまっていた気もするし。(そして何より、エネルギーを貯め込み続け増加し続ける体重のほうそっちには、何故か「危機感」を感じていなかったわけなのである。――ホント、当時の自分ったら、どうかしていたとしか言いようがありません!!!笑)
ならば「人生の先行き不安」とは、いったい何だろう?
と、私はその時にあらためて考えてみたのであるが。
その結論としては、以下の通りである。
死ぬその時まで、つまり生きている限り、生物を取り巻く状況もまた、ピタッと静止することは本来ない。
それなのに、クルクルと落ちていく「だけ」のように感じられるのは、気のせいというか、思いこみというか。――「どうせ」「もうダメだ」と、自分の気持ちのほうがそうなっているところも大きいのだと思った。
ところでさ。
「どうせ」って何?「もうダメ」って何のこと?
「自分で勝手に思い描いた通り」にはならなかった届かなかった、という「それだけのこと」で、そんな言い方・考え方、というかハッキリ言えば「決めつけ」は、せっかく与えてもらった人生の時間に対して失礼じゃない?
「不安」?――お前は、いったい何様のつもりなの?
全知全能の神様か何かのおつもり?!
「私の思い通りに運命も世界もすべてがうごくべきなのに」とでも言いたいの??
――あんたはこの世界の創造主か何かなのっ?!?!
早い話が、すべてのことは、良いままでもない代わりに、悪いままもしくは下降線の一途ということもないであろう。
絶えず、それも必ずしそこに規則性はなく、言うなればこちらのことなんかおかまいなしに気まま赴くままに、気流や水流のように、下がっては上がって、流れては変わっていくのだ。
「変わっていく」のだから、「不安定」なほうがむしろ自然なのだ。
と、そう割り切ってしまえば、「元からそういうものであるのに、私が今感じているこの「先行きに対する不安」とはなんぞや?」という心理にもなっていったのである。
だから(――そろそろ話を元のラインに戻すか、)すべてのもの・こと、いずれも、「そのうちこう使う」というような明確なビジョンもなくただ習性的に「溜め込む」みたいなことは、しても仕方ない気がする。
つまり「良いところで留めたい・留まりたい」という「(状況含めて)静止するイメージ」を持っても、それは現実に即してはいないのである。
むしろ「変化していくのが自然」という「止まるな!溜めるな!留めるな!」からの「バンバン流していけ!ガンガン使っていけ!グルグル巡らせていけ!」というイメージのほうが良いのだと思う。(モノについてもそうだし、それ以外についても同様、ということ。)
水も、どんなに新鮮に保とうとしても、一所に溜まっていては、いずれ澱んで腐っていく訳ですもんね。
私らも体内70%くらいはそれで出来ているわけですから、ほとんど「水」みたいなものなわけです。――体内に水を流し巡らせ続ける、その流れの中にいないと、生きてすらいけないのです。
そろそろまとめましょう!
自分の手持ちのエネルギーをもったいぶらずに使い続けることにより、それは減りもしていくけれど、同時にそこで鍛えられて増える部分もある訳だから、とにかく「ゴール目指していずれはそこで安泰」という「(いつかも含めて)留まる」イメージより、いつでも現在進行形精神で、流れる時の中でとにかく「その時どきなりに動き動かし続け流し流れ続けること」だな、そのイメージでいこう、と思った次第である。
つまり、持ちモノももちろんそうだし、自分の身体も、気持ちも、持ち時間も、全部についてこれは言える、というそんな結論である。
モノでも気持ちでも何でも、溜め込まず、とにかく流す巡らす。
で、時々は、水場を清掃するように、「澱んでいるもの」を意識的に落とす作業をして、スッキリきれいにしてみる。
いや~、ホントに、気持ちが清々します!
って、「断捨離途中経過報告」から、我ながらよくここまで話を飛躍させられたものだな!!と。
(いや、捨てるとか縛るとか片付けるとか掃除するとか、淡々と手作業していると、脳内にある考えって、その「動くこと」に連動してしまうのか、勝手にいろいろと巡り出すものなんですよね。笑)
