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「自己犠牲」は美談にならない

「自分だけ得すればいい」
という考え方が、
おかしいのと一緒で、
「自分さえ損すれば」
なんて考え方もまた、
基本的には、
おかしなもののはずなのである。

「自己犠牲」という精神は、
美徳や美談として扱われやすいのだが、
はたしてそれは本当にそうだろうか?
と、
一度疑ってみるのは
大事なことだと思う。

「自己犠牲」を他人に「強いる」人は
「自分さえよければ」のタイプが多い。
何故なら、
他人が犠牲になっても
平気な思考回路でないと、
そんなことはできないからだ。

つまり、
マトモな人は、
他人に自己犠牲を平気で強いたりは
しないはずなのである。

――「自己犠牲」が存在してしまう、
そこにはよく見ると、
「他人が犠牲になったらいい」
という
マトモではない考え方の人間が
介在していることが多いし。

そしてそんな中で
「自己犠牲」の精神は、
そういう発想が心のどこかにある
そんな人間「のみ」に、
「いいカモ」にされやすいともいえる。

と、仮定すると、
割と「残念なもの」でしょう?
「自己犠牲」の精神って。
(……いや、私だって
そうは思いたくはないのだけれども!)

だから、そもそも、
「自己犠牲」なんてものは、
取り扱いには重々注意しないといけないし、
何なら、気軽に、あるいは不必要には
持ちださないほうがいいくらいなものなのである。

(「自己犠牲を他人に強いる」人の
あとの残りは、
「自分も犠牲になるのだからお前もなれ」
という、
「同調圧力をかけたがる」タイプかな?)

人様の「美しい心」を
「いいように利用しようとする輩」は
大昔から、どうしようもなく、
そこかしこに存在しているものである。

――という
これまで長らく目の当たりにしてきた
そんな現実世界に鑑みて、
私は、
「自分だけ」「自分さえ」というのは、
その内容の善し悪しにかかわらず、
あまりお勧めしないし、
自分は少なくともやめておこうと思っている。

……なんてね、
本当のことを言えば、
私だってそんなふうに思うのは
本当に厭なのですよ。

「自己犠牲」の精神は美しい。
と、そう思っていたいし、
そういう世界にいたかった。

でも、実際のこの世界は違った。

わっかりやす~い例で言えば
「戦争?おお!やろうやろう!」
と、言い出す張本人は、
絶対、戦地にはいかない、という事実。
そして
「勝てぬなら勝つまで」と
いくらでも人を
戦地に送り込み続ける、
今現実に実際起こっていること。
「人の命?生活?
――とりあえずその話は
後にしてくれないかな?」
てな具合なのだろうか。
(あくまで一例としてだが、
今のロシアを見てみると
わかりやすい、ということ。)
(つまり信じられないことに、
これが21世紀にもなって、
いまだに
今日も世界のどこかで
繰り返され続けていることなわけである。)

そんな「人間世界」を、
自分が生まれる前の
日本史世界史の世界から、
今現在の、世界情勢……いやいや、
離れた国の話だけでなく、
自分のすぐ身近で起きた話に至るまで、
目の当たりにし続けてきて。

「自分の身は、
自分でまず守ろうとしなければ」
というのが、
正しいと思うように、
私はなってしまった。

火事場で人を助けようとする、
その精神が素晴らしいことは
間違いないことだ。

――それでも。

自分自身がそれで、
火事場で
怪我して動けなくなってしまったら
元も子もない、
というのと、
これは同じことだ。

書き出しに戻ろう。

”「自分だけ得すればいい」
という考え方が、
おかしいのと一緒で、
「自分さえ損すれば」
なんて考え方もまた、
基本的には、
おかしなもののはずなのである。”

自分のことは、
他の誰でもなくまず自分自身が、
守ってやろうと、
救ってやろうとしなければ
やはりいけないと思うのだ。

「自分が自分を大切にする」
というのは
とても素晴らしいことだと
私は改めて考え直している。
(そうすると、自然と、無理なく、
他人も大切にできるようになる気もする。)