『思いつかない』| アマノ文筆クラブ
短冊の束は、まだまっさらなまま机の端に積まれている。
男は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を見上げた。部屋の灯りを消すと、窓の外から街灯の鈍い光が、散らかった床に細長い影を落とす。
明日は七夕。
街の広場にはすでに巨大な笹が立てられ、昼間通りかかったときには、色とりどりの紙切れが夏の風に揺れていた。「志望校合格」「家族の健康」、中には「世界征服」なんて文字もあった。
男は起き上がり、再びペンを握った。カチカチとノックの音が静かな部屋に規則正しく響く。
机の上のスマートフォンが震えた。画面に映ったのは、青い夏空を背景に、白いドレスを着て笑う彼女の写真。通知には「明日の待ち合わせ、19時で大丈夫?」の一言。
男は返信を打とうとして、指を止めた。そのままペンに持ち替え、手元にあった緑色の短冊を引き寄せる。
ペン先を紙に近づけるが、手が動かない。
男の脳裏に、ここ数ヶ月の景色が高速で駆け巡る。彼女と歩いた雨の駅前、予算が足りずに諦めたレストランのメニュー、そして、自分の銀行口座の冷たい残高。
「……違うな」
男は小さく呟き、ペンを置いた。
世界平和を祈るほどの器はない。かと言って、自分の個人的な野心を15センチの紙切れに託すのも、何かが違った。
何を書けばいいのか、本当に、何も思いつかない。
男は短冊の束の底から、夜空と同じ色をした、一枚の「黒い」短冊を抜き取る。
彼はペンをカッターに持ち替えると、今度は迷わずに刃先を動かした。文字を書くのではない。黒い紙の真ん中を、細長く、くり抜いていく。
カサリ、と切り落とされた四角い紙片が机に落ちた。
残ったのは、中央に「四角い穴」が空いた黒い短冊。
男はそれを持ち上げ、窓辺に立つ。
ガラス窓を開けると、ぬるい夜風が前髪を揺らす。遠くの夜空には、雲の隙間からかすかにベガとアルタイルが瞬いていた。
男は黒い短冊を目の前に掲げ、片目を閉じる。
くり抜かれた四角い穴の向こうに、ちょうど天の川の交差点が収まった。
「これなら、邪魔にならない」
文字で星を遮る必要はない。
翌日の夕方。広場の笹の葉の最上段、誰の願い事よりも高い場所に、文字のない短冊が結ばれた。
それは何かを求める言葉ではなく、ただ、そこにある夜空を覗き込むためだけの「窓」として、静かに風に揺れていた。

お題:「思いつかない」
下記の企画に参加させていただきました。
#️⃣ ハッシュタグ
#アマノ文筆クラブ #ショートショート #短編小説 #物語 #創作 #七夕 #星 #言葉 #短冊 #思いつかない
いいなと思ったら応援しよう!
皆様の応援が、今後の活動の大きな励みになります! いただいたサポートは、より良い作品をお届けするために大切に使わせていただきます。
Thank you for your support! 