無反動と渇望(雑記)

 わたしに在る感受の味蕾は、美味の判定を段々苛烈に行うようになってきた。その影響か、感動らしい感動を殆ど覚えていない。最近買ったWorld Cell2015のライブDVDであるとか、モーリアックの『テレーズ・デスケルウ』(まだ読み終わってはいないが)であるとか、思い返してみるとあるにはあるが、ただどうにもわが心境の麻痺を疑わずにはいられない。
 収穫は、わたしは、ここまで無感動な人間であったろうかと思う。永劫の盟約を結んで閉じられた眼のように、まれびとを謝絶しているのだとすればまったく自家撞着であるが、わたしのほうではそのような覚えもない。
 物書きがそのような調子だと、作品にも作風という形で調子があらわれてくるようである。
 少し前まで、わたしの作品は生存の大肯定を謳っていたはずだったが、今書いている作品は、精神性という見地に立って観察してみると、どうにも十六の時分の作風に回帰してきたような風である。
 まさしくアイロニーとトラジックに満ち満ち、悪辣に対する憤懣と諦観が、絶望と破壊衝動というラヴァーズを連れてやってきて、一頻り踊ったのちに「こんなものか」と沈痛に呟いていた、あのときのわたしと作品に。

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