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たい焼きと詩集



本棚の一番端に、何年も開いていない詩集が二冊ある。なのに、一度も捨てようと思ったことはない。
寝室の本棚に並ぶ色とりどりの背表紙は、本が仲良く肩を寄せ合っているみたいだ。その一番端っこに二冊の詩集が並んでいた。私の好きな小説たちに囲まれたその二冊は、少し日に焼けて色褪せた背表紙を見せている。
この二冊は、私の中の小さなお守りみたいなものだった。


高校二年生のとき、私は文化祭の実行委員になった。ポスターやプログラムの制作係、それもリーダーになったのだ。
プログラムに載せる原稿を集め、印刷会社と何度もやり取りをしながら完成させる仕事だった。


まずは長年お世話になっている印刷会社へ電話で挨拶をするように、と先生に言われ、急に大人の仲間入りをさせられた気分だった。コールボタンを押すとき、心臓が口から飛び出そうなくらいドキドキ脈打って、指が震えた。入試の合格発表より緊張した。

タカハシと名乗る担当のおじさんは、電話越しにやわらかな声で「よろしくお願いいたします」と言った。親戚の優しいおじさんとか、そういう感じの声だ。緊張していた体が一気に緩んだ。

こうして文化祭の準備が幕を開けた。

初めてタカハシさんに会ったとき、タカハシさんは声の印象の通りの柔和な人だった。
高校生の私にも丁寧に名刺を渡して、
「タカハシです。一緒に頑張りましょうね」
そう言ってにこりと笑った。蒸し暑い梅雨の、雨の日だった。


張り切ってリーダーになったというのに、体調が悪くて私は学校にあまり行けなかった。

それでもリーダーとしての仕事だけはやろうとした。
私は布団の中で、ケータイを片手にタカハシさんに電話やメールをした。

文化祭の大事な説明会の日には、その時間だけ学校へ行き、説明会が終わるとすぐに保健室になだれこんだ。
「あなた、なんで文化祭委員を引き受けたの。学校もあまり来てないって言うのに」
顔なじみの保健室の先生二人は、あきれた声で母と似たようなことを言って、ベッドに案内してくれた。
「だって、やりたかったんだもん」
私の言葉は、カーテンが引かれる音でかき消された。


夏休み中は、編集作業のために体調のいい日には学校へ足を運んだ。
寒いくらいに冷えたパソコン室で、ひとりで原稿をまとめていく作業は楽しいものだった。何時間でも作業に没頭できた。
ある日の作業中、ブーブー、とケータイが震えた。タカハシさんからのメールだった。
「作業は進んでおりますでしょうか?」
心配そうなタカハシさんの顔が浮かぶ。
「予定通りに入稿できます」
迷わず返信した。見栄っ張りもいいところだ。本当は間に合うかわからないというのに。
送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめた。
――嘘になりませんように。
そう祈るしかなかった。

原稿ができあがったのは入稿日の前日だった。

原稿のデータが入ったUSBメモリをタカハシさんに渡すと、タカハシさんは
「確かに受け取りました。おつかれさまでした。これ、学校のみんなと食べてくださいね」
と、茶色い紙袋を渡してきた。
受け取った紙袋はずっしりしていた。手のひらにあたたかさを感じる。なんだろうと中身を見ると、地元の有名なたい焼き屋さんのたい焼きがぎゅうぎゅう詰めで入っていた。

タカハシさんの言うように友達と食べようにも、夏休みの校舎はがらんとしていた。私の足音がはっきり聞こえる。
たい焼きの甘いにおいを感じながら、私は保健室に向かった。
「先生、ちゃんと印刷会社に原稿渡しました。そしたらたい焼きもらっちゃって。友達も学校にいないし、たくさんあるから一緒に食べませんか」
こうして、私とふたりの保健室の先生の三人でたい焼きを山分けした。

たい焼きを頬張りながら
「もうダメかと思った。体は痛いし、学校に来られないし、入稿に間に合わないかと思った」
私が言うと、先生もたい焼きを食べながら
「ちゃんと間に合わせたじゃない。よくやったわよ」
と褒めてくれた。
「印刷会社のタカハシさんがやさしかったんですよ。こまめに連絡くれたし、最後はたい焼きまでくれて。やさしい人でよかったー。あー、頑張った」
口に入れたたい焼きのあんこもカスタードクリームもなにもかもが甘かった。まだあたたかいたい焼きが、暑い夏の日の私の体に沁みた。

その年の秋、私は出席日数が足りなくて留年が決まった。

二度目の高校二年生になった私は、またもや文化祭の実行委員になった。
初回の委員会で「去年もやってるからリーダーよろしく!」と同じ学年だったはずの先輩に言われ、半ば強引に、再びプログラムとポスター制作のリーダーに任命された。

私はタカハシさんに久しぶりに電話をかけた。
「今年度、私がまたリーダーをやることになりまして」
私がそう言うと、電話の向こうでタカハシさんが
「え?毎年二年生がやってますよね?」
と、驚いた声を出した。ケータイを持つ手が汗で湿っていく。
「あの……ちょっと私、留年しちゃって。今まだ二年生で……」
私がそう言うとタカハシさんは、
「そうでしたか。また今年も一緒に頑張りましょうね。サトウさんとまた仕事ができるのは、僕も心強いです。」
と、こともなげにサラッと言った。
私はその声に、泣きそうになった。

電話を切った私は、言わないでいいことを言ってしまったと、布団でジタバタした。恥ずかしい。適当に誤魔化したってよかったのに、留年したとか馬鹿正直に言っちゃうなんて。

二度目のリーダーの仕事は昨年よりもスムーズに運べた。以前は手探りだった作業も、今年は自然と手が動いた。
留年した私に、タカハシさんは去年と何一つ変わらず接してくれた。

留年しても、私は学校に行けないことが多く、変わらない日々を繰り返した。
この年も、文化祭の説明会だけ出席して保健室へ向かった。
先生に、今回もあきれた声で
「あなた、なんで今年もリーダーなんかやって!」
と言われながら、ベッドのカーテンを引いた。


夏休みになった。
タカハシさんのアイディアを採用したレイアウトは、読みやすい上に作業も以前よりしやすかった。

夏になっても体調は相変わらずだった。今年もこの調子じゃダメかもしれない、このまま普通には戻れないのかもしれない、と一度留年をした私には予感めいたものがあった。
それでも委員会の仕事だけはどうにかやり遂げたかった。神様どうか文化祭まではなんとか、と願ったりもした。


入稿日、私はUSBメモリをタカハシさんに渡した。
「たくさん相談に乗っていただき、ありがとうございました」
頭を下げた私を見て、タカハシさんはハンカチで汗を拭きながら
「これも仕事ですから気にしないでくださいね。原稿は確かにいただきました」
と言うと、手に持っていたビニール袋の中からゴソゴソと見覚えのある紙袋を取り出した。
「これ、たい焼きです。前のと同じですが、よかったら食べてくださいね。本当におつかれさまでした」
にこにこと笑うタカハシさんは、私に一礼すると去っていった。

紙袋を覗くと、やっぱりたくさんのたい焼きがぎゅうぎゅう詰めになっていた。甘いにおいがあたりに漂う。まだあたたかい紙袋を持って廊下を歩いた。薄暗い廊下にいるのは私一人で、歩くたびに紙袋の擦れる音がやけに大きく響いた。
保健室に入ると、いつもみたいに先生たちが振り向く。
「先生、無事に入稿できました!で、またたい焼きもらったんで一緒に食べましょう」
と紙袋を見せるとふたりは「またもらったの?」と笑った。
たい焼きを三人で山分けした。たい焼きを口に入れると、あんこがほろりとほどけた。
「頑張ったわねえ。今年のパンフレットは去年と違うって聞いたよ。大変だったでしょ」
そう言われた私は、口の中のたい焼きを急いで飲み込んだ。
「全然!去年より楽でしたよ」
去年と同じあたたかさだった。気づけば涙がポロポロと落ちていた。
「タカハシさんが、今年も助けてくれて……」
たい焼きを口に運びながら、涙が止まらなかった。涙がついたたい焼きが少ししょっぱい。先生たちは何も言わず、たい焼きを食べながら私を見守ってくれた。


夏休みの終わり頃、完成したパンフレットをタカハシさんが持ってきた。
できあがったパンフレットは昨年よりずっと重みと厚みがあった。
「うわぁ、かっこいい!」
パンフレットを手にした私が声をあげるとタカハシさんは、
「サトウさんのおかげですよ」
と微笑んだ。
「無事に納品となりますので、これで私とのやりとりは終わりです。ありがとうございました」
タカハシさんが深く頭を下げた。
私も慌てて「本当にありがとうございました」と頭を下げる。
あぁ、やっと終わった。思わず大きなため息が出た。
そんな私の横で、タカハシさんはおもむろに鞄から文庫本を二冊出した。二つとも見たことがない詩集だ。タカハシさんはいつものようににこやかに、でも私の目をまっすぐ見て、その本を差し出した。
「サトウさんに、僕個人からの贈り物です。去年も今年も、本当によく頑張ってくれました。僕の好きな詩集です。何年もこの高校の担当をしてきたけれど、きみみたいに真摯に向き合ってくれていた人はいなかったんですよ。これからも、きみを応援している大人はいるからね」
鼻の奥がツーンとした。受け取った本を抱きしめた。胸がギュッとする。言葉がうまく出てこない。ただ、「ありがとうございます」と震える声で言って頭を下げた。本が濡れないよう、慌てて涙を頬に延ばした。

結局、その年も私は留年した。次の年になると私は休学し、療養しながら高卒認定をとったあと、通信制の高校へ転校した。高校を卒業するまで結局六年もかかった。


詩集は今でも本棚の端っこにある。
もらったその日から家で一ページずつ大切に読んだ。どちらも小難しい言葉が並んでいて、古い言葉遣いの詩集だった。当時の私には難しくて、何度読んでもよくわからなかったけれど、いつだって本棚の目につくところに置いた。

未だにほとんど開かれないその本を捨てる気はない。
あの頃は、自分がこんなふうに大人になれるとは思っていなかった。詩集の言葉は今でもよくわからないけれど、この本をくれた人の気持ちは今なら少しだけわかる。
私もあんな大人になりたいと思って生きてきた。

タカハシさん元気かな。今でも時折思い出す。
私はときどき本棚の端へ手を伸ばす。

タカハシさん。
私、ちゃんと大人になって、生きていけてます。


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