柿色のスピンもすてき|読書感想文『熟柿』佐藤正午
心して読んでほしい物語があります。
佐藤正午さんの『熟柿』は、そのひとつ。
27歳の主人公・かおりが、ある夜の事故をきっかけに、罪とともに17年を生きる物語。
2008年から2025年。
その年月は、私が社会人になってから今日までの時間とピッタリ重なります。
その間、私はどれだけの人と出会い、どれだけの経験をしただろう。
とても書ききれない、思い出しきれない。
女性の平均寿命の5分の1にもあたる17年。
とても長い、だから重いんです。
ページをめくるたびに、時間が静かに積もり、胸の奥が重たくなっていく。
事故は冒頭20ページ程度で起こります。
その後300ページ以上、ずーっと罪と共に歩む物語です。
転落人生、と呼ぶにはあまりにもなだらかで自然な下降。
いつものように散歩していたら、土手でつまづいて転げ落ちました、みたいに日常と異常はこんなにも自然に繋がっている。
落ちて終わりではなく、転げ落ちた先の仄暗い道をずっと歩き続けなければならない。
重苦しさに耐え、その道の先を見届ける気骨のある方に、この小説をおすすめします。
この小説の軸は「時」
そしてその時の流れにずっと付き纏い、最初からかおりと並走していたのが「罪」で、途中からかおりがその存在に気づくようになったのが「縁」だと思います。
「時」について
「熟柿」じゅくし
読み方も知りませんでした。
土居さんのスマホの辞書によると「熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと」
土居さんは、「何事によらず長期戦を覚悟で人生を生きているから」と言いますが、人生において「“意識的に”機が熟すのを待つ」ような人は珍しいのではないかと思います。
主人公のかおりも、物語のクライマックスに向けて、そろそろ柿が落ちてもよいくらい熟れてきたのでは、という眩しい兆しに包まれます。
が、かおりは決してただ待っていたのではない、というのがこの小説の好きなところです。
2008年から2025年までの17年ーー27歳だった主人公・かおりが44歳になるまでの歳月ーーが、章ごとに「◯年、◯年、◯年」とカードをめくるように進んでいきます。
けれど、時間はけっして章ごとに分断されていない。
「え、この後どうなったの」
というところで次の章(次の年代)に移り、件の出来事はその年の回想の中で過去として語られる、という手法が多用されています。
大きな事件も、過去のこととして、現在の中にしずかに溶けている。
あるいは、溶けきれずに、かおりの追憶としてくっきりと浮かび上がってきます。
そういうシーンが現れるたび、その人を構成しているのは、その人が過ごしてきた「時間」なんだ、としみじみ思います。
千葉→山梨の石和温泉→コロナ禍で岐阜県のパン工場→同居解消で大阪のパチンコ屋→前科がバレて九州
私が作者なら、いずれかの土地での生活や誰かとの出会いを省いたりしないだろうか。
…と考えて、やはり省けないと思いました。
それは中乃森さんあっての岐阜行きであり、大阪行きであり、パチンコ店長あっての九州行きで…とかいう関連性が理由ではなく。
なんというか、かおりの人生を書くというなら、それを構成している全ての時を省いてはいけないと感じたのです。
「罪」について
「時」の流れは「罪」を軽くしたり重くしたりするのかと思っていたけれど、結論、そのどちらでも無い。
一度犯してしまった罪は、その人の中で熟し続けるだけだとわかりました。
斉藤さんが窃盗したり、鶴子が人を刺したり、周りの人がどんな罪を犯そうが、自分の罪は変わりません。
かおりの夫てっちゃんは、熟した柿が堪えきれずに落ちるように、事件の夜の自分の罪についてぽろっと吐き出してしまいました。
かおりも、いつか土居さんに話せる日が来ると良いなと思います。
(関係ないですが、鶴子は本当に無神経というか、かおりの表現を借りると、もともと鈍感な感覚にさらにヤスリをかけて摩耗させたような性格で、彼女とのやりとりは読むのがしんどかったです^^;)
「縁」について
かおりの、そして私たち誰の人生にもずーっとオプションとしてついている「縁」
かおりがそれを意識したのは、人材系のお仕事をしている馬渡さんに「個人の思惑を超えたところでつながる不思議な縁というものもあります」と言われた時でしょう。
本人は覚えていないが、その後、百崎さんに、「就職もひととの出会いも縁だ」という話をしたらしい。
私がこの小説の中で大きく共感した箇所の一つに次の一節がある。
いつまでも続いていくもの、不変なものなど一つもない。たった一日で人生は変わる。両親の死も突然だった。まだ中学生だったそのときからわたしは知っていたし、四十二歳になったいまのわたしは、子をもうけた夫婦の絆さえいざとなれば脆いものだとよく知っている。 赤の他人との交友関係ならなおさらだろう。 いつかはその日が来て、ひととひとは、こうやっていとも簡単に疎遠になってしまうのだ
かおりの日記の記述です。
確かに、自分が出会うそれぞれのひととの繋がり一つ一つは、不確かで脆いです。
でも、一つの繋がりが途切れても、また違う「縁」がぽっと現れたりする。
私も社会人になってから今日までの17年間で転職したり結婚したり移住したり…人並みにいろんな経験をして、いま思います。
「縁」は常にそこにいてくれる。
そのことは不変で続いていくものだ、と。
あからさまに手を差し伸べてくれるような有難いご縁ばかりではないけれど、かおりの人生にも同じように、「縁」がずっと伴走してくれている、その事実が、終盤に向けて、どんどん明るい気持ちにさせてくれました。
最後に
かおりと息子にとっての「その時機」や、かおりとてっちゃんにとっての「その時機」、土居さんとの「その時機」。
それはここでは書かれていないけど、きっと遠くないと感じられました。
熟れた柿が落ちるのは終わりではなく、そこから種が芽吹くことの始まりでもある。
だから、かおりにもはやく熟柿を体感してほしい、と思う私はちょっとせっかちなんだろうな。
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チップがいただけるような書き手になれたら、次なるステップのため「枕詞辞典」か「うたことば辞典」を購入したいと思っています