私の頑張りは私自身が見ていることが大事なのだ
「あなたのがんばりを私は見ているよ」
と、誰か一人でも
言ってくれるだけで
がんばれる気はするけれど、
でも実際は
だーれもそこまで見ちゃいねえ、
というのが現実だったりもする。(笑)
「それでいいんだよ、
そんな、常に誰かに見られていたら、
監視されているみたいで、
マイペースで落ち着いて自分らしく
何事もできやしないじゃん!」
「元々がムダにエエカッコしいで、
『真面目に見られたい意識過剰』
なんだからさ。」
「有名人でもあるまいし、
だから本人が思っているほど
周囲はあなたを気にしてないし、
てか、自分以上に
あなたを気にしている誰かなんていたら、
それが他人だったら
ちょっと怖いでしょうよ。(笑)」
「そんなにがんばっても
誰も評価もしないのに、
元々ムダにがんばり過ぎるところがあるんだから、
それくらいの認識で
ちょうどいい塩梅なんじゃない?」
「自分の人生なんだから。
他人の誰かの人生じゃないんだよ?
他人の評価はいらなくない?
そのかわり、ただただ、
自分で自分を評価できるように
やっていけばそれでいいんじゃない?」
――なんて声掛けを
(これまた誰もしてくれないし、)
(人に期待せず、)
自分で自分にしています。(笑)
*
例えば、
「粗さがし」をするつもりは
毛頭ないのだが、
人というものは
(というよりこれ
「自分というものは」か?笑)
他人の長所より短所のほうが
目につきやすい、
なんてこともあるかもしれない。
――長所だけの人もいないかわりに、
短所だけの人もいないというのに。
で、そういった「元来の人の性質」に、
真向反応示してしまって、
(自分自身の性質がそうだからか?笑)
どこか「被害妄想的マジメ」を
たびたび発症してしまう自分。
――「悪く思われたくない」
あわよくば
「ここで良く思われたい」
と、どこかで
「(一種の)自己顕示欲」も
出てしまう自分。
先日も、
別に「どうしてもその日じゅう」
というものではないのに、
その日にやってしまったほうがいい、
なんて自分で考えてしまって
小一時間サービス残業を
やってしまったりなあ。
――でも、気づけば
作成した資料を送った先は
定時で帰っている上に、
明日は有給で、
意味がなかった、とかなあ。
(――いや、これは
相手のほうが正しいわけだよね?
「そのための定時」なわけだからさ。)
「一つ分、真面目をムダにした」
という、
これほど虚しいことはない。
「自分の真面目を、
消耗品に自分でしてしまった」
そんな感じでもある。
限られた24時間なわけです。
この「無駄サービス」小一時間ぶん、
そっくりそのまま、
例えば、
note記事を書く時間に回すことも
できたわけですもんね。
(さらに高品質な記事になったかも?笑)
あるいは、
滞っている家事も進められたしね。(笑)
*
「誰も見ていないが、自分は見ている」
これだけでいいじゃないか、
と「私は」思うんですよね。
「自分はやらなくていいと思うけど、
他の誰かはやるべきだ、と思うかも?
そう思われるといやだからなあ」
というのは、いらない考えだ。
――何なら。
「他人にこう思われたい」
とか
「誰かに悪く思われるんじゃないか」
とか
もう、私はそういうの、いらんですわ。
(言い切った!笑)
だから、
他人の評価も、いっさい不要!
(また言い切った!笑)
そういう空気を、
自分から発したくないし。
(「評価をしきりに求めている」
そんな空気って
どことなく、ふわーんと、
その人の周囲に漂うものですしね。笑)
(別に悪いことではないんだけど、
自分はそうしたくない、ってこと。)
わざわざ「他人の基準」に、
限られた自分の人生の時間を、
惑わされ
振り回されることもなかろう。
「自分の基準」を、
例えば「自分の中の善悪の感覚」なんかを、
もっと信頼したらいい、
それだけのことだ。
「神様が見ている」
ということに、
これを置き換える人も多いと思う。
よいと思います。全然悪くない。
でも、私は
(これもまた、胸の内で
「神みたいなもの」について
どこかで信じているせいかもしれないが)
「ホントに見てくれてますか?」
とか
「だったらどうしてこんな仕打ちを!」
とか
そういうことを、間違っても
「神(みたいなものも含む)」に対して
呟きたくはないので、
一応、(「私は私の個人的判断で」)
「神が見ている」案は不採用としている。
善悪の判断を
あくまで自分がしたい、ということもある。
これは俗にいう
「自分の胸に手を当てて考える」
というものである。
――そう、
「それは自分で考えなきゃね」と
私は思ってしまうタイプなのだ。
「誰かに悪く思われるから」、
というのではなくて、
「自分がどう判断するのか」、
他人のではなく、
自分の中の善悪、
それを基準にしたいし。
――だって、結局、
それを信じてそれに基づかないと、
モヤモヤが残るわけだ。
先程の実例で言うならば、
いいことをしているはずなのに、
自分自身で、
「自分がちょっと損した気になる」
とかね。
――そして別に誰も得していない、
というね。
(勤め先は少しだけ得した?でも、)
それはバカらしいではないか。
*
先日の「知世ばなし」の
続きじゃないですけども(笑)、
「この人は、
神に愛されているのでは?」
なんて空気を発している人は
いると思うんです。
でもそれって結局、
その本人の中に明確な
「基準」があって、
その人は自分のそれを
信じて動いている、
ということなんじゃないか?とも
思うんですよね。
つまり、
自分自身の中に
自分をあたたかく慈しみながら
同時に厳格に見つめる
(この記事で言うところの)「神目線」を
持っているのではないかと。
もし自分自身が神なら、
どうしても、
清らかな花とか、
やさしい動物とかを、
愛してしまいそうだなあ。
……「依怙贔屓」をする神って。(笑)
でもそんな「神目線」を
自分自身で持ちながら、
自分を見つめたらどうだろうか、と。
どういう自分になれば、
(「他人」ではなくて、)
「自分のお気に入り」になれるんだろう?
ということであります。
(自分という人間を
自分が気に入らないと、
やはりこれも、軽く不機嫌の元です。笑)
――「自分をどうこう変えられる」のは、
だって、
自分しかいないでしょう?
(「他人をどうこう変える」を
しようとしてはいけません。笑)
「神様は、人の数だけいる」
というのが
「私の中の」正解なので。
私は私の胸に手を当てて、
「自分の中の神目線」で
自分を見ていこうかな、と。
「ズル」はしないが、
「無駄なこと」もしない。
そして
「こういう人であれ」と
自分で自分に告げる。
――これって結局、
「自分の肝に銘じる」
というやつですね。
やさしいだけでもない、
厳しいだけでもない、
そんな眼差しを、
自分の内側に
向けてみたいと思うのであります。

