『消火』| シロクマ文芸部
水を飲む彼女の横顔を、男はベッドの中から眺めていた。
彼女はグラスを置くと、鏡の前へ移り、長い髪に櫛を通し始める。
デスクの上の灰皿では、吸いかけのタバコが細い煙を上げていた。
男はグラスに残った水を指先ですくい、そのタバコの火種へと弾いた。
ジュッ――
かすかな水蒸気を上げて、赤く揺れていた小さな光はあっけなく消えた。
「不思議だと思わないか?」
男は鏡の中の彼女に問いかけた。
「何が?」
「水だよ。あれほど激しく燃える水素と、その燃焼を支える酸素。その二つが結びついた結果が、火を消す存在になるなんて」
彼女は櫛を止めた。
「だって、燃え尽きたんだもの」
「燃え尽きた?」
「ええ。出会った瞬間にね」
彼女は鏡越しに微笑んだ。
「水素と酸素って、結びつくときにものすごい熱を出すでしょう? そのとき全部使い果たしたのよ」
男は黙って耳を傾ける。
「だから水は、もう燃えない。……ただ、目の前で燃え上がろうとする熱を、奪うだけ」
男はグラスの底に残る透明な雫を見つめた。
どこまでも静かで、冷たい液体。
「なるほどな」
男は小さく笑った。
「激しすぎた情熱の成れの果てが、この冷たさか」
彼女は何も答えなかった。
鏡の中で視線だけが、ほんの一瞬揺れた。
そのとき、シーツの上に放り出されていたスマートフォンが震えた。
男は何気なく画面を開き――息を止めた。
送信者は妻。表示されたメッセージは、一言だけ。
『火の始末は、済んだ?』
お題:「水を飲む」からはじめるnote
こちらの企画に参加させていただきました。
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