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旅するお針子

これは20年近く前にOという町でとある御婦人から聞いた話である。なので当時のことを多少忘れていたり、聞き間違ったり、補足したりした部分があることをご容赦いただきたい。当時旦那さんの徘徊が酷くて、通り沿いにあった飲食店を手伝っていた私は、旦那さんが何かに駆られるように早足で歩いていく姿を発見し、彼女に連絡するという役割を担っていた。


その方を仮に「梅子さん」と呼ぶことにしよう。
時は第二次世界大戦後の東京。福生の川の側にお住まいだったという。夏になると蛍が家の中に入ってくるような、自然豊かな所にご両親、兄弟と住んでいた。

梅子さんは戦後、当時西荻窪にあったという杉野ドレスメーカー(通称ドレメ)という洋裁学校に通い、お仕立ての技術を身に着けた。卒業後は近所の横田基地の将校の奥さん相手にお仕立ての仕事を請け負って家族を養っていたという。

横田基地はアメリカ軍に接収される前の昭和15年から陸軍の管轄である多摩飛行場として、小型飛行機の発着場になっていた。

今の米軍横田基地が第2次世界大戦終了後、正式に米軍基地となったのは、昭和21年8月15日、つまり1946年。梅子さんが終戦後からドレメに通い出したとすれば、お針子として働きはじめたのは1950年代になるのかもしれない。

参考の為にハーパーズバザーの50s特集を。

小粋でエレガントな50年代ファッションをプレイバック|ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式 

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梅子さんから聞く当時のお針子の仕事とは。

例えていうなら横田基地所属ジョン・スミス将校の家に赴き、そちらの奥様Mrs.スミスを採寸、布やデザインを決め、服をその家で仕立て、1〜2週間したら次の家であるアンダーソン将校、と家から家へと渡り歩く方法だったという。ミシンはどの家にもあり、日中家事室的な部屋を与えられていた。当時米軍ハウスにはハウスキーパー、コックは常駐していて、洋服を仕立てる人は常駐しておらず持ち回り。ちなみに家は近かったので通いだったそうだ。

梅子さんは腕が良かったため引っ張りだこで、週ごとに違う家の奥様のドレスを仕立てていたが、ある日1人の将校の奥様からこう告げられたそうだ。

「主人がハワイに転勤になったわ。あなたも一緒に来ない?」

梅子さんはその誘いに乗りハワイへ。当時は1ドル360円以上だったはず。渡航費はいかほど…?
「そういえば払わなかったわね」
当時米兵の引っ越しは、輸送機でざっくりできたと言うから、きっと家族枠で移動したのだろう。もしかしたら、ハウスキーパーとコックも一緒だったのかもしれない。


ハワイでも将校の家をお針子として渡り歩いたという。
山の中腹の高級住宅街にとても良い生地を扱っている店があり、そこがお気に入れだったという。ハワイでは基地内ではなく、軍関係者は島内に住宅を構えていたそうなので、次の家には車で送ってもらったという。梅子さんの家はなく、今度は住込みで1週間、また次の家で1週間滞在し、ドレスを仕立てていたという。

しばらく経った頃、将校の奥様(ここはジョン・スミスかどうか不明)からこう告げられる。

「主人がサンフランシスコに転勤になったわ。あなたも来て頂戴ね?」

梅子さんはついにアメリカ本土に上陸する。

サンフランシスコは坂の多い街だったと梅子さんは言った。路面電車も乗ったという。
ここでも将校の奥様方のドレスを縫って生計を立てていたという。それなりにアメリカ暮らしを楽しんでいた頃、また奥様からこう告げられる。

「梅子、主人がシカゴに行くの。梅子も来るわよね?」

シカゴ!当時のシカゴはどんなだったろう?
音楽シーンではシカゴ・ブルースというジャンルが確立され、マディ・ウォーターズのようなアーティストが活躍していたそうだ。
梅子さんもシカゴ・ブルースを聞いたりしたのだろうか?
梅子さんはここでも将校の奥様方のドレスを仕立てて暮らしていた。

そんなある日。

「主人がニューヨークに転勤になったわ。梅子も来てくれるわよね?」


ニューヨーク!ついにアメリカ大陸横断!


梅子さんは思った。
「さすがに遠くに来すぎた」と。

もう日本に帰ろう。
日本を出て既に3年が経っていた。

さて、ここで昭和のサクセスストーリーなら、帰国した梅子さんは婦人服メーカーを立ち上げ、アメリカ仕込みのセンスでデパートで名前を売り、やがて銀座に路面店を、そしてパリコレ席巻…となる。


しかし梅子さんは帰国した時には27歳。
なぜか決まっていたという中学の時の担任の先生と齢の離れた結婚をした。

「その後、お洋服のお仕事は?」
梅子さんは首を横に振った。
当時の適齢期からはかなり過ぎていたから…と梅子さんは言った。
「子供達の服は縫ったけどね…」

悔しいなぁ…好きでたまらない相手との結婚ならまだわかるけど、決まっていた結婚というのが納得いかない。話を聞いた当時まだ70代前半だったと思うが、小柄でとても品の良いおばあさまだったので、仕立て屋時代はさぞかし可愛らしく、将校の奥様方も娘のように可愛がったのだろう。だから連れていきたかったのではないかな…とも思った。とても良くしてもらったと言っていたからな…

戦後の日本を思いがけない方法で生きた女性もたくさんいたのだろう。世間的に大成した人はドラマや映画になったり誰かが文章で書いてくれるが、市井の人は同じく市井の人が書き残すしかない。

この話は以前Twitter(現X)でも呟いたが、ログがどうしても遡れず、こちらでも残すことにした。あの頃は呟きだが今度は文章だ。
旅好きの私が梅子さんの長いお針子の旅を書き残す力がついたことを嬉しく思う。


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