「言語経済仮説」

はじめに:「言語経済説」とは
 恩師の講義の中で耳にした、「言語経済説」。
 先生曰く、そのような説があるわけではなく、造語のようなモノとのご説明だったのだが、今でも強く私の中に残っている。そして、私もチャッカリ使わせてもらっている。
 
 先生は決して大柄ではなく、むしろ小柄で華奢な方だと思うが、反して、手のひらは大きく、指も長く、講義室でチョークを持ってお話しされるときも、煙草を挟まれたりビールグラスを持たれたりしながら延長戦で語られるときも、揺れる手で魔法にかかるかのように、言葉が頭や心に染み入ってくるような感覚になったものだ。
 
 「言語経済説」という先生の言葉を自分の中で反芻し消化できているので、似た意味の言葉を見比べるときの基本姿勢になっている。そのたびに、本当に先生の話された通りだと感じているが、確かに、他の場所で「言語経済説」というモノには出会ったことはない。
 
 ただ、言語学の中には「言語の経済性(economy of language)」という概念が存在する。
 これは、言語が
  できるだけ少ない労力で
  最大限の意味を
  効率よく伝えようとする
という性質を指すようだ。たとえば、
  よく使う単語ほど短くなる。(英語の例:I, you, go, do)
  文脈で省略できるものは省略する。(日本語の主語)
  オノマトペで一瞬にして情景を伝える。(ビシッと決めた)
  助詞や副詞で「ニュアンス」を最小の語数で表す。
  (「カレーでいい」ではなくて「カレーがいい」、等)
こういう現象はすべて、言語が「経済的に」働いている証拠といえる。
 
 さて、講義の中で出てきた「言語経済説」の説明は、こういうものだった。
  人間は、そもそも怠け者だから、不要な努力は望まない。
  だから、2つ(以上)の単語が、それぞれの持つ意味の守備範囲が、
  まったく同じなら、どちらかは廃れていくはずだ。
 つまり、長い時間をかけ、淘汰の荒波を越えて現存する単語ならば、意味上や用法として、他の語との何かしらの違いを持つはずである、ということ。
 加えて、先生の「言語経済説」と表裏の関係といえるが、先生は常日頃、「テーマを設定する際、はじめから違いを探そうとするのではなく、共通点を整理して、その中から小さな差異を見つけていくこと」とお話しされていた。
 
 「人間は怠け者だから、不要な努力は望まない。」
 「意味範囲が完全に同じ単語は共存できない。」
 「テーマを見つけるときには、違いを探すのではなく、まず共通点を整理する。」
 
 研究の道には進まなかったけれど、長く、恩師への思いと、これらの言葉が、胸の奥に棘のように引っかかっていたが、これまで、自分のうちで言葉を見つめてきた時間と、ぽつりぽつりと発信してきた1つ1つのビーズのような言葉と、表現者を志す若者に言葉を扱う教科を担当してきた経験とから、恩師の説に「仮」を添え、「言語経済仮説」として、自分の言葉として編み直してみたい。
 
 
その1:日本語の「見る」を分解する
 日本の学校で習う、「見る」という英単語。
  「look / watch / see / seem」
 語学が楽しくなるか、つまらなくなるか、は、まさに、こういった単語との出会いの中で、どのように関われたかに影響を受ける気がする。感動を得られるような説明をしてくれる良い教師に出会えたか。良い教師に出会えたとして、そのときの自分に、聞く耳=受け入れる素地があったか。好奇心があったか。精神の成熟度はどうだったか。タイミングも重要だ。
 
 今なら、英語や外国語を学ぶということは、日本語や日本文化を学び直し、自分自身を知る機会なのだということが痛いほど分かる。
 語学を学ぶ本質は、母語と母語の成り立ち、つまり、母語を取り巻く文化的背景を正しく理解しようとする姿勢を得ることである。しかし、残念ながら、少なくとも精神的に幼かった私には、丸暗記する教科、受験勉強の主要な教科としての意味合いが強かった。
 
 話を戻して、「look / watch / see / seem」について、まず、共通点を整理する。
 これらは、一言でいえば、すべて「視覚に関わる動詞」。少し、噛み砕くと、
  どれも「視覚」を中心にした知覚動詞。
  どれも「対象を認識する」行為を表す。
  どれも「見る」と訳されることがある。
そこで、すべてに「見る」という訳を当てはめて暗記することになる。
 英単語から日本語を答えるタイプの単語テストなら、とりあえず、どれも「見る」と書けば、まあ、バツにはならない。日本語から英単語を記すタイプだったとしても、問題文に「見る」とあれば、「seem」以外は、まあ、正解になるだろう。
 ところが、文脈のある、英作文の試験になると、とたんにバツが発生する。
 
 それもそのはず、英語の「look / watch / see / seem」は、それぞれ守備範囲が異なるのだ。
 
 「see」は、視界に入る/自然に見える(受動的)という意味。語としては、意識しなくても目に入る、つまり、「見える」「見かける」に近い意味を持つ。「知覚」のスタート地点になる単語だ。
 例:I see a bird.(鳥が見える/見かける)
 
 「look」は、意識して視線を向ける(能動的)行為を表す。「自分から『見る』」、意識として、視線の方向が重要であり、「見る」という行為そのものの意味を持つ。
 例:Look at this bird.(この鳥を見て)
 
 「watch」は、動きを追って見る(継続的)という意味。動きのある対象を、時間をかけて観察する、つまり、「見守る」「観察する」に近い意味を持つ。
 例:I watch birds.(鳥を観察している≒bird watching)
 
 「seem」は、見た目から判断する(推量)という意味。「視覚+思考」で、見た結果の「解釈」が加わり、「〜のように見える」という用法を持つ。
 例:That cloud seems a bird.(あの雲は鳥ように見える)
 
 日本語でも考えてみる。
 「みる」は、場面に応じて、「見る」以外にも、さまざまに表記される。「観る」「視る」「診る」「看る」。
  映画を観る。(映画鑑賞、という)
  候補地を視る。(視察する)
  患者を診る。(医師、だと分かる)
  患者を看る。(看護師、と分かる)
 
 笑えないギャグのような話がある。
 「子どもを『看』ていて」と言った方は、危なくないように世話をして、という意味だったのだが、言われた方は「見」ているだけだったから、子どもが転んで怪我をしてしまった、というようなことが起きる。
 
 もう少し、掘り下げるために、英語の例をもとに、古典の名作の力を借りて、日本語の「見る」を分解してみる。
 『枕草子』の有名な冒頭を現代仮名遣いで記してみる。
  春はあけぼの。
  ようよう白くなりゆく山ぎわ、少し明かりて、
  紫立ちたる雲の細くたなびきたる。
 「春は明け方の時間帯が一番よね。」という前提で、情景をイメージする。朝日が届くようになると、次第に山の稜線が見えてくる。次第に視界が明るくなっていく中で、紫がかった雲が細くたなびいているのが見えるのは素晴らしい。
 
 この中には、自然と目に入る「see」から始まり、意識を向ける「look」、経過を観察している「watch」、そして、「春はあけぼの」と言い切る。つまり、解釈を示す「seem」も加わり、4つの「見る」の相互作用の結果である、見て取れる。
  I love the dawn in spring.
  The skies on top of mountains become lighter and lighter with the rising of the sun.
  The long thin clouds that turn light purple are a sight to be enjoyed, too.
 英訳で「sight=光景」が入るのは、やはり、「見る」からだ。ただ、「光景」にしてしまうと、時間を止めてしまう印象を受ける。
 ここは、視点・視線の移動が残る感じを残しておきたい気がする。
 
 そして、英語でも「見る」は知覚から認知への移行を包括していることが分かる。「分かった?」「分かったよ」である。
  “You, see?”
  “I see.”
 
 いずれにしても、日本語の「見る」という単語が、英語では「see / look / watch」に分かれるように、日本では「見る」という行為が長く自然や現象に向けられてきたと守備範囲が広くなったことに関係があるのだと思う。
 
 『枕草子』に限っても、「うつくしきもの」で「小さいものはなんでもかわいい」と言い切るあたり、小さなモノへの愛情、移ろいといった微かな変化といった、「見る」ことに意識が向かないと生まれない感性を垣間見る。
 
 
その2:オノマトペという究極の経済
 連想ゲーム的に、英訳・和訳を繰り返してみる。
  雨がしとしと降っている。
  It rains gently.
  雨が穏やかに降っている。
 雰囲気は伝わる。が、はて。「しとしと」と「穏やかに」は同義になるだろうか。
  雨がしとしと降る中を一人の男がとぼとぼ歩いている。
  A man is walking alone, trudging through the gentle rain.
  優しく降る雨の中を、男が一人、重い足取りで歩いている。
 
 「しとしと」について。
 ある天気チャンネルのHPでは、1時間雨量が3mm未満の弱い雨の説明の中に「シトシトと降り、地面が湿るくらいの雨」とあり、数時間続いても雨量が1mmに達しないくらいの雨は、「小雨」とも呼ばれる、と説明されていた。
 だいたい、感覚的に大きな違いはなく、雨量というより、傘をささないと、衣服がしっとり濡れる、くらいの雨のイメージで、具体的には「傘をさしても、音もなく降るような雨」だったり、「蜘蛛の巣が小さな水滴できらめくような雨」だったり、という印象だ。傘がなくてもいいくらいの「小雨」とは、たしかに、少し違っているのだと思う。
 
 「とぼとぼ」について。
 英単語の「trudge」が、「とぼとぼ歩く」のニュアンスに近いようだ。
  重い足取りで歩く。
  とぼとぼ歩く。
  疲れてゆっくり歩く。
 たしかに、「とぼとぼ」には、心持ちを表すような「重い足取り」の意味合いも、身体的な「疲れを伴う」意味合いもある。だから、前後の文脈で判断するほかない。しかし、目の前を通り過ぎる人の背景を知らずに、自らの印象だけ描写することもある。そのとき、どうやら、英語には「とぼとぼ」の方は存在するが、「しとしと」に当たるモノを探すのは難しそうだ。
 
 小説世界の登場人物だったら。
 主人公が、しとしと雨の中をとぼとぼ歩く、という印象を他者が受けるとき、傘はさしていないのでは?と想像する。主人公自らが、しとしと雨の中をとぼとぼ歩いたと述懐したりナレーションしたりする場合、傘もささずに歩くなら、傘を持っていても開かなかったか、傘がなかったか、を含めて、雨に濡れたことを表現するだろうし(雨に打たれるくらいの強い雨か、しとしとか、で、情景描写としての効果が変わる)、傘を開いているなら、とぼとぼ歩くといった情景描写の効果は薄れるように感じる(少なくとも、傘を開くくらいの冷静さはあるから)。
 
 文字表現の中でオノマトペというレトリックは、短い表現で多くのイメージを膨らませることはできるが、読者や受け手に解釈の自由度を差し出した、ともいえる。
 一方、マンガや絵本等、視覚イメージが並立する表現の中では、絶大な効果を発揮する。日本語にはオノマトペが多いと言われるが、マンガ文化の豊かさとも密接な関係があるだろう。
 
 歴史を紐解けば、マンガは、その一種と考えられる『鳥獣戯画』まで遡れる。オノマトペも、『平家物語』の、教科書に出てくるような有名な場面にも現れている。
 
 オノマトペには、様子(擬態語と区別されるモノ)だけでなく、音も表すモノ(擬音語・擬声語と区別されるモノ)がある。「扇の的」の段で、矢を放つときの、「ひやうど」「ひいふつと」「ひやおふつと」である。
 動きの多い合戦モノでは、オノマトペを観察できるが、なるほど、現代の時代劇でも、刀等の武具や馬具の音には効果音が重ねられ、臨場感を与えている。
 もちろん、挿絵があれば、なお伝わりやすいが、文字表現上のオノマトペは、効果音やBGMの代わりに、演出の役割を担っていたのかもしれない。
 
 日本は、温暖で湿潤な気候で、自然豊かな風土で、しかも四季の巡りがある。それらに目を向け、耳を凝らし、日々の暮らしの中で変化を感じ取ってきた。
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
 夏の暑さが残る秋の夕暮れに、心地よい風が吹いてきたとき、もう、秋だな、と思うのは、現代の私たちも同じ。そんな私たちには、サーッと通る風や、そよそよと吹く風が見えているのかもしれない。
 
 
その3:漢字が持つ抽象の力
 車の運転は好きだ。
 高速道路を降りて、登山口に向かって、木漏れ日あふれる山道、緑の中を走るのは、とても楽しい。
 もちろん、運転時には事故に気をつけないといけない。当たり前だが、どの車とも接触したくないが、図体の大きなトレーラーやタンクローリーの後ろや横は走りたくないし、過積載を思わせるトラックの側も避けたい。
 そんな中、小型のトラックであっても、目の前に「危」や「毒」というパネルをつけた車が現れると、何度見てもぎょっとする。毒キノコや毒蛇、サソリ等が独特の色やカタチをしているのは、そういう意味なのだろう。
 
 日本語の表記は、漢字・かな・カナ・アルファベットから成り立つ。
 漢字はもともとは一字一義の表意文字であり、字自体が意味を持つ。概念やモノが増える中、字義に広がりが生まれ、近しい意味だけでなく、音を借りる用法も増えてきた。いわゆる当て字である。
 文明開化の際、欧米から多くの思想・概念を日本語(漢字)に置き換えて取り入れた。「文化」「芸術」といった、美しい単語も生まれたが、「勉強」「権利」といった、本質とはズレ、誤解が生じるような単語も作ってしまった。
 
 さて、身につけてしまえば便利な漢字ではあるが、漢字学習の難しさが日本語を母語としない人々の学習の障壁になったり、同音語の多さが話し言葉によるコミュニケーションの障壁になったりしている。
 日本語を母語としていても、タイピングをしながら、正しい漢字に迷うことがある。「おさめる」や「とる」は、熟語を想起して判断するようにしている。「納税」から納める、「修学」から修める、「治世」から治める、「収拾」から収める。困るのが「収納」だが、具体的なモノなら「納める」、抽象的なモノなら「収める」を使うようにしている。
 
 仕事や日常生活だけでなく、漢字は受験生にとっては越えるべきハードルだ。共通テストの国語で出題されるような、マーク型の漢字の問題では、同音(同訓)の語の意味・用法の整理が重要である。「カンキ」や「カンショウ」、「カンセイ」は、本当に同音語が多い。多すぎる。教科書に出るようなモノだけでも簡単に5つ以上、出てくる(つまり、受験生なら「カン」の整理は避けられない)。
  換気、喚起、歓喜、乾季、寒気・・・
  干渉、鑑賞、観賞、感傷、緩衝・・・
  感性、完成、歓声、閑静、陥穽・・・
 これらに比べると、「対象」「対称」「対照」、と「対」で始まる語が3つもある「タイショウ」は、確かに紛らわしいが、かわいいものだ。
 
 それでも、文字表現であれば、漢字を見れば、だいたい意味が分かることが多く、抽象的な概念を考えたり思索をしたりするにはとても便利なのも確かだ。
  罵詈雑言
  悪口雑言
 読みが分からなくても、初めて見たとしても、どうやら良くない意味だろう、くらいは感じられる。
  欣喜雀躍
  狂喜乱舞
 こちらも、なんだか喜んで躍ったり舞ったりしているのだろう、と想像できる。
 
 古く、中国から伝播してきた文化や概念等を示す言葉(漢語)と区別し、日本古来の言葉を「やまとことば」と呼んだ。余談だが、「ア行で始まる語」「ラ行で始まる語」「濁音で始まる語」は「やまとことば」にはなかったらしい。(「ア行」と思われるものは、「ワ行」)
 その際、文字を持たなかった先祖は、漢字を、本来の意味・用法としてだけでなく、大胆にも、日本語を書き留める音符として利用した。そして、そのうちに、かな・カナ、訓読方法を生んだ(『万葉集』は、当て字の宝庫。まだ、かな・カナが生まれる前の時代、すべての歌が、漢字だけで表記されている)。
 また、漢字特有の意味を解釈し、漢字音に加え、訓を与えていった。「人」に「ひと」、「立」に「たつ」、「並」に「ならぶ」、といったように。
 
  勧酒(于武陵)
  勧君金屈巵
  満酌不須辞
  花発多風雨
  人生足別離
 
  君に勧む 金屈巵(きんくつし)
  満酌 辞するを須(もち)いず
  花発(ひら)けば 風雨多し
  人生 別離足る
 
 有名な五言絶句、漢字20字の漢詩。これを訓読すると、漢字ひらがな交じりの30字になる。さらに、日本語に解釈すると、直訳するだけで、70字前後になる。
 直訳をやめ、自分なりにイメージを加えた解釈を加えれば、さらに長くなるだろうが、それだけでなく、この場を、別離ととらえるか、一期一会ととらえるか、という解釈さえ分かれている。
 
 漢字は抽象的な概念を表すのが得意だ。だから、そもそも発せられた際の思いが抽象的ならば、受けとめる側の受け取り方次第で、さらに抽象的にもなるし、大げさな言い方をすれば、受け手が具体的に受け取るなら、それは受け手の数だけ解釈される。
 
 先の五言絶句を、井伏鱒二は、こう解釈した。

  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 
 「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」という芭蕉の俳句がある。
 これをイメージして絵に描こうとしたり、英訳しようとしたりすると、烏は何羽?という問題が発生すると、ドナルド・キーンは指摘している。さらに、「秋の暮」問題も生じると言う。一日の暮れなのか、秋という季節の暮れ=晩秋なのか。
 
 正しい英訳ができないと嘆く向きには申し訳ない気もするし、日本語や漢字の持つ曖昧さと言われればそれまでだが、そのときどきの、その人なりの解釈の幅を残す表現ともいえ、自分の解釈の仕方で、そのときの自分の心持ちも味わえる、と考えれば、自分を映す鏡のようでおもしろい。
 
 オノマトペしかり、漢字しかり、言葉で表現されたモノを見つめることは、もちろん、言語である以上、一定のルールは存在するが、表現の解釈のみならず、受け手の経験・理解度、そして、そのときの心持ちまでを見つめる行為なのだと思う。
 個人の得た音・情景・感覚、そして文化までを伝えるのにふさわしい「一字・一語」が選び抜かれた結果と向き合うのだから、時間をかけたり、時に直感に頼ったりしながら味わえばいい。
 
 
その4:言葉が作品を支える
 言葉もまた、山のように、距離を置けば抽象となり、近づけば具体の手触りを持つ。
 建築家・隈研吾は「登るとは距離を置いて仰ぎ見ること」と語った。山を遠くから眺めれば輪郭が浮かび、近づけば苔の湿り気まで見えてくるように、言葉もまた、私たちの距離の取り方で姿を変える。
 
 言葉、という語は多義語だが、大きく3つに整理される。1つ目は、「あの人の言葉が忘れられない。」という場合のように、声や文字で表した、意味のある表現のこと。2つ目は、単語の同義としての用法。または、言語と同義としての用法。3つ目は、言い方や言葉遣い。
 声優は、3つ目の言葉をもって、キャラクターを演じ分け、それぞれの作品の世界観を見事に成立させている。
 
 日々鍛錬している生徒たちのデッサンや色彩等を眺めていると、本当に、こんな風に描けたら楽しいだろうな、とつくづく思う。もちろん、努力の積み重ねがあってこそ、ということは十分理解しているつもりだが、簡単に「いいなあ」と思ってしまう。
 
 東京藝術大学・建築科の入試では、課題に対して、平面での表現・立体での表現に加え、問題をどのように分析したか、自分の作品の見せ場は何か等の、文字での表現も求められる。
 
 正岡子規は、俳句を「写生」と呼んだ。自分の感情を言葉にするのではなく、目の前の光景をありのままにスケッチすることを目指すべきだというものだ。
 
 その建築科の課題でいえば、俳句に当たるのが平面作品・立体作品である。
 それだけで「俳句」として完成していることが求められる。余分をはぎ取り、必要なモノだけを「スケッチ」として残す。一方で、文字で「俳句」に込められなかった、背景や感情の部分を盛り込む。
 
 最近は流行らないようだが、かつて、メールだと言葉がきつくなるからと言われ、絵文字が添えられるようになった。
 取扱説明書も、時間をかけて向き合えば、その通りに作動させることができるのだが、少しでも、イラストが入っていれば、もっと分かりやすくなると思う。実際に、手書きのイラスト入りのマニュアルを渡されると、本当に感謝感激雨霰、頭が下がる。(取扱説明書通りに再現している動画は、本当に分かりやすくて、ありがたい。)
 
 それでは、言葉に問題があるか、といえば、まったくそうではない。
 言葉には不得意なこともあるが、得意なこともあるのだ。
 
 まず、立体作品には、圧倒的な存在感がある。具体的に空間を占めている強さがある。一方で、時間の推移を表現することは難しい。同じ作品でも、明るいところか暗いところかといった、置かれている場所で、受け手の印象は変わる。どこから見るか、という視点は相手に委ねられている。
 平面作品は、必要な情報に焦点を当て、不要なモノを削ぎ、自分の表現したい世界をトリミングし、見せたいモノを描くという強さがある。時に、描かれた時間の設定も可能にする。相手の視点を固定させる力がある。
 だからこそ、表現者の視点が乱れると、世界を成立させる秩序を失い、描かれたモチーフはモノとして立ち現れず、画面上での具体的な存在感や関係性を保持できない。
 
 そんなとき、文字は、平面作品に描かれたモノに物語を与え、存在感や存在理由を補完する。立体作品の置かれるべき理想的な時間や空間の設定を操作し、その作品の魅力的な舞台を調える。言葉が、前後の文脈を補完し、表現者=作品と、見る側との間に生じたギャップを埋め、関係性を取り戻す一助となる。
 見る者を置いてけぼりにしない、それが言葉の役割である。

 作品を支える言葉は、同時に、時間を支える言葉でもある。では、言葉はどのようにして時間を越えていくのだろう。
 

その5:時間を超える言葉
 ぼんやり家を出てしまうと、しばしば不安に思うのが、「鍵をかけたかな?」である。
 高校生のとき、目的語にとるのが動名詞か不定詞かで解釈が変わるモノを暗記したことがある。
  Don’t forget lock the door.
  Don’t forget locking the door.
 前者は(でかけるときに)鍵をかけるのを忘れないで、という意味で、後者は(でかけたときに)鍵をかけたことを忘れないで、という意味になる。
 
 「忘れないで」を表すのに「remember」もある。
  Don’t forget me.
  Remember me.
 どちらも同じような意味になるが、使われる文脈が少々異なる。
 「forget」は、注意喚起・現実的な表現で用いられ、「remember」の方は、心に留めておいて・象徴的な用法となる。永遠の別れ、となるような場面であれば、「ずっと覚えていて」の後者の方がふさわしい。
 言葉を選ぶとき、自然と心情が映し出されている。
 
 「remember」は、覚えている、と同時に、思い出す、という意味もある。「re-」は、英語の接頭辞で、「再び」「元に」「戻す」「繰り返す」という意味を持つ。
 日本語にもなっている、「recall」「remind」とあわせ、「一度あったものを、もう一度、心や意識に呼び戻す」というのが、「re-」系の動詞の共通点である。「記憶をもう一度、心に戻す」という言葉たち。だから、どれも日本語では、「思い出す」と訳すことができる。
 
 そう、そして、似ていても、それぞれが現存しているのには理由がある。
 「remember」は、自分の内側から思い出す=記憶が自分の中で再び立ち上がること。「re-+member(心の一部/体の一部)」で、心の中の一員に戻す、心に戻すこと。
  例:I remember her smile. (彼女の笑顔を思い出す)
 主体は自分、である。
 
 「remind」は、外側から思い出させる=誰か・何かが記憶を呼び戻すこと。「re-+mind(心)」で、心に戻させること。
  例:This photo reminds me of her. (この写真は彼女を思い出させる)
 主体は自分の外側にある何か、となる。
 
 「recall」は、意識的に呼び戻す=記憶を引き出す、取り出すこと。「re-+call(呼ぶ)」で、記憶を呼び戻すこと。
  例:I can’t recall her name.(彼女の名前を思い出せない)
 主体は自分、だが、そこに意識的な努力が入ってくる。
 
 「remember」は、自分で、自然に思い出す(覚えている)こと、「remind」は、外側の刺激によって、思い出させること、「recall」は、自分で、ではあっても、意識して呼び戻す、あるいは記憶をたぐること。
「remember」と使うとき、それは他の語にはない、自分と相手や何かとが、かつては一心同体であったモノ、という意識の表れなのだと気づく。
 
 日頃は心から追い出されてしまっていても、ふと思い出したとき、どうして一瞬でも忘れてしまったのかと自分を責めるような、本当に大切なモノがある。そんなに責めずとも、意識が他に向いてしまっていて、少しの間、気を取られていただけだ、忘れていたわけではない、と解釈すればいい。
 カタチあるモノには力がある。その力を借りて、もう一度、心に取り戻せるなら、それでいい。
 
 そう、言葉には、解釈する力がある。そして、何より、言葉の得意なことは、時間・空間を超えて、相手に、誰かに残せること・遺せること。
 私たちは、1,000年以上の時を超えた文献に触れることができる。
 偉人の言葉だけでなく、日常的に、身近な人の思いに触れることもできる。郵便を出す機会は減ったが、1,000km隔たれた友人とやり取りすることはできる。時差のある友人に気兼ねすることなく、言葉に乗せて思いを伝えることもできる。
 もう会えない相手からの言葉や、相手への言葉に触れ、当時の関係性や自分の心持ちを思い返すことができる。不幸にして仲違いした相手の言葉を、時を経て、振り返ることもできる。場合によっては、やり直せるきっかけにもなる。
 
 文字に残ってさえいれば、言葉が失われることはない。言葉があれば、思いも残るし、何度でも呼び起こすことができる。
 自分がすべきことは、言葉に向き合うこと。
 
 
おわりに:言葉を選ぶという姿勢
 振り返ると、家族だった猫たちが旅立つとき、悲しむことを避けていたように思う。患っていた猫がこれ以上闘病せずに済んだのだ、私が耐えられるように旅立つ順番を考えてくれたのだ、生命が儚いことや生命の力強さを教えてくれたのだ、病に必要な準備を体験させてくれたのだ・・・等と、頭で整理し、現実を受けとめること、受け入れることに注力していたように思う。
 19年の生涯を閉じた猫のことを考えているとき、ふと、「寂しいな」と心の中で呟いた。そのとき、私は悲しめなかったのではなく、悲しみよりも別の感情を抱えていたのだと気づいた。寂しかったのだ。と同時に、その猫が、仲良しだった猫を看取ってからの数年、どれだけ寂しかったか、寂しさの深さではなく、寂しいという感情があったに違いない、そのことを初めて理解した。
 
 思慮の浅さを心から悔いた。そして、猫のこと、自分のこと、それまでのこと、いろいろなことが頭や心をめぐっているうちに、悲しみが込み上げてきた。寂しさだけでなく、悲しみ、悔しさ、痛み、取り返しのつかなさ。きっと、反省や後悔、追憶・・・頭と心を行ったり来たりして、なくしたものの存在の大きさを、自分の全部で受けとめた感覚が「喪失感」なのだろう。
 ずいぶん時間がかかったが、猫がいなくなるたびに、「喪失感」が横たわる、その通りだと納得する。
 
 たしかに、言葉がふと浮かんでくることがある。そして、それをつかめるかどうかも重要なのだろう。つかめるまで時間がかかることもあることは経験した。まして、感覚の場合は一瞬だろうから、もっと訓練が必要だろう。
 
 自然に浮かんだモノを捕まえるのは難しいかもしれない。一方で、自分で選ぶ作業なら、運任せではないのだから、時間がかかることは体験済みだが、できないことではない。
 
 中学生用の国語辞書の掲載語彙数は40,000語程度と言われ、大人の語彙量は50,000語とも言われるが、実際に毎日そんなにたくさんの言葉を使うことはない。もちろん、毎日何冊も読書する人にとっては、日々言葉との出会いであるかもしれないが。
 ただ、それほど多い言葉があるなら、できるだけ、そのときの自分の内面にふさわしい単語を選ぶように努めたい。そして、それは、少々身勝手な願いではあるのだが、自分だけでなく、できることなら、相手にも同じ姿勢・態度を望んでしまうのだ。
 
 言葉のキャッチボール、という言い回しが好きだ。
 キャッチボールをするとき、近めの距離で肩をならし、だんだんと遠くへ離れていく。そして、相手が取りやすいような、胸の高さへコントロールするように努める。投げ返されるボールが自分のグローブめがけて飛んでくると本当に心地よい時間が続く。
 言葉のやりとりでも、私は自分の考えや感情を言葉というボールに乗せているつもりだし、できるだけ、相手が取りやすいように、胸の高さにコントロールして投げているつもりだ。そして、相手にも、同じように投げ返してほしいのだ。
 力加減を間違うと、ワンバウンドしたり暴投したりしてしまう。そんなときは、きっと、相手に不快な思いをさせているのだろう。けれど、そんなとき、ショートバウンドでも頭上のボールでも相手が上手にフォローしてくれると、キャッチボールは続けられるのだ。
 
 もっとも、効率的・効果的に「伝達」が求められるような仕事の場なら、ある程度、型にはめた単語の使い回しがお互いにとって不幸にならないためには必要だ。
 挨拶も同じだ。「おはよう」「お疲れさま」「さようなら」「おやすみなさい」「ありがとう」「ごめんなさい」・・・どれも潤滑油になり、自分の言葉が相手に、相手の言葉が自分にスムースに入ってくる役割を果たす。
 
 だが、自分を語っていい場面なら、なにも決まりきった言葉や小難しい言葉を使うのではなく、最適な一語を掬い取りたい。
 今一緒に暮らしている猫たちの最期に届けるのは、「ありがとう」や「頑張ったね」「ごめんね」だけではなく、もっと相応しい言葉があるのを、今なら分かっている。今度こそ、真っ直ぐ向き合って、自分の思いを届けないといけない。その言葉を猫が理解するかどうか以上に、私が自分を認められるために。
 
 旅立った猫たちにも、出会ったとき、猫たちがどんなだったか、どんなふうに感じられたか、出会いから最期ときまで、それを語りながら送り出せばよかったのだと思っている。
 だから、今いる猫たちのことも、その時が訪れた際、いつでもすぐに思い出せるように、これからは一緒にいる時間を少しでも増やして、日頃から出会ったときからそれまでのエピソードを語りかけていくようにしよう。そのときの言葉を大切に書き留めるようにしよう。
 
 言葉を書き留める、言葉を残すことは、存在を残すことに通じる。
 私がこの世にいなくなったとき、私が消えることは受けとめられる。それは自然なことだから。けれど、私が大切にしてきたモノやコトが一緒に消えてしまうのは残念だ。私という人間の存在価値は私一人のモノでいいが、私が大切にしてきたモノやコトは、もしかしたら、本当に価値があるかもしれない。それに価値があるかどうかは、言葉に残しておかないと判断できないのだから。
 
 そう。今は価値がないと思われたり、まだ価値がないモノだったりすることが、後になって、価値が分かることは歴史が証明してきている。 
言葉を残すのは、後の時代のためになったり、遠く離れている誰かのためになったりすることに繋がるかもしれない機会をつくっておくこと。その機会を消さないための作業なのだ。
 
 その昔、職場の飲み会の席で、他の席で話している「言葉のニュアンスは、人によって違う」というような内容を耳にした。そのとき感じた違和感。今でも答えは出せていないし、間違っていないのかもしれないとも思うが、危ういとは感じる。
 ニュアンスでなく、「言葉の指し示す意味は、人それぞれ違う」、これは誤りだと考えている。
 
 たしかに、前後の文脈、方言といった要素で、そのときのニュアンスばかりか、意味が変わることもあるし、話し言葉であれば、声色・声の大きさ・表情・身振り等、補われる要素によって大きく変わってくる。もっとも、方言は、異なる文化圏を背負っているので、狭義で「異なる言語体系」と括ることもできるだろうが。
 話し言葉だけでなく文字言語であっても、図や絵、画像や映像などと補完し合って、やはり、ニュアンスを含め、別のモノになりえる。
 
 ただ、言葉の意味は時代によって変化こそすれ、それこそ、消えてしまうこともあるけれど、やはり、言葉は私たちにとって、もっとも身近な「共有財産」であると信じる。言葉が共有されているからこそ、意思伝達の手段となっている。
 
 あえて誤解を承知で言えば、言葉の意味が人によってズレたり異なったりしてはいけない。定義なしに、別の意味で言葉を使ってしまうと、少なくとも、伝達の手段にはならない。共有されていないモノで、意思疎通は成り立たない。
 
 もちろん、言葉は時代とともに多義になっていくだろうし、辞書には抽象的な説明しか載せられない。詩や歌等、韻文では、解釈より直感で味わう方がふさわしいモノもあるし、自由度が高いからこそ、美しく響く場合が多いのかもしれない。
 しかし、その多義性や自由さは、語単体での使用で成り立つのではなく、文脈の中でこそ活きているはずなのだ。
 つまり、音声言語における声の調子や、文字言語における図やイラストといったモノも、広く捉えれば「文脈」と考えればいい。
 
 もちろん、「言葉は万能だ」などとは思っていない。けれど、「言葉は有能だ」と信じている。
 自分を知るために、自分の気持ちや考えを見つめ、そのときの内面を表現するために丁寧に言葉を選ぶ。そして、表現されたモノから、相手を理解するために、何かを理解するために、使われた言葉を、その語特有の意味範囲で解釈しようと努める。
 
 言語経済仮説は
  言葉は、必要だから残っている
  残っているなら、必ず意味がある
ここを出発点としている。
 言葉は淘汰の歴史を背負っていて、現存する語には必ず生き残った理由があり、それがその言葉の存在意義であり、価値である。だから、言葉の持つ守備範囲の違い=存在理由を探ることが、言葉を大切にすることに繋がり、それが、相手や自分の表現を大切にすることに繋がる。
 
 言葉を大切にすることは、手段にこだわるだけではない。伝えること、伝わること、という大きな目的を果たすためにも、とても重要な過程なのだ。
 
 「ヤバい」「かわいい」「すごい」は、本当に強力な言葉になっている。もちろん、否定しない。むしろ、堂々と使いたい。猫はいつでも、ヤバくて、かわいくて、すごいのだから。
 ただ、どう「ヤバい」のか、どう「かわいい」のか、どう「すごい」のか、それがなぜなのか、を、もう一歩二歩と踏み込んでいきたいだけである。
 
 言葉は、直感を捕まえるかのように思考の先回りをすることがある。ポンポン出てくる言葉の勢いに任せて発想を広げたい。
 一方で、言葉は、感情に寄り添って、少し遅れて心に届くこともある。だから、無理に急ぐ必要はない。言葉が浮かぶまでの、その遅れを、私は大切にしたい。

#創作大賞2026 #エッセイ部門


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