自分の「無意識」の声を「言葉」によって拾う
昨日の記事のコメント欄で、「自分でも思ってもみなかったことが、書いていると出てくる」という話をした。
これ、「何か」が降りてくる、という可能性もあると思うのだが。
もう一つの可能性としては、「自分の無意識」と、言葉を使うことによって、「対話」ができているのではないか、そんなこともあるののかもしれない、というようにも思うのである。
「意識的に」ものを考える時、私はどうしても、(それは頭の中だけでだとしても、)「言語のかたちで」つまり「文章化して」ものを考えていると思う。
それは、逆に言うと、「言語化」「文章化」しないと、「考えていること」として、意識上に上がってこない、「見える化」してこない、ということなのではないかと思う。――もうそっちのほうが主流になっているというか。
「言葉」という、自分が信頼を寄せている「ツール」を使っている時、「自分の無意識」も、そこに自ら「アクセスしよう」としてくれているのではないか。――私の声は、ここにある。これをどうぞその「言葉というもの」で、拾い上げてくれたまえ、と。

ところで。
「以心伝心」なんて、言葉としてはあるものの、なかなかこれ、他人間で、よっぽど親しい間柄でもない限りは、「アテにする」のは、なかなか気分として難しいものかもしれない。――職場等の人と人との間でなかなか「以心伝心」などとはいかない、というか、恐ろしくて(相手をそこまでは信頼できないし、多分私も信頼されないし、笑)そんなの使えない。
その上、時間と心に余裕がない昨今であるからして、そもそも状況面としてもそぐわなく、難しいかもしれない。そんな「以心伝心」――となると、必然的にあとは、「言葉でのコミュニケーション」のほうに、主に頼らねばならないことになるが、――すると今度は、「以心伝心力」みたいなものは、使わない分、衰えていくのではないか、という気がする。
で、そうなると、自分の「無意識」とのやりとりも、もしかすると、下手になっている、なんてこともあるかもしれない??(と、いうのは、さすがに論理の飛躍であろうか。――でも、)こうして、言葉を綴ってみよう、並べて行ってみよう、という行為のその過程で、ひょいっと浮かぶ言葉は、もしかしたら、本当だったら普段の「自分の内側とのやりとりで、とっくに自然に意識上に浮かび上がってきているはずの言葉」だったかもしれない、――なんてことも、私は感じたりするのだが。

録りためていていた映像物をみながら、あるいはラジオや音楽を聴きながら、つまり「ながら」で、私は日常の雑事をこなしていることが多いのだが。
しかし、「ながら」をしていない時、――たとえば、歩いている時とか、風呂場にいる時とか、洗い物をしている時とか、――つまり、頭に空白が生じて、ボーっとしている時、フッと、やはり「言葉」が過ることがあるのだ。

もしかしたら、私の「無意識」は、もっと語りたがっているのかもしれない。伝えたがっているのかもしれない。
こんなことを感じている、考えている、そして、こんなことを見たはずだけど、音を聴いたはずだけど、忘れているの?もう憶えていないの?と。
「意識下の日常」は、昨今頓に言われ出したように、人工的な発信情報に、溢れすぎている。――「聞いて!」「読んで!」「見て!」という声が、そこかしこに散らばってあるのだ。
そうでなくても、既存の、「世間体や人の目」も「常識」も「ルール」も気にしなければならない、それらに縛られなければならない、そんなことも、たくさんあるこの「日常生活」なのである。
「自分の意識」は、やはり「外側」のそっちに、優先的に神経を割いてしまうだろうから、やはり自分の「内側」との対話って、後手に回りがちな、そんな昨今であると思う。
自分の無意識が、今書いているこの場のような「言葉の場所」を目ざとく見つけて、「そろそろ私の言葉も聞け!」「いいかげん私とも対話しろ!」と出てくるのも、もしかすると、当たり前の事なのかもしれない。
