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あえて余白を残す想像力

歌の歌詞なんかでも
「これ、どっちの意味なんだろう?」
なんてことがある。

あるいは、
物語の結末が、あえて
最後までは描かれていない、
なんてこともよくある。

そういう時に、もちろん
「きっとこうだろう」
と考えてみることも「想像力」だけど。

あえて「?」のまま、
「わからないままにしておく」
という
「余白を残す」のも、
これはこれで、
私には「想像力」だと思える。


「余白」は、必ずしも、
埋めるべきためにあるものではない。

「そういうもの」として
感じるためにもあるものだと思う。

だって、現実世界にしたって、
そもそもが、
すべてのことが見えているわけでも
知ることができているわけでもない。
我々は必ず、
世界のそのほんの「断片」しか
把握していないのである。

「そこには私が知り得ない余白が残っている」

――そういう「見えてはいない余白部分」を
あえて感じるようにしてみるという
これもまた、
ある種の「想像力」の働かせ方ではないだろうか。

どんな有名人にも公人にも、
「人の目に見えない」生活部分があり、
その人の個人史があり。

どんな罪を犯した人にも、例えば
親や家族に対する愛情深い時間があったかもしれないし、
どんなに冷酷でサイコパスな人間にも、例えば、
「幸福にあふれる幼少期の記憶」などが
存在しているかもしれない。

――すべてはあくまで
「あるかもしれない」である。

でも、「あるかもしれない」と
想像できれば、
例えば、
他人の人生や日常を
「暴力で踏みつけにする」なんてことも
互いにできなくなるのではないだろうか。

言い換えれば、
「誰かに暴力を振るう」「誰かを踏みつけにする」
というのは、
その人に愛を注いだその人の親をも踏みつけにすることでもあるし、
その人が積み重ねてきた人生の年月ごとなぎ倒すことでもある。
(と、私には感じられてしまう。)

――物事を、一面的に見てやしないか?
自分もたびたび陥ることなので、
いつも「知り得ない余白」の存在を
想像できる自分でありたいと思う。

考えてみると、
自分自身のことだって
「見えていない部分」なんて
いくらでもあるものである。

初めて胃カメラ飲んだ時、
映像を見せてもらいながら
思いましたもん、
「自分の体内、
これまで長らく生きてきて初めて見たよ~」
って。
(ちょっと例えが……。笑)

(しかし、)
「自分自身の物理的・身体的なこと」
ですらそうなのだから、
「見えているつもりで見ていない」
「知ったつもりで知ってはいない」
「わかったつもりでわかっていない」
なんてことは、
自分のすぐ隣や近い所にだって、
いくらでもありそう。

……と、
思ってみることもまた、
想像力を働かす
「はじめの一歩」なのであろう。