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私はただの生物ではない、人間なのだ。

私が昨日ここに上げた記事を読んで、このように思った方もいるかもしれない。

「私は、ただの生物ではない。人間なのだ。」

――私自身はそもそもが、「たかが人間じゃないか。」と思っている人間なので、そこに齟齬が生まれてしまう。
(多分、わざわざ書かなくても大丈夫かと思うが、昨日の記事で「人間」に『様』と付して書いたのは、私なりの皮肉のつもりでもある。)
「生物に、上も下もあるか。
比べるにしたって、そもそも人間は(脳以外の)身体能力に至っては、他の動物に比べ劣っている部分ばかりだし、おまけにそこすら退化までし始めてまでいるじゃないか。」
と、私は思っている。
――ここまでで既に「話がまったく嚙み合わねーな!」になっていたら、ゴメンナサイ。(笑)


と、謝罪を述べつつも、以下、「自論の展開」を続けてしまう。

「生物界で人間が一番上」という考え方は、あくまで、ただただ、人間が自分で用意したルールとモノサシで測ってそうなっているだけである。
人間が「賢い」とするものは、あくまで「人間としての賢さ」に過ぎない。――人間の世界内でのみの価値観とか、人間の世界内で主に通用する尺度とか、そういうものに基づいて判断しているだけである。
(以下はあくまで一例に過ぎないが、「基本的に人間だけがまず生き残ればいい」という考え方の、その世界で運用している「賢さ」だったりすることも多いですしね。そうではないというなら、現時点の結果としては割と人間全体としては「賢い」とは言えなくて、どちらかというと「愚かしい」だと思う。)

ところで。

「どんなにつらくても、私は、『人として』これだけは捨てない。」
と、考える何かがある人は、「それを捨ててしまわないこと」が、気づかなくても「よろこび」になっているのではないだろうか。

――そう、我々は「人間」なので。
無意識下の、あるいは、長く絶え間なく持ちすぎていて改めてはそれと気づかなくなった、「よろこび」とか、「かなしみ」とかを、実はたくさん持っているものなのだと思う。

「これがあるから生きていける」も、「こんなにしてまで生きていかなければならないなんて」も。
我々は、そんな「大ごと」を、抱えながらもそのまま繰り返す毎日の営みの中で、それらすべてをいちいち数え測り直して「改めて感じる」なんて、案外、してもいられないものだ。

我々「人間」は、実際感じているよりも多数の、あるいは巨大な、「忘却物」を、携えて、生きている気もする。(多すぎて、あるいは大きすぎて、いちいち意識していられない、というところもあるようにも思える。)
――無論、「忘却物」は、「忘れているだけのもの」なので、「そこ」にちゃんと存在はしているのである。

だから、時々「思い出してしまう」人もいるだろう。

そして、思い出したそのまま、「二度と忘れない」となってしまう人もいるだろう。


「絶対これだけは、『死んでも』捨てるもんか。」

そういうものを心に持てるということが、「人だけに」与えられた、よろこびであり、あるいは、かなしみでもあると、私は思う。


――但し。
私は、例えば「魂」というものの存在を、ある程度「信じてはいる」が、まったく「あてにはしていない」ので。

死んだら、「人間ではなくなる」つもりである。
つまり、その覚悟で生きている。


「絶対これだけは、『死んでも』捨てない」
と思っているものがあるなら。

むしろ『何としても生きて』、
『人として』、
それを守り通せ。

と、そんなふうに、私は思っている。