流布
序章
流布(るふ)・・・ [名](スル)世に広まること。広く世間に行き渡ること。「妙なうわさが-している」 【大辞泉】
ある日、いつものように京葉線に乗車して会社に向かった。乗車する稲毛海岸駅で座席が空いていることはほぼない。空いている数少ない吊り革を掴み、駅で買った新聞を読んだ。最近はスマホで済ます人が多いが、就職した頃、先輩に薦められて始めた習慣はなかなか止めることができなかった。自分ではあまり自覚していないが保守的な性格を指摘されることがたまにある。両隣の人に迷惑をかけないよう、新聞を横半分に畳み覗くようにして読む。新聞が広がらないよう注意しながら紙を捲ると、此れ見よがしのフォントを使って芥木賞のことが書かれていた。芥木賞のことは名前しか知らないが、数年前に十代の少女が受賞して騒がれていたことを思い出した。アイドルと見紛う雰囲気を纏った少女の外見が取り沙汰されていたが、肝心の作品についてはタイトルさえ覚えていなかった。少女の名前は覚えている気がしたが、どうしても思い出すことができなかった。気持ちがモヤモヤしたが大したことでもないので記事の先を読んだ。
後から思うと、この時から始まっていたのかも知れない。とはいえ、この時点で気付いたとしても自分ではどうすることもできなかったとは思うが・・・。
「芥木賞、第一次選考結果発表!」
芥木賞の第一次選考会が五月一日に山の上ホテルで開催された。本年は応募された作品のうち書類選考に通った作品が十篇あり、選考委員が協議した結果、三編が候補として選考された。芥木賞選考委員会の発表によると、今年の応募作品は全般的に無難な作品が多く、選考の観点をどこに置くかが議論の中心となったようだ。“選考に残ったのは三編ですが、そのうち二編は委員の意見が分かれて選考に苦労した”と三河委員長がコメントした。残る一編は全委員が絶賛し、早くも芥木賞決定の様相を見せているらしい。このあと、五月二十二日に同じく山の上ホテルで最終選考会が開催され、その場で本年の芥木賞が決定する。
選考に残った作品は以下の三作品である。
「流布」 某氏
「天上天下」 伊関 吾郎
「透明人間」 大沢 太玖美
記事を読んだものの選考結果に関して印象に残ったことはこれといってなかった。紙面を捲って経済欄の記事を読んだ。昨日は日経平均が百五十円ほど上がっていた。手持ち株がある程度の利益を出していたので売り時かも知れないと考えているうちに電車は新木場駅に到着した。ここから地下鉄に乗って会社に行き、仕事をこなして夕方帰路に着く。出世コースからは数年前に外れており、先のことはともかく、今は気楽なサラリーマン稼業を続けている。子供がいないため週末には妻と食事に出掛けたり、たまには会員になっているゴルフ場で仲間とラウンドしたり、割とのんびり平凡に暮らしている。多少刺激が欲しい気持ちもあったが平凡な暮らしもまんざらでもなかった。経済的に困窮しているわけでもなく、可もなく不可もなく一昔前の言葉を借りれば中流階級の暮らしを続ける日々だった。
第一章 第一次選考会
「それではこれより平成三十年度の第一次選考会を始めたいと思います。委員の皆様はほとんど顔見知りでしょうが、一応ご紹介させていただきます。その前に、私、今年の芥木賞選考会の事務局長を担当しております、山本と申します。至らぬ点があるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
事務局長の挨拶で今年の芥木賞選考会が始まった。場所はとても都心とは思えない閑静な高台にある山の上ホテルが会場となった。選考委員には文壇の錚々たる面々が名を連ねており、会場には凛とした張り詰めた空気が流れていた。
「一月十五日から四月十四日までの募集期間に応募された未発表作品は、先日連絡させていただいた通り十編ございます。例年通り、今回の第一次選考会で数編の芥木賞候補作品を選んでいただき、後日行われます最終選考会でそれらの作品から芥木賞を決定したいと考えております。まず、皆様から事前に提出していただいた“候補リスト”を集計し、各作品にポイントをつけましたのでそれをご紹介します」
山本はそう言うと横の机に置いてあった資料を取り上げ、各委員の前に一部ずつ置いてまわった。
「例年ですと、集計結果で大差がつくことは稀なのですが、今年はひとつの作品が突出したポイントを獲得しました」
配られた資料には各作品の名称と作家名、そしてその作品が取得した総合ポイントが記載されていた。十ポイントを取得した作品が二つ、七つの作品は二ポイントから四ポイントと低調だった。残る一作品は満点となる二十五ポイントに一ポイント足りない二十四ポイントを取得していた。山本が言う通り他の作品を圧倒していた。先程までの凛とした空気は、いつの間にか各委員の感嘆とも取れるため息とささやきでかき乱されていた。山本は選考会が始まる前から考えていた一言を皆に伝えた。
「本来ならこの後、各作品について皆様のコメントを聞きながら候補作品を絞っていくのですが、ほぼ満点に近い“流布”については候補作として確定してはどうかと思います。皆様、如何でしょうか」
山本はゆっくりと委員の顔を見回していった。特に異論を唱える者はいなかった。最後に選考委員長である作家の三河裕次郎と目が合った。三河は委員長として決定を下すべきであると判断したのか、徐に口を開いた。
「山本さんにまとめていただいた結果は、この“流布”という作品が他の作品とは比べるべくも無いということを表しているのでしょう。特に皆さんから異論が無いようでしたら候補作品として決定してもよろしいかと思います」
再度山本が各委員の顔を見回してから結論を出した。
「それでは“流布”を候補作品として、他の作品の選考に移らせていただきます」
こうして“流布”という作品はあっけなく第一次選考会をクリアした。山本はこの作品が持ち込まれたときのことを思い出していた。
応募期限を翌日に控えた日、そろそろ応募作品の取り纏めを始めようとしている時だった。河合出版の相澤が電話をかけてきて、“芥木賞の応募について是非とも相談がある”と言ってきた。期限が翌日ということもあって急いでいたのだろう、時間が取れる旨を伝えたところすぐにこの“流布”を持って事務局に尋ねてきた。
「どうしたのですか、電話ではかなり慌てていたようでしたが」
応接室に通す途中、探るつもりではなく何気なく聞いた。すると席に着くのももどかしいといった体で相澤が話し出した。
「山本さん!見つかりましたよ、すごい作品が!芥木賞は毎年優秀な作品が集まりますが、これほどの作品は本当に久し振りです。もしかしたら昭和以降の全作品に比べても引けを取らないのではないかと思われるほどですよ!」
かなり興奮しているらしく口の端に泡のようなつばをため、まさに“口角泡を飛ばす”といった感じで相澤が話を続けた。
「とにかく素晴らしい作品なので、是非とも選考の対象にしてもらえませんか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。少し落ち着いて話をしてもらえませんか。まあ、お茶でも飲んで気を静めてください」
相澤は目の前に置かれたお茶をごくりと飲み、“あちぃ!”と素っ頓狂な声を上げた。
「めずらしいですね、いつも冷静な相澤さんがこんなに興奮して話をするなんて。そんなに素晴らしい作品なのですか?」
ハンカチで口の周りを拭きながら、少し落ち着いたのか、先程より半オクターブほど低い声で相澤が答えた。
「先日、うちの会社に“原稿を読んでくれ”という電話があったのです。たまたま私が受けたのですが、それじゃあ送ってくれということで原稿を送ってもらって読んでみました。そうしたらこれがなんとも素晴らしい出来栄えだったのです。それで、本人にその旨を伝えたところ、私のほうから芥木賞に応募してもらえないだろうかと依頼されましてね。本来なら本人が応募するのでしょうが、忙しくて時間が取れないと仰ってました。私が代理で応募できないのであれば応募も出版もあきらめる、と言われました」
「なんだか変わった方ですね。芥木賞の応募くらい、いくら忙しいとはいえ、ほんの数十分でできるでしょうに。何か訳でもあるのですか?」
ちょっと困ったような顔つきになった相澤は、さらに半オクターブほど低い、いつもの声で慎重な話し振りで先を続けた。
「私も少しおかしいなと思いました。ただ、本人が言うには本当に忙しいそうで、応募の手続きとかその後の対応や連絡などの作業を代理の者に委ねたいとのことでした。たまたま人を介して編集者である私のことを知り、ダメ元で連絡してきたそうです。私が代理人として応募することは、ルール上、問題になりますか?」
「うーん、どうかなぁ、そういうケースは記憶に無いですね。多分大丈夫だとは思いますが、確認してみないと何とも言えません」
「あと、ペンネームで応募したいといっているのですが、こちらは問題ないですよね?」
「ペンネーム自体はなんら問題ないですね。あるとしたらやはり“代理人による応募”という点ですね。過去の例や、規約を一度チェックしてみないとお答えしようが無いです」
結局、山本が預かる形でその場は収まった。応募期限が翌日だったこともあり、山本は相澤が帰るとすぐに資料に目を通した。案の定、そのような条項は特に記載が無く、また、過去にもそのような事例は一切無かった。山本は事務局長として判断に困ってしまった。芥木賞に応募する場合、未発表の作品であれば基本的に何ら制約はないと考えて良い。今回のようにペンネームでの応募も可能である。しかし、“代理人による応募”についてはどう判断すれば良いのかがわからなかった。代理人に任せることで選考が有利になるとは考えにくい。他の作品との間で不公平が生じたり、悪意を含んでいたりするようなことが無ければ問題は無いのではないか。時間が無いこともあり、山本は事務局長としてそのように判断した。一応、念のため審査委員長である三河に電話をして事情を説明したところ、山本の判断で良いだろう、ということだった。こうして“流布”は本年度最後のエントリー作品となった。
芥木賞の第一次選考結果を新聞で見てから一週間ほどが過ぎた頃、サラリーマン向けの週刊誌が電車の車両内に広告を掲載していた。目立つことを意識したメッセージがデカデカと書かれていた。
“この素晴らしい作品を創造したのは誰か?”
メッセージの下に十ポイントほど小さな文字で「芥木賞候補作品、“流布”絶賛!数十年に一度の作家が誕生か?!」と書かれていた。うろ覚えの記憶では、応募作品の大半は無難なものであり選考の観点を決めかねている、といったことが新聞記事に書かれていた。残りの作品にそんな素晴らしい作品があったということなのだろう。そんなことをぼんやりと考えたが、隣の記事に目が移った頃にはもうすっかり興味を失っていた。元々、芥木賞にはほとんど興味がなかった。たまたま電車の揺れに身を任せていて記事が目に入っただけだった。当然、記憶の引き出しにしまわれることも、この時はなかった。
感性豊かな表現は日本文壇に対して大きな一石を投じたのではないか?!
海外で長く生活をしてきたとこともあり、日本人が本来持つ細やかな感性と、海外で培われた大陸的思考とでもいえる大らかさをバランスよく持った作者だからこその表現がとても素晴らしい。日本人の美意識をその大らかさで表現している。
何度も芥木賞に応募していたが、あまりにも選に絡まないため素性を隠して応募したらしい。
A市に住むK氏が趣味で書いたそうだ。賞にはまるっきり興味がないが、たまたま原稿を読んだ出版関係者が絶賛してやっとのことでK氏を口説き落として投稿したらしい。K氏は選に残るとははなから思っていなかったらしいが、念のため、投稿の条件として素性を一切明らかにしないことを指定したらしい。その結果、“某氏”という一風変わったペンネームになった。
作品を書いたN氏は、東京湾岸に本社を構える大手IT企業の社員らしいとの情報を得た。
某氏は・・・
当番組が入手した情報によりますと・・・
「清二さん、芥木賞の“某氏”って知ってる?」
帰宅するとキッチンで夕飯の準備をしながら妻の美春が問いかけてきた。煮物でも作っているのか、醤油ベースの良い匂いが漂っている。
「ん、知らない。なんか、すごい作品があったとか中吊り広告に書いてあったよ」
「そうそう、“流布”という作品が絶賛されてるの。それでね、その作品を書いた人が“某氏”というペンネームを使ってるの」
「ふーん、変わったペンネームだね」
美春は大学の後輩で二学年下だから今年三十六歳になる。子供がいないせいか歳より若く見られることが多い。元々童顔でいつもニコニコしていることも影響しているのかも知れない。美春がいつも通りの笑顔を浮かべてキッチンからリビングに出てきた。
「その“某氏”という人、どうやらI T業界の人なんだって。もしかしたら清二さんも知ってる人だったりして」
「I T業界といっても広いからなぁ。そんな偶然、そうそう起こらないだろう」
「そうだよね。でも、そういう有名人が知り合いにいたらなんとなく面白そうじゃない?」
「へぇ、美春でもそんなこと考えるんだ。流行り物とか、ほとんど気にしないくせに」
「そうだね。普段は興味持たないことが多いけど、今回はお隣の田添さんが色々と教えてくれるものだから影響されちゃったのかな」
「あはは、田添さんなら十分あり得るな。あの人、噂話とか大好きっぽいよな」
美春に言われたせいか、マスコミの報道が少し気になるようになった。テレビやネットを見てみると、来る日も来る日も素性を明かさぬ芥木賞候補を取り上げ、ある事ない事を書き連ねていた。世の中、よほどニュースに飢えているのかボルテージは上がるばかりで、ついにはNHKの全国ニュースでも紹介される始末だった。
ある日、行きつけの店で昼食を取っていたところ、店内にあるテレビでワイドショーが放映されていた。話しているのは芸能レポーターだった。私はこの芸能レポーターと呼ばれる人々が大嫌いだった。彼らは事実などお構いなしに物事を針小棒大に伝えてくる。その様子が軽薄な嘘つきに見えて気持ちが萎えるのである。普段なら目と耳をシャットアウトしてしまうところだが、この時は美春の言葉が私の意識を芸能レポーターに向けた。彼女のレポートによると、作者は東京東部に本社を構えるIT企業のI社に勤めているサラリーマンとのことだった。会社名を公表することを控えたのか、単に社名がわからないのか、その点については言及されなかった。I社は業界ではめずらしく、どこのメーカーにも属さず十年弱で東証一部に上場した会社であるとレポーターが説明した。作者はその会社が設立された時からの生え抜き社員であり、会社の発展にも大きく寄与してきたらしい。同年代で最初に部長職となったエリートで、立場上、素性を明かすタイミングを見計らっているのではないか、というコメントでコーナーを終了した。カツ丼を食べながら見ていたが、テレビの位置が斜めだったおかげで首に少し違和感を覚えつつ店を後にした。オフィスに向かいながら首を軽く回してこりをほぐしていたら、ワイドショーを見ていた時に覚えた心の中の違和感がフッと明確になった。
私が勤める会社は十年前、目の前に聳えているビルに本社を移転した。本社の住所は東京都中央区、即ち東京の東部である。五年前に東証一部に上場し、昨年設立十五周年を迎えたばかりである。しかも、設立以来、どこのメーカー系列にも属さずにやってきた。ということは、私が勤める会社はさっきのワイドショーが取り上げた会社の条件にマッチしていることになる。この業界には似たような会社がいくつもあるからこの程度でうちの会社と判断するのは早計だが、モヤモヤした気持ちが中途半端にぶら下がっていた。
そこまで考えて不意にあることを思い出した。以前、業務の一環でレポーターが伝えていたような会社の比較資料を作成したことがあった。その時の調査結果ではリストアップした会社の大半は本社が東京西部または南部に位置していた。東京東部にある会社はうちだけだった。
“ということは、件の某氏が所属しているのはうちの会社なのか?”
“ワイドショーは他になんて言っていたかな、確か、生え抜きの社員でエリートとか言っていたな。ということは、設立直後に入社して、五年程前に開発三部長になった同期の森本か?”
ぼんやりとそんなことを考えていたらオフィスに辿り着いた。しかたなく、モヤモヤした気持ちのまま午後の仕事、といってもそれほどきつくない仕事、に没頭した。暫くの間、森本のことは忘れていた。
仕事の区切りがついたのでオフィスの上の階にあるカフェコーナーで休憩をすることにした。
「すみません、アールグレイティラテください」
「シロップ抜きですね、内野さん」
「あ、はい、それでお願いします。あれ、皐月さん、今日は休みじゃなかったの?」
「ええ、次回公演の顔合わせがあったのですが、脚本書いている人が風邪でダウンして延期になっちゃいました」
アルバイト店員の皐月は俳優である。ただ、それほど売れていないためカフェで働いて生活費の足しにしている。仕事の合間に休憩する際、客が少ない時に世間話を交わすようになって知った情報だった。
「今日は残業ですか?もうすぐ定時ですよ」
「うん、ちょうど仕事の区切りがついたから休憩しにきたのだけど、こんな時間とは気づかなかったよ」
「それじゃ、もう今日はお仕事おしまいですね」
「うん、そうしようかな。あ、サボっていることは他言無用でお願いします」
「ハイハイ」
時計を見ると終業まで十五分ほどだったので、このまま休憩をして仕事を終えることにした。午後いっぱい、休憩も取らずに作業したからこれくらいの休憩は構わないと自分に言い聞かせた。カップを持って窓際の席に座った途端、昼のワイドショーのことを思い出した。
森本は同期入社だから今年で入社十六年目になる生え抜き社員だった。五年前に二段飛びで部長に任命された。当時はミニバブルの影響もあり、会社も世間も行け行け状態だった。その波に上手く乗った森本は、その年、大いに結果を残した。確か年間表彰も受けたはずだ。その後も着実に階段を駆け上がり、今年の四月には三十代初の開発本部長に抜擢された。六年前に失敗し、その後、ずうっと一介の研究職に甘んじている私とは雲泥の差があった。もし彼が“某氏”だとしたら公私ともに才能があるということか。普段は出世に興味を抱かないが、少しやるせない気分になった。しかたがないので自席に戻って帰り支度を始めることにした。
カフェを出る際、クローズの作業をしていた皐月が声を掛けてきた。
「お帰りですか」
「うん、ちょっと嫌なことを思い出しちゃったからさっさと帰ることにしたよ」
「やはり気になりますよね。いくらほぼ確定と言われても結論が出ないことには・・・」
「皐月さん、これどうやるんでしたっけ?」
「あ、一緒にやりましょう。内野さん、お疲れ様でした」
「あ、あぁ、お疲れ様」
皐月は他のスタッフに呼ばれてエスプレッソマシンの方に歩いていった。
“結論ってなんのことだ?”
オフィスを出ようとして一階に降りた。エレベータを降りてロビーを横切ろうとしたら自動ドアの外にプロっぽいカメラを持った、ちょっと胡散臭そうな人間が数人、警備員となにやら口論していた。ドアの向こう側なので何を言っているかはわからなかったが、少しいやな雰囲気を醸し出していた。テンションが下がっていたこともあり、そのまま出ると余計な騒ぎに巻き込まれそうな気がした。しかたなく騒ぎに巻き込まれないよう裏口から帰ることにした。
第二章 噂
翌日、出社して自分の席があるフロアに入っていくと、女子社員が数人集まって井戸端会議をしていた。噂話はあまり好きではないので、巻き込まれないよう遠巻きにしながら席に近づこうとした。すると、女子社員がいっせいにこちらを見て人の価値を値踏みするような好奇の目を向けてきた。
「おはよう!」
考えるより先に声が出た。彼女達の井戸端会議に参加するのはとてもパワーを要する。朝っぱらからそんな元気はなかった。
予期せぬ反応に虚を衝かれたのか戸惑っている彼女たちから視線を外し、詮索されないよう身構えつつ急いで自分の席に着いた。背中に視線を感じたが、わざとらしく無視を決め込んでパソコンの電源を入れたり鞄から書類を出したりしていた。すると、背中の方からひそひそ声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「あく・・・ぼう・・・うち・・・」
言葉の意味がわからずモヤモヤしたが、必要であれば声を掛けてくるだろうと考え、それ以上聞こうとはしなかった。その時、彼女たちの上司がフロアに入ってきた。彼女たちはしかたなく持ち場に戻っていった。
他のフロアで行われる会議に向かう途中、いつも上役のご機嫌ばかり気にしている畑山総務部長に階段の踊り場で出会った。社内で顔を合わせたくない数少ない人間の一人だった。軽く会釈をして通り過ぎようとしたら声を掛けられた。会議の時間が迫っていたのであまり話をしたくはなかったが、しかたなく振り返った。
「内野君、ちょっと」
「なんでしょうか」
「君は副業に関する職務規定を知っていますか?」
なんでこのシチュエーションで副業の話をするのかわからなかったが、大まかには理解していたのでその旨を答えた。すると、なぜか得意げな顔で質問を投げかけてきた。会議の時間が気になったが総務部長を無碍にすることもできない。ちょっといらつきながらも会話を続けた。
「例えば、プライベートな時間に小説を書いて、それがたまたま売れた場合の印税はどうなると思います?」
「確か、プライベートな時間の活動で、かつ、当社の利害と関係のない場合は問題なかったと記憶していますが、それが何か?」
「そうだよね。そういう場合、職務規定違反にはならない。ただね、内野君。当社はIT業界のなかでも数少ない独立系、すなわちどのメーカー色にも染まっていないというクリーンな企業イメージがあってだね、このイメージを壊すようなケースだと“利害関係”に関する条文に抵触する可能性もあるのですよ。内野君には是非ともそのあたり、十分に理解しておいて欲しいですね」
それだけ言うとこちらの反応も見ずにさっさと階下に降りていってしまった。なんとも狐につままれたような気分だった。わけのわからない会話を置き去りにされてしばし呆然としていたが、会議の時間が迫っていることを思い出して二段飛びで階段を駆け上がった。
次の日の夕方、普段滅多に口を聞かない小森課長がなにやら下衆な考えをそのにやけた顔の下に持ちながら私のデスクに近づいてきた。彼は常日頃、課の仕事に支障を来たしていないかチェックしている。こういうと良くできた課長のように思われるが、その実、自分の評価を気にしているだけだった。
「課員のミスで仕事に支障を来されたら僕の評価が下がるじゃないか。僕はそんなことは断じて許さない!」
以前、課の忘年会でしたたかに酔っ払った彼が課員全員の前で叫んだ時には我々のテーブルどころか、周りの他の客のテーブルも凍りついていた。それ以降、“課員が困っていようが、悩んでいようが、課の仕事が上手くいけば他のことなどどうでも良いと考えている”というのが課員全員の評価だった。
「内野君、たまには仕事の後の爽快なビールでもどうだい?」
“爽快なビール”という彼らしくない表現が気になった。更に、普段、課員とプライベートで飲みに行くことなど皆無の彼が、今日に限って声を掛けてきたことが驚きであり、警戒心がムクムクと湧き上がってきた。ただ、平々凡々な毎日を過ごす私には、今日も特に用事があるわけではなかった。それと、課の飲み会など、普段つきあいが悪いことに若干の引け目を感じてもいた。仕方がないので彼の誘いに乗ることにした。小森が連れて行ってくれたのは、意外にも銀座の小洒落た飲み屋だった。滅多に一緒に飲むことはないが、それでもたまに行く時は決まってチェーン店の居酒屋だった。今日に限って何かあるのではないかと心配になってしまう。
店に入ってビールで乾杯をしたのはいいが、普段から仲が良い訳でもない二人なので、なかなか会話が盛り上がらない。結局共通の話題といえば仕事のことしかないわけで、しばらくの間、私が関わっている仕事についてわかりきったことを話していた。小洒落た店に来たからには美味しいつまみや酒を楽しみたいところではあるが、小森はほんの数品、ありきたりのつまみとビールを頼んだだけだった。そして、それらを味わうでもなくちびちびとビールを舐めているだけだった。そろそろ日本酒に変えて、つまみも本日のお奨めと書かれた“かわはぎの刺身”を頼もうかと思っていた矢先、急に小森が口調を変えた。下卑た薄笑いを浮かべつつ切り出してきた。
「内野君、君も色々準備とかがあるだろうから休みを取るのであれば遠慮なく取ってくれていいぞ。なんなら今の仕事もしばらくは他の誰かに委ねても良いし」
「はぁ」
何のことかわからず曖昧に答えたら、下卑た笑いをさらに満面に浮かべて続けた。
「君は謙虚だなぁ。その謙虚さが、ああいった作品を生み出す秘訣なのかねぇ」
何を言われているのか全然わからず返事をすることもできずにいたら、また仕事の話に戻った。その後も会話は盛り上がらずお通夜のような雰囲気が続いた。結局、ほんの小一時間で店を後にした。店を出た頃にはえらく疲れてしまって、愛想笑いを浮かべる気力も失せていた。帰り際、またまた下卑た笑いを満面にした小森は、何を思ったのか、急に人の手を取って握手をしてきた。危険を感じて後ずさる私を離さず、興奮した様子で大きな声で言った。
「君のような優秀な部下を持って、僕は大変うれしい!これもきっと今までこつこつとやってきたことが報われたんだろうなぁ。うん、うん」
「内野君、君もこれからいろいろ大変だろうが、頑張ってくれたまえ!こんな僕でよければいつでも相談に乗るからな!あっはっはっ!」
酒に飲まれて訳のわからないことを話す輩は何人も見てきたが、ビールの中瓶を一本、二人でちびちび飲んだだけで一人悦に入る輩は初めて見た。早く手を離したくて引っ込めようとしたが、両手でがっちりと握られた私の手はちょっとやそっとでは抜けなかった。
サラリーマンにとって昼食は気分転換を行う大切なひと時である。しかし、噂話のおかげで、この日のランチタイムは無駄なひと時になってしまった。普段は仕出しの弁当を一人で食べることが多いが、その日は昼前に同期の川田が突然やってきた。
「おい、昼飯に付き合え」
「珍しいな、お前が昼飯誘うなんて。何かあったのか?」
「飯食いながら話すから行こうぜ」
「ちょっと待てよ。俺、仕出し弁当を注文してあるから、話ならここで聞くよ」
「仕出し弁当なんてケチくさいこと言うな。さ、行くぞ」
こちらの事情などお構いなしだった。まあ、同期なんてそういうものかも知れない。
「これで四百五十円が無駄になった」
「それくらいケチるな!」
落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランに連れていかれた。メニューを見るとどれも美味しそうだったが、値段の方もそれなりだった。ランチの最中、同期の動向など他愛のない話が続いた。店を出てオフィスに戻る途中、公園のベンチで一休みしている時も相変わらず当たり障りのない話が続いた。そろそろオフィスに戻らないといけない時間になった頃、唐突に川田が聞いてきた。
「お前だろ?」
「ん、何が?」
いつになく真剣な顔の川田を見て、これは何かまずいことでもしたかと思った。しかし、これといって心当たりはなかった。その旨を川田に伝えると、小料理屋で小森が見せたような下卑た笑いを浮かべた。
「俺にまで隠さなくていいよ。同期じゃないか。もう社内ではみんな知っているぞ。お前があの芥木賞確実と言われている“某氏”だってことを」
「えっ、俺が“某氏”?“某氏”って、あの芥木賞間違いなしと言われている作家だよな。そんなの聞いたことないぞ」
「そんなに惚けるなよ。だけど、なんで素性を隠しているんだよ。そのことがわからなくて、みんな、もやもやしているぞ。隠している理由を教えてくれよ」
「素性も何も俺は“某氏”のことなんて何も知らないぞ」
川田は下卑た笑いをますます激しくさせると、“早く本当のことを言っちまえ”といわんばかりの表情で黙っていた。
「どうやったらそんな話になるんだよ。あれは森本じゃないのか。確かにマスコミの報道だとうちの社員らしいけど、古参でエリートっていったら森本しかいないだろう」
「なんだ、知らなかったのか。最新情報では“エリート”というのは間違いで、“エリートになりそこねた”が正しいそうだ。ほら、お前の場合、六年前のチョンボがなければ今頃は森本より出世していたじゃないか。しかも、他にそういった奴はうちの会社では見当たらない。となると、該当者は必然的にお前だよ」
「お前、もう少しオブラートに包んで話せよな」
「ああ、ごめんごめん。でもな、出世レースには負けたかも知れないが、芥木賞だぞ、すごいじゃないか。で、なんで素性を隠しているのか教えてくれよ」
「そんなこと言われても俺じゃないから何も言えないよ。いい加減な話を持ってくるなよな。時間がないから戻るぞ」
六年前の苦い経験に触れられ嫌な記憶が戻ってきた。
当時、私は社命を受けて大型案件のプロジェクトマネージャーを担っていた。東証一部上場を目指す会社はこの年の業績次第でゴールをクリアできるため、かなりの高リスクを孕む案件も受注することが多かった。私が担当した案件もそのひとつだった。法人向けの融資を担う中堅企業“宝金融”の基幹システムを再構築する案件は、業務ノウハウの蓄積が必須だった。
「荒木本部長、この案件を受注するためには十分なノウハウがありません。ノウハウを持った企業と協力してはどうでしょうか」
「内野君、開発三部で金融系の案件を経験しているじゃないか。彼らと協力すれば大丈夫だろう」
「開発三部が経験したのは個人向けの融資案件です。それに、お客様の企業規模が今回の半分ほどです。更に、一次受けの日金システム社が業務設計を担いました。これらのことを勘案すると開発三部にそこまでのノウハウがあるとは言えないです」
「開発三部長の畑山君が大丈夫と言っているぞ。君は彼の言うことを否定するのか?」
結局、開発二部と開発三部が協力して進めることになった。開発二部長である私がプロジェクトマネージャーを担い、プロジェクトの全責任は開発二部が担うことになった。一方、業務設計は畑山と顧客の相川が中心になって進めることになった。設計が半分ほど進んだところで宝金融の各部門にレビューを始めた。ところがレビューの場で各部門の担当者から戸惑いの声が噴出した。
「畑山さん、どういうことですか?」
「さあ、相川さんのいう通りに設計したのだけど、レビューしたら“そこはそうじゃない”という声が次から次へと出てきてね。困ったものだよ」
「困ったって、相川さんが言われた内容の裏付けは取らなかったのですか?」
「そんなことできないよ。うちにはそういうノウハウを持った人材もいないしね」
「えぇ!本部長にはノウハウがあると言われたのですよね?」
「え、そんなこと言ってないよ。内野君、何か勘違いしてない?」
後から人伝に聞いて分かったことが二つあった。以前、畑山の下で働いていた仁科は畑山のことを教えてくれた。
「畑山部長は上司に対して“ノー”とは決して言わないわよ。いつだったか、本部長に無茶振りされた案件を部下に丸投げして失敗したの。そうしたらどうしたと思う?彼、その部下に全責任を押し付けて逃げたのよ。最低よね」
後日、宝金融の融資課で妙に気が合った竹本は相川のことを教えてくれた。
「彼女はねぇ、人としてはとても良い人なの。当たりが柔らかいし、気が利くし。だけど、その反面、押しに弱いのよねぇ。本当は各部門の調整をしないといけない立場だけど、現場からお願いされると嫌とは言えなくて。だから、今回の業務設計でも後から依頼された仕様を盛り込むことで、それまでに決まっていた仕様に悪影響を与えちゃったみたいね」
キーマンである二人が機能しない業務設計が上手くいくはずがない。レビューで噴出した仕様の矛盾や誤りを修正するため、大幅なプロジェクトの見直しを迫られた。開発三部に期待していたサポートは法人融資に詳しいコンサルタントを外部から招聘した。宝金融内の調整については、宝金融の経営陣に謝罪をして現場の各部門から要員をプロジェクトに参画してもらうことで対応した。その結果、期間、コストともに大幅に超過したものの、なんとかプロジェクトをやり切ることができた。
次の年度が始まる時、辞令が下りた。
開発二部長 吉川瑛一
開発三部長 森本忠美
総務部長 畑山良紀
荒木本部長の評価は、原因が何であれ期間およびコストを超過した責任は所轄部門にある、というものだった。そして、プロジェクトの途中で離脱した畑山部長に関して、荒木本部長に取り入って責任を回避したという噂が実しやかに流れていた。
暗い気持ちになった私は、川田を適当にあしらってオフィスへと戻った。
フロアに入ると周りからの視線が一気に押し寄せてきた。しかし、直接話かけてくる者はいなかった。川田の話だと私が“某氏”ということになっているらしいが、誰がそんな根も葉もない噂を流しているのか、心当たりは一切なかった。誰かに聞いてみたい気もしたが、何と聞けば良いのかわからなかった。
誰とも視線を合わせたくなかった。一度でも眼を合わせたらそこから根掘り葉掘り聞かれそうで嫌だった。針の筵とはこういうことなのかと思いながらパソコンの画面に向き合ったが、とてもではないが仕事ができる状況ではなかった。
“俺が何をしたっていうんだよ”
仕方がないので、“研究のための資料を探しに行く”という口実を設けて外出することにした。普段の業務内容がルーズなお陰で割と柔軟に自分の行動を決めることができた。
職務制度上、研究職と定められているものの、その内容は大したものではなく所謂閑職だった。小森から直接言われた訳ではないが、周りに迷惑を掛けなければ何をしても良いという雰囲気があった。この部署に移動して来た当初は何をすれば良いのか分からず、かといって教えてくれる者もいなかった。仕方がないので研究テーマを適当に決めて書籍やWeb検索で情報収集をしていた。そのうち、大学で行われている分科会活動に興味を持って参加するようになったが、その時も誰にも何も言われなかった。年度末が近づくと、これも形だけではあるものの、上司に対して一年間の活動報告をすることが定められている。流石に大学まで出向いて結果がないのはまずいと思い、分科会メンバーに相談して論文を書いたこともあった。勿論、専門家でもないので箸にも棒にもかからなかった。
“こういう時、閑職は便利だよな”
一応、国立図書館に行って資料を物色した。それでも、川田の話が気になって集中することは難しかった。仕方がないので、資料探しは諦めて“某氏”のことを調べることにした。一昔前だとこういった調べものには手間隙が必要だったが、インターネットがここまで広まった今ではあっという間に調べることができる。とはいえ、利便性が高まったが故に多種多様な情報が氾濫している。特に“某氏”のように興味本位で話題になっている場合、あることないことがネットに書き込まれる。そうすると今度は情報の真偽を判断する能力が必要になってくる。ネットを悪用したり問題を起こしたりする場合、意図的に偽情報を流す輩が多いが、情報に関するパラダイムシフトについていけないことが起因することもあるのかも知れない。何故、今、そんなことを考えるのか我ながらわからなかった。とりあえず“某氏”に関する情報を片っ端から集めていった。
先日何の気なしにワイドショーを見た時に得た情報から推測すると、どう考えても“某氏”は同期の森本だった。そのことが分かった時点で思考は停止していた。元々、“某氏”についてあまり興味がなかったこともあるが、森本に先を越されたことに多少のやっかみがあるのか、彼のことはあまり考えたくなかった。その日以降、極力この話題には近づかないようにしていた。だから、その後の展開はまるで知らなかった。
川田の話をきっかけに調べてみたところ、やはり勤務先はうちの会社でほぼ間違いないと思われた。社名をそのまま報じているメディアはなく、かつ、報道内容に多少の違いはあるものの、本社所在地や設立経緯、更には主要顧客に関することまで報道されていた。社員や会社のことをある程度知っている者がこれだけの情報を得れば、うちの会社を導き出すことは容易だった。
ただ、個人を紐解く情報はワイドショーで聞いたものとは異なっていた。あの時は同期の森本を想像させるようなキーワード、“生え抜き”、“エリート”、“三十代初の開発本部長”といったものが含まれていたが、今回調べた結果はどう考えても森本に結びつくことはなかった。大手新聞社、朝海新聞が配信した昨日の記事にはこう書かれていた。
“某氏”のこれまでのサラリーマン人生は波乱に満ちている。“某氏”はI社設立直後に入社した生え抜き社員である。入社後十年間、若手にも関わらず大型プロジェクトの主要メンバーとして、中堅社員やベテラン社員に負けぬ働きをしていた。その働きぶりは社内でも有名で、若手の中では“某氏”が出世頭になると噂されていた。しかし、あるプロジェクトにプロジェクトマネージャーとして参画したとき、“某氏”はとんでもない失敗を犯した。最初、“某氏”はある間違いに気づいた。しかしその時点では、その間違いが公になる前に自分で解決できると判断し、本来必要な報告を怠った。ところが“某氏”の予想に反して問題は複雑であり、あっという間にあちこちに波及していった。慌てた“某氏”はすぐに上司に報告したが、その時にはもう手の打ちようがない状況になってしまっていた。プロジェクトは一時中断し、社を挙げて立て直そうとした。しかし、問題の根は関係者の想像を越えており、対策を打つには、時、既に遅かった。結局プロジェクトは中止された。I社は設立以来、順調に黒字経営を続けてきていたが、この年、この影響もあったのか、設立以来、初めての赤字決算となった。翌年、“某氏”は研究開発部門に配属となった。I社では体調を崩すとか、成果の出なかった社員が研究開発部門に移動させられることが多い。“某氏”は失敗の責任を取らされたのである。
出世街道を爆進していた“某氏”は一転して奈落の底に転げ落ちた。その原因は自分自身の行動だった。しかし、“某氏”は別の道を駆け上がった。今年の芥木賞における絶賛は、“某氏”の今後の活躍を予感させるものである。
自惚れる訳ではないが、設立直後に入社して十年間、大型プロジェクトに関与してきた社員は私だけのはずだ。勿論、後輩にも大型プロジェクトに関わった者はいるが、入社直後から関わってきたのは私だけだった。しかし、畑山や相川のことは書かれておらず、過ちを犯した原因も異なっていた。また、大型プロジェクトを中止した上で開発技術研究部に異動したプロジェクトマネージャーはいなかった。この辺りの微妙な情報の相違が周りにいる人たちを惑わしているのだろう。
ここまで調べて一息ついた。六年前の嫌な記憶は今でも思い出したくなかった。それを、昼間、同期の川田に思い出させられ、心の奥底にしまっておいた苦い記憶が鮮明に蘇ってきた。情報を調べているうちにその記憶のせいで息苦しさを感じていた。
“実際のところはどうなのだろう”
仮に記事が示す人物が私だとした場合、私が過ちを犯したことになるが、それは事実無根である。すると“某氏”は別人なのか?それとも記事に書かれているプロジェクトに関する内容が間違っていて、あくまでも“某氏”は私を指しているのか?といっても私は芥木賞に応募などしていない。それどころか小説自体、書いたことがない。
“一体、何がどうなっているのだろう”
念の為、他の記事も調べてみたが、どの記事も似たり寄ったりの内容だった。多少の違いがあるものの、経歴等から推測される人物は私、内野清二だった。ここまで調べてひとつ気になることがあった。それは、どの記事も内容に大きな違いがないことだった。大手新聞やテレビ局が発信している情報はさておき、ゴシップな内容が多いことで有名な“ソーカス”の記事も他のメディアの記事とほぼ同じなのである。こうなると記事に書かれた内容の信憑性はそれなりに高いと考えるべきだろう。
もしかすると、私が気づかないだけで、記事で指摘している会社が別にあるのかも知れない。私が知らないところでプロジェクトを中止に追い込んだプロジェクトマネージャーがいたのかも知れない。しかし、川田を始め会社の面々の反応を見ると、彼らも記事が示しているのがうちの会社であることを確信しているのだろう。それに、中止になったプロジェクトを私が認識していない可能性はあるものの、開発技術研究部が設立されたのは私が異動する一年前であり、発足以降、失敗したプロジェクトマネージャーが異動して来たことはなかった。
どの情報を整理しても、私が“某氏”であるという結論に辿り着く。若しくは “某氏”が私であるという結論になる。
段々と思考がまとまらなくなってきた。不快感も高まるばかりだった。このままだと誰かに八つ当たりをしてしまいそうな気になってきた。朝海新聞の記事をもう一度、初めからゆっくりと読み返してみた。
“〜のこれまでのサラリーマン人生は波乱に満ちている“
ふと我に返った。
記事は“某氏”が誰であるか、どんな人物であるかを紹介しているが、私にとってそれはどうでも良いことだった。確かに私はプロジェクトマネージャーとして失敗をしたことがある。しかし、“流布”という小説を書いていないことは明らかである。勿論、応募した覚えもない。すなわち、その事実を以ってこの記事は私以外の人物について書かれたもの、若しくは間違っていることになる。仮に私のことを書いているとしたら、朝海新聞だけでなく、今日調べた記事のすべてが間違っているか、若しくは捏造されたものということになる。しかし、誰が、何のためにこんな記事を捏造するのだろう。有名人でもない私を“某氏”に仕立て上げたところで何のメリットもないことは明白なのに。
思考することに疲れてリフレッシュコーナーに配置されたソファに座って窓から見える公園を眺めた。新緑の葉が夕日に照らされ穏やかな光を放っていた。しばらく眺めているうちに心が少し落ち着いて来た。記事のことはどうでもいいことに思えてきた。そもそも、数日前に放映されたワイドショーの内容がほんの数日で変わった。ということは、今日調べた記事も憶測によるもの、若しくは意図的に捏造したもので、二、三日もすれば変わっていくかも知れない。よくよく考えたら私が芥木賞候補作家というのはなんともふざけた話である。こんな話を信じた川田も浅はかな奴に思えてきた。
“なんでこんなことに時間を割かなきゃいけないんだか・・・”
疲れた目を揉みつつソファから立ち上がった。
週末になるとゴルフに行くことが多い。大抵は会員になっているコースに行くため、会社の同僚や友人とではなく、クラブに所属している他の会員と一緒にラウンドすることが多い。その日も顔見知りの会員三人といつも通りにラウンドしていた。五月の爽やかな天気の下、久し振りに良い感じで最初の三ホールを消化した。その時、よく一緒にラウンドする金田が何気ない顔で話しかけてきた。
「内野さん、すごいことになっていますね」
「え、何のことですか?」
「またまた、とぼけちゃって。芥木賞ですよ。受賞間違いなしなんでしょ」
「あ、俺も聞いたよ。内野さんに物書きの才能があるなんて知らなかったからびっくりしちゃったよ」
「もしかして、“某氏”のことですか?あれ、私じゃないですよ。誰かが勝手に話を作って広めているみたいで困っちゃいますよ」
「え〜、そうなの。でも、朝海新聞とか大手メディアも報道しているよ」
「あれ、マスコミの報道だけだと私には辿りつかないと思っていたけど、どうやって知ったのですか?」
「ああ、たまたま内野さんの会社に知り合いがいるんですよ。先日別件で会った時に芥木賞の話になって教えてもらいました」
「あ、俺はそれを又聞き・・・」
説明できない自分がもどかしかった。いや、説明はできるのだけど、メディアが総じて同じような報道をしているため、誰も私の弁解に耳を傾けてくれなかった。
国立図書館で調べてから数日が経っていたが、依然、噂の内容は変わっていなかった。その間も何度か“某氏”に関する問いかけを受けたり、興味ありげな視線を感じたりした。その都度、弁解をしては見るものの誰も信じてはくれなかった。仕方がないので、この時も曖昧に答えてやり過ごそうとした。しかし、ゴルフは四人一組で競技するスポーツであり、しかも、時間の大半は移動のため、意外と話をする時間がある。残りの一人もどうやら噂を知っているようで興味津々に聞いてきた。さすがにこれにはまいった。ゴルフは技術が大事なスポーツだが、メンタル面も大変重要なポイントとなる。ましてや私のような遊び半分でやっているアマチュアゴルファーにとっては、ラウンドする時の精神状態がそのままスコアに直結することもめずらしくない。今日は久し振りに良いスタートを切れたが、そこからはゴルフに集中することができず、今年の最悪スコアを更新してしまった。帰りの車で思わず声に出してぼやいてしまった。
「なんだって俺がこんな目にあわなければいけないんだよ!」
テンションが下がったまま家に着いた。部屋着に着替えてリビングに降りると美春が鼻歌を口ずさみながら機嫌良さげに夕飯の支度をしていた。
「どうしたの?機嫌良さそうだね」
「あら、清二さんだって大好きなゴルフに行ってきてご機嫌でしょ?」
「いや、ラウンド中に変な話題を振られて散々だったよ」
「そうなんだ。変な話題って何?」
「うーん、あまり言いたくないなぁ」
「そっかぁ、まあ、色々あるよね。あ、そういえば、昼間、川田さんから電話があったよ」
「え、川田から?家電にかけてくるって何の用だろう」
「清二さんのスマホが繋がらないからこっちにかけてきたみたい。特に用があるわけではないと言ってたよ」
「そうなんだ。変な奴だな」
キッチンから出てきた美春がニヤニヤしながら近ついてきた。その笑顔には見覚えがあった。良からぬことを企んでいる時の笑顔だった。
「聞いたわよ」
「え、何を?」
「清二さんだったのね」
「え、何が?」
「もぉ、惚けないでよ。川田さんが教えてくれたよ、芥木賞候補の“某氏”は清二さんだって」
「またかよぉ、勘弁してくれよ」
「芥木賞の副賞って百万円よね。何買ってもらおうかなぁ」
「おいおい、その噂、まるっきりデマだぞ」
「えぇ、うそ!」
「俺は小説なんて書いたことないよ。というか、書けるとも思えないよ。俺に文才があると思うか?」
「そう言われると肯定はしにくいかも・・・」
「だろ。ってそうはっきりと言われるのもちょっとへこむかも」
「でも、川田さんの話だと該当するのは清二さんだけって言ってたわよ」
「そう、そこが不思議なんだよ。俺もマスコミの報道を調べてみたけど、どう考えても俺になっちゃうんだよなぁ」
「え、何それ。ねぇ、本当は隠してるんじゃないの。後で驚かそうとしてるんでしょ?」
「なんでそんなことするんだよ。本当だったら真っ先にお前に話すよ。俺の性格知ってるだろ?」
「まあ、そうだけどさぁ、、、あ、百万円貰えると聞いたから霜降りのお肉買ってきちゃったわよ。清二さんのお小遣いで補填してよ」
「え、何でそうなるんだよ」
ゴルフのスコアは散々、霜降り肉の補填をさせられる、今日はきっと厄日なのだろう。
その後も鎌をかけられたり直接聞かれたりすることが度々あった。相手は常に私が“某氏”であることを前提に話してくるため、そのことを否定する答えには聞く耳を持っていなかった。みんなが聞きたいことは私が“某氏”であるかどうかではなく、なぜ素性を隠しているのかだった。確かにインタークオリティ社の内情を知る者が今流れている噂を整理すれば自ずと【“某氏”=内野清二】に辿り着く。このような状況ではいくら私が“某氏”ではないと言っても彼らの心には届かない。仕方がないので、どうとでも取れるような笑みを浮かべつつ曖昧に首を斜めに振ることで凌ぐことにした。“某氏”が芥木賞を受賞して本人が素性を明かせばこの騒ぎも収まり噂から解放されるだろう。そうして私に降りかかった災いも解消されると高をくくっていた。そうこうしているうちについに発表の日を翌日に迎えた。
「いよいよ明日ね」
「そうらしいね。本当は明後日だったのが一日早くなったって誰かが言ってたな」
「どうなるのかなぁ、受賞は確定なんでしょ?」
「そうみたいだね。それより、結局噂が一人歩きしたままでもうクタクタだよ。早く終わってくれぇ!!」
「ねえ、本当に清二さんじゃないのね?」
「しつこいなぁ、本当だったらここまで引っ張る必要ないじゃないか」
「まあ、それはそうなんだけど。でも、会社のことを知ってる人であればすぐにわかるんでしょ?なんでそんな具体的な内容が報道されてるのかしら。それに、そもそも誰がこんな噂を流してるのかしら」
「そうなんだよ。すごく変だよな。噂の内容からして社内の人間、若しくは会社の内情を良く知ってる人間であることはほぼ間違いないはずなんだ」
「仮に社内の人だとして、何でこんな根も葉もない噂を流すのかしら。清二さんへの嫌がらせ?恨みとかだったりして」
「え、そんな怖いこと言うなよ。やめてくれよ」
「だって、こんな噂を流されても清二さんは何ひとつ良いことはないのでしょ?」
「うーん、得とか損とか考えたことはなかったなぁ。まあ、色々と面倒臭いなぁとは思ってるけど」
「ほら、やっぱり嫌がらせなんじゃない?」
「でも、今のところそれほどの被害はないよ。まあ、社内の連中から同じことを何度も聞かれて面倒臭いけど、それも軽く受け流せば済むしね」
「そっかぁ、それじゃもっと別の狙いがあるってことか。明日の授賞式で何か事件が起きるとか」
「おいおい、段々と話がデカくなっていないか。お前、楽しんでいるだろ?」
「えへへ、バレた?だってぇ、田添さんが色々と教えてくれるんだもん」
美春は軽い気持ちで言葉にしたのだろう。しかし、却って気になってしまった。社内の噂話ならまだしも、今回の噂は大手メディアが挙って報道している。一介のサラリーマンにスポットを当てたところでメリットなどないに等しい。それと、ひとりの個人に嫌がらせをするにしてはことが大袈裟過ぎる。想像もできないことに巻き込まれているとは思いたくないが、もしかするとその可能性があるのかも知れない。ついさっきまでは早く解放されたいとだけ考えていたが、田添に吹き込まれた美春のひとことで明日を迎えるのが怖いという気持ちが芽生えてしまった。
“これだから井戸端会議は嫌いなんだ”
「楡井主幹、今回の記事のニュースソースってどこですか?」
「ん、どの記事のこと?」
「あれですよ、芥木賞の“某氏”ですよ」
「ああ、あれね。実は俺も良く知らないんだよ。どうやら上の方から降りてきているみたいなんだけど、きっちりと緘口令が敷かれているみたいで実態は何もわからない」
「へぇ、なんだか面白そうですね。少し探ってみようかな」
「おいおい、下手に首突っ込むなよ。今回の件は一部の人間だけで対応しろと言われているんだ。あと、この間も言ったように、提供された情報以外のことを詮索するのは受賞が決まってからにしろと厳命されている。少しでも突くとあっという間に切られちゃうぞ」
「え、そうなんですか。すごく怪しいですね」
「確かにな。だけど今回は大人しくしていろよ。これは俺の感だけど、かなり大きな力が働いているみたいだから君子危うきに近寄らずだよ」
「わかりました。言ったことは聞かなかったことにしておいてください」
第三章 芥木賞受賞
五月二十一日、最終選考会は一種異様な雰囲気の中、第一次選考会と同じ“山の上ホテル”で開催された。予定では明日二十二日の午前十時から最終選考会を開催して午後五時より授賞式となっていた。しかし、選考委員長である三河の身内に不幸があり、急遽、最終選考会を前日に繰り上げることになった。午後一時に始まった選考会では、候補に挙がった三作品がそれぞれ賞に相応しいかどうかを検討するのが通例である。しかし今年は少し雰囲気が異なっていた。“流布”については検討する必要が無いのではないかという空気が選考会の冒頭から流れていた。それでも事務局長の山本は例年通りに会を始めた。
「それではこれより平成三十年度の芥木賞、最終選考会を開始させて戴きます。先の第一次選考会で皆様に選んでいただいた作品はお手元の資料にあります三作品となります。本日はこれらの作品それぞれが芥木賞として相応しいかどうかを議論していただき、最終判断をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします」
山本は開会の宣言を行った後、軽く一同を見回した。さすがに皆、緊張の色を浮かべていることがわかった。審査委員長の三河が立ち上がり、軽く咳払いをした後、徐に話し始めた。
「特にご質問等が無ければ早速検討に入りたいと思います。何かございますでしょうか」
何か言いたげにしている委員がいたが、敢えて声を掛けずに三河が続けて話した。
「皆さん、今回は私の都合により選考会の日程をずらすことになってしまい、大変申し訳ありませんでした。本来なら欠席すべきところですが、今回は審査委員長を承っており、簡単に欠席するわけにもいかないと判断しました。しかし、昨日亡くなった叔父は、父親を早くに亡くした私を育ててくれた上、私が作家になることを応援してくれた人物であり、私にとっては父親そのもののような人でした。どんな職にあろうとも、その叔父の葬儀に出ないというのはあまりにも人の道を踏み外すことになってしまいます。皆様、および関係各位には大変申し訳ないとは思いましたが、山本さんに無理をいってスケジュールを変更させていただいた次第です。重ね重ねお詫び申し上げます」
深々と頭を垂れた三河に歩み寄るようにして山本が言った。
「三河さん、こちらこそこんな状況の中、最後まで委員長の任を務めていただき誠にありがとうございます。大切な叔父上を亡くされ、ご心痛でやりきれない中、本日の最終選考会を委ねさせていただくことは大変心苦しいものがございます。三河さんに最後まで努めると仰っていただき、関係者一同、感謝の念でいっぱいでございます」
山本の言葉を受けた三河は再度頭を深く垂れた後、席に着いた。山本が姿勢を正し、気合を入れ直すかのように声を出した。
「それでは例年通り、それぞれの作品について皆様からご意見を頂戴したいと思います。まずは、作品ナンバー十二、作品名”流布”、作者“某氏”です。この作品についてコメントをお願いいたします」
こうして各作品が芥木賞に相応しいかどうかの検討が開始された。先の第一次選考会でもほとんど議論されずに通過した作品”流布”は、最終選考会でも議論らしいものがほとんどなかった。山本が芥木賞の選考事務局に関係するようになってから十年程になるが、これほどあっさりと受賞を決めた作品にはお目にかかったことが無かった。圧倒的な支持を得る作品でも、大抵、反論を持ち出す委員がおり、そのコメントを元にした議論がある程度展開された後に決定することが多かった。しかし、”流布”については絶賛の声ばかりで、名立たる委員の誰からも批判めいたコメントが一切無かった。ここまで一方的に受賞が決まってしまうとどうしても他の作品が見劣りしてしまう。そのせいというわけではないだろうが、第一次選考に残った他の二作品は“流布”とは逆にあっけなく落選が決まってしまった。落選した二人の作家にとっては正に運がなかったとしかいいようのない結果だった。
選考結果は最終選考会が終わり次第、選考に残った全応募者およびマスコミに伝えられるのが通例である。その後に行われる授賞式に出席可能な場所に待機してもらえるよう、最終選考に残った応募者にはあらかじめ伝えられており、受賞者が集まり次第、授賞式が開催される。ところが、今年は選考委員長の三河の都合により、授賞式を翌日に開催することになった。そのため、最終選考の結果は今日の午後六時に関係者に伝えられることになっていた。作品の数にもよるが、最終選考会は三、四時間かかることが多い。それと、授賞式が明日開かれることになって時間的な余裕があった。山本はこれらのことを考慮して午後六時に連絡する旨を関係者に伝えた。しかし、“流布”が圧倒的な支持を得てあっけなく受賞を決め、かつ、その反動もあって他の作品があっけなく落選してしまったため、結果が出たのは予想より一時間以上も早い午後三時だった。山本は少し悩んだ末、少し早いが応募者に連絡をすることにした。代理で申し込んだ相澤を含め、最終選考に残っていた三名にはすぐに連絡がついた。各自にそれぞれの結果を手短に伝え、受賞した“某氏”の代理人である相澤には明日の授賞式に関する情報を念のため再度伝えた。その後、マスコミ各社に最終選考結果および明日の授賞式の案内をFAXで伝え、一息ついた。時計を見ると午後四時半だった。これから明日の授賞式会場に移動して最終チェックを行えば今日の仕事が完了する。毎年のことだが、応募の受付を開始してから最終選考会が終わるまでの間は結構緊張する。一方、結果が出て安心するせいか、その後の授賞式はとてもリラックスして楽しむことさえできる。今年も無事最終選考会が終わったせいか、やっと肩の力が抜けたような気がする。会場は毎年委託している業者が準備の大半をやってくれるので、あまり心配する必要も無い。チェックを簡単に済ませて美味い酒を飲みに行くことができそうだった。そんなことを考えつつ、足取り軽く会場に向かった。
FAXを受け取った担当者がデスクに向かって叫んだ。
「編集長、芥木賞が決まりました。やはり“流布”が受賞です」
「よし、それじゃカメラマンを連れて“某氏”のところに向かってくれ」
「え、でも“某氏”がどこの誰なのかわからないですよ」
「その件はついさっき情報が届いたから安心しろ。まだこの時間ならオフィスにいる可能性が高い。インタークオリティ社に向かえ!」
「はい!」
受賞決定のFAXが届くとほぼ同時にマスコミ各社に“某氏”の素性を記したメールが届けられていた。メールには顔写真が添付され、本文には以下の一文が記されていた。
【芥木賞を受賞した“流布”の作者“某氏”はインタークオリティ社、開発技術研究部に所属する内野清二氏】
後から分かったことだが、Webメールを使用した発信者は即座にアカウントを廃止したため発信元を特定することはできなかった。
都内某所、閑静な建物の和室で二人の男が庭を眺めている。
「“流布”の芥木賞受賞が決まりました」
「そうですか、それは何よりです。これで最初の一歩を踏み出すことができますね」
「ええ、そうですね」
春の柔らかい陽射しが縁側にあたり、磨き込まれたナラの無垢材が鈍く反射している。
「この後、二歩目、三歩目をどうやって歩むのか、楽しみのようでもあり、心配でもあり、でしょうか」
「いえいえ、楽しみでこそあれ、心配する必要はないでしょう」
「どうも私は心配性のようです」
芥木章の授賞式を翌日に控えているせいか、今日は朝から会社中がざわざわしているような気がする。朝、出社したらそのことで面倒臭いことになると予想していたが、誰もそのことには触れてこなかった。ただ、興味を持っているのは明らかで、ずうっと誰かに見られているようで落ち着かなかった。今朝、テレビの芸能ニュースで最終選考会が都合により今日に変更となったことを伝えていた。選考委員長の身内に不幸があったとかで、授賞式は予定通り明日行われるが、最終選考会は一日早められたとアナウンサーが言っていた。選考結果は、今日の夕方、午後六時頃に関係者に伝えられるということだった。
今朝の芸能ニュースも含め、メディアの報道を見ていると“某氏”の受賞はほぼ確定だろう。受賞すれば“某氏”が誰か明らかになる。これでやっと変な噂から開放されると思うと気が楽になる。ただ、一抹の不安があった。仮に“某氏”が受賞した後も素性を明かさなかったらどうなるのだろう。確か、直川賞を受賞した“東京競輪”は覆面作家だった。“某氏”が“東京競輪”のように覆面作家として芥木賞を受賞したら川田達が大騒ぎをするだろう。こちらのことなどお構いなしに騒がれるのは堪ったものじゃない。
さらに昨夜の美晴との会話が脳裏を過ぎる。授賞式、若しくはその前後でとんでもないことが起きたりしないだろうか。
普段は結構気楽に物を考える性質だったが、さすがに今日ばかりは芥木賞のことが気になってしまって仕方なかった。そのお陰で午前中はほとんど仕事がはかどらない状態で昼を迎えてしまった。昼食時もひそひそ話しながらこちらを見る者がいたが、近くまできて会話をしようとする者はいなかった。昼食が終わり午後の仕事についてもまわりの雰囲気は相変わらずだった。普段は感じない類の居心地の悪さを感じつつ、定時までの長い時間をただじっとして過ごすしかなかった。定時の午後五時が近くなってきたら急にフロア内がざわつき始めた。心なし、周りからの視線の質が強くなったように感じたが、パソコンのモニタを凝視して周りからの視線を拒絶していた。定時になると同時に机の上を片付け、誰とも目を合わせないようにしてフロアを後にした。フロアを出る際、小森課長が何か言ったような気がしたが、ここでつかまって受賞結果を知るようなことだけは避けたかった。敢えて聞こえない振りでフロアを出た。
オフィスを出ようとロビーに下りた途端、ガラス戸の外側にカメラやマイクを抱えた、如何にもマスコミ然とした集団がたむろしているのが見えた。まだ受賞結果が発表される時間ではないはずだが凄く嫌な感じがした。急いで顔を隠そうとしたが、その前に彼らがこちらに気づいた。先頭にいたマイクを持った記者らしき女性が、手負いの動物に気づいたハイエナの如く、ガラス戸の前にいる警備員をものともせず、一気にこちらに駆け寄ってきた。女性に負けるなとばかり、大勢のマスコミ関係者と思われる人達がロビーに雪崩れ込んできた。あっという間にロビーはマイクやカメラを持った人の群れで一杯となった。咄嗟のことに気圧されて逃げ遅れた私はハイエナ達の格好の餌食になってしまった。目の前にいる化粧の濃いちんちくりんなおばさんが私にマイクを突き付け金切り声で叫んだ。
「受賞のご感想は?」
その一言が合図だった。大小のマイクが一斉にこちらに向けられ、テレビカメラやスマホがこちらに向けられた。
しかし、予期していない状況に陥った私は即座に頭を切り替えることができなかった。これまでは社内の人間、若しくは関係者から個別に噂のことを聞かれることはあったが、マスコミが直接コンタクトしてきたことはなかった。それが、今、少なく見積もっても二十人ものマスコミ関係者と思しき人間が目の前にいる。このような状況で冷静にいられる一般人はそうそういないだろう。
それでも少しでもこの状況を改善すべく、思い浮かぶ単語を頭の中で繋げてみた。
“最終選考会の結果は午後六時に連絡されるはずだよな”
“目の前にいる彼らは報道陣なのか?”
“何で彼らがここにいるんだ?”
最終選考会が予定より早く終わり、結果が既にマスコミに伝わっているなどとは露ほども思っていなかった。どのくらいの時間が経ったのかもわからずに立ち尽くす私に痺れを切らしたのか、右側から別の声が飛んできた。
「受賞の自信はありましたか?」
それでも答えることができずに立ち尽くしていると、あちらこちらから声が飛んできてロビーは騒然となってしまった。声が被って何を言っているのかわからなかったが、“受賞”とか“素性”といった言葉が含まれていることがわかった。何を聞こうとしているのかはわからなかったが、ようやっと頭が少し落ち着いてきた。どうやら“某氏”の受賞が決まり、私にインタビューをしにきた報道陣と思われた。
私を取り囲んだマスコミ関係者の外側には迷惑そうな表情の社員や警備員が遠巻きにしてこちらを見ていた。彼らに助けを求めようとしても、私を取り囲んだマスコミの尖兵たちは決して逃がすまいとしてそれを許さなかった。どうしようもなく困り果てていたその時、横から元NBA田臥選手のように軽快なステップで記者の波を掻き分けて私の右隣に一人のやや小柄な男が現れた。罵声が飛び交う中、彼は私の耳元に小声、ではなくかなり大きな声で私にだけ聞こえるように叫んだ。
「“某氏”の受賞が先ほど決まりました。細かいことは後程説明いたしますので、ここは私に任せてもらえませんか?」
目の前の異様な光景に圧倒されていた私は、言葉の意味を十分に理解する余裕もなく、この状況から逃れたい一心で叫び返した。
「お願いします!」
彼は目で頷くと私の目の前にいた化粧の濃いちんちくりんなおばさんの顔の前で手を叩いた。おばさんが一瞬怯んで猫のように半歩後ずさって若干の空間ができた。彼はその空間に身体を滑り込ませると両手を大きく上に開いた。突然の出来事に虚をつかれたマスコミの尖兵が声をなくした瞬間、大声で叫んだ。
「皆さん!お静かに願います!!」
効果は絶大だった。砂糖に群がるアリ達がいっせいに言葉の発生を止め、ロビーに静寂が訪れた。この瞬間を逃したら二度とチャンスはないとばかりに今度は普通の音量でマスコミ関係者に向けて声を発した。
「これから“某氏”の記者会見を行います。ただ、ここは民間企業のオフィスであり、ここで会見を行うわけにもいきません。帝都ホテルに会見場を押さえていますので、お手数ですがそちらへの移動をお願いいたします。“某氏”もこれから会見場に向かい、午後八時から記者発表をさせていただきます」
と言うや否や、彼は私の腕を引っ張って走るようにして裏口へ向かった。裏口の手前には黒スーツ姿の屈強な男が数名いた。状況を把握できていない私は、如何にも筋力で相手を圧倒するぞ、というタイプの彼らに向かっていくことがとてつもなく恐怖に感じられた。思わず及び腰になって止まろうとした。しかし、彼はそんなことには構わずぐいぐいと、どこにこんな力があるのだ、という感じで引っ張っていった。屈強な男たちがほんの二メートル程に迫った時、彼らは洗練された戦闘部隊のように両脇に整列し、私達を通過させた。その直後、裏口を封鎖するかのように男達が立ちはだかった。後を追ってきたマスコミ関係者は、彼ら独特の執拗さを発揮することもできず、男達の雰囲気に圧倒されて誰も裏口を通過することができなかった。
裏口を出るとハイヤーと思われる黒い車が目の前に止まっていた。彼に押し込まれるようにして後部座席に乗り込むと隣に彼が乗ってきた。ドアが閉まって外界の音がシャットアウトされたが、しばらくはまだ頭の中がジンジンしていた。車が走り出し、しばらくしてから彼が話しかけてきた。
「先ほどはすみませんでした。ああでもしないとあの場を抜け出すことができないと思い、内野さんには申し訳なかったのですが強行させてもらいました」
そこまで言うと彼は背広の内ポケットから名刺入れを取り出した。中から一枚名刺を抜くとこちらに向き直り、意外と丁寧な挨拶を交わしてきた。
「河合出版の相澤と申します。“某氏”の作品を担当している者です」
私も彼の方に向きを変え、両手で差し出された名刺を受け取った。そして、自分の名刺を出すべく手を背広の内ポケットに入れようとして途中でやめた。職業柄、名刺を差し出されると両手で受け取る習慣が身に染み付いていた。しかし、今の状況下で馬鹿丁寧な対応をするのは変な感じがした。身も知らぬ相手に名刺を渡して状況が悪化したら溜まったものではない。
とりあえず受け取った名刺を見ることにした。そこにはしっかりした文体で“河合出版 編集者 相澤直樹”と書かれていた。出版社がどんなところかは知らないが、勝手に“出版社=軽い”というイメージを抱いていたせいか、そのしっかりした文体に軽い違和感を覚えた。
「内野さん、“流布”を書かれたのはあなたですか?」
相澤は真剣なまなざしで射るようにして聞いてきた。答えは決まっていたが、単純に答えて良いものか判断ができずに黙っていた。この相澤と名乗った男が何者なのか、どんな目的で連れ出したのかがわからない限り安易に話をしない方が良いと思えた。すると彼は質問を変えてきた。
「先日電話をかけてきて、私に芥木賞への応募を依頼したのはあなたですか?」
「なんのことだか質問の意味がわかりません」
「本当にあなたではないのですか?」
「今回の芥木賞候補になった作家と私が間違えられているようですが、私は小説を書いたことも無いし、ましてや芥木賞に応募するなんてことはあり得ないことです。そんな私が候補作家に間違えられるなんて、一体どういうことなのですか?」
逆に聞き返した。彼はしばらくこちらの顔色を伺うようにした後、さらに念を押してきた。
「あなたは“某氏”ではないのですね」
「何度も言わせないで下さい。それでなくても同僚や上司にいろいろ言われて困っているのです。早く本人が現れて、変な噂話に終止符を打って欲しいですよ」
相澤は目を閉じて下を向いたまましばらく考え込んだ。顔を上げた相澤の表情が若干柔らかくなったように感じた。改めて姿勢を正した相澤が軽く頭を下げてきた。
「今回は飛んだご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした。もしよろしければこれから今までの経緯(いきさつ)を説明させていただきますが、如何なものでしょう」
「是非ともお願いします。そもそも“某氏”って誰なのですか?」
「わかりました。ただ、どこでも話せるような内容ではないので、ご足労ですが、帝都ホテルまでお付き合い願えますか」
今までの経緯も何もないが、このままだと、またさっきのような目に合わないとも限らない。一通り説明してもらって事実を把握することが大事だと思われた。
窓の外に目をやると見知った景色があった。車は既に銀座に入っていた。帝都ホテルまではほんの十分もあれば着くだろう。少し気持ちが落ち着いてきたので、改めてシートに体を預け、軽く目をつぶった。するとついさっきまでの出来事を多少冷静に考え直す余裕が出てきた。騒ぎの発端となったロビーにいた群衆は、それぞれにカメラやマイクを持ち、口々に“受賞”とか“感想”という単語を発していた。相澤が現れた時に“某氏”の受賞が決まったと言っていたので、群衆は“某氏”のコメントを拾いたかったのだろう。しかし、群衆の誰もがとても急いでいるように感じたのは何故なのだろう。あの雰囲気は一秒でも早く答えを拾わなければいけないというものだった。
それと、なぜ今日になって急にマスコミが押し寄せてきたのかがわからなかった。これまでに流れた噂を辿ればI社がインタークオリティ社であることはすぐにわかる。流石に社内事情がわからないと私には辿り着かないかも知れない。しかし、マスコミの中にはうちの会社と関係する人間がいる可能性もあるし、社員から聞き出すことだってできる。それなのにこれまで噂について聞いてきたのは社員若しくはうちの会社に近しい人間だけだった。噂を流せるだけ流しておいてその実態には手をつけないなんていうことがあるのだろうか。それともそこに何か想像だにしない何かがあるのか。
車が速度を落として左に曲がり、徐行したまま帝都ホテルのロビー前に到着した。相澤に促されるようにして車を降りてついて行った先はかなり広い部屋だった。入ったことはないが、恐らく、これがスイートルームと呼ばれる部屋なのだろう。相澤は、革張りのシックなソファが配置されたリビングで待つように言って隣の部屋に入っていった。座り慣れない高級なソファは思ったより座り心地が良くなかった。数分後、相澤が隣の部屋から恰幅の良い五十過ぎと思しき人物を伴って戻って来た。
「内野さん、ご紹介します。編集長の大田原です」
「初めまして、編集長の大田原です」
恰幅の良い、ちょっと見、普通のサラリーマンに見えるその人物は、どこかに少し崩れた雰囲気を醸し出しつつ名刺を差し出してきた。今度は名刺を出そうと思ったが、相澤に渡していないので、とりあえず受け取るだけにしておいた。進められるままソファに腰をおろすと大田原が世間話を始めた。しばらく適当に話をあわせていたが、最初に痺れを切らせたのは相澤だった。
「編集長、内野さんにはまだ何も話していませんし、この後、午後八時から記者会見があります。まずは今までの経緯を内野さんにお伝えした方が良いのではないでしょうか」
「そうだったな、すまん、すまん。それじゃ今までの経緯を内野さんにお伝えしてくれ」
ようやっと本題に入ると思ったら緊張感が高まった。心を落ち着かせようとして、やわらかめのソファを座りなおした。相澤はどこから話すべきかを考えているようで少し間を置いてから話し始めた。
「“某氏”から今回応募した作品が届いたのは今から一月半程前のことでした。ある日、編集局に電話で問い合わせがあったのです」
【作品を作ったので読んでいただけないでしょうか】
「作品の売り込み自体はそんなに珍しいことではないです。ただ、昨今はインターネット経由で申し込んでくることが多く、電話で、しかも何の伝も無く売り込んでくることは大変珍しいです。たまたま私が電話を受けたのですが、最初は冷やかしだと思いましたよ。とはいえ、出版の世界ではどこに宝物が眠っているかなかなかわからないのです。もしかするとこの電話の主も磨けば光る宝石かもしれない。そう考えて、とりあえず作品を送ってもらうことにしました」
【わかりました。それでは私宛に送っていただけますか。私、編集部の相澤と申します】
【ありがとうございます。それでは明日にでも送付させていただきます。よろしくお願いいたします】
【後日、査読結果をお知らせしますので、お名前と連絡先を教えていただけますか】
【すみません、ちょっと事情がありまして、教えることができません。また、こちらから連絡させていただきます】
【え、名前もですか】
【すみません】
「それだけ言うと唐突に電話が切れました。正直、狐につままれた感じでした」
「でも、候補になっているから作品は届いたのですね」
「ええ、てっきりイタズラ電話だと思ったのですが、意外にも翌日に作品が届きました。“河合出版社、相澤様”と書かれたA3版の封筒に、四百字詰め原稿用紙に万年筆と思われるインクで書かれた作品が納められていました。最近はパソコンで執筆する作家が多いのですが、万年筆で、しかもかなり大胆な筆跡で書かれた作品はあまり見なくなったので違和感を覚えました」
「確かに最近はパソコンで執筆する作家が増えたよな。中にはタブレットやスマホで書いてくる作家もいるからな。俺みたいな昭和世代には隔世の感が凄まじいよ」
「そうですね。私もどちらかというとスマホ世代ですが、仕事の時は紙のノートに書き込みますよ。だけど、若手社員はスマホでいとも簡単にメモを取ったりしますからね」
「因みに“某氏”の年齢はわかっていません。もしかするとある程度齢を重ねた方なのかも知れません」
「それで、送られてきた作品はどうだったのですか」
「凄まじかったですよ。たまたま時間があったのですぐに読んだのですが、非の打ち所がない、素晴らしい作品でした。通常この手の持ち込み作品はほんの十枚も読めば大抵結果が出ます。作品の大半は、そこから先を読むまでも無い内容の薄い作品であることが多いのです。ところが送られてきた作品は十枚読んでも二十枚読んでも飽きることがありませんでした。それどころかどんどんと興味を惹かれ、先へ先へと読み進んでいきました。気がついたらほんの二時間程で一気に読みきっていましたよ」
その時のことを思い出したのか、相澤は宙の一点を見つめ満足げな表情を浮かべていた。その表情を見ていたら、相澤がコーヒーとその原稿用紙を持って窓際に設置された休憩用のソファに腰をおろして読んでいる姿が浮かんできた。
「読み終わってすぐに、“これはいける!”と思いましたね。気がついたら作品を持って編集長のデスクに向かっていました」
しかつめらしい顔をして原稿のチェックをしている大田原編集長の前に立ち、怒鳴るように伝え、おもむろに顔を上げた大田原の目を食い入るように覗き込む相澤の姿があった。
【編集長!久し振りの大型新人を見つけました!!】
【本当か?どうせまた鳴かず飛ばずじゃないのか?】
原稿のチェックを中断された大田原は少しいらついた表情を浮かべ、目の前で睨み付けるようにしている相澤を見返した。
【この作品は私が今までに読んだ中でも最上級クラスです。さっき斜め読みしただけですが、改めて読まなくともその良さが、素晴らしさがひしひしと伝わってきます。すぐにでも出版したい、いやするべきです。やらせてください、編集長!】
心理学では二人の人間の間隔である程度信頼度がわかるという。一メートル以内に近づかないのは見ず知らずの他人、五十センチメートル程度だと挨拶や世間話を交わす程度の仲、十五センチメートルともなるとそれは恋人の距離となるらしい。今、相澤と大田原は、恋人の距離といわれる十五センチメートルどころか、今にも額をぶつけそうな位の距離で互いの顔を見ていた。興奮している相澤はまだしも、冷静さを保っている大田原にとっては、さすがにその距離で相澤の顔を見ているのは苦痛だった。ほんの数秒でいすの背もたれに深く寄りかかり、相澤の顔から距離をおいた。
【お前がそこまで言うのも珍しいな。ただ、確かその作品は届いたばかりだったよな。本当に大丈夫なのか?とにかくもう一度、じっくり読んで、それから企画するかどうか決めたほうが良くないか?】
そうは言ったものの、相澤の、いつもとは違うテンションの高さが気になった。何も言い返さずにじっと睨みつけてくる相澤の様子を伺い、少し間を置いた後に聞き直した。
【本当に大丈夫なんだな?】
「編集長から作品出版のゴーサインが出て喜び勇んでデスクに戻ったのですが、その場で途方に暮れちゃいましたよ。いくら作品が素晴らしいといっても、作者のことが何ひとつわからないのですから。しかもこちらから連絡しようにも電話番号もメールアドレスも何もわからない。長年編集者をやってきましたが、こんなことは初めてでした」
「あの時のお前の顔、困りきっていたよな」
「編集長、茶化さないでください」
「それでどうしたのですか」
前日の電話の様子だとしばらくすればかかってくるとは思われたが、それがいつなのか、また、作者がどんな人間なのか、皆目見当がつかない。作品を送ってきたくらいだから出版する気はあると思われるが、そのことについても何ら情報がない。こちらであれこれ考えても埒があかない。しかたがないので原稿を鞄に入れて、その日が締め切りとなる三河の所に原稿をもらいに行くことにした。
「一週間、何もできませんでした。もう忸怩たる思いでした。仕方がないので、送られてきた原稿をパソコンに打ち込んで校正作業をしていましたよ。ただ、“大胆な筆跡”が曲者でした。私は色々な方の文字を見てきたので大抵の文字は読めますが、今回の原稿は文字の崩し方が激しくて、理解し難い文字が沢山ありました。お陰で校正作業を終えるのに一週間掛かってしまいました。そして、それを見計らったかのように電話がかかって来ました」
【先日“流布”という作品を送った者ですが、読んでいただけましたでしょうか】
相変わらず氏名も名乗らずいきなり聞いてきた。電話が鳴るとすぐに飛びついていた相澤が受けたからまだしも、全然関係ない者が電話に出たらどうするつもりだったのか?と思わせるような聞き方だった。
【私、担当の相澤と申します。先日来ずうっと連絡をいただけるのをお待ちしておりました。作品は大変素晴らしいです。是非とも弊社から出版させていただきたいと考えております】
相澤が勢い込んで言うと、相手はしばし黙した後、予想もしない言葉を返してきた。
【そうですか、そういう評価ですか。すると芥木賞に応募したら二次選考辺りまで行けますかね?】
【芥木賞ですか?あの賞はその年によって出品作の傾向が変わりますから一概には言えませんが、編集者としては二次選考どころか受賞してもおかしくないと思いますよ】
お世辞ではなく、最初に読んだ時の興奮を思い出しつつ相澤が伝えると、相手はまたもしばらく黙り込んでしまった。何か喋り出しそうな雰囲気を感じた相澤は相手が話すまで少し待ってみようと思い、自分の興奮を鎮めるようにしばらく黙っていた。相澤が痺れを切らし喋り出そうとした瞬間を狙うように相手が話し始めた。
【相澤さんと言いましたよね。こんなことはできますか?私はこの作品を芥木賞に出してみたいと考えています。しかし、訳あって自分の素性を明かすことができません。そんなわけのわからない者が直接応募しても選考さえしてもらえないかも知れません。しかしあなたのような大手出版社の編集者が代理で応募したら、素性を明かさなくても選考してもらえる可能性は高いと思います。なんとかこの作品を芥木賞の選考会にかけてもらえないでしょうか】
「何を言っているのか一瞬、相手の言葉を理解することができませんでした。芥木賞に素性を明かさず、ということは匿名で応募することなのか?その場合、何のために匿名とするのか?芥木賞が欲しいから応募するのであれば匿名にする意味はないのではないか?」
「よくわかりませんが、ペンネームを使うということではないのですか?」
「私もそう思って聞いてみましたが違っていました」
【あなたはこの作品で芥木賞を狙っているのですか?そうすると何も匿名で応募せずに、堂々と応募すれば良いのではないですか?本名を出したくないのであればペンネームを使えば良いだけで、何も私が代理で応募しなくてもいいように思えますが】
【こんなことを言うと怒られるかも知れませんが、賞はどうでも良いのです。相澤さんに認めていただけたことは大変嬉しいです。ただ、私の作品がどの程度のものなのか、より広く、作品の出来栄えを諮ってみたいのです。出版して世間の皆さんの反応を見るには時間がかかり過ぎます。芥木賞の選考であれば来月には答えが出ます。なんとかお願いできないでしょうか】
最後の哀願するような口調に相澤はますます混乱してきた。編集者になって十数年、いろいろな作者と付き合ってきた。大半の人間は賞を欲し、売れることを願っていた。今、電話の向こうにいる誰だかわからない“某氏”とでもいうべき人のように、純粋に自分の作品の出来栄えを気にするだけの作家には出会ったことがない。混乱した頭を鎮めるべく、質問を変えてみた。
【ええとですね、せめて苗字だけでも教えていただけないでしょうか。会話するにも不便ですし】
しかし相手は黙したまま、今度はいつまで経っても喋り出しそうな雰囲気はなかった。しかたなく、なるべく相手の機嫌を損ねぬ様、言い方に気を使いながら伝えた。
【私が代理で応募する、しかもあなたの素性を明かさずに、そんなことができるのかどうかは私にもわかりません。とはいえ、あなたの書かれた作品はとても完成度の高いものです。是非とも広く世間に知らしめ、より多くの読者に読んでもらうべきだと思います。そういった作品ですから、芥木賞関係者も受け入れてくれる可能性は高いでしょう。とにかく一度関係者に連絡を取ってお願いしてみます】
いつの間にか自分の仕事を忘れ、如何にしてこの作品を芥木賞の選考にかけるかを考えていた。相手はその心意気に感謝の言葉を返し、相澤が止めるのも聞かずに電話を静かに切った。
「それからどうしたのですか?まあ、こんな状況になっていますから選考対象にはなったのでしょうが」
「ええ、結論から言うと私が代理人となって匿名で受理していただけました」
「“某氏”というペンネームは相澤さんが考えたのですか?」
「命名したのは大田原編集長です」
「命名だなんて大袈裟なものじゃありませんよ。相澤から話を聞いた時に“某何がし”とか出て来たので、それじゃ“某氏”で良いのでは、といった感じです」
相澤は早速、芥木賞選考事務局に連絡を入れた。応募の締め切りまで時間がないこともあり、事務局長に直接会って説明することにした。
【山本さん!見つかりましたよ、すごい作品が!芥木賞は毎年優秀な作品が集まりますが、これほどの作品は本当に久し振りです。もしかしたら昭和以降の全作品に比べても引けを取らないのではないかと思われるほどですよ!】
説明する際、作家は訳あってペンネームで応募すること、応募の手続き等は代理人として相澤が行うことを伝えた。ただし、“某氏”の素性がまるっきりわからないことは伏せたまま説明した。事務局長は一通り話を聞いた後、持ち帰って判断することになった。好感触を得て気分良く社に帰った相澤に事務局長から電話があった。事務局で検討した結果、代理人が河合出版社の編集者ということもあり、特に問題ないとの内容だった。
「こうやって無事作品が受領されて選考が始まりました。その後、内野さんもご存知かと思いますが、“某氏”の“流布”は非常に評価が高く、一次選考の時点でほぼこの一作品に絞られたのです」
ここまで言うと相澤は考えをまとめようとしているのか宙空に視線をやり、ポケットから煙草を一本取り出して口に咥えようとした。大田原と私の視線に気づいたのか、苦笑しながら煙草を箱に戻した。
「すみません、考え込むと煙草を吸う癖が身に染み付いてしまっているものですから」
「喫煙者にとっては厳しい時代になりましたよね」
窓の方に視線をやると都心の夜景が広がり、昂ぶる心を落ち着けるのにちょうど良い雰囲気だった。煙草の煙を燻らせることはできなかったが考えがまとまったらしい。相澤が再び話し始めた。
「一次選考の後、事務局から“某氏”に関する情報の提供を要求されました。しかし、件の人物はその後一度も連絡をしてこなかったので答えようがありませんでした。しかたなく、“最終選考の結果が出るまで氏名等を伏せておくことを本人が強く希望している”と回答しました。電話口の担当者は渋々納得した感じでしたが、まあ、普通に考えれば怪しいですよね。仕方がないので事務局長にも直接連絡してお願いしました。とにかく最終選考まで、本人の素性が一切わからないということを隠しておくつもりでした」
「ところが、一次選考の後から大騒ぎになった」
「ええ、そうなのです。私は“流布”が本当に素晴らしい作品だと思っています。だから、一次選考で高評価された時もあまり驚かなかった。いえ、当然とさえ思っていました。ただ、“某氏”の素性に関してあんなに騒がれるとは予想外も甚だしいことでした」
「確かにあの騒ぎは凄まじかったな。一次選考の結果を受けて受賞することはほぼ間違いなかったのだから、普通なら授賞式まで待つだろう。それを一部のテレビや雑誌が大騒ぎするから静観していたところまで騒ぎに便乗しやがって」
「そうですよね。まるで誰かが煽っているようにも感じました」
一次選考が終わってから“某氏”に関する噂話があちこちで交わされるようになった。最初は根も葉もないとんでもない情報と思っていたが、相澤自身、ことの真偽が一切わからないため噂をどこまで信じて良いのか判断がつかなかった。噂はどんどんと拡散され、しばらくするとその内容が特定の人物像を示すものに変わってきた。更に、面白がったマスコミが格好の材料を逃してたまるかとばかり、各社こぞっていろんな“ひれ”を付けて発信しまくった。ここまで騒ぎが大きくなると、いつまでも静観を決めているわけにもいかなくなった。もしも噂が本当で“某氏”の素性が明らかになった場合、他社が“某氏”を取り込まないとも限らない。それだけは絶対に阻止しなければいけない。相澤も噂の元を探り始めた。
「最初、各社が発信している情報を整理しました。すると、I社と思われる会社がいくつか浮上してきて、その中にインタークオリティ社が含まれていました。実は私、御社の池崎常務と数年前に仕事でご一緒したことがあるのです。その伝手を頼って最初にインタークオリティ社のことを調べてみました。池崎常務に連絡をして噂の話をしたところ、その場で森本さんの名前を教えていただけたのです」
「それでは森本に“流布”のことを話したのですか?」
「いえ、森本さんに直接会う機会を伺っていたのですが数日後に噂が変わってしまいました。仕方がないので、再度、池崎常務に連絡をしたところ、社内も噂話がひっきりなしにされて困っていると苦笑されていました。まあ、それでもその場で内野さんの名前を教えてくれました。本当はもっと早くにお会いしたかったのですが、出張等で身動きが取れず、結局今日になってしまいました」
「相澤が出張で内野さんにコンタクトできないことがわかっていたから言わなかったことがある」
「えっ?」
「実はな、内野さんのことを詮索するなという指示が上層から下されていたんだ」
「えぇ、なんですか、それ」
「詳細は俺もわからん。これは後で知ったことだが、マスコミ各社で同じような指示がなされていたらしい。誰がどんな目的でそんなことをしたのかは一切明らかになっていない」
「えぇ、なんだか怖いですね」
「ああ、無茶苦茶大きな力が働いていると考えると口にするのもちょっと憚られるよな」
「それって、この噂が意図的に流されたということなのですか?」
「いえ、その辺のことは一切情報がないので何とも言えません。ただ、内野さんが“某氏”であることを世間に知らしめたことは事実です」
「え、それではついさっきまで相澤さん達も私が“某氏”だと思っていたということですか」
「そうです。元々、最終選考会の結果は明日、公表される予定でした。我々としてはそれまでに内野さんに接触をして、できれば明日の授賞式までこの部屋で過ごしていただきたいと考えていました」
「それでこんな広い部屋を用意していたのですか」
「ええ、明日の授賞式までに色々なことを確認しておかないといけないですからね」
会って話を聞こうと思っていた矢先、最終選考会の日程を一日前倒しにする旨の連絡が事務局から届いた。それが一昨日のことだった。最終選考会の結果は明日公表されることになっていたが、選考委員長の身内に不幸があり、一昨日、急遽、選考会の日程が今日に変更されてしまった。今日も選考結果が伝えられる前に会おうとしたが、午後三時までに入稿しなければいけない作品があり、その対応にぎりぎりまでかかってしまって会えなかった。
「あれ、編集長、今日、内野さんに会うことを伝えた時、止めませんでしたよね。さっきの話だと上の方から止められていたのですよね」
「止められたのは受賞が決まるまでなんだ。お前が内野さんに会うと言って来た時は既に受賞が決まっていたから敢えて言わなかった」
「そうだったのですか。しかし、変な話だなぁ」
選考結果は午後六時に連絡が来る予定だったが、予想以上に早く最終選考会が終わった。今日の午後に行われた選考会は、予想通り、満場一致で”流布”が今年の芥木賞受賞作品となったため、予想より時間が掛からなかったらしい。午後四時半頃に事務局から受賞した旨の連絡が来たので慌ててオフィスに駆けつけた。
「ある程度マスコミが集まっていると思っていましたが、まさかあんなにいるとは思いませんでした」
「私も発表が午後六時と聞いていたのでロビーで取り囲まれた時は何のことかわからなくて、半分パニックになっちゃいましたよ」
「そりゃそうですよね」
「でも、あそこで相澤さんが割って入ってくれたので本当に助かりました。ありがとうございました」
「いえいえ、本来なら事前にお会いして対策を講じておけばあんなことにはならなかったでしょうから、本当に申し訳なく思っています」
「まあ、事前に会おうとしても俺が止めたけどな」
「また、そこに話が行きますか。でもその話、詳細は何もわからないのですよね」
「ああ」
「それじゃとりあえず横に置いておきましょうよ。この後、記者会見もありますし」
「そうだな」
相澤は編集者という職業柄か、細かいことに気が回るように見えた。一方、大田原はどっしりと構えているように見えるが時折細かいことを突っ込んでくる。もしかすると彼もまた編集者として現場を飛び交っていたのかも知れない。二人の会話を聞きながら自分がここにいる理由とは関係のないことを考えていた。妄想に近い働きをしている脳を現実に引き戻したのは相澤の一言だった。
「私はてっきり内野さんが“某氏”だと思っていました。というより、そうであってくれ、と願っていました。あの素晴らしい作品を一日でも早く世に出したいです」
「申し訳ありません。と言うほかないですね」
「いえいえ、内野さんが謝ることではないです。しかし、“某氏”は一体どこの誰なんだろう」
相澤は再び煙草の箱をポケットから取り出した。今度は口に咥える前に気づいたらしい。三人揃って苦笑いを浮かべた。
「内野さん、本当に“某氏”ではないのですか?」
「おふたりには申し訳ありませんが、小説なんて書こうと思ったこともないです。ましてや芥木賞だなんて、考えたこともないです」
二人は明らかに落胆した表情を浮かべ、しばらく黙していた。私に責任があるわけでもないのに、なんだかとても悪いことをしてしまったような気分になった。なんとか目の前の二人が元気になるようなことを言ってあげたいと思った。しかし、一介のサラリーマンに何ができるわけでもなく、しかたなく彼らに合わせて黙っていた。
ポケットの中でスマホが振動するのがわかった。取り出して見ると川田からの電話だった。嫌な予感がしてしばらく画面を見たまま電話に出なかった。
「内野さん、電話出ても構いませんよ」
「ええ、ただ、同僚からの電話なので出ると面倒臭いことにならないかなと思いまして」
「さっきのロビーでの模様が報道されたのかも知れませんね」
「え、そうしたら私が“某氏”であると誤解されちゃいますよ」
「仕方ないですね。今はこちらも身動きできない状況ですし」
少しして着信音が途絶えた。
「一刻も早く間違いを訂正していただけないでしょうか」
「そう言われましても」
その時、再度、着信音が鳴った。今度は音で美春からの電話であることがわかった。一瞬躊躇ったが、妻からの電話であることを告げて電話に出ることにした。
「もしもし」
「清二さん、どうなっているの?今さっき、会社のロビーで報道陣に囲まれているあなたがテレビに映っていたわよ」
「あ、ああ、あれね。なんかね、報道陣が誤解して取材に来たみたいなんだ。今、出版社の方と相談しているから、決着が着いたら折り返し連絡するよ」
「え、でも、テレビでは清二さんが“某氏”だって言ってたわよ」
「う、うん、それも勘違いみたいだから対応方法を相談中なんだ。とにかく少し待っていてくれないか。それじゃ、また後で」
美春はまだ何か言いたそうだったが少し強引に電話を切った。
「まずいですよ。この後の記者会見できちんと訂正してくださいね」
目の前の二人は無言で虚な視線を返してきた。部屋の中に再び静寂が戻ってきた。確かに静かな部屋ではあったが、そこに澱む空気はとてつもなく騒めき、えもいわれぬ圧迫感があった。その静寂を破ったのは相澤だった。急に何かを思い出したように声を挙げた。
「編集長!あと二時間半で“某氏”の記者会見が始まります。どうしましょう?」
大田原は腕を組み、天井を見上げるようにしながら唸った。しかし、後に言葉は続かなかった。天井を見上げた姿勢のまま目を瞑り、微動だにしなくなってしまった。相澤は目をぎょろつかせながら、しきりに何か策はないかと思案しているらしかった。つい今しがたの沈黙とはあきらかに質の違う沈黙が部屋の中に充満してきた。息苦しくなってきた。何か言わないと息が止まってしまいそうだった。その場の空気などお構いなしに、独り言のようにつぶやいた。
「しかし、なんで私だったんですかね?」
静寂した室内では独り言も簡単に相手に届く。ぎょろつかせていた目をこちらに向けた相澤が言葉を継いだ。
「そうなんですよ。私もてっきり内野さんだと思っていたのは、あまりにも噂が詳細で、調べていくときっちりと内野さんにつながったからなんです。まあ、私が単独で辿り着いたのはインタークオリティ社までですが、池崎常務が自信を持って教えてくれましたからね。噂がもっと大雑把なものであれば、他の策を考えていましたよ」
噂が私を示したせいでこんな状態になってしまったと思ったら、何だか悪いことをしてしまったような気になり、ついうっかりと小声で謝ってしまった。しかし、よくよく考えれば私は何も悪くない。ところが、相澤は何を勘違いしたのか、突拍子もないことを言ってきた。
「すみません」
「そうだ、内野さん。噂どおり、あなたが“某氏”になってください!」
「へっ?」
「このままでは“某氏”がいないまま記者会見を行わないといけない。しかし、そんなことをしたらとんでもない大騒ぎになってしまう。今後、彼が名乗り出てくるかどうかはわかりませんが、電話での話が本当であれば名乗り出てこない可能性の方が高い。今日の記者会見に内野さんが出席したとしても、そのことを疑う人は誰もいないのです。そう、本人を除けば」
「ちょ、ちょっと待ってください。相澤さん、あなたは何を言っているのかわかっているんですか?私は出版業界のことは全然わかりませんが、芥木賞といえば日本を代表する作品/作家を選ぶものですよね。そんな大事な賞を受ける場で嘘をつくなんて、私には絶対できませんよ!」
「内野さん、あなたが仰るように芥木賞は大変重要なものです。そんな賞を受賞した作品が誰によって書かれたかもわからない、そんなことが知られたら、それこそ賞の価値が地に落ちてしまいます。しかも、受賞が確定した今、“某氏”というペンネームは内野さん、あなたであることが日本中の人に知れ渡ります。となると、やはり記者会見には“流布”を書いたあなたが出席すべきです」
興奮した相澤は顔を上気させながら迫ってきた。
「幸いにも“某氏”は今までひとつも作品を公開していませんから、質問は今回の作品および応募の経緯に集中すると思われます。作品はまだ誰も読んでいませんから概要だけ把握しておけば大丈夫でしょう。あと、経緯については私の方でフォローさせてもらいますから、こちらもなんとかなるでしょう」
「本人が名乗り出てきたらどうするんだ?」
横から大田原が口を挟んだ。
「今後、この作品が出版されるとかなりの部数が購入されるはずだ。当然作者には多額の印税が入ることになる。そうなるといくら偏屈な人間であってもその利潤をみすみす他人に渡すとは思えないぞ」
記者会見はなんとかごまかせても、さすがにその先まではごまかせないだろう。ましてや、そんなことをしてばれたら少なくとも何らかの法律違反になることは明白である。相澤もさすがにそれ以上変な画策をすることはまずいと思ったのか、しかめっ面を窓外に向け、黙り込んでしまった。
第四章 権利放棄
嫌な雰囲気の沈黙を破ったのは相澤のスマホだった。沈黙を引き裂くように着メロが鳴りつづけた。電話に出ようという気配がない相澤を大田原が促し、十秒ほどしてからようやっと相澤が電話口に出た。
「はい、相澤です。えっ、変な電話?ええ、あ、それならこのスマホにかけるよう伝えてもらえませんか。えぇ、一緒です。はい、すみませんがよろしくお願いします」
電話を切った相澤の表情は、今し方までの世を儚むようなものとは異なっていた。ただ、その表情は電話の内容を表しているのか、なんとも中途半端な感じを想起させるものだった。
「たった今、“某氏”と思われる人から電話があったそうです。氏名も名乗らず、急いで私に連絡を取りたいと言っていたそうですから、多分彼でしょう。このスマホにかけるよう伝えてもらいましたのでもうじきかかってくるでしょう」
「今頃になってどういうことなんだ?」
大田原が探るような目で相澤に聞いた。
「わかりません。彼の望みは“自分の作品がどう評価されるのかを知りたい”ということでした。無事受賞が決まったことで欲が出てきたのでしょうか」
「それは十分に考えられるな。マスコミが報じた前評判も圧倒的な優位を伝えていたし、評価という点では十分すぎるほどされたから気持ちが変わったのかも知れん」
大田原が答えると同時に相澤のスマホが再び鳴った。今度は素早く電話口に出た相澤がろくすっぽ挨拶もせず、性急に怒鳴るようにして会話を始めた。
「もしもし、相澤です。ええ、お待ちしておりました」
しばらく会話を交わすうちに落ち着いてきたのか声のトーンが半オクターブ下がったような気がした。冷静さを取り戻した相澤は会話が終わると静かに電話を切った。会話の途中で聞こえて来た内容でおおよその察しはついていたが、とにかく相澤の説明を聞くことにした。相澤は私と大田原を交互に見ながら説明を始めた。
「聞こえていたでしょうからある程度は伝わっていると思いますが、念のため説明します。結論から言うと、彼はどうしても表舞台に出るわけにはいかないそうです。理由はとうとう最後まで言いませんでしたが、氏名を明かすことも、連絡先を教えることもできないそうです」
「そこは変わらないんだな」
「ええ。ただ、ここから先が困ったことになりました」
「賞を辞退するとか言っていたな」
「ええ、そうなんです。まず、受賞したことは先程流れたニュース速報で知っていました。知った上で賞を辞退したいと言ってきました。本当はもう少し前に応募を取り消そうと考えていたそうです」
「応募を取り消す?どいうことだ?」
大田原が不思議そうに聞いた。まあ、これまでの経緯を思い返すと応募を希望したのは本人であり、今更取り消すと言われれば不思議に思わざるを得ない。
「理由は二つあるそうです。ひとつは一次選考でかなり高い評価を得たことに満足した。もうひとつは、マスコミに素性を晒したくない。マスコミがここまで騒ぐとは思っていなかったので、これ以上騒ぎが大きくならないうちに取り消そうと考えたそうです。まあ、下馬評では受賞確実でしたからね、その辺りを見越して取り消したかったのかもしれません」
「しかし、なんだって辞退なんだ?芥木賞を受賞したんだぞ。これで一流作家の仲間入りじゃないか。芥木賞作品ともなれば数十万部は軽く売れる。上手くいけば五十万部も夢じゃない。そうしたら印税だってばかにならない額だ。それだけじゃない、今後の作品展開もかなり有利になる。それを辞退するなんて、常識では考えられない」
今度は大田原が興奮気味に話した。この男は感情の揺れが激しそうだ。仕事をする時も勢いに任せて進めるタイプかも知れない。システムを構築するために論理的思考が必要なI T業界に身を置く者としては、こういう性分の上司は勘弁願いたい。出版業界ではどうなのだろう。
「そうなんです。その辺りについては私も疑問に思えたので確認しました。ただ、そういったメリットを理解した上でそれらの権利を放棄したい、と言ってきました」
「なんてことだ、せっかくの素晴らしい作品なのに。この作品は発表されずに終わるのか」
今度はいとも簡単に項垂れてしまった。感情起伏のスイッチがかなり弱いのかも知れない。弱いといえば、テレビを見ている時に突然受信不可になったことがあった。その時は猫がACアダプターの延長コードについているスイッチを踏んだせいだった。この男のスイッチもそれくらいの強度なのかも知れない。
「その点についても話してみました。この作品は既に高い評価をされており、芥木賞を受賞した以上、文芸誌に掲載されます。そのことは応募した際に決まっていたことです。この点については彼も了承していましたが、辞退できないのであればゴーストライターのような身代わりを立ててもらえないか、とお願いされてしまいました」
「ゴーストライター?権利を放棄するんじゃないのか?」
「彼が言うには、今のようにマスコミが騒いでいると、いつ彼のことを嗅ぎ付けないとも限らず大変心配なんだそうです。そこで、”流布”の作者、すなわち“某氏”なるペンネームを持つ人物をマスコミの前に登場させてくれないか、と言ってきました。身代わりさえ立ててくれれば“流布”の著作権、芥木賞の権利、すべてをその人物に与えてもらって構わないそうです。ただし、彼のことを一切詮索しないことが絶対の条件だそうです」
大田原と私は顔を見合わせたが、お互い、なんと言って良いのかわからず再び相澤の方に顔を向けなおした。
「とりあえず、検討するから一時間後にもう一度かけてくれるようお願いしました。時間がありませんので、すぐに対策を考えないといけません。というわけで、内野さん、彼の身代わりになってくれませんか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。少し冷静になりましょう。何度も言うように私は小説なんてこれっぽっちもわからないし、彼から“流布”に関する権利をもらう理由もありませんよ。そもそも、本当に彼はすべての権利を放棄すると言ったのですか?」
冷静になろうと努めたが、とんでもない展開に頭がなかなかついていかなかった。大田原もやはりこの展開についていけてないようで、腕組みをしたまま下を向き、ぶつぶつと何事かをつぶやいていた。相澤はそんなことはお構いなしといった感じで続けた。
「内野さん、彼は本当にすべての権利を放棄すると言ったのです。ですから、あなたがマスコミの前で“流布”の作者であると言ってしまえば済むのです。本の出版交渉もあなたの意思で行えるし、印税もあなたが受取人になれば良いのです。お願いします!やります、と言ってください!!」
ソファに座ったまま、頭をひざに付けるようにしてお願いされたが、さすがに受け入れることはできなかった。
しばらく黙っていると、大田原が顔をあげてすがすがしい笑顔を見せた。やはり感情がコロコロと変わる男のようだ。
「内野さん、やりましょう。今回のようなケースは長くこの業界で過ごしてきた私でも経験したことがありません。かなりレアなケースであり、実際どう判断して良いのか悩むところです。内野さんが及び腰になるのも十分に理解できます。ただ、懸念事項をきちんとクリアできれば内野さんが“某氏”になっても大丈夫なのではないでしょうか」
「そんな簡単にクリアできるとは思えませんけど」
「どうすればクリアできるのか、少し考えてみましたので聞いてもらえませんか」
「わかりました」
「ありがとうございます。仮に内野さんが“流布”の作者として今後の対応を行うとして、想定される問題は何か?多分、この点がポイントだと思うんですよ」
伊達に大手出版社で編集長をやっているのではない、と思わせる彼の話し振りは、今し方まで感じていた彼の性格とは異なるものだった。やはりそう簡単に人の性格はわからないのだろう。
「内野さんが“流布”の作者と仮定した場合、直近で懸念されるのは今日の記者会見と明日の授賞式です。そして暫くはマスコミ対応が必要となります」
「マスコミ対応というと、さっきみたいに取り囲まれるとかですか?」
「それもあるかも知れませんが、ここで想定されるのはインタビューの依頼とか執筆の依頼とかです」
「インタビューに執筆依頼ですか」
「ええ、どちらも複数のメディアから依頼があるはずです」
「そんなの対応のしようがないですよ」
「まあまあ、対応方法は後でゆっくりと考えましょう」
相澤とは違って冷静に、かつ、慎重に考えながらの発言だった。きっと編集者には相澤のように突っ走っていくタイプが多くいて、彼らの手綱を引いていくのに必要なスキルなのだろう。やはり私には人を見る目がないようである。おかげでこちらも少し冷静さを取り戻すことができた。
「マスコミ対応の他にも懸念されることは沢山あります。明日の授賞式を受けて事務局が“流布”を掲載する作業に取り掛かります。それと並行して副賞の受け取りもしないといけない。また、これは我々河合出版に委ねていただきたいのですが、“流布”の出版を早急に行わなければいけません」
「色々とあるのですね」
「今お伝えしたのはごく一部と考えてください。芥木賞受賞作家ともなれば日本国内だけでなく世界中から注目されますよ」
「世界、ですか、、、想像もできないです」
「まあ、普通はそうですよね。でも、過去の受賞作の大半が複数の言語に翻訳されて出版されています。“流布”が海外で認められたら、外国の出版社から執筆依頼が来るかも知れません」
大田原の言葉は理解できた。ただ、外国の出版社から執筆依頼が来る、そのシーンをイメージすることはできなかった。
「これら懸念事項で生じる権利とか責任を行使したり、行動を起こすことで生じ得る問題をクリアできれば良いのではないでしょうか」
「具体的に言ってもらえませんか」
「わかりました。権利関係ですが内野さんが“著作者人格権”と“著作権(財産権)”を保有することになります。その結果、“芥木賞”を受賞することで得られる副賞が内野さんに与えられます。また、“流布”を出版すれば印税が内野さんに支払われます。対談やテレビなどに出演すればその対価が支払われます」
「一概にいくらとはいえませんが、ここまで前評判が高いとかなりの額が内野さんに支払われることになります」
「そんなお金、貰えないですよ」
「まあ、お金のことは横に置いておきましょう。それよりも、これらの権利を行使して生じる問題とはなんでしょう?」
「権利を保持しているのが本当は別の人間であるという点でしょうか」
「そうです」
「でも、彼は権利を放棄して内野さんに渡すと言っています。大丈夫じゃないですか」
「それはあくまでも口頭によるものだろ?口約束も契約と見做されるとはいうものの、後から揉めた場合、どんな影響が生じるかわかったものじゃない」
「それじゃぁ彼と権利譲渡の契約を交わせば良いのではないですか?」
「相澤、彼の名前がわかるか?住所はどうだ?」
「いえ、何もわかりません」
「そんな彼が素性を明かして契約を交わすと思うか?」
「それは・・・」
「恐らく彼は契約締結を渋るだろう。そうなるといつまで経っても権利を主張される懸念が残る」
「それじゃ内野さんが“某氏”になることができないじゃないですか」
相澤が大田原に食って掛かるように迫ったが大田原は余裕でそれを退けた。うっすらと笑みを浮かべて二人の顔を交互に眺めてから徐に言葉を続けた。
「それがそうでもないんだな。さっきは権利を主張される懸念が残ると言ったが、万が一、権利を主張されても大丈夫なんだ」
「えっ、どういうことですか?」
「権利譲渡の契約を締結しなくても内野さんが“某氏”を名乗ることができるんだよ」
「すみません、話がよく見えないです。もう少し噛み砕いて話してもらえませんか」
「おっと、これは失敬。先が見えたものですから少し興奮してしまいました」
冷静に見えても心の内は穏やかならざるものがあったのだろう。大田原はフーッと息を吐いて座り直してから話を続けた。
「この話のポイントは“誰が作者か?”という点です。仮に内野さんが“某氏”は私ですと名乗り出たとします。その場合、異論を挟む人間はいないでしょう。まあ、記者会見等で素性を隠してきたことの説明は必要でしょうが、そのことをきちんと対応すれば何ら問題はないでしょう」
「私にはきちんと対応できる気がしませんけどね」
「まあ、その点は後ほどにしましょう。さて、内野さんが無事に“某氏”であることが世間的に認められたとします。その後、先程電話してきた彼が後になって自分が作者であることを主張し、それが認められると大変困ったことになります。先ほどもお伝えしたように彼が権利を譲渡したのはあくまで口約束ですからね。では、彼が後日主張したとして、そのことが認められるのでしょうか?仮に主張するとしたら何を以って作者であることを証明するのでしょうか?内野さん、何だと思います?」
「うーん、証明ですか。門外漢なのでちょっとわかりかねます」
「そうですね、本の著作権を証明することは大変難しいことです。ましてや芥木賞受賞作ともなれば影響が多岐に渡り、その困難さはより厳しいものになります。そんな中で彼が著作権を認めさせようと考えたらもう原稿以外ないのではないでしょうか。先日送られてきた原稿は最近にしてはめずらしく手書きのものでした。それもかなり特徴のある文字でした。ただ、送られてきた原稿はコピーでした。ということは、彼の手元にはまだ書き下ろした原稿があるはずです。それを公表して自分が作者だと主張するというのは十分考えられます」
「そうなると私は罪になってしまうのではないですか?となると、やはり成り代わることはできませんね」
「まあ、慌てないで。仮に彼が自分の原稿を公表して主張したとしても、それが認められる可能性はほとんどないでしょう」
「というと?」
「彼の原稿は手書きであると先程言いましたよね。ですからそのコピーを直接事務局に送っていたら、彼の筆跡が残ってしまっていた。しかし、彼の原稿を受け取った相澤は、作品の出来栄えに感激し、誤植の無いよう丁寧にチェックしました。その時、彼は確認のため、あと、その後のことも考えていたのでしょう、パソコンを使って自分で原稿を打ち直したのです。当然事務局に提出したのはパソコンから印刷したものです。ですから、今のところ“流布”を書いた作者の筆跡は相澤が持っている原稿のコピーにしか残っていないのです。このコピーが世の中に出て行かない限り、オリジナルの原稿を証拠にしようとしても信憑性に欠けるわけです」
三人はしばし互いの顔を見たまま黙していた。沈黙を静かに破ったのは大田原だった。
「まあ、そもそも彼が表に出てくるとはとても思えないですけどね」
先程までの興奮した口調とは違い落ち着いた声で相澤が続けた。
「内野さん、あなたが心配なさる気持ちはわかります。しかし、彼は電話口ではっきりと“流布”という作品の権利を放棄すると言いましたよ。万が一、彼の立場や環境が変わり、自分が本当の作者だと主張したとしても私が証言しますよ。私は利害だけでこんなことを言っているのではないです。この作品を初めて読んだ時、本当に感激しました。長いこと編集者をやってきましたが、ここまで感動できる作品には出会ったことがないくらい素晴らしいものです。こんなに素晴らしい作品がこのまま陽の目を見ずに消えていくのはとてもじゃないがやりきれないのです」
「他の方にお願いしていただくことはできないのですか」
「時間があれば他の人にお願いすることはできるかも知れません。ただ、噂があそこまで報道された後に実は他の人でしたと説明して納得してもらえるかどうか。それと、あと三十分ほどで受賞会見が始まってしまいます。先程マスコミの前で公言しましたから、仮にここで会見ができず、しかも、あなた以外の人が作者として登場するとなると、それこそ大混乱になってしまいます。下手をすると作品自体が認められず、出版さえできなくなってしまうかもしれません。私はそれだけはなんとしても避けたいのです。お願いします。素晴らしい作品を助けると思って“某氏”になってください」
深々と頭を下げる相澤を見ながら私は困り果ててしまった。彼の静かな熱意に押されて反論することができなかった。しかし、このまま権利を貰い受け、その恩恵を得た後に本人が名乗り出てくるシーンが脳裏を掠めた。大田原はそのことを証明できないと言い、相澤は電話口ではっきりと権利を放棄する旨を聞いたと言う。確かに状況的には問題ないように思われるが、元来気の弱い私には最後の階段を昇り切る踏ん切りがどうしてもつかなかった。その時、相澤のスマホが緊張した空気を突き破るようにして鳴った。相澤が電話に出て話し始めた。どうやら件の“某氏”が再度連絡してきたらしい。しばらく話した後、送話口を押さえるようにして相澤がこちらを見た。
「内野さん、本人があなたと話したいと言っています。出てもらえませんか」
心の準備をする間もなく、電話に出た。電話の向こう側に微かではあるが人の雰囲気を感じた。
「もしもし、内野と申します」
恐る恐る声を出したところ、落ち着いた、やや年齢がいっていると思われる声が返ってきた。
「初めまして、訳あって名乗ることはできませんが“流布”を書いた者です。相澤さんからお話を伺いましたが、マスコミに取り沙汰されていたのは内野さんだったそうで、とんでもないご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。本来ならお会いしてお詫びすべきなのでしょうが、誠に申し訳ないのですが直接お会いすることがままならない状況にあります。また、理由をお話することはできませんが、“流布”を書いたのが私であることも知られるわけにはまいりません。先程ニュース速報で“流布”が今年の芥木賞を受賞したことを知りました。私にとっては十分すぎる評価です。正直なところ、一次選考をクリアしてくれれば良いと思っていたものですから。そんなわけで、相澤さんには賞を辞退したい旨をお話させていただきましたが、相澤さんはどうしても出版なさりたいと仰っている。私が表に出られないのなら内野さん、あなたに成り代わってもらってはどうかと仰ってます。私は“流布”或いは“某氏”と私の関係が、今後、一切外部に漏れないのであればあなたの作品として出版していただいて構わないと思っています」
電話の相手は一方的に自分の意思を伝えてきた。決して強い口調で話しているのではなかったが、先ほどから続く突飛もない話に戸惑っていたのか、言葉を返すことができずに曖昧な応答をすることが精一杯だった。子供の頃からそうだった。緊張すると頭の回転が鈍くなるのか、自分の中で話を整理することが苦手だった。考えがまとまらないうちに言葉にすると、大抵の場合、ろくなことにならなかった。そういった経験を繰り返してきたことで、この時も言葉を返すことができなかったのかも知れない。すると、こちらの精神状態に気がついたのか、電話の相手は話を続けた。
「もちろん、著作権もあなたのものとしていただいて結構です。手元にある原稿もあなた宛に送付しましょう。とにかく私にとっては“流布”との関係を一切無くしていただけることが一番なのです。あと、出版していただけると多くの人に読んでもらえるわけで、そんなことはできないと考えておりましたので、もしそうなるようでしたらそれこそ至上の喜びになります」
彼は本当に嬉しそうに最後の言葉を発していた。そんなに嬉しいのなら名乗りをあげれば良いではないかと思ったが、なぜか、言葉にはならなかった。
「今後のことは私がお願いすることでもありませんのでそろそろ切らせていただきますが、どうされるかは内野さん、あなたが決めていただければと思います。今後、二度とお話する機会もないと思います。今回の騒動では本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
そう言うと電話は静かに切られた。結局、相手に一言も伝えることなく会話を終えてしまった。なぜ言葉を発っしなかったのか、この時は気づかなかったし、疑問にも感じなかった。何故か相手の言葉が心の奥底に静かに入り込むことが心地良かった。電話を切ると相澤と大田原がこちらを凝視していることに気づいた。
「どうでした?彼は本当に権利を放棄すると言っていませんでしたか?」
「権利を私にあげても良い、出版するかどうかは好きにしてくれ、とのことでした」
二人のどちらを見るともなしに伝えた。
「出版されて多くの人に読まれたらとても嬉しい、とも言っていました」
この言葉を発していた時の彼の表情が浮かんでくるようだった。この言葉を聞いた時、利害とか、罪の意識とか、それらのこととは関係なしに出版する、すなわち私が“某氏”としてデビューすることを考えていたように思う。どんな理由があるのかはわからないが、素性を明かすことができないにも関わらず芥木賞に応募し、受賞が決まったにもかかわらず辞退しようとしている一人の作家に対してとても優しい気持ちが湧いてきていたような気がする。“流布”の作家であることを広く認めてもらうことよりも、その作品が多くの人に読まれることを喜ぶ彼を、もしかしたら憐憫の気持ちで捉えていたのかもしれない。
「やらせてください。記者会見ではどう答えれば良いですか?」
心配気に見ていた相澤と大田原の表情が晴れやかなものに変わった。相澤は上着の内ポケットから手帳を取り出しながら、心底嬉しそうな笑顔を見せて言った。
「内野さん、ありがとうございます!これで無事出版することができます。素晴らしい作品の誕生です!!」
記者会見は同じ帝都ホテルで行われた。最初に相澤がマイクの前に立ち会見を始める旨を告げた。
「それではこれより“某氏”の芥木賞受賞に関する会見を始めさせていただきます。始める前にいくつか注意点がございますのでお知らせします。ひとつめですが、“某氏”の素性に関する質問は一切ご遠慮願います」
会場がざわつくのを無視して相澤が続けた。
「“某氏”は今回の芥木賞にはペンネームで応募しており、そのことについては事務局側も認めております。今回の会見に先立って本人とその辺りの話をしたところ、素性に関しては一切話したくないと仰っています。ですので、本日の会見で素性に関する質問はご遠慮願います。もし、その手の質問が出された場合、会見を中止せざるを得ないことになる可能性もございます。何分ご理解の上、ご協力の程、よろしくお願いいたします」
慇懃に相澤が頭を下げると会場から質問が挙がった。
「世間は今回の芥木賞を圧倒的な評価で受賞した“某氏”が誰なのかを知りたがっています。まことしやかな噂も流れ、先程、その噂の渦中にある人を前にあなたはこの会見開催を宣言しました。ということは噂は真実だということなのではないですか?」
本人が未だ会見場に現れていないにも関わらず、既に会場は熱気で埋まっていた。相澤は冷静に、予想した質問への回答を披露した。
「先程、私はこの会見を開くことをお話しましたが、誰が“某氏”であるかは一言も発していません。お答えできるのは以上です。もし、これ以上“某氏”の素性に関する質問をされるというのであれば、残念ですが会見は中止せざるを得ないです。如何いたしますか?」
会場は一瞬静まった後、蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。
「横暴だ!それじゃ詐欺じゃないか。あの状況でああいった説明をすれば、誰でも内野氏が“某氏”だと思うのが普通でしょうが。それをただ一言、“そんなことは言っていない、後は知らない”、これでは話にもならない。我々を馬鹿にしているのですか?本人を出してください!」
確かにその通りである。しかし、相澤はそんなことは百も承知で敢えてそらっとぼけていた。ここで内野が“某氏”でございと名乗るのは簡単だが、ここまで世間の注目を浴びている今の状況を利用しない手は無い。これまでの経緯を考えれば、河合出版から単行本として出版することになるのはまず間違いない。出版する時に世間が注目している“某氏は誰か?”ということをコマーシャルに使えば、売上は一層増えることが予想できる。
「先程もお話したように“某氏”はペンネームであり、本人が素性を公表したがっていないのです。当然のことですが、応募の条件でもペンネームの使用は認められています。というわけで素性に関する質問は一切ご遠慮願いたい。私から言えるのはこれだけです。どうしましょう、皆さんがどうしても素性に関して質問したいとなると、代理人としてこの場に本人を呼ぶことはできないのですが」
「明日の授賞式はどうなるのですか?」
場の雰囲気にはそぐわない、割と冷静な声で質問があがった。
「本日の会見と同じで、素性がわからないよう工夫をしたいと本人は希望しています」
集まった記者やレポーターは口々に何か話していたが、ここで記事を拾わないことには彼らも仕事にならない。最後は相澤の策略を受け入れざるを得なかった。
「それではこれより会見を始めさせていただきます。本年度の芥木賞を満場一致で受賞した“某氏”です。よろしくお願いいたします」
大田原と共に衝立の陰から様子を伺っていたが会場の雰囲気は異様だった。相澤が煽ったため、異常なまでの熱気が渦巻いており、本当にばれないのかすごく不安になってきた。できることなら逃げ出したい気分だったが今更後に引くことができないのは明白だった。なんとか会場の興奮が早く治まってくれるよう、ただそれだけを祈るしかなかった。相澤と記者たちのやり取りがしばらく続き、どうやら相澤が寄り切った形で場が収まると、いよいよ私の出番になった。学会の会合とかで人前で話したことはあるが、マスコミの前で話すのは生まれて初めてだった。とりあえず相澤と大田原に教わったことを頭の中で繰り返しながら会見場に入っていった。
白いクロスのかかった細長いテーブルの前に立つと、テレビや映画の一シーンのように、一斉にフラッシュが焚かれた。
“カシャカシャカシャ“
記者が持つカメラのシャッター音が会場内に鳴り響いた。相澤が目で”落ち着け“と言いながら椅子に座るよう促してくれなければ、私はきっといつまでも立ち尽くしていたに違いない。椅子に座ると最前列にいたちんちくりんなおばさんが、鼻息も荒くマイクを突き出すようにしながら問いかけてきた。
「この度は芥木賞受賞おめでとうございます。まず、今のご心境をお聞かせ願えないでしょうか」
予想していたよりも割と丁寧に聞いてきたことに少し安堵し、相澤たちが教えてくれた通りの回答をした。
「まさか受賞できるなんて思っていませんでしたので、大変光栄です」
声が少し上ずっているのがわかる。もしかすると意外と冷静なのかも知れない。
「今回の応募では少し変わったペンネームを使われましたが、“某氏”というネームはどういったところから付けられたのですか」
相澤が事前にかなりきつく制限したせいか素性に関する直裁的な表現はしないようだった。それでも、なんとかぎりぎりの線まで聞きだしてやろうという意図が見え隠れする質問だった。これも相澤らの想定に入っていたため、教えられた通りの回答で済ますことができた。
「今回の作品で中心となる人物は最後まで実体を表しません。作品上、実際に存在するかどうかも曖昧なままストーリーが展開されます。言ってみれば”名無しの権兵衛“といったところでしょうか。私はこの作品を書き出した当初から、なんとなくですが、誰かに読んでもらう機会があったら本名ではなくペンネームでいこうと考えていました。そして書き進むうちに、この主人公を表すようなペンネームがないだろうかと考えるようになりました。そんな時、たまたま読んだ雑誌でこの言葉が使われていました。作品を読んでいただければわかっていただけるのではないかと思いますが、私から見ると、まさにぴったりと感じたものですから、そのままペンネームとして応募させてもらいました」
「そうするとあなたはこの作品に登場する人物だ、と?」
「いえいえ、そういうわけではありません。今回書いた作品は私としてはかなり力を込めて作ったものです。まさか受賞するとは思っていませんでしたが、そういう思いを込めた作品でしたので、なんとか作品に関係するペンネームを使えたら良いな、と思っていたのです」
「世間であれほど注目されていたのに、それでも受賞できないと思っていたのですか」
「ええ、皆さんには失礼かもしれませんが、これまでの騒ぎも大袈裟に報道されているだけだろうと思っていました」
この点についてはある程度、私自身の回答である。しかし、一体誰がこんな噂を流したのだろう?意外なほど冷静に受け答えをしながらそんなことを考えていた。すると横の方から次の質問が出た。
「今回の作品は“某氏”というペンネームを使われましたが、次回作以降も同じペンネームを使われるのでしょうか」
この質問は相澤達も想定していなかった。しかし、いつの間にか本当に自分が”流布”を書いたつもりになっていた私は、驚くでもなく、ごく普通に考えて回答することができた。
「うーん、そうですねぇ、今は何とも言えませんね。先程も言いましたが、今回ペンネームを使用した理由はあまりはっきりしていません。ただ、作品の主人公を意識したペンネームであることだけは確かです。今後、作品を書くかどうかも今は定かではありませんが、仮に書いたとしても、その作品のイメージがどうなるか、やはり書いてみないと何とも言えませんね。すみません、曖昧な答えになってしまって」
その後も無難に受け答えをしていると、相澤が横から割り込むように入ってきた。軽く目配せをした後、記者たちに向けて明朗な声で告げた。
「皆さん、そろそろ予定の時間となりますので、本日の会見はこれで終了とさせていただきます。正式には明日の授賞式で芥木賞受賞者としての会見が行われる予定です。よろしければ授賞式会場の方にお越し願えればと思います。本日はありがとうございました」
私は立ち上がり軽く礼をして衝立の裏に回った。立ち上がった瞬間、フラッシュが一斉に焚かれ、得もいわれぬ感覚が体の中を走り抜けるのを感じた。
相澤が横に付き添いながら一緒に衝立の裏に回ると“まだ気を抜くな!”という目つきでこちらを見た。慎重に言葉を選びながら、記者には聞こえないよう小声で話し掛けてきた。
「お疲れ様でした。明日の授賞式に関していくつか確認したいことがあります。とりあえず部屋の方に戻りましょうか」
周りを見るとあちらこちらにホテル関係者がいた。長年編集者をやることで身につけたのか、それとも元来の気性なのか、細かいところまで目が届く男である。少し離れたところにいた大田原も近づいてきた。三人一緒に部屋に戻ると、相澤が顔の緊張を一気に解きソファに倒れ込むようにして声を吐き出した。
「あぁ、緊張した!いつ変な質問が来るか、いつ内野さんが受け答えに詰まるか、もう、ひやひやもんでしたよ!!」
大田原も相澤の横に頽れるようにして座り込み、ため息と共に声を吐き出した。
「ああ、本当だ。こんな思いはできればあまりしたくないな。とはいえ内野さん、うまく答えましたね。まるで本当に“流布”を書いた本人のようでしたよ」
「そうそう、次回作以降のペンネームの質問なんて、思わず編集長と顔を見合わせてしまいましたよ。あそこで詰まったりするとその後がガタガタになりかねないところでしたからね。しかし、とても自然に答えていましたねぇ。本当は内野さん、本物なんじゃ無いですか?」
フラッシュを受けたときの感覚がまだ少し残っているのか、少しテンションが高いのを感じつつ相澤たちの前に腰掛けた。
「自分でも不思議でした。受け答えしているうちに、なんだか、自分が書いたような気になってしまっていたみたいです。何ともふ不思議な感じでしたよ。このところ、ずうっと噂の相手をしていたせいだからなのですかね。いつの間にか“某氏”と思われることに抵抗を覚えなくなっていたのかも知れません」
「まあ理由は何にせよ、とりあえず上手く乗り切れてよかったですよ。この調子で明日の授賞式を乗り切れば、後はそれほど心配しなくても大丈夫でしょう」
「明日の話をする前に、せっかくですからシャンパンでも頼んで乾杯しませんか」
大田原は言うなり電話でルームサービスを呼び出していた。三人とも一段楽したことで気が抜けたのか、シャンパンが運ばれてくるまでの間、会話をするでもなく、ぼうっとするだけだった。如何にも高級そうなシャンパンが運ばれてくると大田原が器用に栓を開けた。手慣れているのか、丹念に磨き込まれたグラスに煌びやかな液体を等分に流し込んだ。シャンパンは結婚式の披露宴で飲むくらいであり、それがどの程度の値打ちなのかはわからなかった。ただ気分の高揚感も相まってか、今まで飲んだうちのどれよりも美味しい、最高のシャンパンだった。酒は弱いのか、相澤が目元をうっすらと赤くしながら誰にともなく言った。
「芥木賞作家“某氏”の誕生ですね。受賞、おめでとうございます!」
高らかにグラスを掲げ、再度、三人で乾杯をした。
都内某所、静かな佇まいの仕舞屋に年老いた男と中年の男がいる。庭に面した和室の障子を開け放ち、春の風を感じながら桜の花びらを浮かべた純米吟醸酒を交わしている。
「昨夜の受賞会見、テレビ中継するとは思いませんでした。見ていてハラハラしました」
「楽しかったじゃないですか。彼、役者もやれるかも知れませんね」
「そんな無茶を言わないでくださいよ」
「いやいや、今時の作家は書くだけではないですからね。歌ったり演じたりしてもいいじゃありませんか」
「その前に次の作品を仕上げてもらわないといけないです」
「まあ、確かにそうではありますな」
「今日の受賞会見をうまく乗り越えてくれればとりあえずの一歩でしょうか」
「そうですね。でもまあ、昨日の様子を見ている限り問題はないでしょう」
乾杯をした後、明日の授賞式に関する打ち合わせを簡単に済ませると、大田原と相澤の二人は帰っていった。彼らが押さえてくれたスイートルームはそのまま使って良いということだったので、一人では広すぎる部屋ではあったが泊まらせてもらうことにした。
記者会見では思った以上に冷静な対応ができたと感じていたが、やはり緊張感が強かったのだろう。彼らが帰ってしばらく経ってから、美春からかかって来た電話のことを思い出した。記者会見を見たであろう彼女が今、どんな気持ちでいるのか考えると巨大なハンマーで後頭部を殴られたような衝撃が襲ってきた。恐る恐るスマホをポケットから取り出した。画面には色々なところからの受信履歴がひしめいていた。履歴の中には美春からの電話が何件も含まれていた。すぐに通話ボタンを押そうと思ったがギリギリのところで指を止めた。今、会話をして上手く伝えることができるのか自信がなかった。
スマホのミュートをオフにしてテーブルに置いた直後、スマホの着信音が鳴った。あまりのタイミングに心臓が止まるかと思った。着信音は美春からの電話であることを告げていたが、念の為、スマホを取り上げて発信元を見た。美春だった。流石に後先を考える間もなく電話に出てしまった。
「よかった、やっと出た。どういうことなの?記者会見に出ていた人、あれ、清二さんだよね」
「ちょ、ちょっと待って。ちゃんと説明するからとりあえず落ち着こう」
「落ち着けるわけないでしょ。自分じゃないとか言っていたくせに記者会見に出ているし、電話しても全然繋がらないし、色んな人から連絡が来るし、もう、どうなってるの」
「わかった。全部話すから。ただ、ちょっと複雑だから電話で話すより直接会って話したほうがいいと思う。今、出版社が用意してくれたホテルにいるからここまで来ないか」
「えぇ、今から?時間も遅いし、面倒くさいなぁ」
「出版社って景気が良いのかどうか知らないけど、帝都ホテルのスイートルームだぞ。滅多に宿泊できない部屋を堪能するのも良いと思わないか」
「へぇ、すごいね、帝都ホテルかぁ、ちょっと惹かれるなぁ。でも、帝都ホテルだと電車乗り継いで一時間は掛かるわよ。急いで準備してもそっちに着くのが十時過ぎになっちゃうよ」
「タクシー飛ばして来いよ。そうすればもう少し早く着くだろ。美春の好きな赤ワイン、用意しておくよ」
「うーん、わかった、なるべく早めに行くわ。何号室?」
「二十階の二○○一」
「りょ〜かい」
美春は旅行が好きだった。夫婦で出かけるだけでなく、独身の友人と出かけることも珍しくなく、美春が企画することが多かった。そのせいか、ホテルの好みもはっきりとしていた。相澤達が手配してくれたこの部屋は彼女の琴線に触れたらしかった。
とりあえず美春に事実を話せることになって安堵したのか、急に空腹感を覚えた。スマホの着信履歴には美春以外の番号もたくさんあったが、とりあえず放っておくことにした。相澤から氏名は名乗らずにルームサービスを使って良いと言われていた。早速、軽い食事を頼んだ。美春と乾杯できるよう、彼女の大好きな赤ワインを一緒に頼むことは忘れなかった。
食事を終えてしばらくして美春がホテルに到着した。部屋に入るなり一気にテンションが上がったのがわかった。
「すご〜い!!素敵なお部屋!一体どういうことなの?」
「な、すごいだろ。出版業界ってネットの勢いに負けているものだと思っていたけど、意外と景気良いみたいだよな」
「こんな素敵な部屋に泊まれるのなら、もっと早くに呼んでくれれば良かったのに」
「まあ、そう言うなって。ほら、美春の好きな赤ワインも頼んでおいたから、これを飲んでのんびりしようよ」
「その前に部屋の中、見させて」
美春はソファには座らず、隣のベッドルームやバスルームなどを一通り見て周った。単に部屋に対する興味であれば問題はないが、何かを疑っているのであれば、この先の話がよりややこしくなる予感があった。
「さすが帝都ホテルね。家具や備品もとても素敵。これならもっとおしゃれしてくれば良かった」
「まあ、そう言うなって。それより乾杯しようよ」
「ええと、乾杯なの?」
「ああ、そうか。そこから話した方がいいか」
どうやら考えすぎだったらしい。滅多に入ることのないホテルのスイートルームは人の思考を乱すことがあるのかも知れない。しかし、どこから話せば良いのか思考をまとめることができていなかった。そもそも自分自身がこの数時間に起きた出来事を全て腹落ちさせることができているかと問われれば答えはノーだった。
「“某氏”として芥木賞を受賞した。まずはその乾杯をしよう」
「え、ええ」
ワインに関してはズブの素人だが、爽やかな香りが口の中に広がった。きちんと葡萄の質感も感じられ、これまでに飲んだどのワインよりも美味しいと感じた。
「美味しい!!ねえ、これ、とても高いワインなんじゃないの?」
「うーん、どうだろう。ルームサービスで頼んだけど、銘柄とか値段とか言わなかったらわからないよ」
「えぇ、大丈夫なの?ここ帝都ホテルだよ。請求書見て飛び上がったりして」
「あはは、それはないよ。だって、これも出版社が持ってくれると言っていたから」
「へえ、本当に景気良いんだね」
赤ワインのおかげで美春の気持ちが少しほぐれたらしい。この機を逃すまいと考え、思いつくままにマスコミに流れた噂のことや、結果として芥木賞を受賞したことなどを説明して聞かせた。ただ、“某氏”に成り代わったことは伏せて、ペンネームとして使ったことにして説明した。
「でも、何で今まで黙っていたの。私には人違いだって言っていたのに」
「本当にごめん。編集者に止められていたんだ。ギリギリまで素性を明かさないようにって」
「えぇ、それどういうことなの。家族にも内緒って。それと、何で出版社が絡んでいるの?芥木賞に応募する時って出版社を通さないといけないの?」
「ちょっと長くなるけど、順番に説明するよ」
「ねえ、おつまみはないの?チーズとか」
「ああ、ルームサービスで持ってきてもらおう」
「あ、いいね、赤ワインにチーズ、最強じゃん!」
「美春は本当に赤ワインが好きだよな。お酒は弱いくせに」
「えへへ、だって美味しいじゃん。あ、それよりさ、芥木賞を受賞するとこんな素敵な部屋に泊まれるものなの?」
ほろ酔い気味の美春がワイン片手に言った。
「今度は直川賞を受賞してブリガルホテルが良いなぁ」
「おいおい、簡単に言うなよ。今回はたまたまなんだから」
ルームサービスにチーズの盛り合わせを頼み、素性に関する話を始めた。
「出版社のことなんだけど、芥木賞に応募しようと思った時に編集者に読んでもらえることになったんだ。ほら、うちの会社に池崎常務がいるだろ、彼が以前、河合出版と仕事をしたことがあってさ、その伝手で相澤という編集者を紹介してもらったんだ」
「へぇ、世の中、広いようで狭いんだね」
「そうだよな。結果的には相澤さんがいたお陰でここまで来れたから運が良かったよ」
「そうなんだ。それで、何で素性を隠していたの?」
「うん、そこがちょっとややこしくてさ。一応、順を追って説明するけど、わかりにくかったら言って」
「わかった」
「まず、“某氏”というペンネームなんだけど、作品を読んでもらえばわかると思うけど、作中で結構重要なワードになっているんだ。そのこともあって、相澤さんに読んでもらったあとに“某氏”というペンネームを使いたいと言ったらすごく面白がられてさ、彼にしてみれば軽い気持ちで引き受けてくれたんだ」
「でも、ペンネームを使うことなんて誰でもやっているよね」
「ああ、応募の規程でもペンネームは可能だよ。ただ、今回は俺の初作品で内野清二の知名度なんてないだろ。だったら、芥木賞の事務局にも素性を隠して応募しようということになったんだ」
「え、そんなことできるの?」
「普通はできないらしい。そこを相澤さんが交渉して、河合出版が代理人となって応募することを認めさせたんだ」
「へえ、面白い人なんだね、相澤さんって」
「そう、ちょっと変わり者かな。まあ、一般的な編集者の性格なんてわからないけどね」
「応募の時に素性を隠したのは何となくわかったけど、その後も隠したのはどうしてなの?」
「ほら、一次審査で大好評だっただろ。あの頃から相澤さんがノリノリになっちゃってさ。探られたとしてもギリギリまで隠しておこうと言われたんだ。俺もちょっと面白いかもと思っちゃってさ」
「それで私には何も言わずにここまで来たと」
「ごめん、騙すつもりはなかったんだけど、相澤さんから家族や同僚にも内緒にすることを提案されて、それも面白いかもって」
「もう、私だけには言ってくれれば良かったのに」
「うん、今思うと本当にそうだよな。美春は口も固いし、美春に話しておけば俺も自宅にいる時はリラックスできたしな」
「そうよ、私はそんな簡単に人を売るようなことはしないんだから。だけど、田添さんが得意満面に話しかけてきたら笑っちゃったかも知れないな」
「おいおい、今後のこともあるんだから気をつけてくれよ」
「はーい、任せといて!!うん、このチーズもとても美味しいね」
美春の機嫌が良くなるにつれて、“某氏”から権利を引き継いだことを話しそうになった。しかし、既の所で踏み止まった。今この場でそのことを美春に伝えても九分九厘理解してもらえない気がした。というより、正しく伝える自信がなかった。“某氏”と直接話して引き継ぐことを決めたものの、彼の本心が言葉通りなのか確信を持つことは、今もできていなかった。
美春がソファの上で座り直して畏まった。
「芥木賞受賞おめでとう!」
あまりアルコールに強くない美春が頬を薄桃色に染めていた。その顔を見て思った。自分が芥木賞を受賞したのだと。不思議な感覚だった。この先どうなるのかまるっきりわからなかったが、“流布”を書いたのは自分であることを確信していた。
アルコールが回って来たのか、美春が少し舌足らず気味に話しながらケラケラと笑った。
「ねえ、“某氏”っておかしなペンネームだよね。人から呼ばれるときはどうなるの?“某氏さん”って呼ぶの?何だかおかしいね」
「うん、そうだな、確かに変だな」
確かに美春のいう通りだった。さっきの記者会見でも誰も“某氏さん”とは呼んでいなかった。そもそも“某氏”という言葉は呼称を意味している。それを名前として使おうというのは、はなから無理があった。少し酔いが回って来たのか、美春に問いかけるでもなく、物思いに耽った。今後、このペンネームを使うか、それとも別のペンネームを考えるか、真剣に考えている自分に気がついた。ジワジワと真実と現実がごっちゃになってきていた。こんな調子で明日の授賞式に望んで大丈夫なのか、またしても不安の首がもたげ始めていた。目の前では美春が舟を漕ぎ出していた。
翌朝、遅めの朝食を部屋で取った私達は、一旦家に帰り、授賞式の準備をすることにした。相澤がすべて手配してくれていたらしく、チェックアウトの際にはルームキーを返すだけで何の詮索もされずにホテルを後にすることができた。東京駅からの京葉線にはディズニーリゾートに向かうのであろう、親子連れや若いアベックがそれなりに乗っていた。ただ、舞浜駅を過ぎると車両の半分程に減っていた。自宅の前まで来ると、住宅街ではあまり見かけない雰囲気を纏った人間が五、六人たむろしていた。そのうちの一人が私に気づいたと思いきや、一斉にこちらに向かって走り出してきた。あっという間に美春と私は彼らに取り囲まれてしまった。
「“某氏”こと内野さんですよね。芥木賞受賞おめでとうございます。受賞から一晩経ちましたが、今の心境を教えていただけませんか」
こっちが“某氏”であることを認めてもいないのに、彼らははなから決め付けている様子だった。夕べは相澤がしっかりと防御してくれたから大丈夫だったが、今は誰も助けてくれない。横では美春がマスコミの勢いに圧倒され、不安そうな表情を浮かべながら私にしがみついていた。
「何のことですか?そもそもあなた方、失礼ですよ。唐突にカメラやらマイクやらを突きつけて、一体何のつもりですか」
昨夜の記者会見で少し度胸がついたのか、意外と冷静に彼らに相対することができた。
「失礼しました。私は週刊毎朝の記者で大塚といいます。昨夜発表された芥木賞を“某氏”というペンネームで内野さんが受賞されたとのことで取材をさせていただければと思い、今朝からお待ちしていました。周りにいる彼らもマスコミ関係者で、先程相談をしまして、私が代表でインタビューを申し込ませていただくことになったのです」
「何か勘違いされていませんか?先般より私がその“某氏”であるような噂が流されているようですが、私はその人とは何の関係もないですよ」
今後、どこかで素性を明かさなければいけないのだろうが、とりあえず授賞式までは隠していくことを相澤達と決めていた。ここでもそらっとぼけるしかなかった。しかし、今は自宅の前であり、自分が内野であることを否定することはできない。そうなると自分は“某氏”ではないと主張するしかない。かなり無理があるとは思ったが、とにかく知らぬ存ぜぬで通すことにした。
「あなたは“某氏”ではないと仰るのですか?それでは“某氏”は一体誰なのですか?」
「そんなこと私に言われてもわかりませんよ。例の噂だって、本人である私の知らないところで勝手に流されていたようですし。大概にして欲しいですよ!」
最後はわざと声を少し荒げ、不満そうな表情で記者を睨んだ。私が“某氏”であることを信じ、受賞が確定したこともあり素直に喋ってもらえると思っていたのか、携帯用のレコーダを持った記者は一瞬ひるんだ。それでも記者として簡単に諦めるわけにいかないのだろう、質問を変えてきた。
「あなたは内野さんですよね?」
「ええ、そうですが」
「今回芥木賞を受賞した“流布”という作品についてはどう思われますか?」
記者は何を思ったのか、頓珍漢な質問をしてきた。
「昨夜のニュースで“流布”という作品が受賞したことは知っていますが、作品自体を知りませんので、何ともお答えしようがないです」
恐らく記者は鎌をかけてきているのだろう。このままだといつボロが出ないとも限らない。一刻も早く彼らから離れるべく、記者が次の質問を投げてくる前に彼に向けて大きな声で告げた。
「いずれにせよ私には関係のない話です。急いでいますので失礼しますよ」
美春をかばうようにして彼らの間を突き破って素早く家の中に入った。鍵をかけ、玄関モニターで外の様子を伺うと、この先どうしたものか、といった感じで彼らがたたずんでいるのが見えた。リビングに入るとソファに身体を投げ出した美春がため息をつきながら独りごちた。
「あぁ、びっくりした。何なのあの人達。家の前で待ち伏せだなんて、ワイドショーやニュースで見たことあったけど、まさか自分達が取材されるなんて夢にも思わなかったわ」
「大丈夫か?俺は昨日の記者会見で少し免疫ができたせいか、割と平気だったけど、最初だとびっくりしただろう」
「雰囲気もそうだけど、あなたがとぼけているものだから、なんだかわけがわからなかったわよ。あれ、どういうことなの?夕べは“某氏”で芥木賞を受賞したって言っていたわよね?」
「ごめん、ごめん。賞を受賞したことは本当だよ。ただ、夕べも言ったように今回はペンネームを使って応募した上、今のところ素性を明かしていないだろ。それで、相澤さんと相談をして、昨日の記者会見でも素性に関しては一切隠したままにしたんだ。会見の時、マスコミから素性に関する質問はなかっただろ?」
「言われてみると確かになかったわ。ただ、いくらマスクをしても知っている人が見れば清二さんであることは明らかだったけどね」
「まあ、そこはほんの時間稼ぎだからね。昨日の会見を乗り切れれば良かったんだ。ただ、さっきみたいに素顔のまま俺自身の口から私が“某氏”でござい、という訳にはいかなかったんだ。先に伝えておけばよかったね」
「なんだ、そうだったの。もし私が先に質問を受けていたらばらしちゃうとこだったわよ。いつまで素性を隠しておく気なの?」
「そうだよな、まさか家の前で待ち伏せしているなんて思わなかったよ。これからもどこでいきなり聞かれるかわからないしなぁ。後で相澤さんに電話して、素性を明かす件について相談してみるよ」
素性を隠していることについて、これ以上詮索されるとどこかで辻褄が合わなくなりそうな気がしてきた。美春が指摘するまでもなく、昨日の記者会見で正体はバレていると考えるべきだろう。そうすると、今日の受賞会見の場で明らかにするのが無難なところか。
今日、相澤はオフィスには向かわず、朝から三河裕次郎の自宅を訪ねていた。明日が締め切りの原稿を受け取り、その場で確認した後、オフィスに向かった。三河は葬儀のため留守にしていたが、いつも筆の早い彼は明日の締め切りを前に既に原稿を仕上げていた。
「奥様、わざわざご対応いただきありがとうございます。三河先生はいつも原稿を期日前に仕上げていただけるので大変助かります」
「あの人、せっかちな性格ですからね。どんな時も早めにしないと気が済まなくて。おかげでこちらはいつもバタバタしていますよ」
「奥様がいらっしゃるから三河先生もマイペースで執筆できるのでしょうね」
「そうなのかしら。あ、相澤さん、お茶入れますから上がってくださいな」
「ありがとうございます。ただ、今日はやらなければいけないことが立て込んでいまして。大変申し訳ありませんが、この場で失礼させていただきます」
「あら、そうですか。相澤さんが来られるとお聞きしたので、相澤さんがお好きな三國屋のお団子を用意しておいたのよ」
「え、そうなんですか。うーん、三國屋の団子かぁ、あれ、本当に美味しいですよね」
「ほら、上がってくださいな。お団子食べるだけならそれほど時間も取りませんよ」
夕方の授賞式が気になって仕方がなかったが、大好物の団子を目の前にして引き返すことはできなかった。急いで団子を食べると慌ただしく三河邸を後にした。
「相澤さん、何をあんなに急いでいるのかしら。お団子、喉に詰まらせないと良いのだけど・・・」
三河邸からオフィスに戻る間、如何にして授賞式を上手く乗り切るか思案した。夕べからずーっとそればかりを考えていたがなかなか上手く整理ができずにいた。こんな状態で他の仕事を続けたら、どんなミスをしでかすかわからないと感じた。つい今し方もらってきた三河の原稿を印刷部門の担当者に渡した後、今日予定していた他の仕事は一切明日以降に延期することにした。印刷部門の担当者に原稿を回し、さてこれから、というときにスマホが鳴った。相手は芥木賞選考会事務局長の山中だった。
「相澤さん、夕べの記者会見、あれはどういうことですか?本人はマスクを被っていて顔を見せないし、相澤さんからも本人からも氏素性の紹介はされないし。今日の授賞式は大丈夫ですよね」
挨拶もそこそこに山中は少し怒ったような口ぶりで問いかけてきた。
「山中さん、大丈夫ですよ。以前お約束した通り、今日の授賞式では素性を明かすようにしますから。昨日はあまりにもマスコミが踊っていたから、もう少し煽ってみようかな、なんて思っただけですから」
「絶対ですよ。授賞式にマスク被って登場、なんて止めてくださいよ」
「ええ、大丈夫ですって。そんな、山中さんの顔をつぶすようなことはしませんから」
「昨日の記者会見をニュースで見たときには、唖然としてしまいましたよ。おかげで今日は朝から問い合わせの電話が殺到しているし」
少し落ち着いてきたのか、段々と普段のしゃべり方に戻りつつあった。
「問い合わせってどんな内容ですか?」
「何って決まっているでしょうが、“某氏”は誰か、ですよ」
「ふーん、そんなに気になりますかねぇ。私なんか、作家が誰かより、作品の内容ですけどね」
「当たり前ですよ。芥木賞は由緒正しいものです。ですから、今回のように“作家の素性は誰だ”なんてくだらないことで騒がれては困るのです。ですから早く素性を明かしてくれとお願いしておいたじゃないですか」
「わかっていますって。そんなに心配しないで下さいよ。授賞式では素顔で行かせますから」
山中のテンションが再び高まろうとしていた。相澤はできるだけ長く素性を隠していくつもりでいた。しかし、山中の勢いはそろそろ限界であることを示しているように感じた。心の中では諦めたものの、だめ元で聞いてみることにした。
「ただ、ここまでマスコミが盛り上げてくれているのに、すぐに素性を明かしちゃうのってもったいなくないですか?」
「そりゃぁ、これだけマスコミが騒いでくれたおかげで今回の選考はすごく注目されていますよ。事務局としては嬉しい面もあります。ただ、芥木賞はそんなことで注目されてはいけないのです。作品の出来栄えで注目されなければ」
「今回の“流布”はとても評判が良かったときいていますが」
正論をぶつ山中にはちょっといじわるかと思ったが更に食い下がった。この作品が世間の注目を浴びれば浴びるほど、その売上は確実に伸びるはずである。編集者としてはそうそう簡単には諦めることのできないネタだった。一日でも一時間でも長く世間の目をごまかすことができるのなら、多少強引な駆け引きも仕方がない、と自分に言い聞かせた。
「う、それは、、、確かに“流布”の出来栄えは素晴らしいです。選考委員のみならず、私もそれは認めますよ。しかし、それならなおさらです。そんな低次元な内容で騒ぐのではなく、作品の内容で騒がれれば良いのです」
「山中さん、あなたの気持ちは十分にわかりました。本当に授賞式ではきっちりさせますから、安心してください。ところで授賞式ですが、私も代理人として出席しても構いませんか?昨夜の記者会見に関する説明もしないといけないでしょうし、ずぶの素人である本人に任せるのはちょっと気が引けますから」
「え、代理人が授賞式に出席するのですか。うーん、代理人なんて今までいなかったからなぁ」
相澤は山中にこれ以上テンションを上げられても困ると思い、ゴリ押しを止め、代わりの条件を提示した。急に話題を変えられた山中は想定していない条件の提示に戸惑った。確かに昨夜の記者会見ではマスコミがかなり憤慨して会場が騒然としていた。何らかの策を講じないと、今夜の授賞式も最初から過激な質問が出る可能性は高い。授賞式を取り仕切るのは事務局の仕事だが、今回の問題は芥木賞に関するというよりも、どちらかというと相澤、すなわち河合出版が自社利益のため、無用にことを大きくしている節がある。ここで相澤を参加させなかった場合、“某氏”自身にそのしわ寄せが行くが、結局は事務局の方に付けが回ってきそうである。そこまで考えてから山中は相澤に対して代理人としての参加を認めた。
「ただし、こちらからの要請があったとき以外の発言は控えてもらいますよ」
電話を切った相澤は、今日の授賞式から出版までのストーリーを急いで練ることにした。
昼食を終え、のんびりしていると相澤から電話がかかってきた。授賞式の前に打ち合わせをしたいので河合出版のオフィスまで来てくれないかという内容だった。今朝の出来事を手短に話した後、相澤の考えを聞くことにした。
「そちらに行くのは構わないのですが、朝から家の前でマスコミ連中がたむろしていて、外に出た途端に取り囲まれてしまいそうです。どうしたら良いですかね」
「内野さんが“某氏”であることは認めなかったのですね?」
「えぇ、かなり怪しかったですが、そらっとぼけてさっさと家の中に逃げ込みました。その後は一歩も外に出ていないので、今のところ認めていませんよ。でも、外に出てまた問い詰められたら、思わず変なことを言ってしまうかもしれませんね。ちょっと自信がないです」
「先程、選考会の事務局長と話をしたのですが、結論から言うと、今晩の授賞式では氏素性を公表しなければいけなくなってしまいました」
「ということは、実は私が“某氏”です、と言わなければいけないのですね。いよいよ、ですね」
「私もかなり粘っては見たのですが、応募した時からの経緯とかもあってですね、これ以上引き伸ばすことはできませんでした。とはいえ、内野さん自身の口から、そこにいるマスコミ連中に伝えるのも難しいですよね。とりあえずこちらからハイヤーを手配しますから、なんとか彼らを振り切ってこちらに来てもらえませんか」
「ハイヤーですか。余計に疑われそうだけど、どうせ授賞式では正体を明かさないといけないのですよね。わかりました。なんとか頑張って振り切ってみます。ハイヤーは何時ごろになりますか?あ、あと、どんな格好で行けば良いのでしょう?」
「ハイヤーはすぐに手配しますから、小一時間もあればお迎えに上がれると思います。手配出来次第、ハイヤー会社のほうから連絡が行くはずです。あと、格好ですが、内野さんは普通のサラリーマンですから、いつも着ているスーツやジャケットで構いませんよ。もし気になるようでしたらモーニングでも構わないです。なんでしたらこちらで用意させてもらっても良いですよ。どうされます?」
「モーニングなんて持っていないし、着慣れてもいませんから普通のスーツで伺います。あと何か必要なものとかありますか?」
「今日は授賞式ですから、特に何もいらないですね。それよりも、昨日の今日ですから、相当マスコミに突っ込まれることを想定して対策を考えておかないといけないですね」
「本当に大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫ですよ。こちらにこられるまでに入念なシナリオを作っておきますから安心してください」
またぞろ不安が頭をもたげてきた。しかし、今更後に引くわけにも行かない。ここまで来たら注意深く、かつ大胆に前進するしかなかった。電話を切った後、今の会話を手短に美春に伝えてから授賞式に出席する準備を始めた。準備といっても、せいぜい服を着替え、ひげを剃るくらいなのであっという間に終わってしまった。ハイヤー会社から連絡があって車が家の前に到着したのは、準備が終わってから一時間後だった。
窓から外の様子を伺うと、相変わらず玄関前の道路にマスコミ関係者がたむろしていた。仕方がないので玄関から出ることにした。玄関を出た途端に質問が飛んできたが、それを無視して門扉を開けて道路に踏み出した途端、今朝と同じように取り囲まれてしまった。今朝は代表者が質問してきたが、今回はその約束も反故になったのか、今度こそ何か聞き出してやろうとでもいうように、各自が我先にと質問を投げかけてきた。言葉を発したのが数人とはいえ、一斉に質問されては聞き取ることもままならず、これ幸いとばかり質問が聞き取れないような振りをして、おしくらまんじゅうでもするようにじわじわとハイヤーの方に近づいていった。途中からハイヤーの運転手が、きっと相澤から依頼されているのであろう、私が車に近づきやすいよう、周りのマスコミ連中との間に割り込んできた。おしくらまんじゅうは益々大きくなって、じわりじわりと車に近づいて行った。マスコミの面々も、万が一私に怪我をさせるようなことがあれば大変だという認識があるのか、ギリギリのところでなんとか私を逃がさないようにしていた。それでも間に入ってくれた運転手の手助けが利いたのか、思ったよりも早く車にたどり着くことができた。ドアをこじ開けるようにして車に乗り込んで一息ついた時、テレビのニュースで議員とかがもみくちゃにされながら車に乗り込むシーンを思い出していた。議員がもみくちゃにされる場合は大抵何か怪しいことがあった時であり、今まではなんてことなく見ていたが、これからはそういうシーンを見ると同情するのだろうか、などと呑気なことを考えていた。いつの間に乗り込んだのか、運転手が車を走らせ始めた。
ミラー越しにこちらを見ながら丁寧な言葉遣いで運転手が聞いてきた。後ろを振り返るとマスコミ関係者とおぼしき数人がバイクに乗って追いかけてくるのが見えた。
「河合出版の相澤様から社の方にお連れするよう依頼されていますが向かってよろしいでしょうか」
「彼らをまくことはできますか?」
「うーん、どうですかねぇ。少し無茶な運転をして構わないのであればできるかも知れませんが、相手はバイクですからねぇ。ちょっと難しいかもしれませんね」
「そうですか。それじゃあ、どこか途中の駅で降ろしてもらえますか」
電車であればSUIKAを持っているのですぐに乗車できる。電車が構内に入ってくるタイミングを見計らって車を降り、急いで改札を通り抜ければ到着した電車に乗れるだろう。後を追ってくる彼らはどこかにバイクを停めてから改札を通ることになるだろうから若干時間が掛かる。追いつかれる可能性は低いだろう。しかし、この辺だと電車の本数が少ない。タイミング良く電車が来るだろうか。それと、改札を抜けても電車がすぐに発車しなければ追いつかれる可能性がある。
「あ、やっぱり都内まで行ってください。で、どこかのターミナル、そうだな、東京駅に行ってもらえますか。そこなら人込みで振り切れるでしょう」
「わかりました。それでは東京駅に向かいます。もしできるようなら振り切ってみます」
もう一度振り向くと、二台のバイクがぴったりとついて来るのが見えた。
“やれやれ、なんだってこんなにしつこいんだ。他にもニュースはいっぱいあるだろうに”
「あまり無理しないで下さいね。万が一、彼らが事故でも起こしたら夢見も悪いし」
「わかりました。それでは、普通に走っていくことにします」
いつの間にか京葉道路の入り口に近づいていた。京葉道路でハイヤーがバイクを振り切るのは、素人目に見ても難しいと思われた。やはり東京駅の人込みで巻くのが現実的だった。
東京駅の八重洲口でハイヤーから降りると、案の定、バイクが二台ついて来ていた。途中、後ろを振り返ることはしなかったが、土曜日のこの時間帯ではそうそう無茶な運転ができるはずもなかった。ハイヤーの運転手も振り切ることははなからあきらめた、というよりも、いつも通りの安全運転に徹していたようだった。バイクの後ろに乗っていた記者らしき人間がこちらに近づいてこようとしたのが見えたので、慌てて地下街への階段を急いだ。すぐに改札の中に入ることも考えたが、もし彼らがついてくるようであれば、巻くのには駅構内よりも地下街の方が楽だと判断した。東京駅の地下街には度々来ており、大体の構造を把握していた。階段を降りきってひとつ目の角に来たところで振り向いてみたが、意に反して彼らが追ってくる気配は無かった。しばらくその場で階段を降りてくる人々を眺めていたが、やはり彼らは追うのをあきらめたようだった。
どこでどうやって巻いてやろうかと考えていただけに、不意にはしごを外されたような、残念な気持ちになった。記者に取り囲まれたりバイクで追走されたり、普段経験しないことが続いたためか、いつの間にか自分が超有名人かのような錯覚に囚われていたらしい。彼らが多くの時間と労力を割いてまで欲している情報ではないことも、少し冷静になって考えればすぐにわかることだった。
反面、中途半端に追走されたせいでハイヤーを降りる結果になったことが腹立たしくなってきた。彼らが来なければ、滅多に乗ることのないハイヤーで河合出版まで楽に行けたと思うとモヤモヤした気持ちが身体の内側であっちに行ったりこっちに行ったりしていた。
中央線で御茶ノ水駅まで向かう途中、駅から河合出版までの道程を知らないことに気づいた。大手の会社なのですぐにわかるだろうと高をくくっていたが、いざ駅に着いてみるとどっちに行っていいのか見当がつかなかった。しかたなく相澤に電話をして、ようやっと河合出版の本社ビルにたどり着くことができた。マスコミの相手やらなんやらで、いつの間にか授賞式までの時間も残りわずかになっていた。相澤は時間を惜しむかのように挨拶もそこそこに済ませ、会議室と思われる部屋に私を連れて行った。そこにあったホワイトボードには既にいろいろなことが書き込まれており、“謝罪:相澤”とか“ペンネームで応募した経緯:内野”といった言葉が目についた。
部屋にいた大田原が私に向けて軽く手を挙げ、挨拶を交わしてきた。軽く礼をしてから近くにあった椅子に腰掛け、ホワイトボードを端から順番に、今度は一字一句を丁寧に読んでいった。その動作に被せるように相澤が説明を始めた。
「内野さん、授賞式までの時間が余りありませんので、一応私が考えたシナリオを簡単に説明しますね。授賞式では、まず最初に芥木賞の授与がありますが、これは事務局が進行する予定です。その際に、事務局から内野さんの氏名が公表されます」
「氏名って本名ですか?」
「そうです」
「でも、今回の応募はペンネームで問題ないのですよね?敢えて本名を出さなくても良いのではないですか」
「ルール的にはそうですね。だけど、今回は受賞する前からマスコミが大騒ぎしていますし、内野さんであることもほぼ特定されていますからね。それと、先ほど電話でもお伝えしましたが、事務局長から素性を明らかにすることを求められています」
「そうですか。まあ、今更隠してもあまり意味はないですね。わかりました」
素性を明かすということは、今後もしばらくは騒がれることになる。そのことを思うと気が重かった。
「芥木賞の授与が終わってから記者会見に移るのですが、ここで私から昨夜の記者会見で氏素性に関する質問を制限したことに対するお詫びをします。謝罪の内容は、次のように考えています。ひとつめは、昨夜の時点では氏素性の発表に関して河合出版と事務局との間で認識が異なっており、発表を控えさせてもらった。これはひとえに私の勘違いであり、事務局には受賞の発表までに公表する旨を伝えていたが、発表とは今日の授賞式のことだと思っていた、とします。ふたつめは、受賞した旨を私から内野さんに伝えたものの、内野さんは夕方の騒ぎが予想以上に大きくて動揺し、なんとか公表をもう一日延ばしたいと思った、とします。そして、私がこれらふたつの理由を踏まえて問題無しと判断した、というものです」
大田原が腕を組んだまま言葉を挟んだ。
「うーん、やっぱり少し弱くないか?夕べの相澤の態度はかなりきつかったからなぁ。会見中止までちらつかせていたし。その理由がその程度だと心象が悪くならないか?」
「確かにちょっと弱いような気もするのですが、いずれにせよ、昨日の今日ですから、どんな御大層な理由を並べてもあまり変わらないんじゃないかと。それならいっそのこと軽く流してしまえと思ったのですが、やはり厳しいですかね」
「流し切れればいいが、途中で引っかかった時のことが気になるな。一度引っかかると収拾つけるのが大変なんじゃないか?その後の記者達の出方に影響されても嫌だし」
「しかし、本音を言うわけにもいきませんよ。それと他に適当な理由も見当たらないですからねぇ。私はどうにかできると思いますが、内野さん、如何です?」
きっと二人でさんざん議論したのであろう、“謝罪”という文字の周りには“本音”とか“認識の相違”とかいった文字が並んでいた。
「その件だけでなく、いろいろと追求されるとうまく答える自信はないですね。夕べはたまたまうまくいきましたけど、後から考えると、よくもまあ辻褄の合うように話したものだと自分自信に驚いたくらいですから」
「内野さんの昨日の受け答えはばっちりでしたから、自信を持っていいですよ。ね、編集長」
相澤にせっつかれた大田原は相澤の真意を図るようにひと睨みしたあとこちらに向きながら告げた。
「ええ、内野さんの受け答えはまるで本人そのものだったので誰も疑っていないと思いますよ。今後もマスコミとはいろいろなところでやり取りするでしょうが、昨日の要領でやってもらえば問題ないでしょう」
その言葉を“待ってました”とばかりに相澤が言葉を継いだ。
「そうですよ、内野さんは自信を持って“某氏”になりきってください。謝罪の件は私がきっちりと押さえますから安心していてくださいよ。お二人の危惧もわからないではありませんが、私も伊達に河合出版の編集者をやっているわけではありませんし、大丈夫ですよ。ですから、内野さん、編集長、この線で行きましょう!」
勢い込んで言うとホワイトボードの“謝罪”と書かれている個所を赤字で二度三度と丸で囲った。大田原と私が顔を見合わせ思案しているのもお構い無しに相澤は先を続けた。
「さて、次に“某氏”というペンネームを使った理由ですが、これは昨日の記者会見で答えていますから、今更変更する必要はないですね。内容は内野さんがご自身の言葉で話されていますから大丈夫ですね?」
念のために聞くぞ、といった顔をこちらに向けてきた。
「ええ、多分大丈夫だと思います。作品の主人公をイメージしたペンネームを最初から使いたかった、といった感じでしたよね」
相澤が大きく頷いた。
「ばっちりですね。あとは、私、というか河合出版が代理人になって応募した経緯を決めておきましょうか」
完全に相澤のペースで話が進んでいた。大田原も主張したくなったのか横から口を挟んできた。言いながらホワイトボードの“代理”と書かれた個所を指差していた。ホワイトボードには“飛び込み”とか“事実通り”といった単語が並んでいた。
「そこはさっき話した感じで良いんじゃないか」
「そうですね、私もそれで良いと思います。内野さん、昨日、記者会見の前にこれまでの経緯を話しましたが、内容を憶えていますか?私のところにいきなり電話をかけてきて、“本を読んでくれ”と言ってきたところからですが」
夕べ話を聞いた時は、やや興奮状態だったので話を聞き逃しているかもしれない。確認の意味も込めて、昨日の説明を簡単に反芻してみた。
「確か“某氏”が突然電話をしてきて原稿を読んでくれるよう依頼してきたんですよね。そして、内容が素晴らしいことを告げたら今度は相澤さんに代理で応募することを依頼した。しかも素性を明かさずに“某氏”というペンネームで応募して欲しい、と」
「大体大丈夫ですね。少し気になるのは、“素性を明かしていない”点ですが、ここは最初から素性は明かしていたことにした方が良いと思うのですが、如何でしょう」
「そうですね、素性を明かさなかったとなると何らかの理由を考えないといけないですし、却って面倒かもしれませんね。素性は最初から明かしていたことにした方が良いと思います」
「わかりました。それではこうしましょう。芥木賞の応募締め切りも迫ったある日、内野さんが作品を読んで欲しいと河合出版に電話してきた。作品を読んだ私が、その出来栄えに感動し、是非とも芥木賞に応募すべきだと提案をした。ところが内野さんは初の作品で自信も無く、尻込みしていた。そこを無理やり私が押し切って応募することになった。内野さんはこの作品を発表することがあったら是非ともペンネームを使いたいと考えていた。そのことを聞いた私が、それならなるべく素性がわからないよう、私が代理で応募してはどうかと提案した。内野さんはサラリーマンとしての仕事もあり、それは助かるということで依頼した。こんな感じでどうですか?」
「そうですね、それなら違和感もないし、大丈夫じゃないでしょうか」
「編集長、こんな感じでどうですか。他に気になる点とかありますか?」
「ひとつ忘れていた。今のシナリオだと事務局の山本さんに話した内容と合わないところが出てくるんじゃないかん?」
「そこは私が脚色したことにします。まあ、山本さんも会見の場では指摘しないでしょうから大丈夫ですよ。他は大丈夫ですか?」
「そうだな、内野さんも大体イメージができたようだし、そんな感じで良いんじゃないか」
相澤の考えたシナリオを頭の中で簡単にイメージすることができた。すると、自分が“某氏”なのか、“某氏”を引き継いだだけなのか、段々と曖昧になってきていることに気づいた。
「あとは、何故内野さんが河合出版を選んだのか、とか、“流布”という作品に対する思い入れとかイメージ、また、書くことになったきっかけとかを聞かれると思います。その辺りは内野さん、あなたが思ったままに答えていけば良いでしょう。とにかく、ここまで来たからかには内野さんが“某氏”に成りきることが大事だと思いますよ」
大田原の言葉で自分が他人に成り代わるのだということを強く再認識した。自分が“某氏”と間違えられていることを明確に知らしめられたロビーでの出来事からまだ一日も経っていない。それにも関わらず、知らず知らずのうちに自分が“某氏”であるような錯覚に陥っていた。夕べ相澤からお願いされた時には身の危険を感じて断ったが、今では【“流布”を書かれた方ですね】と聞かれたら【ええ、そうです】と何のためらいも無く答えてしまいそうだった。ほんの十数時間で私の中にある何かが劇的に変化しつつあるのを感じた。とても不思議な気分だった。
こちらの身の内で起きている変化などお構いなしに相澤が思案顔で言った。
「昨日の会見では作品の中身を誰も知らなかったので気にしませんでしたが、今後は作品の中身についてもいろいろ聞かれますね。もしかすると今日の授賞式でもその辺りまで言及される可能性があります。内野さん、昨日渡した原稿ですが、どのくらい頭に入っています?」
昨日、会見が終わった後に相澤から原稿のコピーを受け取っていた。彼らが帰った後、美春が来るまでの間と寝る前、そして今日も時間を見つけては原稿に目を通してみた。しかし、ざっと一読するのが精一杯だった。登場人物の氏名等、全てのキーワードや細かい表現とかについて受け答えするためには、ちと心もとない感じがした。もう少し読み返さないといけないのかもしれない。そのことを率直に相澤に伝えた。
「うーん、そうですよね。夕べの今日で細かいところまでは難しいですよね。記者達にはまだ公開されていないので今日のところは大丈夫だと思いますが、事務局の方で行うインタビューはちょっと気になりますね。作品の評価が高いだけに、選考委員の皆さんもいろいろと聞きたいことがあるでしょうし。ちょっと困りましたね」
そう言いながら、助けを求めるように大田原の方を向いた。ここで振られるとは思っていなかったのか、びっくりした様子を隠すように咳払いをしてから大田原が言葉を発した。
「こればかりはもう内野さんに委ねるしかないだろう。幸いなことに原稿は一読されたようだし、まるっきり見当違いな答えになることもないんじゃないか。仮に多少危なっかしいやり取りになっても、それは内野さんのキャラクターだと思わせてしまうとか、緊張のせいにしてしまえば今日のところは乗り切れると思うが、どうかな。当然、相澤も機を見て割り込むとかして助けてくれよな」
「ええ、それはもちろん。会見中は十二分に注意しますから安心してください」
「意外と先入観があまりない今の状態が良い結果をもたらすかもしれないしな。内野さん、ここはひとつ、どんと構えていってください」
正直なところ、この時、作品の中身についてはあまり気にしていなかった。作品の持ち主に成ったつもりではいたが、それはあくまでも“某氏”というペンネームが自分の物である、という一点だけだった。作品の機微や登場人物の性格等を生み出した過程や想いまでを見に付けなければいけないことに気づいていなかった。
「ここまで来ると、もうどうにでもなれ!って感じですね。わかりました。腹を括ることにします」
口をついて出た言葉に少し驚いた。私はどちらかというと小心者であり、こんな風に肝が据わっているタイプではない。思考の癖も物事を否定的に考える性質であり、このような場合、すぐに悪い結果を想像しがちだった。ところが今回はプレッシャーを受けるでもなく、平常心で構えていられる。そんな雰囲気が伝わったのか、二人もほっとした表情を見せ、ようやっとひと心地ついたようだった。時計を見ると授賞式まで一時間を切っていた。
河合出版から授賞式会場である山の上ホテルまでは歩いて十五分もあれば行ける距離だった。余裕を見て午後四時を十五分程まわったところで三人はタクシーに乗って山の上ホテルに向かった。いよいよということで三人とも緊張していたせいか、車の中ではほとんど会話を交わさなかった。ほんの五分程の道程を静寂のまま過ごした。ホテルに入ると会場は既に設営を終え、関係者が会場のあちこちで挨拶やら世間話を交わしていた。会場に入るまでは気楽な気分でいたが、いざ会場に一歩足を踏み入れた途端、緊張の度合いが一気に高くなるのを感じた。入り口で大田原が顔見知りなのであろう、作家らしき人物と挨拶を交わしていた。その時、こちらに近づいてくるやや長身の男性が目に入った。緊張感が益々高まっていった。
「少し冷えてきましたね。障子を閉めましょう」
「ああ、そうですね」
「ところで、次回作を書く際に本人には内緒でサポートさせますか?」
「必要ないでしょう」
「でも、ご存知のように彼の経歴やプライベートの行動スタイルをみる限り、ちゃんとした読み物を書けるとは思えませんが」
「まあ、小説を書いたことはないでしょうが文章を書く才能はあるはずです。それと、夕べの記者会見の対応振りを見ていて感じましたよ。彼ならもしかすると良い作品が書けるかもしれないとね」
「いつもの勘ですか?しかし、箸にも棒にもかからないような作品を書かれてしまっては、この先の計画に支障が出てしまうと思います。その辺りはどうお考えですか」
「まあ、一回くらいの失敗は多めに見ようじゃありませんか。仮にその失敗で頓挫してしまうようだったら他を探せば良いだけですから」
「承知いたしました」
春の風が少し強く吹いてきて、散り始めた花びらを庭の外に運んでいった。
第五章 授賞式
会場の設営が無事終了し三河審査委員長も先程到着した。後は唯一の受賞者である“某氏”が到着すれば準備は完了する。時計を見ると午後四時半を示していた。山本は念のため河合出版の相澤に電話をしようと思い、人ごみから離れた。その時、相澤と編集長の大田原が入り口から入ってくるのが見えた。見たことのない男性が一人同行していたので、きっと彼が“某氏”なのだろう。彼らの方に歩を向けた。大田原は作家の高塚と挨拶を交わしていたが、相澤がこちらに気づいて男を伴い近づいてきた。
「山本さん、ご苦労様です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いいたします。こちらの方が”流布”を書かれた方ですか?」
横の男性を見やりながら相澤に聞いた。
「ええ、こちらが“某氏”こと内野さんです。内野さん、こちらが事務局長の山本さんです」
挨拶をしようと男に正対した。男は緊張しているようにも見えたが、あまり感情を面に表さないタイプのようにも思えた。何かをとりだそうとしたのか、一瞬、胸のポケットに手を入れかけた。途中で何かに気づいたのか、慌てて手を戻し、その手を差し出しながら挨拶をしてきた。軽くお辞儀をしながら挨拶を返したが、気のせいか、握手をした手が微かに震えているように感じた。
「はじめまして、内野と申します。今回は大変素晴らしい賞を戴きありがとうございます」
「はじめまして、事務局長を務めさせていただいております、山本と申します。今回は大変素晴らしい作品を応募いただき、こちらこそありがとうございました。後ほど審査委員長からもコメントがあると思いますが、各審査委員の先生方も皆さん絶賛されていましたよ。私もかれこれ十年ほど事務局長をやらせていただいていますが、今回ほど質の高い作品はなかったのではないかと思っているくらいです」
「ありがとうございます。自分ではまだまだ力不足だと思っていますので、そのような評価をしていただけるとなんだか照れくさいです」
「そんなご謙遜を。相澤さんから聞かれているかと思いますが、今回の選考会では圧倒的な支持を得て授賞を決めたほどの作品です。大いに胸を張って授賞されてください」
山本と名乗った男は背格好が大田原に似ていた。雰囲気も似ていたが、大田原よりも隙がなさそうに感じた。記者会見が終わるまで、彼と話すときには十二分に気を使った方が良さそうだった。相澤が気配を察知したのか、事前に検討した計画通りに進めるべく、山本に相談を持ちかけた。
「ところで山本さん。内野さんが“某氏”というペンネームで応募して素性を明かさなかった件でちょっとご相談させてもらえますか。ご存知のように、昨夜の会見ではうちの判断で素性を明かさなかったじゃないですか。で、昨日の今日で百八十度方針変更ですと伝えたら、マスコミの皆さん、かなりテンションが上がってしまうと思うんですよ。そんな彼らの相手を山本さんや内野さんにお願いするのはとても心苦しいものがあります。ですから、この件に関しては河合出版の方でマスコミに説明をさせてもらいたいのですが、如何なものでしょう。授賞式後の会見で、冒頭、お詫びと共に説明をさせてもらえませんか」
山本はしばらく何かを考えているようだった。
「そうですね、夕べの会見は芥木賞の主催者とは関係のないところで行われたものですから、そのことに関する説明は河合出版さん、または内野さんにお願いする方が良いでしょうね。授賞式後の会見冒頭で時間を割くようにします。そこでの説明はどなたがされますか?」
「私がお詫びと説明をさせてもらいます。今回は私の不手際でご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、もう終わったことですから。ただ、できれば、授賞式前にして欲しかったですけどね」
軽い皮肉を交えながら笑顔で話す山本に対し、相澤は神妙な顔つきで下手に出つつ、山本を懐柔しようとしていた。普段から著名人とやりあっているだけあって、相澤はなかなかの演技者だった。きっと山本も、何故昨日の会見で相澤達が私の素性を明かさなかったのか、その理由をある程度見抜いているのだろう。昨日の騒ぎも、内容はさておき、結果的により一段と今年の芥木賞を印象付けた。この後を上手くまとめれば事務局としてもプラスにはなれどマイナス要素にはならないと踏んだのだろう。その場に背はあまり高くないが独特な雰囲気を纏った人物が近づいてきて山本に話しかけた。
「山本君、準備の方はどうですか」
「あっ、中川さん、丁度良いところに来られました。今、本日の主役である“某氏”こと内野さんにご挨拶をしていたところです」
中川と呼ばれた男は、よくよく見るとたまにテレビや雑誌で見かけたことがあった。ただ、今までは小説にあまり興味が無かったこともあり、その人物が大家なのかどうかわからなかった。
「初めまして、今回、選考委員をさせていただいた中川と申します。三河委員長が都合により授賞式に参加できませんので、僭越ながら代理を努めさせていただくことになりました」
中川はきっとそれなりに評価された作家なのであろう。言葉とは裏腹に、表情の一部やちょっとした仕草に人を見下すようなところが感じられた。
「はじめまして、内野と申します。今回は大変素晴らしい賞を戴きありがとうございます」
相変わらず緊張はしていたが、今回は名刺を出そうとして胸ポケットに手を持って行くことはしなくて済んだ。とはいえ、緊張しながらも“ぼろを出してはいけない”という気持ちが強く、山本への挨拶と同じ言葉を繰り返すのが精一杯だった。
「内野さんは今回の作品が処女作だと伺いましたが、初っ端からあれだけの作品を作られるとは驚嘆物ですよ。選考委員の間でも“平成の大作家誕生!”との声が挙がっていた位です。どちらかで書き物について学ばれたりしていたのですか?」
第一印象のせいか、上からの目線でこちらを探っているように感じた。
「いえ、読むことは好きで若い頃から無作為に読んできましたが、特にどこかで学んだとかいうことはないです」
警戒する気はなかったが、気持ちが表面に出てしまったのであろう。
「少し緊張されているようですな。まあ、処女作がいきなり芥木賞ですから無理もないでしょう。今日は授賞式だけですから気楽に楽しんでいってください。山本君、そろそろ準備をした方が良くないかい?」
腕時計を見ながら山本を促した。
「そうですね。内野さん達は準備の方は大丈夫ですか?よろしければ式次第を説明させてもらいますが」
横を見ると相澤と大田原が軽く頷いていた。やはり緊張しているのだろう、大田原が隣に来ていたことに気づいていなかった。
「ええ、緊張していますが大丈夫です」
山本から式次第を聞き始めると、中川が私達から離れて壇上の方に向かって歩いていった。一通り簡単な説明が終わり所定の位置に腰掛けると、何時の間にか会場内に多くのカメラマンや記者と思われる面々が集まっていることに気づいた。記者達はこちらを見ては何事かささやいている。私がここにいることに気づいて文句を言っているのかも知れない。ところが夕べの記者会見とは違って、こちらに気づいても誰もフラッシュを焚くようなことはせず、誰も撮影をしていないようだった。主催者サイドから撮影時間を制限されているものと思われた。
ライトが灯され、壇上下手のマイクスタンドに山本が向かうと会場内の照明がピンポイントで山本を照らした。
「皆様、大変お待たせいたしました。これより平成三十年度、芥木賞授賞式を開催させていただきます。私、本日の司会進行を努めさせて頂きます、事務局長の山本と申します」
ここで間を置き、会場を軽く見回してから応募作品の数や選考の結果等が簡単に説明された。会場の大多数を占めるマスコミ関係者にとってはどうでも良い内容なのか、山本の言葉を丁寧に聞いているのは事務局関係者だけのようだった。
「これらの作品についてはお配りしました資料の方に寸評も含め記載しておきましたので、詳細についてはそちらをご覧ください。それでは本年度の芥木賞についてご紹介いたします。作品は既に昨日の時点で速報させていただいておりますので皆さんご存知かと思いますが、改めてご紹介いたします。本年度の芥木賞は、選考会、満場一致で“流布”に決定いたしました」
会場からはお座なりに拍手が起きた。この手の授賞式には出たことがないのでわからないが、盛り上がりに欠ける、なんともしまらない雰囲気が会場内に広がっていた。
「それでは作者の“某氏”こと内野さん、壇上にお上がりください」
山本がこちらを向くとそれにあわせるかのように照明が私に向けられた。予想以上の明るさで一瞬前が見づらくなったが、今度はカメラのフラッシュが照明の上から一斉に焚かれ始めた。この時、夕べ感じたのと同じような感覚が体の中を貫いた。それを合図にしたかのように立ち上がり、躓くこともなく壇上に向かった。ついさっきまで自分の鼓動が聞こえる程に緊張していたはずなのに、カメラのフラッシュを浴びた途端、一気に緊張の呪縛が解けて昨夜の記者会見で受け答えした時と同じ気分になっていた。壇上に上がり、前を向くと、少し収まっていたフラッシュがより強い光の塊になって私を包み込んだ。少し間を置いて山本が式を進めるべく、次の段取りに入っていった。
「それでは芥木賞の授与を選考委員である中川先生にお願いしたいと思います。中川先生、よろしくお願いいたします」
壇上の椅子に腰掛けていた中川が先程と同じ雰囲気を漂わせつつ近づいてきた。傍らで待機していた女性から芥木賞の楯を受け取ると、面に柔和な表情を浮かべ、楯をこちらに差し出してきた。楯を左手で受け取りながら中川と握手をした途端、またもフラッシュが一斉に焚かれた。すると中川が笑顔を光の発せられた方に向けた。
“そういえば、よくゴルフの表彰式でこういうシーンがあるな“
この場とは関係のないことを思いながら、カメラの放列に笑顔を向けた。作り笑いは苦手だった。そのことを知っている美春が昨夜、やり方を一生懸命になって教えてくれた。この時、上手く笑顔になれたのかどうか自分ではわからなかったが、後から美春に聞いたら七十五点と言われた。
一通り撮影が終わるタイミングを見計らって山本が進行を促した。何とも卒のない進行役である。
「引き続きまして、中川先生より受賞理由についてコメントしていただきます」
中川は壇上下手にいる山本のところまで行き、マイクの前に立ち、こちらに視線を向けてから受賞理由について解説を始めた。
「まずは、内野さん、受賞おめでとうございます。これから選考会の結果をお話しますが、今回はとにかくすごかった、と最初に言っておきましょう」
マスコミ関係者がいる会場の方に向き直り先を続けた。
「今年も例年通り、二回の選考会を経て応募作品の出来栄えを吟味させていただきました。第一次選考会では、これは大変異例なことなのですが、なんと、選考委員の全員が推挙することになり、作品の内容を議論するまでもなく通過しました」
会場から軽いどよめきが起こった。マスコミ関係者にとっては既知の事実ではあったが、こうして改めて説明を受けることでことの大きさを受け止めたのかも知れなかった。
「通常、第一次選考会では、作品について議論する前に各選考委員から応募された全作品に得点をつけてもらいます。この得点は結構バラけることが多く、結果的にはあまり参考にならないことも度々あります。ただ、今回受賞した“流布”という作品は、この得点でほぼ満点を獲得しました。私も何回か選考委員を務めさせていただいていますが、ここまで高得点になったのは記憶にありません。長年事務局長を担っていただいている山本さんも記憶にないと仰っていたので、かなり異例なことだと思われます」
そこまで話すと一息入れるように間を置いた。話すことによって自身のテンションが上がってきたことに気付き、少し落ち着かせようとしているようにも見えた。
「こうしてなんなく第一次選考をパスした後、昨日、最終選考会を行ないました。しかし、ここでも議論となるほどの懸案は見つかりませんでした。作品を絶賛する声は挙がっても、検討を要するようなコメントは一切出なかったのです。ほぼ完璧な作品と言って良いのではないかと思います」
会場がまたもざわめいた。素晴らしい作品であることは相澤から聞いて知っていたが、ここまで絶賛されるとは思っていなかった。ここでまた不思議な感覚に囚われた。まるで自分のことのように喜びが心の底から湧いてくるのを感じた。
「聞くところによるとこの作品は内野さんの処女作とのこと。今後の作品が大変楽しみな、素晴らしい作家の誕生です」
一斉に拍手が起こり、スポットライトが再び私の目の前を光の海に変えた。昨夜の記者会見で感じたものとは比較にならないくらいの恍惚感が襲ってきた。光の海の中を漂うような感覚は、拍手が収まるまでの間、たゆまなく続いた。ふと気付くと拍手は収まり、照明も元に戻っていた。
「それでは本年度の芥木賞受賞者である内野さんからコメントをいただきたいと思います。内野さん、よろしくお願いいたします」
山本の声に促されるようにしてマイクの側まで行くと、山本は穏やかな笑顔でポジションを空けてくれた。マイクの前に立つと、三度フラッシュが焚かれたが、さすがに慣れて来たのか、例の恍惚感はあまり感じられなくなっていた。
「本日は、大変素晴らしい賞をいただきありがとうございます。昨日、連絡をいただいてから丸一日が経ちましたが、未だにピンと来ないというのが今の実感です。先ほどの中川先生のお話にもありましたが、実はこの作品は私の初めての作品でして、まさか賞をいただけるなんて、ありきたりの言葉ですが、夢のようです。今後、どのような作品が書けるかわかりませんが、今日いただいたこの賞を励みにして、少しでも良い作品が書けるよう、今後も頑張っていきたいと思います。ありがとうございました」
会場内を拍手の音が埋める中、山本に促されて壇を降りて相澤達が座っているところに戻っていった。
「それではこの後、記者会見に移らせていただきます。会場のセッティングがありますのでしばらくそのままでお待ちください」
相澤と大田原が立ち上がり、壇の裏に向かいながら小声で言葉を掛けてきた。
「内野さん、いよいよ正念場ですね。気楽にいきましょう!」
返事を返す代わりに二人を見ながら大きく頷いて、大丈夫であることを彼らに伝えた。山本が私と相澤を記者会見用にセッティングされた椅子のところへ来るよう呼びに来て会見が始まった。
「まず最初に、昨夜の記者会見について河合出版から説明があるそうです」
山本が事務口調で告げると、相澤がマイクを持ち深々とお辞儀をしてから話し出した。
「河合出版の相澤と申します。昨夜の記者会見におきまして、一部不手際のあったことをお詫びさせていただきたく、事務局の方にお願いをし、この場をお借りしました。まず最初に、昨夜の記者会見で今回の芥木賞を受賞した“流布”の作者である“某氏”が誰か、という点に関して質問を制限させてもらった件について説明させていただきます。今回、我々はここにいらっしゃる内野さんから依頼を受け、芥木賞の応募、およびその後の対応について代理で行なわせていただくことになっておりました。というのも、今回の作品では作者である内野さんが作品の構想段階時点で既にペンネームを使用することを想定しており、可能な限り素性を明かさずにいたいと考えていたからです。ペンネームを使うことについては事前に事務局に確認を取って了承いただいており特に問題はなかったのですが、素性を明かすタイミングについて、我々河合出版側の認識が事務局で指示されたものと異なっていました。その結果、皆様にご迷惑をおかけすることになってしまいました。事務局からは賞が確定するまでに素性を明確にするよう指示されていたのですが、我々はこの“賞が確定”を本日の授賞式と勘違いしてしまいました。内野さんにも事前にその旨“賞の確定までに素性をあかすこと”を伝えていたのですが、昨夜の記者会見時点では内野さんも授賞式で素性を明かせば良いと認識されていました。そのこともあり、あの段階で素性を明かすだけの心の準備ができていませんでした。そこで、我々河合出版の判断で、あのように顔を隠し、素性に関する質問を制限することにさせていただきました。本来なら昨日、賞が告知された時点までに素性を明かさなければいけなかったものが、結果的には本日、この場にまで延びてしまったこと、大変申し訳ありませんでした。全ては我々河合出版側の不手際でございます。事務局を始め、関係各位およびマスコミの皆さん、そして内野さんに大変ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませんでした」
相澤が深々と頭を垂れるや否や、事務局長がフォローするべくマスコミ関係者に告げた。
「マスコミの皆さん、昨日の記者会見には色々とご不満もおありでしょうが、河合出版さんも大変反省されているようです。そして、何より、今日はこのような素晴らしい作品が世に出た記念すべき日です。なんとか穏便にお願いできませんでしょうか」
すると会場の前方に陣取っていた、以前、テレビのワイドショーで見たことのある中年女性が立ち上がった。また会場が騒然となるかと思ったが、山本の経験が優ったのか、昨夜のようにはならなかった。
「この後の記者会見では内野さんに関する質問はしても構わないのですね?」
「ええ、結構です。我々芥木賞を主宰する側としましては、ペンネームでの応募は認めておりますが、素性を隠すことは認めておりません。今回は手違いもありましたが、先ほどお配りした資料にも内野さんの氏名を記載しております。記者会見において質問の制限を設けるようなことはいたしません。まあ、常識を逸脱するような質問は困りますけどね」
「確認しますが、今回の不手際はあくまでも河合出版側の問題であり、主催者側には非がないということでよろしいでしょうか?」
やはり昨夜の記者会見における相澤の態度に腹据えかねる、といったとこなのだろう。悪者は糾弾してやろう、という意識がちらちらと見え隠れしていた。返答しようと山本を見た相澤を手で制し山本が答えた。
「結果的には河合出版さんの解釈が間違っていたわけであり、その点については事務局に非はないと考えます。ただ、今年の選考会はこちらの都合でスケジュールを変更しており、マスコミのみなさんにお伝えしたタイミングも例年とは異なっています。直接関係することではありませんが、今回のトラブルに若干でも影響を与えたのかも知れず、そういう面では申し訳なく考えております」
さすが長年事務局長をやっているだけのことはある。問題の本質を上手くぼかした回答だった。
「皆様、納得していただけましたでしょうか。であれば引き続き、記者会見に移らせていただきたいと思います。内野さん、恐れ入りますが壇上の方にお越し願えますか」
隣で所在なさげに立っている相澤をちらっと見てから壇上に上がり、用意された椅子に腰掛けた。いよいよ正念場である。ぼろを出さぬよう応答するためには冷静にならなければいけない。今、自分が冷静なのかどうかはわからなかった。ただ、昨日の記者会見にもいたちんちくりんなおばさんの濃い化粧がところどころ崩れているのがわかった。恐らく自分が思っている以上に冷静なのだろう。
「それではご質問をお願いいたします」
化粧の崩れた先ほどの女性リポータが、座りもせず、待ち構えていたかのように質問してきた。
「昨夜もお祝いを述べさせていただいたのですが、昨夜は内野さんかどうかわかりませんでしたので、敢えて申し上げます。内野さん、この度は芥木賞受賞おめでとうございます」
皮肉たっぷりに祝いの言葉を笑顔で発したが、目は笑っていなかった。あまり気分の良いものではなかったが、取り敢えず礼を言おうとしてマイクに顔を近づけたところで間髪いれずに質問してきた。
「今回、ペンネームで応募した理由は昨日お伺いしましたが、第一次選考会以降、あれだけ騒がれていたにも関わらず素性を明かさなかったのには何か理由があったのですか?」
最初の質問なのだから作品について聞くのが礼儀だと思うが、彼女にはそんな常識はないらしい。まあ、ワイドショーとかでたまに見かける記者会見も、大抵は野次馬根性丸出しだから仕方がないのかも知れない。少しテンションが下がったが、ボロを出すわけにはいかない。気を取り直して相澤たちと打ち合わせた通りに回答していった。
「今回の応募はここにいらっしゃる河合出版の相澤さんに代理で行なってもらいました。もともと私の方でペンネームを使いたいこともあり、最初は事務局にも素性を知らせず手続きしていただきました。その後、マスコミの皆さんがいろいろな憶測を流し始めましたが、私を特定するようなものではなかったので放っておきました。事務局には、先ほど説明がありましたように、授賞式までにお伝えすれば良いと思っていましたので、相澤さんとも相談してしばらく様子を見ることにしたのです。ところが最終選考会の数日前には報道の内容が変わってきて、あきらかに私を示すようなものが出てきました。この頃になると、私も会社の同僚や知人らにいろいろと聞かれることが増えてきてしまい、流石に放っておく訳にはいかないと思いました。ただ、受賞したわけでもないのに自ら私が“某氏”ですと名乗るのも変ですし、どうしようと悩んでいるうちに昨日の最終選考会を迎えてしまいました。昨夜の記者会見で公表しなかったのは先ほど相澤さんが説明された通りです。私もあんなにマスコミの方が集まるなど予想もしておりませんでしたから、会場に入るや否や舞い上がってしまって、とても冷静に説明できる状態ではありませんでした。大変申し訳ないとは思いつつ、あのような会見になってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
神妙な面持ちで言い訳をしたが、件のリポーターは、逃してなるものかとばかりに大きな鼻を膨らませながら聞いてきた。
「すると、特に理由も無く、あれだけ私達が探していたにも関わらず放っておいたということですか」
叱責するように聞いてきた。今日は受賞をお祝いする場であることを無視した質問だった。どう答えようか思案している時、壇上に駆け上がってくる人影が視界に入った。相澤がフォローをすべく馳せ参じたようである。私の横に立ちマイクに向かうと、件のリポーターだけではなく会場全員に向けて話し始めた。
「先ほども申し上げましたが、今回は私ども河合出版が内野さんの代理人として手続きを行ないました。マスコミ各社への応対も我々が行うべきであったと思っています。ところが、皆さんの報道が明確に内野さんを示すようになった頃、今回の手続きを担当していた私が別件に手を取られ、十分に内野さんのフォローをできない状況になってしまいました。内野さんは今の回答にもあったようになんとかしなければと考えていたのですが、何分、この手のことには素人であり、どうしたら良いのかわからなかったそうです。本来ならこの時点で我々、いえ、私の方で事務局及びマスコミの皆さんに説明をしなければいけなかったのですが、先程申し上げたように別件で手一杯になってできませんでした。その結果、このような事態になってしまいました。皆さんには大変ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
これでもかというくらい、深いお辞儀をした相澤を見て、私も慌てて深くお辞儀をした。カメラのフラッシュが一斉に焚かれた。
授賞式も無事終了しマスコミ各社の面々が帰った後、事務局長の山本と委員長代理の中川に挨拶をしてから、相澤、大田原と共に河合出版のオフィスに戻った。さすがに三人とも疲れたせいか、帰りの車中どころかオフィスの会議室に入ってからもしばらくの間、無言で椅子に腰掛けているだけだった。三人の中で一番ストレスが少なかったと思われる大田原がやっとのことで口を開き、私の方を向いてお祝いの言葉を告げた。
「まあ、なんとかクリアすることができて良かった。多少、批判の目を向けられるかもしれませんが、これで、実力派作家の誕生ですな。芥木賞、受賞、おめでとうございます」
「内野さん、おめでとうございます」
大田原につられるように相澤もお祝いを告げてくれた。二人とも静かな語り口ではあったが、心のこもった一言だった。
「ありがとうございます。これもお二人のおかげです。本当にありがとうございました」
あまり自覚はなかったが、きっと授賞式でかなり興奮していたのだろう。頭の中に靄がかかったような、ちょっとした浮遊感を覚えながら一言返すのが精一杯だった。
しばらくして興奮が覚めてきたのか、芥木賞を受賞した事実にとてつもなく感動してきた。見ず知らずの他人から引き継いだ事実など関係なかった。また、嬉しいとか光栄とかいったものでもなかった。言葉にすることはできそうもなかったが、とにかく感動している自分がいた。こんなに感動したのは何時以来かわからなかった。久しく忘れていた感覚だった。
大田原がお祝いをしようと誘ってくれた。昨夜からの緊張から解放されて頭の中がへとへとになっていると告げたところ、彼らも同じ状態だったようで、後日、日を改めて乾杯することになった。相澤が用意してくれたハイヤーで美春が待つ自宅へと向かった。ハイヤーが自宅近くに近づいた時、マスコミ関係者が待ち伏せしているのではないかと気を揉んだが、家の前にはそれらしき人影は一切なかった。少し拍子抜けしたが、よくよく考えればそこまで注目されるような人物ではないことは自明であり、座席のシートに凭れたまま、気恥ずかしい気分を運転手に悟られまいと少し間を置いてから車を降りた。授賞式開始から六時間が過ぎていた。家に入ると美春が出迎えるなり早口で告げてきた。
「大変よ、さっきからお祝いの電話が鳴りっぱなし。私のスマホだけじゃなくて家電にまで沢山かかってきたわよ。清二さんのスマホにかけても全然出ないし、もう、てんてこ舞いで困っちゃったわよ!」
「あ、スマホ、機内モードにしたままだった。ごめん」
怒っているかと様子を見たが、どうやらそうでもなさそうだった。美春は結婚する前の大学生だった頃から我が儘を言ったり怒ったりすることがほとんどなかった。本人に言わせるとたまに怒っているらしいのだが、おっとりした性格のせいか、おとなしそうな外見のせいか、そういう時でも怒っていないように見えることが多い。改めて考えると不思議な妻である。この時も怒っていないように見えたが、もしかしたら内心では沸々と腹立たしさを感じていたのかもしれない。探りを入れるように聞いてみた。
「鳴りっぱなしって、誰がかけてきたんだい?」
「うちのお母さんに、あなたのお父さんでしょ、それに親戚は片っ端から。そうそう、仙台の叔父さんからもかかってきたわよ。普段、年賀状くらいしかやり取りしてないのにねぇ。みんな今日の記者会見を見て、早速かけてきたみたい。誰かが言ってたけど、みんな、このところ噂になっているのを気にしていたみたい。で、今日のニュースを見て確信をもってかけてきた、そんなところかしら。しかし、テレビの威力ってすごいわね」
やや興奮気味に一気に話すと私の上着を掛けにクローゼットへと向かった。後ろ姿から怒っている気配は感じなかった。少し安心してリビングのソファに腰掛けてスマホの機内モードをオフにした。授賞式に臨んだ際、事務スタッフから電源を切るか機内モードにするよう指示されてからそのままにしてあった。オフにした途端、待っていたかのように着信音が鳴った。出てみると十年来会っていない中学の時の同級生だった。社交辞令的なお祝いを述べると、しばし思い出話に花を咲かせ、一区切りついたところで通話は切られた。時計を見ると午後十一時を二十分ほど過ぎていた。何てこともない電話だったが、長年連絡のなかった知人がこんな夜更けにかけてくるなんて、マスコミの威力を改めて見せ付けられた気がした。後から考えると、この時の威力はほんの小手調べ程度だった。
夕飯代わりに軽く晩酌を始めると美春が何かを思い出したらしく、隣の和室に行ってすぐに戻ってきた。ニヤニヤしながら近づいてくるとリボンのかかった小さな箱を目の前に差し出した。
「芥木賞、受賞おめでとう!」
「なんだ、お祝いを用意してくれたのか。嬉しいね」
受け取った箱の包装を解くと、中からがっしりした感じの万年筆が一本出てきた。一昔前の作家のイメージにぴったり合いそうな、黒を基調に茶でアクセントを与えている趣味の良い万年筆だった。
「おっ、なんだか渋みのある作家みたいだな。最近、万年筆で字を書くことなんてなくなったけど、今度はこれで書いてみようかな」
「どんなものが良いのか悩んだけど、何てったって今をトキメク芥木賞作家ですからね。実際には使わなくても、万年筆の一本くらいあってもいいかと思って」
こういう気持ちの篭ったものはとてもうれしいものである。長年、夫婦をやっていると照れくさい面もあるが、素直に礼を述べることができた。
「ありがとう。本当に嬉しいよ。今度は受賞の賞金で美春にも何かプレゼントするよ」
どこの家庭も似たり寄ったりだとは思うが、こういった喜びの時は夫婦でいて良かったと感じる。普段一緒に生活していると物事に対する感じ方が段々と同じ向きになっていくような気がする。
一夜明けて少し遅めの朝食を取りながらテレビを見ていたら昨日の授賞式の模様が放映された。こうして見てみると自分のテレビ映りも捨てたもんじゃない、などとお気楽なことを考えていたら家の電話が鳴った。時計を見ると十時五分前だった。家電にかけてくる身内や知人は限られるので訝りながら受話器を取ると、馬鹿丁寧な話し方をする男の声が耳に入って来た。
「私、東都テレビの大川と申します。この度は芥木賞の受賞、大変おめでとうございます」
「はあ、ありがとうございます」
授賞式が報道された後、あちらこちらから電話があったと美春が言っていた。ただ、いずれも親戚若しくは知人からであり、テレビなどメディア関係者からの電話はなかったとのことだった。一瞬、嫌な予感がした。まだ目覚めきっていない頭が必死になって警戒モードを発動しろと伝えてきた。こちらの状況に気がついたのか、大川と名乗った男は一方的に自分の用件を一気にまくし立てた。
「突然、お電話差し上げてしまい、大変申し訳ございません。私、局内で文化部に所属しておりまして、文化に関するホットな話題を視聴者の皆様に提供していくことを職務とさせていただいております。最近は、文化的貢献をなされている方にスポットを当てることも多く、そういった方の生き様や作品をお茶の間の皆様にご紹介することが多くなっております。特に、小説を始めとした文壇においては、芥木賞や各賞を受賞された先生方の生き様をご紹介させていただくケースが増えております。そんなおり、昨日の授賞式をテレビで拝見いたしました。内野先生が執筆された“流布”に対して審査員の先生方が絶賛されており、平成の大作家誕生と評されていることを知りました。これはもうすぐにでもお会いしなければいけない、こういった方を紹介していくことが私の天命であると感じました。そんな次第で、昨日の今日で性急かとも思いましたが、お電話させていただきました。お疲れのところ大変恐縮ですが、今日の午後にでもお会いすることはできませんでしょうか」
今は日曜日の午前中であり、多くの人がのんびりと休日の朝を迎える時間帯である。そんな時間に電話してくることもそうだが、昨日の夕方に発表されて今日の朝に直接依頼をしてくるなんて、かなり太い神経を持っているのだろう。偏見かもしれないがテレビ局に勤めている人間にはなんとなく軽いイメージがついてまわるが、こういった図々しい行動に出られると余計に印象が悪くなってしまう。
「今日は予定が入っていて時間取れません。そもそも、どういったご用件ですか?」
わざとらしく不機嫌な調子で返した。しかし、相手は百戦錬磨なのだろう、怯む様子も見せずに次の言葉を発した。
「これは大変失礼いたしました。そうですよね、唐突に会ってくれと言われても困りますよね。先ほどもお話したように、私、内野先生のように文化的な活動をされている方、特にその時々でホットな活動をされている方を番組で紹介させていただいております。今回お電話差し上げたのは、この番組に内野先生に出ていただけますようお願いする為でございます。つきましては、お電話では失礼かと思い、直接お会いした上でお話させていただけないかと考えた次第でございます。大変恐縮なのですが、如何でございましょう」
必要以上に遜った話し方が鼻についた。如何も何もない。端からそういえば良いのである。しかし、昨日デビューしたばかり、厳密にいうとまだデビューもしていない人間を先生扱いするメディアの姿勢には呆れるばかりだった。
テレビ番組に出演することは私の人生とは一番遠い場所にある出来事だと思っていた。内容はさておき、テレビ番組への出演依頼は魅力的だった。ただ、大川の話ぶりで下がった気持ちが出演に対する意欲を削いでいった。早く断って電話を切ろうとしたが、大川はそう簡単に諦めなかった。結局、その後もしつこく粘る大川に根負けして一度会うことになった。
「平日は仕事をしていますのでできれば週末にしていただけないでしょうか」
「週末となると一週間後ですね。今回はご挨拶だけですのでできるだけ早くにお願いできませんでしょうか。例えば、会社帰りに小一時間ほどお時間を取っていただくことはできませんでしょうか」
段々と面倒くさくなり、ろくに後先も考えず水曜日の仕事帰りに会うこととして電話を切った。いつの間にか洗濯物を干した美春がリビングに戻ってきていた。
「どこから?」
「東都テレビから。番組に出てくれってさ」
大川との電話で気分が沈んだせいか、テレビに出演することが何故だか大したことではないと思い込んでいた。何気なく答えたが、美春の反応で電話の要件を再認識した。
「えぇ、テレビに出るの?!すごいじゃない、それで、何ていう番組?」
「うーん、あれ、番組名を聞くの忘れた」
「もう、やだぁ。肝心なことじゃない」
勢い込んで聞いてきた美春の顔を見ると興奮と驚きが交じったような表情で笑っていた。昨日までは普通のサラリーマンが、たったひとつの賞を得ただけでテレビに出演できる。今更ながら芥木賞の影響力に感心させられる出来事だった。
今までの人生ではテレビに出演する、しかもスポットのあたるゲストとして出演するなど微塵も考えたことがなかった。そんな人間がテレビに出て何を話すのか想像すらできなかった。そうこうしているうちに同じような電話が相次いだ。ほんの一時間ほどで、テレビ局からの出演依頼が三件、ラジオ局からの出演依頼が二件、そして雑誌への寄稿依頼が三件あり、瞬く間に受けてしまった。最初は深く考えずに請け負っていたが、依頼が続くとこちらも真剣にならざるを得なかった。途中からは手帳とカレンダーをテーブルの上に置いてスケジューリングしていった。閑職とはいえ本業があるため、基本的に出演依頼は土日に限定した。すると、この先一ヶ月は毎週どこかの局に出演することになってしまった。雑誌への寄稿も取り敢えず受けたが、どのくらいで書けるのか、皆目検討がつかなかった。仕方がないので、締め切り時期は別途検討させてもらえる条件を出すことにした。
「ねえ、テレビとか出版社からの依頼をどんどん受けているみたいだけど、相澤さんだっけ、彼に相談しなくて大丈夫なの?」
「あ、すっかり忘れてた!日曜日だけど電話して大丈夫かなぁ」
「大丈夫なんじゃない。向こうだって、今のこの状況、ある程度想定できているんじゃない?出版のプロなんだし」
「そうだな、電話してみるよ」
相澤に電話をかけるとオフィスにいた。昨日、一昨日の影響で他の仕事が滞ってしまったらしい。
「すみません、私がお世話かけたばかりに」
「いえいえ、元はこちらがお願いしたことですから気にされなくて結構ですよ」
「それで、メディア対応の件なのですが」
相澤は少し考えてから折り返し電話をかけると伝えてきた。もし、それまでに依頼が来たらとりあえず保留にすることを提案された。
三十分ほどが経って相澤から電話がかかって来た。たまたまであろう、その間にメディアから依頼の電話はなかった。
「基本、インタビュー形式の依頼は内野さんのご都合で受けてください。ただ、事前にどのような内容なのか、どのように答えるのか、私たちと相談させてください。まあ、最初の数回で大筋は固まると思いますから、それ以降は事前の相談なしでいいでしょう」
「執筆の依頼はどうすればいいですか?」
「期限については正直に先方に相談されれば良いと思います。内野さんだけでなく、作家のみなさんも最初はどのくらいでどの程度の量をこなせるのかわかりませんから、出版社側も調整しながら進めることが多いんです。ですから、編集者と相談しながら進めていけば良いと思います」
「わかりました。私なりに無理のない範囲で受けてみます。それより、ズブの素人である私が書くこと自体がまずくないですか?」
「内野さん、あなたはズブの素人ではなく、芥木賞受賞作家ですよ。そのあなたが全ての執筆依頼を断ったらどうなると思います?まあ、これは冗談ですけど、雑誌などへの寄稿程度であれば素人も玄人もないので大丈夫ですよ。ちょっと心配なのは次回作を依頼された時ですね。その時は保留にして私たちに連絡していただけないでしょうか」
「わかりました。今のところ次回作に関する依頼は来ていませんが、もし依頼が来たら連絡します」
電話を切った途端、待っていましたとばかりに着信音がなった。連絡先にない番号からだった。少し警戒しながら出ると九州に住む母方の祖父の兄からだった。美春と結婚する時にお祝いを貰ったことはあったが一度も面識はなかった。電話の内容は単純にお祝いを告げるものだった。メディアの影響を感じる電話だった。
「凄いわね。確か、五年くらい前から年賀状も届かなくなったのに」
「しばらくは電話だけじゃなくて会う人にも気をつけないといけないかも知れないな」
その後も、頻度は少なくなったが、親戚や知人からのお祝いを告げる電話が続いた。そういった電話の合間に、メディアへの出演や執筆の依頼がポツポツとかかってきた。いい加減、電話に出るのが面倒くさくなってきたので、家電を留守番モードにセットし、スマホは機内モードにして外出することにした。そのままだと美春が電話攻めにあってしまう可能性がある。そうなると、その反動がこちらにくるのは目に見えていたので、美春のスマホも機内モードにして一緒に出かけるよう誘ってみた。最初、あまり気乗りがしない様子だったが、“電話が頻繁にかかってくるよ”と言ったら慌てて外出の支度を始めた。こういった時に愛嬌さが出てくる美春は今年三十六歳になるが、年齢を感じさせない雰囲気を纏っていた。
外に出ると初夏の日差しが心地よく身体の中に染み込んでいくのが感じられた。せっかくの好天気なので近くの公園まで少し散歩をしてから、美味しい紅茶を飲ませてくれる喫茶店に向かうことにした。一昨日から数多くの瞳に見つめられてきたせいか、行き交う人がこちらを見ているような気がした。実際にはそんなこともなく、自意識過剰になっている自分が少し恥ずかしかった。そのことを美春に言うと、大袈裟にポーズを取って軽く笑いながら他愛もない言葉を返してきた。
「あら、早くも一流作家のつもりなのね。それじゃあ、私も一流作家の妻として有名人になるのかしら」
喫茶店のマスターは一瞬、“おやっ”という表情を浮かべたがすぐに柔和な笑顔に戻った。特に何をいうでもなく、いつも通り、美味しいアールグレイを入れてくれた。“太っちゃう”と言いながらも甘いものに目が無い美春は、マスターお手製のレアチーズをミントティと一緒に楽しんでいた。日曜日の昼下がり、こんな風にのんびりした時間を楽しんでいると一昨日からのことがまるで夢の中の出来事だったような気がしてくる。
しかし、経緯はどうあれ、今の私は芥木賞作家であり、これからも素晴らしい作品を生み出していくことを期待された作家だった。数日前までは毎日通勤電車に揺られて都会のオフィスに通う日々だったが、今後は執筆活動にも時間を費やさねばならない。どちらかというと明日やれば良いことは明日にまわす性分なので、二束のわらじを器用に履きこなす自信はなかった。今は芥木賞の余波でマスコミも取り上げているが、今後、発表する作品によっては箸にも棒にもかからなくなることが想定される。そう考えるといきなり今の会社を辞めるわけにもいかない。できることならしばらくの間、今の仕事を休むとか軽減するとかできれば良いが、会社がそんなことを認めるとも思えない。美春が横で心配そうな表情でこちらを見ていることに気付いた。
「どうした?何かあったのか?」
「険しい顔して考え事をしていたからどうかしたのかな、と思って」
言いながら美春が自分の眉間に手を当てた。私は考え事とか何かに集中している時、眉間に皺を寄せる癖がある。今のように考え事をしている時はまだしも、楽しい食事時に“これはどんな調理をしているんだろう?”と考えた時にもついつい癖が出てしまい、相手に余計な心配や悪い印象を与えてしまうことがあった。この癖を知っている美春が気にするほどなので、よっぽど深刻そうな表情をしていたのだろう。
「今後のことを考えていたんだ。会社に行きながら執筆活動をできるほど器用じゃないし、かといって、会社を辞めるほどの覚悟も自信も無いし。さて、どうしたもんかねぇ」
「そっか、大きな賞をもらったのは良いけど、それはそれで悩みが出てくるのね」
レアチーズケーキの最後のひとかけを食べながら美春が返してきた。彼女のふんわりとした言い方には助けられることが多い。この時も深刻さのかけらも見せないような言い方が心を軽くしてくれた
“まあどうにかなるか”
美味しいティータイムを過ごした私達が家に着くと、留守電にはお祝いの言葉や取材/出演/寄稿等の依頼がいっぱいになっていた。一通り聞き終えてほっとした瞬間、今度は機内モードをオフにしたスマホの着信音が鳴った。キッチンにいる美春を恨めしげにちらっと眺めると、彼女も苦笑いを浮かべていた。
“しょうがないわね、でも出ないとね”
仕方が無いので受信すると、意外なことに畑山総務部長からだった。いつも何を考えているのかわからない畑山は社内で少し浮いた存在だった。職務上仕方ないのかもしれないが、媚びるような動作でお役所的な仕事をしていた。そしてこれは畑山だけではないが、上からの圧力にとんでもないくらい弱い。そんな畑山が一体どんな用があって電話してきたのか想像がつかなかった。
「お休みのところ申し訳ないね。大事なことなので早い方が良いと思って、失礼ながら連絡させてもらったよ」
上にばかり視線を向けている畑山は自分より下の社員に対してはぞんざいな話し方になることが多い。ところが今日は畑山にしては割と丁寧な口調で話している。少し奇異な感じを受けた。もしかすると、先日オフィスで顔を合わせた時に問い掛けられた副業について、そのことで何か言ってきたのかも知れない。自ずと警戒しながら言葉を返すことになった。
「いえ、今日は家でのんびりしていましたので構わないのですが、私に何か?」
「先ほどテレビのニュースで芥木賞のことを聞きましたよ。受賞したそうじゃないですか、おめでとう!」
「あ、ありがとうございます」
「ところで、内野君は今後仕事をどうするつもりですか?芥木賞の選考委員も絶賛する作品を書かれた新進気鋭の作家先生ですから、次の作品も期待されているのでしょう?」
どうやら畑山は総務部長として彼の仕事に汚点がつかないよう、早めに根回しをしようとしているらしかった。うっかりしたことは言えないと思った。
「昨日の今日なのでまだ何にも考えていませんが」
「マスコミがあれだけ騒いでいたのだから、それなりにプランを考えているのでしょ?良いように計らってあげるから言ってごらんよ」
受話器の向うで下卑た笑いを浮かべているのが目に浮かんだ。畑山が何を企んでいるのか想像がつかなかった。まだまだ油断できないと感じたが、正直なところ、今後のことについては全然考えていなかった。そもそも、マスコミが騒いでいたここ数週間、芥木賞が終われば騒ぎも落ち着くだろうと見込んでいた。当然、自分の生活が変わることも梅雨ほども考えていなかった。まあ、その時点では私は内野であり“某氏”ではなかったので当然のことだった。
「いえ、本当に受賞するとは思っていませんでしたから、プランも何もないです」
「本当に無いのかい?あれだけ騒がれていながら?ちょっと信じられないなぁ。僕なら詳細なところまで詰めておくけどねぇ。本当に無いのかい?」
畑山は自分のイメージ通りに行かないことで少しいらつき始めていた。下手に刺激して激昂されても困るので当たり障りのないように注意して言葉を選んだ。しかし、何故か彼の琴線に触れてしまったらしい。
「とりあえずは今まで通り出社して何日か様子をみようと思っています」
「いかんよ、君!!さっきのワイドショーでも言っていたが、君が正体を隠していたことについてマスコミ各社がかなり怒っているそうじゃないか。そんな君がオフィスに現れてごらん、マスコミが寄って集って我が社のことを悪く言う可能性がある。いや、きっと悪者にする。そうなっては我が社が大変困るのだよ」
ニュースじゃなくてワイドショーというところが畑山らしいと感じた。しかも、会社が悪者になるという論理が全然わからなかった。どんなシナリオを描いたのか、想像すらできなかった。その点には触れないように言葉を返したところ、待ってましたとばかりに声のトーンを上げて、怒鳴るようにして話し始めた。
「はあ、しかし、一応私も社員ですから、勝手に休む訳にもいかないかと」
「いや、今回のようなケースは極めて異例ではあるが、総務部長である私の判断で対応できるのだよ。内野君の勤務形態を在宅勤務にすることで会社を休まなくてもオフィスに出なくてすむぞ」
“私の”という部分をやけに強調しているのは、きっと、上司に報告する際にポイントがかせげると思っているのだろう。しかし、畑山の思惑など別にして、在宅勤務は今の私には渡りに船だった。とりあえず機嫌を損ねないようこの話に乗ってみることにした。
「在宅勤務にしていただけるのですか。それは大変助かります。仕事で使う資料の作成などはインターネット経由でサーバにアクセスすれば大丈夫ですから問題ないですし。あと、自宅での勤務時間とか、勤務状況の報告とかを簡単に決めていただければ、それでよろしいかと思います」
そんな簡単なものではないのだが、名案だと思い込んでいる畑山は私の言葉に気を良くしたようだった。
「そうか、それじゃぁ、明日にでも君の上長に話をして細かいところを詰めた上で連絡させよう。とりあえず明日は自宅で待機していてくれたまえ」
小森課長の苦虫をつぶしたような顔が目に浮かんだ。畑山に言ったものの、今の仕事で在宅勤務は若干厳しい面がある。週の何日か、または、一日のうち数時間だけでもオフィスに行けばまだしも、フルタイムの在宅では仕事が滞る可能性が高い。その結果として生産性が落ちるのは明らかである。畑山がどのように話を持っていくのかわからないが、小森がすんなり納得するとは考えにくかった。それでも在宅になれば時間の都合をつけやすくなるので、今の状況を考えると大変都合が良かった。
翌日、畑山からではなく小森から電話があり、しばらくの間は在宅勤務で構わないことを告げられた。意外なことに勤務時間帯も特に限定しないという特別待遇だった。しかも、あろうことか、マスコミ対応も含めた執筆活動までも業務として認めるという、まさに私にとっては願ったりかなったりという内容だった。小森は何か文句を言いたそうな雰囲気で話していたが、嫌味のひとつを言うでもなく、事務連絡を済ますとすぐに電話を切った。狐につままれた気分とはまさにこういうことなのだろう。マスコミのインタビューに答えたり、雑誌に寄稿したりしているだけで会社から給料がもらえるなんて、信じろと言われても困ってしまうものだった。しばらく呆けていたのか、その様子を心配して美春が顔を覗くようにして声を掛けてきた。
「はい、お茶。どうしたの?会社、首にでもなった?」
「なんで首になるんだよ。プライベートで芥木賞を受賞したからといって首にできるわけないだろう。変なこと言うなぁ」
真面目に聞く顔を見て思わず笑ってしまった。笑いながら昨日の畑山の言葉を思い出していた。
“総務部長である私の判断で在宅勤務に・・・”
一体どんな風に経営陣を説得したのか想像がつかなかった。こちらにとばっちりが来なければ良いが、今はしばらく様子を見ることしかできなかった。早速、本来の仕事は横に置いてマスコミの対応に取り掛かった。昨日依頼のあったものに加え、新たに三件の原稿依頼が今日になってあった。ただ、これまで受けた分を考慮すると本業と掛け持ちでできるかわからなかった。とりあえず、本業との兼ね合いを見て決めることとして返事を猶予してもらっていた。昨日の分とあわせてどれくらいの期間でこなせるのかわからないが、依頼を受ける旨を連絡して原稿に取り組むことにした。
執筆活動に専念してから一ヶ月程は、作業自体が新鮮なこともあり、思いつくままにペンを走らせていた。ペンといってもノートパソコンのキーボードを気の向いた場所で叩いていた。原稿の依頼はその大半が雑誌等への寄稿であり、テーマに沿って数頁書けば済むものばかりだったので、かなり気楽に書いていた。本当にこんなもので良いのだろうか、という不安もあったが、何本かを渡した時点では特に文句を言われるでもなく受け取ってもらえた。担当者は普通にお礼を告げてくれたし、大丈夫なのだと判断した。
テレビやラジオの収録もこれといった問題もなくこなしていった。聞き手のパーソナリティが上手く引き出してくれるので、適当にあわせているうちにいつの間にか終わっている、といったケースが多かった。勿論、収録本番の前に仮想“某氏”を作り上げるべく、相澤たちと相談することを忘れることはなかった。
執筆活動自体は概ね順調に行っていたが、どこで調べてくるのか、誹謗中傷の電話やメールが送られてくるのには閉口した。これも有名税と半分あきらめてはいたが、家電の場合、美春が対応することも多く、しかたなく自宅の電話番号を変えざるを得なくなってしまった。
第六章 次回作
授賞式からあっという間に二ヶ月が過ぎた。その間、テレビやラジオやS N Sに招かれて“某氏”として“流布”に関することを話した。最初は詰まりそうになることもあったが、毎回、同じようなことを話しているうちに慣れてしまった。今ではすっかり“某氏”として立ち居振る舞うことができるようになっていた。ある日、執筆活動用に購入したスマホの着信音が鳴った。河合出版の相澤からだった。
「こんにちは、内野さん。ご活躍ですね。もうすっかり執筆活動にも慣れてきたのではないですか」
真実を知っている相澤の一言は“某氏”を引き継いでいることを自覚させた。少し嫌味っぽく聞こえなくも無いが、本人にはそんな気など毛頭もないらしく、笑いながら言葉を続けた。
「今日は次の作品について相談したいと思って電話しました。既にご存知だと思いますが“流布”の売れ行きは予想以上の好調さを見せています。この調子で行くと三十万部を超えるのも時間の問題でしょう。読者からも絶賛のコメントが次々と寄せられていて、早く次回作品を出版して欲しいという声も数多く含まれています。ところで、次の作品、まさか他社と約束したりしていないですよね?」
授賞式の後、河合出版から発売された“流布”が売れていることは知っていた。先日のラジオ番組の収録中に三十万部を越えるだろうと聞かされてはいたが、まさかこんなに早く達成するとは思っていなかったので少し驚いた。と同時に不安が首をもたげてきた。
「他の出版社から依頼は来ていますが、なんだかんだ理由をつけてまだ引き受けていないですよ。それより、こんなに一気に売れてしまって大丈夫でしょうか。人間、気が変わることなんてしょっちゅうありますからね」
「彼のことですね。大丈夫ですよ。あれだけはっきりと放棄したのですから。それよりも、次の作品について一度打合せをしたいのですが、明日か明後日、お時間取れませんか?」
前向きというか、楽観主義というか、やはり私とは考え方の土台が違っているのだろう。こちらの不安などお構いなしといった感じでさらりと流した。結局、明日の午後に打合せを行うことにして電話は切られた。
「相澤さん、なんだって?」
「うん、次回作の打合せをしたいって」
「へぇ、やったじゃん。超売れっ子作家の第二弾、いよいよ発売かぁ」
「何言ってんだよ。俺に小説なんて書けるわけないだろう」
「え、でも、“流布”があんなに売れているのに次の作品を書かない訳にはいかないんじゃない?」
「そうなんだよなぁ、そこを突かれると弱いんだよなぁ」
「サクッと書いちゃえばいいじゃない。それで売れなかったらそこでやめちゃえばいいんだし」
冗談を言っているのかと思って美春の顔を見たら、いつもと変わらぬ穏やかな表情だった。こういうことを本気でサラリと言ってのける性格は生来のものなのだろう。行き詰まったり困ったりした時、何度もこの性格に助けられてきたことを思い出して心がほんのり暖かくなった。
翌日、久し振りに相澤の訪問を受けた。意外なことに大田原が一緒だった。これまでに相澤が我が家を訪れた時、大田原が同道してきたことはなかった。大田原に最後に会ったのは、授賞式の三日後に都内の小洒落たお店でお祝いをしてもらった時だった。何か重要な事柄を決めるつもりなのだろうか。
「これは編集長。ご無沙汰しています」
「内野さん、大変ご無沙汰しております。最近のご活躍、順調そうで何よりです。一度ご挨拶に伺わねばと思っていたのですが、ついついタイミングを逸してしまいまして申し訳ありませんでした。今日、相澤が次の作品についてお打合せに伺うと聞きまして、便乗させてもらいました」
二人とも次の作品がかなり気になっているのだろう。違う意味で、当人である私も毎日気になってしょうがない状況だった。これだけ“流布”が好評を博せばどうしたって次の作品を書かざるを得ない雰囲気になってくる。しかし小説など書いたことの無い私に、“流布”は超えられないにせよ、それに近いレベルの作品が書けるはずもなかった。どうやって次の作品を書けばよいのか、いくら思案したところで名案は浮かんでこなかった。二人はしばらく歓談した後に肝心の話題に触れてきた。切り込み隊長かの如く相澤が核心を突いてきた。
「内野さん、新作の件ですがアイデアをまとめたり、実際に書き始めたりされていますか?」
「えっ、私が小説を書くのですか?」
思わず声がうわずってしまった。二人は顔を見合わせると互いにやや複雑な表情を見せた。すぐに表情を戻し、若干前のめりになって大田原がおっとりとしたペースで話を続けた。
「やはり無理ですよね。丸っきりの素人ですからね、内野さんは。ここ一ヶ月程、テレビや雑誌などマスコミで活躍されていたので、もしかして作家としての感覚というか、能力のようなものを身に付けていればと思っていたのですが」
本気で言っているのかわからなかったが、無理なことを言っている自覚はあるらしい。そもそも、ズブの素人がたったひと月で作家になれるのなら、街のあちらこちらに大作家が誕生してしまうのではないだろうか。しかし、彼らの気持ちもわからなくは無いのでとりあえず恐縮してみせた。すると今度は相澤が無茶なことを口走った。
「すみません、なかなかそう簡単には行かないようです」
「ゴーストライターでも使いますか」
大田原と私の驚いた視線を感じたのか、一瞬間を置いてから発言を取り消して下を向いて考え込んでしまった。
「そんなわけにはいかないか。怪しまれるのが見え見えですものね」
名案が出ない時とはこんなものなのだろう。しばらくして相澤から出たのは没になった作品を持ってきてそれを元に書いてみてはどうかというものだった。しかし、それこそばれたら大変なことになる。下手すると法律違反を犯すことにもなりかねないのでこの案も即座に却下された。その時、ふとあることに気付いた。私は作家としてはもちろん、この業界のことについてもまるっきりの素人だが、目の前にいる二人は出版業ではプロであり、素晴らしい作品も知り尽くしているはずである。
「お二人が書かれるというのはどうです?お二人は業界の動向とかも良くご存知だし、素晴らしい作品も知り尽くしていらっしゃるから、そのノウハウを活かして作品を執筆するのなんてわけもないのではないですか?」
我ながら名案だと思ったが、この案も即座に却下された。相澤と大田原は一瞬視線を合わせた後にため息を吐きながら説明をしてくれた。
「内野さん、我々にそんな才能があると本当に思っているのですか?もしそんな才能があったら、当の昔に書いていますよ。いくら業界のことを知っていても、いくら素晴らしい作品を知っていても、書くことはまるっきり次元が違うのです」
沈黙の時間が段々と長くなり、リビングルームを薄い膜が覆っているように感じた。その膜を突き破るかのように大田原が口を開いた。
「内野さん、やはり次の作品は内野さん御自身が書かれてはどうでしょう。今回の作品を内野さん以外の誰かが執筆したとしても、その次の作品ではまた同じ問題にぶち当たります。しかも、内野さん以外の誰かに執筆させる、その方法さえ簡単には見つからない。毎回、このような姑息な手段を講じていると、いつかほころびが出てきます。だったらここは内野さん自身が筆を持って作品を作り、その作品を出版しましょう」
「でも、私に小説が書けるとはとても思えないですよ」
「こんなことを言うのは大変申し訳ないのですが、万が一、内野さんが書かれた作品が箸にも棒にも掛からないようでしたら、残念ですが、一作だけで筆を置くという手もあると思います」
大田原の提案は的を得ているように思えた。しかし、駄作だろうと何だろうと、そもそも私に小説が書けるのだろうか。答えに窮していると大田原が続けた。
「もちろん、ネタやストーリー作りとかへの協力は全面的に行なわせていただきます。ご存知無いかもしれませんが、こういった協力をすることは何ら問題にはなりませんから安心です。また、作品の校正も十二分に行なって、通常はあまり行なわない細かい点までコメントさせていただきます。もちろん、内野さんの意志を最優先させた上での話です。どうです、やってみませんか!」
最後は乗り出すようにしてきた大田原の勢いに圧倒された。大田原が同道してきた理由が分かったような気がした。大田原の圧を受けて、もう承諾するしかない、と観念した。
「わかりました。どこまで書けるかわかりませんが、トライしてみます」
この時は気付かなかったが、あとから考えてみると彼らの間で事前に策を練ってきていたような節があった。相澤が突っ込んで行って相手をかく乱し、相手が沈みかけたところを見計らって大田原が留めを刺す。このパターンが彼らの十八番だと気付いたのは、その後、彼らと付き合っていく中でわかったことだった。
書くとは言ってみたものの、最初は何をどうすれば良いのか何もわからなかった。とりあえず、翌日から常にタブレットとノートと万年筆を持ち歩くことにして、何でもいいから気付いたことをメモしたり写真に収めたりした。ノートに書くのは鉛筆の方が便利そうだったが、美春がお祝いに選んでくれた万年筆を使いたかった。そして、時間のある時には試験の論文でも書くつもりでパソコンに向かった。ダメ元といった気分が良かったのか、思いのほか筆が進んだのには我ながら驚きだった。読み手のことなど一切考えず、手が動くのに任せて書き進めていったら、一ヶ月もたたないうちに文庫本に換算して五十ページ程の原稿を書き上げていた。最初は相澤にチェックしてもらいながら書くつもりでいたが、相澤のスケジュールが上手くあわなかったこともあり、結局ノーチェックのまま三百頁の作品を書き上げてしまった。出来上がった作品を相澤と大田原に読んでもらった。
「うーん、とても平易な文章ですね。“流布”とはまるっきり性格の異なる作品です。少し厳しい言い方をすると、この作品だけでは多分売れないと思います。ただ、“流布”の作者が書いたとなると読者の受け止め方は変わって来るかも知れません。編集長どうです?」
浮かない顔で相澤が大田原に救いのまなざしを投げた。腕を組んだまま節目がちの大田原はしばし間を置いてから口を開いた。
「うーん、困りましたなぁ。作品の評価は相澤が言った通りで、この作品だけでは難しいですな。しかし、三十万部の大台を達成した“流布”を書いた内野さんの新作ですからね、ある程度は売れると思います。問題はその後で、内野さんの作家としての評価がどうなるか、ですね。読者が前向きに受け止めてくれれば良いのですが、もし悪い方に受け取られると一気に評価が落ちてしまうこともあり得るでしょう。その辺りをどう捉えるかです」
私としてはすいすいと書き上げたせいか、それなりに評価されると思っていた。全面的に酷評されたことでショックを受けていた。
「すみません、やっぱり私には物書きの才能はないですね。二作目はやめてサラリーマンに戻りますよ」
相澤が慌てた様子で言葉を返してきた。
「ちょっと、内野さん、待ってくださいよ。そんな、短絡的に考えないで下さい。まだ、この作品がダメと決まったわけじゃないのですから。私も編集長も言っているように、内野さんは“流布”の作者であり、その作風については大絶賛なんです。ただ、この作品を世に出すと、その作風が究極の変化を遂げることになるわけです。この変化がどのように影響するかは正直なところ、我々でも予測がつかないのです」
いつもの調子で相澤が体を乗り出して来るのに押されながら、テンションが下がった私の思考はどんどんと落ち込んでいった。
「仮にこの作品がそこそこ売れても、これ以降も同じようなレベルの作品しか書けないのだから、結局同じことなんじゃないですか」
相澤がさらに体を乗り出そうとしてきたので、思わずソファの背もたれに深く寄りかかってしまった。
「内野さん、そんなことないですって!小説家を何人も見てきてわかったことなのですが、作風というのは変わるものなのです。作風の変わらない作家なんてまずいません。変わり方は人によって千差万別ですが、大概の場合、デビュー後、一年から二年で変わることが多いです。だから、内野さんだって作品を重ねれば、“流布”とは違う、本来の内野さんの作風が出てくるはずです。大丈夫ですよ、自信を持ってください!」
相澤の今にも立ち上がらんばかりの勢いに圧倒されて返す言葉がうまく出てこなかった。すると、横から大田原が例の落ち着いた口調で言った。
「この作品を出版しましょう。内野さんはこの作品を独りで書き上げたのですよね?我々が手助けをせずここまで書き上げるのは簡単なことではないはずですし、誰の手も入っていないということは、これが今の内野さんの作風なわけです。それを読者がどう受け止めるかは、正直なところわかりません。しかし、一ヶ月前の打合せで我々三人は内野さんの作品にかけることにしたのですから、この作品を世に出して審判を仰ごうじゃありませんか」
最後は少し芝居がかった喋り方になったのが照れくさかったのか、大田原にしては珍しく、うつむくようにして言葉を切った。
結局、書き上げた原稿を校正してから作家“某氏”の第二作として出版することになった。出版することが決まると、河合出版はあちらこちらに広告を打った。また、出版を知ったマスコミがこぞって取り上げたため、書籍が市場に出る前から大きな話題になった。ネットでは予約販売が過去最高になるなど、“流布”を凌ぐ売り上げになることが予想された。更に、沈静化していた取材や寄稿の依頼が再び加熱し始めた。その内容は当然の如く次回作に関する内容がメインだった。“流布”の時とは違って自分で書いた作品なので内容に関して間違えることはなかったが、発売された後の読者の反応が気になって、却って言葉に詰まることが何度かあった。
出版することが決まってから本が製版され書店に並ぶまでの間、相澤たちの作業は素早く、かつ正確にこなされていった。その間、私が行った作業は校正結果を確認することくらいで、あっという間に私の記念すべき第一作が読者の下に届いた。“某氏”としては第二作だが内野清二としては処女作だった。
「芥木賞作家、“某氏”、“流布”に次ぐ第二作を発表!」
いよいよあの作家が二作目を発表した。本年度の芥木賞を圧倒的な評価で仕留めた“某氏”こと内野清二氏が“流布”に次ぐ第二作を発売することが河合出版から発表された。前作の評価が完璧だったことから注目を浴びている第二作は、表題は伏せられているが、“流布”とは対極にある作風であることが伝えられている。第一作では平成の大作家であることが流布された“某氏”、第二作ではどんなことを我々に仕掛けてくるのか大変興味深い。
発売前の段階でマスコミ各社共に好意的な記事が続いていた。ただ、河合出版から作品内容に関する情報が一切告知されなかったため、内容に関して色々な噂がネットを中心に飛び交っていた。そんな噂を見聞きした知り合いから問合せのメッセージや電話が続々届いた。
「次回作でうちの会社が出てくるってネットに書かれていたぞ。本当か?」
「そんなこと知らないよ。そもそも、内容に関しては誰にも言わないように編集者から釘を刺されているから何もいえないんだ」
「ふーん、そんなものなのか。あ、そういえば、お前の幼少期のことが書かれているという投稿もあったらしいぞ。うちの課の後輩が言っていた」
「だから知らないってば。しかし、お前も暇なんだな。俺の作品なんてどうでもいいじゃないか」
「芥木賞を受賞した大先生だからな。商談の時に話題にするにはもってこいなんだ。だから何か情報くれよぉ」
「知らん」
芥木賞の受賞をきっかけにL I N Eの友達が一気に増えた。同期の川田もその一人だった。以前は会社で話すことも滅多になかったが、今回の騒動を機に、何かあるとこまめに連絡をしてくるようになっていた。
「いよいよ明日だね。今度はどれくらい売れるのかなぁ」
「そういうのを取らぬ狸の何とやらって言うんだぞ」
「えへへ、だって“流布”は三十万部を超えたんでしょ?印税が一冊百五十円だから総額で、ええと、、、」
「四千五百万円」
「そう、四千五百万円!税金でいくら持っていかれるのかわからないけど、それでも数千万円の収入でしょ。もう、夢のようじゃない!」
子供のように燥ぐ美春を見ていると何も心配しなくて良いのではないかと思えてくる。しかし、相澤たちの評価を知っている身としては、明日の発売からしばらくの間が憂鬱で仕方がなかった。できることなら世間の評価が下された後の世界にタイムリープしたかった。無邪気に喜んでいる美春に相澤たちの評価は伝えていなかった。下手に心配をかけるのもどうかと思ったこともあるが、もしかしたら相澤たちの心配が杞憂に終わることを期待していたのかも知れなかった。
翌日、予定通り書店の店先に“某氏”の第二作、“阻止”が並んだ。マスコミが何度も取り上げて話題になったため、多くの書店が平積みで目立つ場所に“阻止”を並べた。
この日は外出しても碌なことがないだろうと考えてスケジュールは空けておいた。昼過ぎに家の外を覗いてみたら、案の定、マスコミ関係者と思われる人間が数人いた。皆、手持ち無沙汰で我が家の方を見たり、スマホの画面に見入っていたりしていた。夕方になると相澤から電話がかかって来た。
「内野さん、“阻止”が好調なスタートを切りました!」
「え、もうわかるのですか?」
「ええ、主だった書店に確認したところ、“流布”の時よりも好調な出だしだそうです」
「そうですか、それは良かったです。一冊も売れなかったらどうしようかと思っていましたから」
「あはは、それはないですよ。“阻止”は事前にマスコミが派手に取り上げてくれたので数週間は売上が伸びるはずです。問題はその後ですね。当たり前のことですが、書籍の評価は読まれた後に為されていきます。数週間経って多くの人が読んだ後、“阻止”をどのように評価するか」
「作風の変化という奴ですね」
「ええ、そうです。我々から見ると、“流布”と“阻止”はまるっきり別の人間が書いたと言われても不思議でないです。それほど作風が異なるわけです。まあ、実際、別人が書いたので違っていて当たり前なんですけどね。その違いを読者がどう評価するか、楽しみでもあり、怖さでもあり、ですね」
「できることならその評価が為された後の時間にリープしたいですよ」
相澤が予想した通り、発売後三週間の売上は右肩上がりで飛ぶ鳥を落とす勢いだった。発売直後に購入して読んだ読者の評価も概ね上々で、気楽に発信できるS N S上で肯定的なコメントが相次いだ。相澤たちが心配した平易な文章や作風が大幅に変化したことも前向きに受け止められ、“某氏”は柔軟な頭の持ち主であると評価する読者も多かった。
「清二さん、お隣の田添さんが言ってたわよ」
「ん、なんて?」
「超売れっ子作家がご主人だなんて本当に羨ましいって」
「田添さんが?本当か?どうせワイドショーかなんかの見過ぎなんだろ?」
「まあ、それは否めないけど。あ、でも“阻止”がすごく売れていて羨ましいとも言ってたわよ」
「うーん、確かにここまで売れるとは思ってなかったよ」
「よ、平成の大作家!」
この頃になるともしかすると自分に文才があるのではないかと考えるようになっていた。しかし、そんな甘い考えはある老作家の一言をきっかけにして一気に吹っ飛んでしまった。二十年前に芥木賞を受賞した老作家、花田仁はヒューマンドラマを書かせれば国内で随一と評価された作家だった。花田の書く文章はウィットに富み、登場人物を生き生きと描く作品が多かった。そんな彼が“阻止”の平易な文章に疑問を挟むコメントをしたのがことの発端だった。花田は“流布”からたった一作品で作風を百八十度変えたことにどんな意図があるのか疑問に感じ、そのことを知り合いの記者との雑談の中で指摘した。この時、花田は平易さを悪いと指摘したわけではなかった。ただ、その言葉尻を大袈裟に捉えた朝海新聞が派手に騒ぎ立てるような記事を掲載したことが契機となった。ゴシップ記事を掲載する週刊誌やS N S上に追随する記事や発信が相次ぎ、花田の発した言葉の本質などお構いなしにバッシングが始まった。
「昭和の大作家、平成の大作家を酷評!“某氏”の書いた“阻止”は平易!」
本年の芥木賞を受賞して平成の大作家といわれた“某氏”の第二作、“阻止”を酷評したのは昭和の大作家、花田仁氏だった。現在、“某氏”の“阻止”は発売以降、順調に売上を伸ばしている。このまま行けば第一作の“流布”を凌ぐのも時間の問題と言われている。そんな中、花田氏が待ったをかけた。花田氏によると“阻止”の作風はとても平易で“流布”のような深みや厚みを感じることができない作品であると指摘した。花田氏がこれまでに執筆した作品はいずれもウィットに富んで、登場人物を生き生きと描くことが知られている。花田氏にしてみれば“阻止”の平易さ故に作品に対して物足りなさを感じたのではないだろうか。
「朝海新聞、内野さんに作品を書いてもらえなかったから当てつけのような記事を掲載したんですよ、きっと」
「まあ、そう言うな。花田さんに悪気はないだろうけど、“阻止”の作風が平易なことは事実だからな。あのゴシップ記事のように捉える読者がいても不思議ではないよ」
花田のコメントを心配した相澤から連絡が入り、急遽、今後の対応について話し合うことになった。河合出版を訪れると、眉間に皺を寄せた大田原と相澤が応接室のソファに腰掛けていた。部屋に入ると相澤が心配そうな顔で聞いてきた。
「内野さん、変な輩からコンタクトされたりしていませんか?大丈夫ですか?」
「S N Sを通じて変なことを言ってくるのはいますが、まあ、そういうのはこれまでもありましたから大丈夫ですよ」
「先日、花田氏にお会いする機会があったので聞いてみましたが、本人曰く、決して否定したわけではないと仰っていました。評価が下がったわけではないのであまり気にしないでくださいね」
「お気遣いありがとうございます。まあ、元から平易な文章であることはお二人に指摘されていましたからね。発売後、ここまでができすぎなんですよ」
「そこはまだ分かりませんよ。読者の評価がまだ出ていませんからね」
「相澤、それより当面の対応についてお伝えするのが先なんじゃないか」
「あ、そうですね」
大田原は相変わらず部下のコントロールに長けていた。脱線しがちな相澤をすぐに軌道に戻すことを怠らなかった。
「内野さん、今回の騒動ですが、今のところ売り上げには影響が出ていないのです」
「え、あれだけ叩かれているのにまだ売れているのですか?」
「ええ、若干数字は下がりましたが誤差の範囲です。恐らく噂の真偽を知りたいと考えた人たちが購入していると思われます」
「作風の変化を見つけてやろうということですか?」
「そうです。ただ、この現象は一過性のものでしょうから、今後、何もしなければ売上は下がってくる可能性が高いと見込んでいます。花田氏の発言に悪意がないとはいえ、ここまで噂が広まってしまうと読者の購買意欲に悪影響を与えるでしょうからね」
「私はここまで売れてくれればもう十分ですけどね」
二人は顔を見合わせた後、こちらに向き直った。向けられた面にはそう簡単に逃しはしないという意志が浮かんでいた。まあ、彼らにしてみれば一冊でも多く売りたいと考えるのは至極真っ当なことである。恐らく、社内では既に今後の対応を十分に検討しているのだろう。
「まあ、そう言わずに我々の話を聞いてくださいよ。河合出版としては今後も内野さんを全面的に応援し、支援していきたいと考えています。そのためにも今回の噂は早い段階で払拭しておきたいのです」
「ありがとうございます。だけど、噂を払拭することなんてできるのですか?」
「正直なところ噂を完璧に払拭することはできないと思います。ただ、“某氏”に対するイメージを多少なりとも上げることができるのであれば策を講じていきたいと考えています」
「どんな策ですか?」
「まず最初にテレビやラジオを通じて作風変化の狙いを読者にアピールします。具体的には懇意にしているメディアの番組に内野さんが出演して、作風を変えたことについて視聴者に伝えていただきます」
「このところ何本か出演しましたが、それらと被りませんか?」
「最近出演された番組の内容を確認しましたが、作風が変わったことについてはほとんど発言されていないようなので大丈夫です。こちらで用意する番組のシナリオには我々の意図をたっぷりと盛り込んでおきます」
「所謂、ヤラセというやつですね」
「あはは、そうですね、そうともいえるかも知れません。ただ、作風が変わったことをきちんと説明することで読者の受け止め方が変わるのであれば多少のヤラセも致し方ないかと」
相澤と会話を交わしている間、大田原は気配を消し、一言も言葉を発しなかった。恐らく、メディア出演に関しては決定事項として捉えているのだろう。私が黙ったことを暗黙の了解として受け止めたのか、相澤が次のプランを話し始めた。
「それと、内野さんにはもうひとつやっていただきたいことがあります」
「私がですか?何をするのですか?」
「日本全国の主要駅にある大型書店でサイン会に出ていただきます」
「え、サイン会ですか?私、サインなんて書けないですよ」
「え、今まではどうしていたのですか?書籍を購入した方からサインを求められませんでしたか?」
「いやぁ、なるべくサインしなくてすむように遠慮してきました。まあ、たまにどうしてもと言われた時は普通の署名みたいに本名を書きましたけどね」
「えぇ、内野さん、それおかしいですよ。サイン会はさておき、すぐにサインの練習をしましょう!」
相澤によると千坪以上の超大型書店は日本国内に九十程度存在するとのことだった。今回の企画では一年間をかけて全ての超大型書店を巡るというものだった。書店の多くは都内のターミナル駅にあるものの、地方にも存在しており、当面は日本国内を飛び回ることになった。また、サイン会の前後にトークタイムを設け、そこでも作風の変化について説明すると相澤が付け加えた。
「こういっては何ですが、マスメディアに露出したりサイン会で説明したりするだけで大丈夫なのでしょうか。あまり細く見聞きしていませんが、マスコミの論調だと“阻止”の評価は最低と指摘しているようですが」
「実はもうひとつプランがあるんです。ただ、これはまだもう少し詰めないといけないのですが」
「どんなプランですか?」
「噂の発端となった花田氏と内野さんの対談です」
「え、私が花田さんと直接話すのですか?それこそ不味くないですか。花田さんは作風が変化したことを否定していないとはいうものの、疑問を感じているのですよね。しかも花田さんには小説家としてのきちんとしたバックボーンがある。そんな方と対談なんてしたらこちらがズブの素人であることを簡単に見抜かれてしまいますよ」
相澤が回答しようとしたのを大田原が手で制した。そしてテーブル越しに顔を近づけてきた。
「内野さん、確かに花田氏との対談はとてもリスキーです。できることなら内野さんが何冊か執筆してから実現したいところです。ただ、この案は花田氏の提案なのです」
「え、花田さんが?私と対談したいと言ってきたのですか?」
「そうです。そもそも、花田氏が内野さんを否定したわけではないことは先ほどお伝えしましたよね。にも関わらずマスコミが好き勝手に報道しています。こうなってしまった発端が自分の一言であることを花田氏はとても気にしています」
「だからといって対談というのはどうも・・・」
「実は昨日、花田氏から私宛に電話がかかってきました。そこで対談のご提案をいただいたのですが、彼曰く、対談の中で自分の話した意図をきちんと説明した上で作風の変化について意見交換をしたいとのことでした」
「そんな、昭和の大作家と呼ばれるような方と意見交換なんて恐れ多くてできませんよ」
大田原の横で話に加わりたくてウズウズしていた相澤が我慢しきれずに口を開いた。
「だからもう少し詰めないといけないんですよ、このプランは」
「詰めるといっても格が違いすぎますよ」
「確かに格は違います。ただ、そういった対談はいくらでもあるから問題にはなりません。それよりも花田氏が知りたがっていることに対する回答を我々が用意できていないことが問題なんです」
「回答ですか」
「ええ、花田氏は“某氏”がたった一作で作風を変えた理由を知りたがっているのです。我々がその回答を用意しないとこの対談は実現できないのですよ」
「そんなこと説明できるわけがないじゃないですか。そもそも違う人物が書いているのだから、変わるも何もないですし」
どんなに取り繕っても変えることのできない事実を突きつけられて相澤は黙ってしまった。言い過ぎてしまったことを少し悔いた。かといってその事実を塗り替える妙手は浮かんで来なかった。重い空気が応接室に充満し始めた時、大田原が何故か微かな笑みを浮かべて言った。
「こうなったら内野さんの好きなように話してもらってはどうだろう」
一瞬何のことを言っているのか理解できなかった。正面に座る相澤も同じように受け止めたのかきょとんとしていた。数秒経ってから二人の思考が機能し始めた。
「えぇ、そんなことできませんよ!」
「えぇ、そんなことしたら更に評価が下がりますよ!」
私と相澤が同時に口を開いた。勢い込んで否定する二人の様子を楽しそうに眺めながら大田原が続けた。
「大丈夫ですよ、きっと。内野さんには作家としての素養があります。それは最近の内野さんの言動を見ればわかります。相澤、お前はどう思う?」
「作家としての素養ですか。言われてみれば確かに内野さんの言動はしっかりしていますし、既に何作も執筆した作家のようなコメントをすることがありますね」
「長年、この業界で何人もの作家を見てきた私や相澤が認めるということは、内野さんは既にプロの小説家です。その内野さんが発する言葉は誰が何と言おうとも内野さん、いや、“某氏”の言葉なのです」
「いや、だからといって私が“流布”の作風にコメントすることなんてできませんよ」
「そうでしょうか。内野さんは“阻止”をひとりで書き上げましたよね。その際、なぜ“流布”の作風を模倣しなかったのですか?」
「え、それは、、、よくわからないです」
「本当ですか?内野さんは“某氏”になると決めた後、“流布”を何度も読み返したのではないですか?」
「まあ、“流布”の内容について、いつ、どこで聞かれるかわからないのである程度頭に入るくらいは読み返しましたよ」
「そうでしょう。そうすると“流布”の作風もある程度頭に入っていますよね。にも関わらずまるっきり異なる作風の作品が出来上がったのは何故なのでしょう?」
「えっと、それは、それしか書けなかったから、じゃないでしょうか」
「私は違うと思いますよ。内野さんは“阻止”を書く時に“流布”の作風を参考にしようとした。しかし、その作風だと腹落ちがしないため、自分の書きたいように書いた。違いますか?」
「うーん、確かに最初は“流布”を真似ようとしたことはありました。ただ、ズブの素人ではあの作風は難し過ぎて書くことができませんでした」
「ほら、“流布”の作風について感じたことが出てきたじゃないですか」
「え、でも、こんなことを言ったら私が“某氏”ではないことを言っているようなものじゃないですか?」
「まあ、そこは少し脚色が必要でしょう。ただ、少なくとも内野さんは“流布”を読みこなして自分なりの評価をしています。そして“阻止”を書くときに自分の色を織り込んだのです」
「そうか、“阻止”を執筆した“某氏”は“流布”の作風を既に否定したんだ。そして、自分が納得する新しい作風を“阻止”で表現しようとしたんだ。うん、これなら対談で説明がつきますよ。仮に花田氏が“阻止”の作風を嫌ったとしても、それはあくまで好みの違いです。彼ほどの人がその点を悪く言うことはないでしょう」
先ほどまで渋面で眉間に皺を寄せていた相澤の顔が晴れ晴れとしたものに変わった。相澤は打合せを終えるとすぐに準備に取り掛かった。メディア出演も書店におけるサイン会もある程度の準備期間が必要だが、相澤はあらゆるコネクションを活かして最短期間で準備を整えた。その間、“阻止”の販売数は伸び悩んだ。最初のメディア出演を翌日に控え、大田原と相澤は神に祈るような気持ちだった。
「いよいよですね」
「ああ」
「明日の花田氏との対談で好転してくれますかね?」
「そう願いたいな。まあ、これまでもなんだかんだ言いながらも内野さんが頑張ってくれたから今回も大丈夫なんじゃないか」
「随分と楽観的ですね」
「まあな、いざとなったら次の策を講じれば良いだけだよ」
「怪しいなぁ、隠し球でもあるんですか?」
「隠し球?知らんよそんなもの」
花田との対談は東都テレビで行われた。芥木賞の受賞が決まった翌日に連絡してきた大川が担当者だった。相澤に聞いたら十年来の知人だった。司会は東都テレビのアナウンサー、藤乃すみれが担った。“時代を代表する作家”と題した三十分番組で、花田と私の作品に対する姿勢や思想を紹介する内容であると紹介されていたが、一番の狙いは“某氏”の作風が変わったことを花田に伝えることだった。
「花田先生が内野先生の“阻止”についてコメントされたことがきっかけとなって“阻止”に関して色々と取り沙汰されています。その辺りについて花田先生はどう思われていますか?」
「いや、最初に内野さんにお詫びをさせてください。俺は決して否定したわけではなく、“流布”と“阻止”の作風があまりにも変わったことに驚きを感じ、そのことを伝えただけだよ。それがあのような騒ぎになってしまうとは思いもよらんかった。内野さん、本当に申し訳なかった」
「花田先生、そんな烏滸がましいです。先生が言われたように、私は“阻止”で作風を大幅に変えました。それは事実ですから先生は何も悪くないです」
「そう言ってもらえると若干心が落ち着くよ。ところで、なぜ作風をあそこまで変えたのかな?“流布”があれだけ評価されたのだからその作風を維持するのが普通だろう。俺ならしばらくはそのままの作風で行くけどな」
「私は作家としてはまだまだひよっこです。実際、書き上げた作品は“流布”と“阻止”の二本だけです」
「え、そうなのか。それで芥木賞を取っちゃたのか、すごいねぇ」
「芥木賞を受賞したのは運が良かっただけですよ。実際、“阻止”を書き始めたら“流布”の作風がしっくり来なくなって、あのような平易な文章になりましたからね。まだまだ小説家としての力量が足りないのだと思います」
「へぇ、これはびっくりだ。平成の大作家と呼ばれる内野さんが己の作風を確立できていないとは・・・」
「花田先生、今の内野先生のお話を聞かれた上で“阻止”に関してどう思われますか」
「そうだなぁ、さっきも言ったが作風が変わったことは勿体無い気がする。俺はあの作風が好きだからね。まあ、作風を変えることはあくまでも作家の生き様なんだけど、読み手からすると“阻止”を読む時に“流布”を意識してしまうんだよな。そうなると今回の作風変化が“阻止”にとって何らかの影響を与えることになる。その影響をプラスと受け止めるかマイナスと受け止めるかは読み手の思考によるから何とも言えない」
「“阻止”単体の評価は難しいということですか?」
「そうだな、単体として評価するためには“流布”を忘れないとできないかな」
敢えて評価をしなかった花田が最後にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。何を意味する笑みなのかわからないまま番組は終了した。
相澤や大川の事前準備が功を奏したのか、番組の視聴率はこの手の番組としては良い数値が出た。また、並行してS N Sに情報を流したこともあり、番組終了後に色々なコメントがネット上を飛び交った。
【花田のあの笑みは何なんだぁ】
【“流布”から“阻止”への作風変化、大賛成!】
【“阻止”単体だとやっぱり平々凡々だよね】
番組放映から一週間が過ぎた。河合出版の応接室には沈痛な面持ちの男が三人、居心地悪そうな顔を突き合わせていた。
「相澤、花田先生にはきちんとお願いしたんだよな。それにも関わらず、あの曖昧な締め括りはどういうことなんだ」
「私にも分かりませんよ。花田先生には“阻止”を否定しているわけではないことを伝えて欲しいとお願いして了解をいただいていましたから」
「確かに花田先生は“阻止”を否定することはしませんでしたね」
「内野さんまで私を責めるのですか、困ったなぁ」
「いえ、責めるとかいうことではないです。ただ、対談の最後に見せた花田先生の笑顔が少し気になって」
「そうそう、あの最後の笑みは何なんだ。相澤、花田先生に確認しなかったのか?」
「確認も何も、収録が終わったら逃げるように帰られたので細かい話はできませんでした」
「うーん、あの先生の悪い癖が出たってとこみたいだな」
「悪い癖、ですか?」
「ああ、彼は以前からトラブルを楽しむようなところがあるんだ。最近は大分大人しくなったと聞いていたから今回は大丈夫だろうと高を括っていたんだがな」
「そんな大事なこと、先に言っておいてくださいよ」
「お前に伝えたら何か対策を講じることができたか?トラブルを楽しむといっても所詮は噂だぞ。逆にそのことが気になって花田先生に失礼なことを言ったりしなかったか?」
「そ、それは。。。」
「お前の性格を考慮して花田先生の性癖を伝えなかったんだ。それより番組放映後の販売数はどうなっている?」
相澤がタブレットの画面を大田原に向けて答えた。
「正直あまり芳しくないです。この一週間の数値自体は先週とほぼ同じなのですが、これまでの数値から予測した値より若干下回っています。それに、S N S上のコメントも肯定派より否定派の方が増えています」
「そうか。対談は今更どうしようもないが、S N Sは今からでも遅くない。何とか対策できないのか」
「こちらからコメントすることは可能ですよ。ただ、それだけで肯定派を増やすことができるかどうか」
「手をこまねいている訳にもいかない。できる範囲で構わないから対応しておいてくれ」
「わかりました」
「あと、サイン会はいつから始まる?直接読者に訴えかけて少しでも心象を回復させないとな」
「来月一日に新宿の紀伊國堂で最初のサイン会を行う予定です」
「あと二週間か、少し時間が空くが仕方ないか。トークショーはどうなっている?」
「基本、関東地区は西野先生が仕切ってくれることになりました」
「西野先生かぁ、大丈夫か?花田先生の時みたいに混ぜ返されたら目も当てられないぞ」
「そこは大丈夫です。打診した際に内野さんの現状をお伝えしたらえらく心配してくれましたから。それに、状況を知った上で、仕切り役まで買ってくれたんです。流石にそこまで考えてもらえれば大丈夫ですよ」
「そうか。まあ、念の為、注意はしておけよ」
「分かりました」
言葉の端々から大田原の懸念する気持ちが伝わってきた。確かに今の状況を鑑みると“某氏”の作家生命が前途多難であることは明らかだった。大田原にしてみれば、何とかして“某氏”の評価を再び全国区に押し戻したいのだろう。
しかし、西野圭吾といえばミステリー作品の分野でトップクラスの作家である。その彼が何故故に私なんかの支援に積極的なのだろう。
「とりあえず西野圭吾に支援させるよう仕掛けておきました」
「うん、それでしばらく様子を見てみましょう」
「しかし、いくらミステリーで顔が売れている西野とはいえ、“流布”の後に“阻止”では流れを止めることはできないのではないでしょうか」
「そうかなぁ。私はね、“阻止”の平易な文章、意外と好きだよ。確かに“流布”と対比させるとまるっきりの別物であることは明白だけどね」
二週間後、新宿紀伊國堂の特設ステージでサイン会とトークショーが開催された。ステージといっても簡易テーブルと椅子を置いただけのものだった。そこに茶色のタートルネックにカーキ色の綿パンを履いた西野圭吾が現れた。トークショーが始まるまで十分ほど時間があったが、西野のファンと思われる三十代くらいの女性二人がサインを求めると嫌な顔も見せずに対応していた。
「西野先生、今日はよろしくお願いします」
「ああ、相澤さん、こちらこそよろしくお願いします。トークショーの司会なんてやったことないからどうなるかわからないけど、まあ、大らかな心で見守ってくださいね」
「いえいえ、西野先生はテレビとかメディアに多く出演されていますし、今日は全面的にお任せしますよ」
「いやぁ、そう言われちゃうと何だか緊張しちゃうな。内野さん、気楽にやりましょうね」
「あ、はい、よろしくお願いします」
言葉とは裏腹に西野の司会は時にユーモアを交えながら軽妙に行われた。予定した三十分はあっという間に過ぎていった。トークショーの内容も作風の変化を前向きに捉えて平易な表現を肯定するものになっていた。しかもその表現がさりげなくなされ、花田の直裁的な物言いとは百八十度異なるものだった。
「西野先生、今日はありがとうございました。お陰様で内野先生の“阻止”に対する評価が変わるきっかけになりそうです」
「いえいえ、僕なんかが言わなくても内野さんの作品は素晴らしいですよ。まあ、相澤さん達にしてみればこういったイベントをやって更に好感度を上げたいのでしょうけどね」
トークショーの後に行ったサイン会も好評で、その場で“阻止”を購入してサインを求める客が列を成した。その光景を目にした相澤は大田原の懸念が杞憂に終わったと感じた。そのことを大田原に報告した相澤に返ってきた言葉は意外なものだった。
「まだ余談は許さんよ。トークショーを見にきた客の何割かは西野のファンだ。彼らは西野が進めるからサイン本を購入したに過ぎん。彼らが“阻止”を読んでどう評価するか、そこが肝心だよ」
「編集長、今回は随分と慎重ですね。普段の編集長からは想像つかないくらいですよ。何かあるのですか?」
「ん、いや、何もないよ。俺は元々小心者なんだよ」
「え、それは絶対にないですね」
その後も日本国内を行脚してサイン会を開催した。都内で行われる際には西野の司会でトークショーを行い、それ以外の場所では若手作家に司会をしてもらった。どうしても人が見つからない時には相澤が司会を行った。サイン会はどこに行っても好評だった。特に西野がトークショーの司会を行った時は他の会場よりもサイン本が良く売れた。
紀伊國堂でサイン会を行ってから二ヶ月ほどが過ぎた。河合出版の応接室には暗い空気が澱んでいた。
「どういうことなんだ?」
「分かりません。トークショーの反応は良いですしサイン本も普通に売れています。ですが、全体の販売数は予想を下回ったままでなかなか回復の傾向を見せてこないです」
「やっぱり私の腕じゃダメなんですよ」
「内野さん、そんなことないですよ。S N Sにも肯定するコメントが結構上がっているじゃないですか」
「でも、否定するコメントも沢山書かれていますよ」
「そ、それは・・・」
「相澤、正直に言え。肯定派、否定派、どっちが多いんだ?」
「明確に数えてはいませんが、四対六、若しくは三対七といった感じです」
「否定派が多いということだな」
「はい」
「西野先生の支援だけじゃ足りないということか」
珍しく口数の少ない相澤が大田原の顔から視線を外した。
「なんだ、何か気になることがあるのか?」
「いえ、この件とは関係ないことなので・・・」
「なんだ、気になる言い方だな。何があった?」
「人伝に聞いたのではっきりとしたことはわからないのですが、西野先生と花田先生が文学論を交わしているらしいのです」
「文学論?なんだそれは?」
「西野先生がYouTubeで文学に関する動画を挙げているのですが、今度、花田先生と議論した内容をアップするらしいのです」
「それが“阻止”と何か関係するのか?」
「いえ、そこまではわかっていません。ただ、その議論の内容が小説の作風に関するものらしいのです」
「それって・・・」
「この話を教えてくれた人がいうには、内野さんの作風変化について言及しているわけではないらしいとのことでした。ただ、今、このタイミングで作風の変化ですよ。しかも議論している当事者が花田先生と西野先生です。何だか気になってしまって・・・」
「まだアップされてはいないんだよな、であれば現状の要因ではないんじゃないか」
「それはそうです。ただ、もし彼らが今回の作風変化を否定しているとしたら、あちらこちらでその旨を周りに伝えていたりしませんかね」
「そうだな、花田先生はその可能性があるのはわかる。だが、西野先生は内野さんを支援しようとしてくれているんじゃなかったのか」
「そうなんです。実際、トークショーでも肯定的なコメントをしてくれていますし、裏で否定するとは思えないのです。だからこのことをお二人に伝えるべきかどうか迷っていました」
「最初、西野先生が私を支援してくれることが不思議でした。それでも最初のトークショーでさりげなく後押しをしてもらってとても嬉しかったです。ただ、トークショーを何回かやっていくうちに少しずつ違和感を覚えてきました」
「え、違和感ですか」
「ええ。最初は不安があったせいか、慣れていないせいか、フォローされた嬉しさが優っていたのだと思います。その後、徐々に慣れてきたせいかトークショーの内容が細かいところまで見えてくるようになりました。すると、ちょっとした言葉の端々に否定されているように感じることが出てきました」
「え、そうでしたか。私は全然気づきませんでした」
「もしかすると私が神経質になっていたのかも知れません。例えば、“全体は良いよね、だけどこの部分にもう少しメリハリをつければ更に良くなるよね”みたいな表現です。ご存知のように“阻止”の作風は平易です。そこにメリハリをつけた方が良いと言われると、もしかしてこれは否定かなと感じたんです」
「言われてみると西野先生はそういったコメントをしていましたね。私は敢えてそういう表現を使って直裁的な表現を避けていると思い込んでいました」
「ということはさっき相澤が言った懸念が当たっているのかも知れんな」
「議論の件、きちんと追ってみます」
相澤が西野にコンタクトして会おうとしたが、会う前に動画がアップされてしまった。
「現代文学における平易な文体は是か否か!?」
みなさんこんにちは、“西野の文学ちゃんねる”にようこそ!
今回は昭和の大作家、花田仁先生をお招きして現代文学についてたっぷりとお話ししていただきました。
テーマはズバリ“平易な文体は是か否か!?”です。
常日頃、辛口コメントで知られている花田先生と一緒にこのテーマについて議論しましたので、最後までお楽しみください。
相澤から連絡を貰った大田原は動画を見るなり頭を抱え込んでしまった。これまでに描いてきた“某氏”のサクセスストーリーが根底から崩れ落ちる音が聞こえたような気がした。
「内野さんの名前や作品名こそ出していないが、どう見ても“某氏”の作風変更を批判しているじゃないか」
「一応、西野先生にはそれとなく削除若しくは内容の変更をお願いしたのですが、のらりくらりとかわされてしまいました」
「最初からこれが狙いだったということか」
「え、どういうことですか。西野先生はトークショーでフォローしてくれていたじゃないですか」
「最初はな。ただ、内野さんが言っていたように途中から批判の種をばら撒いていたよな。そして今回の動画だ。恐らく彼はトークショーの話が持ち上がった時からシナリオを描いていたんじゃないか」
「そ、そんな。トークショーの相談をした時、西野先生ははっきりと言ったんですよ。芥木賞を受賞した作家を安易に批判してはいけない、私は彼の将来性に大変期待をしている、と」
「しかし、トークショーは表面上肯定しているからまだしも、今回の動画はどう説明するんだ。花田先生が批判しているのはまだしも、動画の後半では西野先生もはっきりと批判していたじゃないか」
大田原は怒ってはいたが感情的にならず状況を冷静に分析しているように見えた。一方、大田原にぐうの音も出ないほど追い込まれた相澤は明らかに感情的になっていた。きっと、いくら頑張っても考えがまとまらないのだろう。大田原に言い返すことができなかった。そして、当事者である私は彼ら二人とは真逆の状態にあった。怒りの感情も焦りの感情もなく、淡々と事実を受け止めていた。
「まあ、仕方ないんじゃないですか。そもそもズブの素人が書いた小説なんですから、批判されて当たり前ですよ」
「内野さん」
「私としては“流布”のお陰もあってそこそこに売れてくれたし、少数とはいえ、中には肯定的なコメントをくれた読者がいたのでそれで十分です」
「内野さん、そんなこと言わないでくださいよ。まだまだこれから挽回できますよ。もう少し頑張りましょう」
「相澤さん、芥木賞の受賞から今日まで、色々とありがとうございました。大変貴重な経験をさせてもらえて嬉しかったです」
動画はすぐに話題になった。対談で意味深なコメントをした花田と、トークショーでさりげなく持ち上げていた西野が痛烈に批判したことが視聴者に受けた。動画はあっという間に拡散され、ネット上では“平易な文体”や“芥木賞”というキーワードが連日トレンドになって賑やかした。それまで何とか踏みとどまっていた“阻止”の販売数は一気に低迷した。
こうなると世の中は単純なもので、読者からのファンレターやメールがいきなり届かなくなった。代わりに届いたメールは“阻止”を批判するものだけでなく、私や美春を罵倒するものまであった。更に、近所を歩いていると遠巻きにする人が出始めた。言葉にはしなかったが、美春が相当気に病んでいることがわかり申し訳ない気持ちで心が一杯になった。今更ながら“某氏”を引き継いだことに後悔の念を覚えていた。
「どういうことですか?西野に支援させるはずだったのでは?」
「申し訳ありません、一旦は西野を取り込んだのですが、その後、花田が邪魔をしてきたようです」
「そうですか、こうなるとしばらくは様子を見るしかないですね」
それから二ヶ月が経ち、動画のことも話題に登らなくなった頃、“阻止”は販売数も落ち込んだまま静かに書店の店先から消えていった。世間からの耳目が離れたことを機に作家としての活動を辞めてサラリーマンに専念することにした。その旨を伝えるべく久し振りに河合出版を訪れた。
「大田原編集長、相澤さん、ご無沙汰しております。騒ぎも大分落ち着いてきたようなのでサラリーマンに専念しようと思います。色々とお骨折りいただき、ありがとうございました」
「え、内野さん、作家を辞めるのですか?それは勿体無いですよ」
「いえいえ、私には作家の能力はないですから、下手な夢は見ない方が幸せですよ。みなさんにもご迷惑掛けずに済みますし」
「内野さんはこの業界のことをまだよくわかっていないから少し説明しますね。まず能力のことですが、今回のように爆発的に売れた次の作品が批判されることは日常茶飯事です。そしてその次の作品がヒットすることもしばしば起こる現象です」
「それはきちんと実力を備えた作家の場合ですよね。私はズブの素人ですし、そもそもヒットした一作目を書いたわけではないですしね」
「普通に考えればそうですね。ただね、内野さん、本が売れるかどうかはその時の運に左右されることが多いのです。確かに売れっ子作家になるとある程度予想が立ちますが、多くの作家は出版してみないとわからないことが多いのです。ですから内野さんの次回作がヒットするかどうかは売り出してみない限りわからないのです」
「そんなもんなんですか」
「そうなんです。あと、我々に迷惑が掛かることを懸念されていますが、それは杞憂です。我々は作家のみなさんが創られた小説を如何にして一冊でも多く売るか、そのことに全勢力を注ぐのです。時には名もない作家の原稿を仕入れてきて評価することもあります。将来性が未知数でも、可能性があれば出版することもあります。そんな時は正直いって怖いです。売れるかどうかわからないですからね。でも、そのことを迷惑とは思わないです」
「内野さん、今、相澤がお伝えしたことはこの業界に身を置く者であれば常識なので気にされなくていいです。それよりも、“阻止”に関しては大変申し訳ありませんでした」
「え、大田原編集長、どういうことですか」
「“阻止”を出版するにあたり我々が下した判断は間違っていました。“某氏”を引き継ぐという特殊な事例ではありましたが、“阻止”という作品の質を十分に吟味しなかったことが良くなかった。更に芥木賞を受賞した次の作品であるという状況をきちんと判断できていなかったことも悪い要因になってしまいました」
「でも、それって結局は“阻止”が作品として良くなかったから仕方がないんですよね」
「結果としてはそうかも知れません。しかし、今お伝えしたように我々がきちんとサポートしていれば恐らく異なる結果になっていたはずです。ですから筆を置くと言われず、もう一度作品を世に出してみませんか」
二人の説得に押されて明確な答えを返すことができなかった。最後にしばらく考えてみてはどうかと言われて河合出版を後にした。家に向かう途中、この先どうしていくか考えてはみたが妙案は浮かばなかった。
「ただいま」
「お帰り、相澤さんどうだった」
「大田原編集長と二人で逆に説得してきたよ。もう一度、作品を出そうってさ」
「へえ、良かったじゃない。世の中には出版したくてもできない人が圧倒的に多いんでしょ?それを両手を挙げて出版させてくれるなんてとてもついてるわよ」
「でも、俺に作家としての才能なんてないからなぁ」
「それじゃ私が代わりに書いてあげる、なんてね」
明るく振る舞う美春を見たらもう一度書いてみようかと思わされる。ただ、美春の笑顔の裏には謂れのない誹謗中傷に傷ついた別の顔があることを知っていた。先日、駅からの帰り道で隣に住む田添夫人に会った。買い物途中だという彼女と途中まで一緒だったので歩きながら世間話をした。その際、美春が謂れのない誹謗中傷に悩んでいることを聞いた。
「どこで調べたのか、美春さんのメアド宛にいろんなところから誹謗中傷のメールが届いているみたいよ」
「そんなの無視すればいいのに」
「そうなのよ。私もそう言ったんだけど、ほら、美春さんって真面目な性格でしょ。そのせいだと思うのだけど、そういったメールを全部読んでいるみたいなの。そして、気に病んでいるみたい」
「そうでしたか。私が仕事で使っているアドレスに届いていたその手のメールは来なくなっていたからすっかり油断していました。教えてくれてありがとうございます」
「いいえぇ、私も内野さんの次の作品を楽しみにしているから、早くそういったメールが届かなくなると良いわね。あ、私こっちなのでここで失礼します」
家に帰って美春に話すと寂しげな表情を浮かべていた。
「もうその手のメールは読まずに削除していいよ」
「そうだね、そうする」
その後、美春がその手のメールを読んでいるのか読まずに削除しているのか聞いてはいない。冴えない表情をしていることもないので大丈夫だとは思うが、内に溜め込むことがある性格が少し気になっていた。
珍しく畑山から連絡が入った。具体的な要件は言わず、オフィスに出社する旨だけを告げて電話を切った。翌日、久しぶりに出社したら自分の机がフロアの端っこに移動されていた。仕事はパソコンを使って進めることが大半を占めるので机がどこにあろうとあまり影響はない。ただ、同僚とのコミュニケーションを円滑に進めるためには机が近くにあった方が良いことがわかる配置だった。とりあえず席について仕事の準備を始めたところで内線の呼び出し音が鳴った。畑山からの呼び出しで至急会議室に来るようにとのことだった。
「ご無沙汰しております」
「君の作品、昭和の大作家から酷評されているようですね」
「は、はい、そのようです」
「こういうことは困るんだよねぇ。君が何を言われようが知ったことじゃないが、君がうちに所属していることを世間は知っているからね。会社の評価が下がったら君はどうやって責任を取るのですか」
「責任と言われましても一方的に言われているものですから何も対応のしようがなくて・・・」
「責任も取れない君なんかに特別待遇をしたのがいけなかったですね」
「総務部長にお気遣いいただいたお陰で“阻止”を書き上げることができました。出版社からは次回作の執筆も期待されています」
「こんな状況だというのにまだ書こうというのですか?」
「えっ」
「会社の評価を下げるような活動は一切禁止です。特例として認めた在宅ワークも今後は一切認めません」
「しかし、出版社から次回作の執筆を依頼されていますが」
「そんな依頼を受けてちゃんとしたものを送り出すことができるのですか?これ以上、会社の評判を落としたらオフィス内にも君の居場所はなくなると思ってくださいね」
美春の顔が浮かんだ。謂れのない誹謗中傷に心を傷める彼女の側に今はできるだけ一緒にいてあげたい。いきなり在宅ができなくなったら彼女は一人で思い悩むだろう。
「出版社から全国の書店に出向くことも依頼されています。何とか週に何日か在宅勤務とさせていただけないでしょうか」
「今更書店に出向いたところで何も変わらないでしょうに。わかりました、週に一日は在宅勤務を認めます。ただし、これ以上会社の評判を落とすようなことがあれば、在宅勤務どころか、、、わかりますね」
作家としての評価は下がったが会社の評価は下がっていない。そんなことは関係なく一方的に決めつけるのが畑山の常だった。下手にこちらが感情的になると収集がつかなくなる。現状を鑑みて週一回の在宅勤務を認めて貰えたことを良しとして会議室を後にした。
会議室から戻ると今度は小森に呼ばれた。
「畑山総務部長から君の在宅勤務をやめて出社させることを聞いたよ。それ以外に何か言われたか?」
「在宅勤務は週に一日としていただきました。それ以外には特になかったです」
「なんだ、まだ特例が続くのか。畑山総務部長からは会社の評判を落とすような社員に特例は認めないと聞いていたんだけどな」
「すみません、出版社からの依頼がまだあるものですから」
「ふーん、あれだけ批判された作家に何を依頼するんだか。まあ、そんなことはどうでもいいか。あ、君の当面の仕事だけど、地下の資料室にある紙の文書を整理してデジタル化しておいてくれたまえ」
「え、文書整理ですか?それってアルバイトに頼んでいませんでしたっけ?」
「仕方ないだろ。君を極力外部と接触しないようにしろとの命が降りてきているのだから。こうでもしないと君はどこで誰に何を言うかわからんからね。変なことを言って私を困らせないでくれよ」
以前から碌な仕事をしていなかったが、資料室の文書整理とは予想外だった。会社としては一刻も早く余計な社員をやめさせたいのだろう。いや、会社というより、畑山と小森がそう願っているのだろう。
オフィスに出社するようになって一週間が過ぎた。朝、所属部署のある五階フロアに顔を出すとすぐに地下の資料室に移動する。そこで夕方まで紙の文書を整理して定時の五分前に五階のフロアに戻る。帰り支度をして家路に着く。毎日この繰り返しだった。たまに昼時やカフェに顔を出した時に顔見知りから声を掛けられた。内容は次回作のことが大半を占めた。たまに西野が主催するS N Sにアップされた動画のことを聞いてくる者もいた。しかし、聴く側も私が資料室に飛ばされたことを知っているようで、深く関わりたくないといった想いが見え隠れしていた。皆、当たり障りのない聞き方をしてきた。
一日の大半をたった一人で興味のない文書に対峙していると必然的に気持ちが萎えていく。感情の起伏がなくなり凪いだ海のようになるにつれ、今度は筆がまるっきり進まなくなった。
「ただいま!」
秋の陽は短い。定時にオフィスを後にしても、自宅に着く頃にはすっかり陽が沈んでいる。それでなくても淀んだ気持ちを更に重くさせる夜の闇を振り払うようにして家に入る。以前は玄関で靴を脱いでいるところに美春が迎えに来てくれた。しかし最近は声も聞こえない。靴を脱いで居間に入るとソファに座ってテレビを見ていた美春がこちらに顔を向ける。張りのない声で労いの言葉を投げてくる。
「お帰りなさい」
「ただいま。今日は駅前で美味しそうなショートケーキがあったから買ってきたよ。後で一緒に食べよう」
「ありがとう」
「美春、大丈夫か?何だか少し疲れているみたいだぞ」
「うん、大丈夫」
このところ美春の表情が冴えない。オフィスに出社するようになって一ヶ月、その間、美春の表情は徐々に暗くなってきている。今も誹謗中傷のメールが届いているのかも知れない。たまにそのことを問うても大丈夫と言って首を振るばかりなのでそれ以上聞かずにきた。
「それより次回作の方はどうなの?順調に進んでいる?」
「うん、ボチボチといった感じかな」
「そっかぁ、今度は花田さんや西野さんをギャフンと言わせないとだよね。頑張れ“某氏”」
言葉とは裏腹に美春の面に浮かんだ笑顔はとても儚く感じられた。
ある日、有休を取って美春と出かけることにした。美春の力無い笑顔を少しでも良いから明るいものにしたかった。動物園でのんびりと過ごし、駅前にある和食のお店で美味しい魚料理を堪能した。少しお酒が入ったせいか、美春の笑顔もいつもより明るいものになったような気がした。家に帰って居間で一息ついた。
「金目鯛のシャブシャブ、美味しかったね」
「ああ、久しぶりに食べたよ。昔、伊豆の保養所に行った時に地元の魚屋で金目を買って、みんなでシャブシャブにして食べた時を思い出したよ」
「あ、あったね、そんなこと。確かあの時は石川さんが全部やってくれたんだよね」
今日の外出が美春に少しの元気をもたらしてくれたようで嬉しくなった。
「清二さん、明日ゴルフでしょ?天気怪しくなってきてない?」
「え、それ嫌だなぁ」
テレビをつけて天気予報を見ようとした。画面に映ったのは民放のニュース番組だった。エンタメのコーナーが終わろうとしていた。
「来年の芥木賞についてお伝えしました。ところで蒲田さん、今年の芥木賞を受賞した“某氏”が書いた二作目、“阻止”について批判的な動画が拡散しているようですね」
「ええ、作家の西野さんが主催する“西野の文学チャンネル”で、同じく作家の花田さんと二人が登場する動画です」
「彼らはどうして“某氏”を批判するような動画を作ったのでしょうか」
「本当のところはわかっていません。西野さんも花田さんもその点については言及していませんので。ただ、私が関係者から聞いた噂だと、“某氏”の芥木賞受賞が時期尚早だったのではないかということでした。あくまでも噂なので本当のところは分かりませんけどね。実際、芥木賞の選考委員会では満場一致で受賞を決めていますから、少なくともその時点での評価は高かったはずです」
慌ててテレビを消そうとリモコンに手を伸ばした。その時、視界に入った美春の頬に一筋の涙が流れているのが見えた。
“作家も会社も辞めよう”
今まで思い悩んできた諸々のことを全て止めることにした。一旦決めてしまうと心がとても軽くなった。実際には先々のことなど不安要素が沢山あったがこれまでの悩みを払拭することの方が圧倒的に重かったのだろう。
相澤には電話で伝えることにした。申し訳ないと思ったが、直接会って話すと決心が鈍ってしまうのではないかという不安があった。
「そうですか、辞めますか」
「本当に申し訳ありません。これまで色々とご配慮いただいたにも関わらずこのような結果になってしまいました」
「いえいえ、我々こそ内野さんを十分に後押しできず、申し訳ありませんでした。ところで、この後はどうされるのですか?やはりサラリーマンとして今までのお仕事を続けていかれるのですか?」
「いえ、会社も辞めます。まあ、会社の方は数年前から色々とありまして、今回のことがなくてもどこかで辞めていたかも知れないんですけどね」
「そうですか。まあ、しばらくのんびりされるのも良いかも知れませんね。落ち着いたら連絡ください。飲みにでも行きましょう」
「分かりました。落ち着いたら連絡入れます」
会社を辞めると美春に告げた。最初は驚かれたが、在宅勤務から復帰した後の状況を伝えたら“仕方ないね”と言って寂しそうな笑顔を浮かべた。翌日、出社してすぐに辞表を提出した。小森は一瞬顔を強張らせたがすぐにいつもの無表情に戻り了承した旨の一言を返してきた。自席に戻って地下の資料室に向かおうとした時、小森がどこかに電話しているのが目に入った。一時間後、資料室にいると社有携帯に連絡が入り至急会議室に来るようにとの指示が来た。会議室に行くと、正面に畑山が座り左端に小森が畏るように座っていた。畑山の正面に座ると辞表を受理した旨を伝えられた。
「ただし、君が辞める理由はあくまでも君の一身上の都合であり、会社側には一切否が無いことをきちんと認識しておいてください」
「どういうことでしょうか」
「君の副業を認めたのはあくまで特例でした。先日、勤務形態を変更したことは特例措置を解除して本来の業務に注力することが目的でした」
「会社は執筆活動の妨害をしていない、ということですね。分かりました。それで結構です」
畑山も小森も会社を辞める部下のことを考える前に保身を最優先に考えているのだろう。今更どうでも良いことだったがいたずら心が湧いてきた。
「今後の予定は決まっていませんが、出版社から作家になってからの生活や思考の変化をまとめて欲しいと言われています。お二方には大変お世話になりましたので、執筆する際には真摯なお二人の姿を極力あるがままに書かせていただきます」
「え、それってもしかして会社での出来事を書くということですか?」
「ええ、そうなると思います」
「ちょ、ちょっと待ってください。会社での出来事を本にするというのはまずいんじゃ無いかなぁ」
「大丈夫ですよ。具体的な名称とかは使いませんし、人物を特定することはできないようにしますので。まあ、社名は既に広まっていますから隠しようがないのですが、そこは問題ないですよね」
「うっ」
額に脂汗を浮かべる二人からそれまでの高圧的な雰囲気が消えた。少しやりすぎたかと思ったがこれくらいでめげる人達ではないことを思い出し、そのまま会議室を後にした。
第七章 南の島
強い風にも耐えられるようコンクリートを主体とした頑丈なつくりの家がある。海が見える高台に立つ家の庭では白いサマードレスに身を包んだ美春がアールグレイを飲んでいる。横にはベビーベッドで眠る幼子がいる。内野が会社を辞めてから二年半の月日が流れていた。
宮古島の夕陽は東シナ海に沈んでいく。この時期は夕方の六時でも海のかなり上の方に太陽が見える。家の駐車場にピックアップトラックが入ってくる。
「あら、お父さんが帰ってきた。海姫ちゃん、お出迎えに行きましょうね」
幼子を抱き上げた美春が玄関に向かう。車から降りて玄関を開けて入って来た内野は日に焼けた顔を二人に向けた。
「ただいま、海姫、元気だったか」
「いきなりそれ?もう、親バカ全開なんだから」
「しょうがないだろ、可愛いんだから」
「はいはい、それで仕事はどうだったの」
「うん、無事にリリースできたよ。まあ、道の駅のインフォメーションシステムだからどうってことないんだけどね」
「それは何より。あ、そういえば相澤さんから電話があったわよ。来週、那覇まで仕事で来るからついでに家に行っても良いかって言われたからどうぞと答えておいた」
「へぇ、相澤さんかぁ、海姫のお祝いに来てくれて以来だよな。もしかして海姫の誕生日を覚えていてくれたのかな」
「あ、そうかもね。あの人、熱いところもあるけど結構マメだしね」
「そうだよな。もう筆を置いたというのに何だかんだと気を遣ってくれてるしな」
会社を辞めた後、沖縄を訪れた。最初は本島北部の本部町にあるホテルに滞在した。沖縄は何度も訪れたことがあり今更観光する気にもなれずのんびりと日々を過ごしていた。その後、あまり訪れたことのない離島を巡った。どの島も真っ青な空と綺麗な海が心を癒してくれた。美春も離島回りを楽しんでいたが、中でも宮古島が気に入ったようだった。
「思い切ってここに住むか?」
「え、でも、千葉の家はどうするの?それに仕事は?」
「仕事は高望みをしなければリモートで採用してくれるところがあるんじゃないかな。千葉の家はまだローンが残っているけど、今売ればそこそこの額になるだろうからどうにかなるよ」
「私は良いけど、周りから何か言われそう」
「そうだな、うちの親は大丈夫だろうけど、美春のところ、特にお義父さんが心配するかもな」
「確かに!お父さん、心配性だからなぁ。まあでも、芥木賞の時に比べればどうってことないか。あの時は、、、うん、この島に住もう!」
沖縄に来て一ヶ月、美春の顔に浮かんでいた陰はいつの間にか消えていた。会社を辞めた時は先行きに不安を感じていたが、美春の晴々とした笑顔を見ているうちにナンクルナイサと思えるようになっていた。
翌日から宮古島で家探しを始めた。最初、平良タウンにある不動産屋で物件を紹介してもらった。折角だから海が見える物件を希望したが、何故か紹介された物件は眺望が良くないものばかりだった。その日は三件の物件を見て回ったがどれもが一目で結論が出てしまった。盛り上がった気持ちに水を掛けられ食欲も湧かずホテルの近くの蕎麦屋で軽く飲むことにした。
「しかし、今日の不動産屋、やる気あるのかねぇ?」
「ほんと、海が見える家、眺望の良い家って言ったのにあれじゃねぇ」
酒を運んできた店の主人と思われる男が会話に入って来た。人懐こそうな笑顔を浮かべ、テーブルに酒を置きながら聞いてきた。旅先に居るという開放感も手伝ったのか、聞かれるがままに答えていた。
「お客さん、家でも買うのかい?あ、ごめん、会話が聞こえちゃったから」
「いえ、買うことはまだ。しばらくこの島に住もうかと考えていて、とりあえず住む家を探しています」
「どこの不動産屋?」
「南島不動産というところです」
「ああ、あそこはダメだよぉ。親父が偏屈者で他所から来た人には碌な物件を紹介しないんさぁ」
「えぇ、そうなんですか。一日、棒に振っちゃいましたよ」
「あはは、まあ、悪気はないから許してやってよぉ。その代わりと言っちゃ何だけど、きちんと紹介してくれるお店を教えてあげるからさぁ」
「ありがとうございます」
「ところでどんな物件を探しているの?半年前までうちの親が住んでいた家が空いているけど条件があったらそこに住む?」
店主の下地は宮古島で産まれ育った人だった。親の代に開いた蕎麦屋を継いで五年、地元の人向けの店を妻と二人で切り盛りしていた。半年前、一人暮らしの父親が介護施設に入った後、それまでに住んでいた家をどうするか思案していたらしい。もしそこに住むのであれば知り合いの不動産屋に手続きだけを依頼すると言ってくれた。
「築二十年だけど建物はしっかりしているよぉ。まあ、宮古の家は台風に備えて頑丈なのが普通なんだけどね。内装はこれからだから、希望があればある程度は融通が利くよぉ」
「海は見えますか?私、宮古の海が気に入って、住むのであれば海が見えることが絶対なんです」
「宮古の海は綺麗だからねぇ。あそこからだと東シナ海を一望できるよぉ」
下地が紹介してくれた物件は海原を見渡せる高台に建っていた。平屋建ての建物は窓が大きく部屋の中から海を望むことができた。広めの部屋が二つとリビングダイニングキッチンを備えた家の前には大きな庭が広がっていた。
「どう、気に入った?」
「とっても素敵です。下地さん、本当に貸していただけるんですか?ネットで調べてみましたが、この辺りリゾート用の宿泊施設があるエリアですよね。そういった目的で活用した方がメリットあるんじゃないですか」
「確かにそういう話もあるよぉ。だけどほら、うちは奥さんと二人でお店やってるでしょ。その上、リゾート用の施設となるとねぇ、そこまで手が回らないよぉ。かといって放っておくわけにもいかないし、内野さんが借りてくれたらこっちも助かるよぉ」
周りにはコンビニエンスストアもスーパーもない。水道と電気は通じているものの、台風が来れば停電になることもあるよと言って下地は笑った。景色は素晴らしいが毎日の生活を考えると他の物件を探した方が良いと思った。ただ、庭から海を見ている美春の横顔を見たらこの家に住むことが決まったと感じた。
最初の不安通り、住み始めると不便なことが次から次へと起きた。停電、断水、荷物の遅配、などなど。しかし、ことある毎にバタバタしたのは私だけだった。美春はいつも落ち着いていた。
「美春ってこんなに動じない性格だったっけ?」
「うーん、多分違うと思う」
「それじゃなんでこの家では何があっても落ち着いているの?」
「うーん、何でだろう。よくわからないんだけど、どうにかなるかなって思っているみたい」
「へぇ、ナンクルナイサ、なんだ。沖縄の血が流れているのかなぁ」
「何言ってるのよ。うちの両親は二人とも北海道出身なの知ってるでしょ。おじいちゃん、おばあちゃんも北海道だから私に沖縄の血が流れているとは思えないよ」
「そうだよなぁ。あ、また停電だ!懐中電灯、どこに置いたっけ?」
「清二さん、すぐに復旧するから大丈夫だよ。それより今夜は月が出てないから星が綺麗に見えるよ。庭に出てみようよ」
スマホの灯りを頼りに庭に出ると満天の星空が広がっていた。
「すごーい。いつ見てもこの星空には圧倒されちゃうね」
「そうだな」
「この島に住めて本当に良かった。清二さん、ここに連れて来てくれてありがとう」
「俺が連れて来たんじゃないよ。美春が選んだんだよ」
下地の店、下地庵には週に二回ほど顔を出すようになった。一日数本しかないバスに乗って店に向かい、帰りはタクシーで家路に着く。通っているうち常連客とも顔見知りになっていった。
「え、あんな辺鄙な所に住んでいるの?不便で大変でしょ?」
「まあ、色々とありますね。その度、私だけバタバタしていますよ」
「奥さんは大丈夫なの?」
「ええ、不便といっても家で過ごす分には普通に暮らせますからね」
「へぇ、奥さんは宮古の生活に向いているんだねぇ」
下地や常連客はみな良い人だった。東京から来て勝手がわからないだろうと言って、度々辺鄙な家を訪れてくれた。来る度に生活必需品を手土産のように持ってきては置いていった。下地庵からの帰り道にタクシーを使うのは勿体無いと言って送ってくれる常連客もいた。
「下地庵に来る人が親切なのか、宮古島の人が親切なのか、いずれにせよ恵まれてるな、俺たち」
「そうだね。ねえ、今度みなさんを呼んでご馳走しない?」
「お、いいね、それ。明日、下地庵に行った時に話してみよう」
週末、バスで帰れるようにと昼の十二時から宴会が始まった。庭にテーブルを出して始まった宴会は、途中から指笛と宮古民謡で大いに盛り上がった。歌と踊りは最終バスがバス停に着く十八時三十七分が迫るまで続いた。
「いやぁ、すごいパワーだなぁ」
「本当、楽しかったね。でも、みなさん大丈夫かしら」
「まあ、バスだからとりあえず平良タウンまでは行けるだろ」
宮古島での生活は快適だった。気の良い人達に出会い、日々を楽しく暮らすことができた。仕事は知人を頼ってリモートで働ける会社を見つけることができた。宝金融で気の合った竹本が知人を通じて中堅のI T企業を紹介してくれた。自社開発のパッケージソフトをメインにしたサイダーズ社は社員の多くが二十代から三十代と若く、社風も柔軟な発想を良しとするところがあった。お陰でフルリモート勤務、しかも週に三日の短時間勤務を認めてもらえた。週休四日のリゾート暮らしは、マリンスポーツを楽しんだりゴルフに出かけけたり、時には庭に出したテーブルにパソコンを置いて気ままに文章を綴ったりした。
千葉に住んでいた頃、美春は仕事をせずに家事専従だった。しかし、宮古島の家の周りには住宅がなく近所付き合いができない。一日中、二人で家に籠るのは良くないということで近くに立つ滞在型のリゾート施設、MB Houseでパートとして働くことにした。最初は客からの電話対応や掃除がメインだったが、いつの間にか簡単な料理やデザートを振る舞うようになっていた。ある日、自分の弁当を持って行くついでに他のスタッフにお裾分けをしたところ好評で、その後も度々持って行くうちにオーナーの宮里から依頼されたらしい。最初は素人料理なんて恥ずかしいと言って断っていたみたいだが、試しに提供したら予想以上に好評だった。それ以来、ウェルカムドリンクと一緒に出すお菓子や昼時に食べる軽食などを提供するようになったと嬉しそうに話していた。
「そういえば“流布”の彼はどうしていますか?」
「はい、筆を置くと同時に仕事も辞めて今は宮古島でノンビリと元気に暮らしているようです」
「そうですか。彼には申し訳ないことをしました。そうですか元気にやっていますか。それは良かった」
「もう一度仕掛けましょうか?」
「そうだね、時期を見計らって仕掛けてみるのも悪くない。ただ、彼や彼の伴侶には辛い目を見させてしまいましたから、次はきちんとやってくださいね」
「はい、承知いたしました。当面の間、監視レベルを高めておきます」
「内野さんもすっかり宮古に馴染んできたねぇ。今じゃ宮古生まれと言っても誰も疑わないよぉ」
「そんなことないですよ。まあ、指笛は少しできるようになりましたけどね」
いつものように下地庵で飲んでいた。
「清二さん、スマホ鳴ってない?」
「あ、本当だ。あれ、相澤さんからだ、どうしたんだろう」
「はい、内野です」
「内野さん、ご無沙汰しています。相澤です。お元気ですか?」
「ええ、南の島を満喫していますよ。今日はどうされたのですか?」
「実は、今、宮古空港に着いたところです」
「えぇ、宮古空港?仕事ですか?」
「ええ、那覇で仕事があったのですが、内野さんが宮古島でどんな生活しているのか見に行こうと思いまして。ご迷惑ならすぐに東京に戻ります」
宮古島での生活が落ち着いてきた頃、大田原と相澤のことを思い出していた。例の騒動の際、二人には大変世話になった。結局、筆を置くことになり彼らには何ら報いることができなかったことはずっと心の片隅に引っ掛かっていた。今更何ができる訳でもなかったが、改めて感謝を伝えようと考えメールを送ったのは一週間前だった。そしていきなりの来訪、相変わらずの性格に驚くやら呆れるやら、思わず笑い出してしまった。
「そんな迷惑だなんてとんでもないです。大歓迎ですよ」
翌日、内野家を訪れた相澤は両手に大きなバックを下げていた。
「どうしたんですか、そんなに荷物を抱えて」
「あ、これは内野さんへの差し入れです。はい、どうぞ!」
「差し入れ?何ですか、これ。って、無茶苦茶重いじゃないですか」
「いやぁ、飛行機乗る時、大変でしたよ。ようやっと身軽になった」
「もう、相変わらず突飛なことをする人ですね、相澤さんは」
「あはは、まあ、細かいことは気になさらず。中を見てくださいよ」
開けてみるとたくさんの本が出てきた。どうやら全て小説のようだった。著名な作家の本もあれば聞いたこともない作家の本もあった。
「もしかして、これ、全部小説ですか?」
「そうです。大田原と相談して内野さんの感性に影響しそうな本を見繕ってみました」
「見繕うって、一体何冊あるんですか?というより、何だって本なんですか?」
「それは決まっているじゃないですか。内野さんに、いえ、“某氏”に次の作品を書いてもらうためですよ」
得意満面の笑みを浮かべて立っている相澤はゲームに勝って誇らしげにしている子供のように見えた。
「相澤さん、私はもう筆を置いたんですよ。今更作品を書けと言われても困りますよ」
「内野さん、以前にも言いましたよね。我々は可能性があると見たらあらゆる手段を講じて宝物を探すと。今は筆を置いたと言っても、いつか、もしかしたら来週にでも新しい、素敵な作品作りが始まるかも知れない。我々はそのためならこれくらいの手間は惜しまないですよ」
「はぁ、困った人だなぁ、もう」
「まあまあ、作品のことはさておき、こちらで寛いでくださいな。遠路遥々、ようこそ我が家へ!」
「ありがとうございます。へぇ、素敵な眺めですね」
リビングルームから見える景色が気に入ったのか、相澤はすぐに庭に出てしばらくの間、広がる海を眺めていた。
「毎日こんな景色を眺めていたらストレスなんて溜まらないんでしょうね」
「そう思うでしょ。確かに景色は最高です。あと、島の人たちも素敵な人に巡り会えたから言うことなしです。ただね、ご覧のように何にもない場所ですから色々と大変なんですよ」
「何が大変なんですか」
「まず、インフラです。度々トラブルが起きますからね。夜に停電したら真っ暗だし、最初の頃は発電機もなかったから冷蔵庫とかも止まっちゃうし、もう、バタバタしてばかりでしたよ」
「あら、バタバタしていたのは清二さんだけじゃない。いっつも一人で大騒ぎしていたもんね」
「え、奥さんは大丈夫だったんですか?」
「大丈夫も何も、この通りなーんにもないところじゃないですか。慌てたところでどうしようもないですよ」
「あはは、内野さん、以前から思っていましたが、いい奥様を娶られましたね」
沖縄での仕事は終わって東京には二日後に戻れば大丈夫という相澤は翌日の夕方まで滞在していった。庭で海を眺めながら三人でのんびりと過ごした。
「しかし、日本にもこんなところがあるんですね。四六時中、雑踏の中で生活していると海と空の色の違いなんて考えることもないですからねぇ」
「そうですね。向こうにいた頃、たまに立ち止まって空を見上げたことがありましたけど、見えるのはビルとビルに切り取られた空の破片だけでしたからね。それでもその時は空の青さを感じていましたが、この景色を見た瞬間、ああ、これが自然なんだなぁって、当たり前のことを感じたものです」
「自然ですか。私たちが世の中に提供している本は何なのかなぁ」
「あはは、相澤さんらしくないですね。相澤さん、私ね、たまにこの場所で文章を書くことがあるんですよ」
「え、それって次回作ですか」
「いえいえ、小説とかじゃないんです。ただ、思うがままに文章を書くんです。時にはストーリー仕立てになることもあれば、全然繋がらない散文だったり、ひどい時には単語?キーワードとでもいうのかな、思い浮かんだ言葉だけを書いたりとか」
「へぇ、何だか面白そうですね。頭の中、いや、心の中なのかな、それを文字にしている感じですか」
「そうそう、ほら、寝ている時に夢を見るじゃないですか。そこに浮かんだものを言葉にしているような感じです」
海からの風に乗るようにしてサシバが飛んでいる。サシバの姿を目で追いながら相澤は考えた。今、自分の心の中を文字にしたら何と書くだろうか。目に映る景色やサシバの飛ぶ姿だろうか。それともこうやって考えていることをそのまま書くのだろうか。心の中を文字にすることは言うほど易しくないと感じた。そのことに気づいて思わず苦笑を浮かべていた。
「どうしたんですか、独り笑なんかして」
「あ、いえ、すみません。心の中を文字にするなんて言いましたが、それって意外と難しいなと思ったものですから」
「そうですね。多分、そうやって言葉にするとわからなくなるのかも知れません。私も日によって書く量が全然違いますよ。作家を職業にされている方は本当にすごい才能ですよね」
「内野さんだって作家を職業にされている方ですよ。内野さんは否定するかも知れませんが、少なくともプロである大田原と私はそう思っています」
「相澤さん、本当にありがとうございます。ご期待に沿うことはできないと思いますが、そう言っていただけるととても嬉しいです」
相澤は改めて内野に才能があることを確信した。後はどうやってその才能を開花させるか。そして、その才能をどうやって数多くの読者に伝えるか。正直なところ、内野に会うまでは彼が作家として再び筆を握る可能性は低いと思っていた。しかし、こうやって内野と話し、この地の景色を眺めていたら、彼が文壇に復帰することは時間の問題であることを確信した。
「内野さん、今回は素敵な場所にお招きいただきありがとうございました。内野さんとは異なりますが、私もこの景色に感化されたようです。次の目標が明確に見えてきましたよ」
相澤が東京に帰ってから一週間が過ぎた頃、仕事から戻ると美春がニコニコしながら玄関の外まで出迎えてくれた。普段はリモートで仕事をしている私が美春を出迎えることが多い。今日は那覇市内にあるサテライトオフィスで沖縄方面でリモート勤務をしている社員と打合せをしてきたため、美春が迎えることになった。
「どうした、何かいいことでもあったのか?」
「えへへ、さあ、何でしょう!」
「何だよ、えらくハイテンションだね」
「清二さん、私たち、パパとママになります!」
「えっ、それって・・・」
「三ヶ月ですって。至って順調だって」
「美春!」
上手く言葉が出ず、思わず美春を抱きしめていた。結婚して十四年、意図したわけではなかったが新たな命を授かることはなかった。そのことにさして不満を感じたことはなかったが、同年代の知人が飲み会などで子供の写真を見せびらかすことに若干の嫉妬を感じたことはあった。そんなちっぽけな嫉妬感は、今、この瞬間に塵となって消えていった。
「美春、名前はどうしようか。あ、男の子か女の子か、どっちだろう。あ、服とかベッドとかどうすれば・・・」
「せ・い・じ・さん。まずは落ち着こうっか。私たちの天使が降りてくるのはまだ七ヶ月先だからね」
「あ、ああ、そうだね」
「もう、今からそんなにテンパっちゃってどうするのよ。子育てが始まったらそれこそ戦場になるってゆかりさんが言ってたわよ」
妊娠が知れ渡ると今まで以上に多くの人が内野家を訪れるようになった。下地の妻や下地庵の常連客、特に女性の常連客は頻繁に足を運び、初参に向けて色々と協力をしてくれた。また、MB Houseの宮里や同僚は美春の体調を気遣い、仕事の内容や勤怠に関して柔軟に対応してくれた。中でも我が家から車で五分の隣人、金城ゆかりは美春が一番頼りにしていた。金城は美春と同い年だったが既に三人の子供を育てる母だった。末っ子が今年から小学校に通い始めて時間が取れるようになり、今年の五月からパートとして働いていた。
「ゆかりさんはこの悪阻を三回も経験しているんだね。偉いなぁ」
「なーに言ってるの。悪阻なんて放っておけばすぐに治るよ。それより産まれる時が大変だよ。あの時だけはもう二度と子供なんか産まない!って思うんだから」
「そうらしいね。今から戦々恐々だよ」
「あはは、でもね、産まれてきた子供の顔を見た途端に痛さも何もかも忘れちゃうんだよ。子供は天使とかいうけど、母親にとっては本当にそう見えるよ」
「へぇ、そうなんだ。楽しみだなぁ」
沖縄の冬は東京に比べればとても暖かい。それでもたまに肌寒い日がある。海姫が生まれたのは少し肌寒い日の早朝だった。二日前の夕方に産気付いた美春は宮古島で一番大きい慶海病院に入院した。昨晩中に生まれるだろうと言われて病院に泊まらせてもらった。いつ生まれるのか気になって結局昨夜は一睡もできなかったが、海姫をこの手に抱いた瞬間、得もいわれぬ想いが身体中を駆け巡った。
「清二さん、どうですか、父親になった気分は」
「うん、うん、うん」
「あらら、お父さん感動で言葉が出ないよぉ」
後日、看護師さんに笑われて恥ずかしかったと美春から告げられたが、この時の記憶には海姫と美春の顔しか残っていなかった。
海姫が生まれてから内野家は一層賑やかになった。妊娠がわかってから訪れる人が増えたが、仕事の合間とかに訪れることが多く、大半の人は一、二時間で帰っていった。ところが海姫が生まれた後は朝から晩まで誰かしらがいることが多くなった。時には泊まっていく人も出始めて、二人で住むことを前提に決めた今の家では手狭になりつつあった。
「清二さん、みなさんが足繁く来てくれてとても助かるけど、部屋数が足りないし、寛いで貰えないわね」
「そうだな、まさかこんな風になるとは思わなかったからなぁ」
「ねえ、この先どうする?海姫はすぐに大きくなるわよ。どこで育てていこうか?」
「美春は宮古というか、この場所が好きなんだよな」
「うん、最初は憧れみたいな感じで気に入ったけど、今じゃ訪れてくれる人たちも含めてここでの生活がとっても好き」
「それじゃ、ここに永住するか!」
「えぇ、そんな簡単に決めていいの?」
「え、ダメなの?」
「あはは、清二さんもなんだかんだ言ってしまんちゅになってきたわね」
翌日、海姫の顔を見に来た下地に移住の話をした。
「おお、ようやっと決めたかぁ。少し心配していたんだよぉ。海姫ちゃんが生まれたから環境の良い都会に帰っていくんじゃないかってかみさんと話していたんだぁ」
「環境が良いって、ここが一番良いですよ。素敵な人に囲まれて、雄大な自然に触れて育つなんて最高じゃないですか」
「あれぇ、引っ越して早々、停電やら何やらでバタバタしていたのはどこの誰でしたっけ?」
「はは、それは言いっこなしでしょ」
「ところで家はどうするのぉ?この建物じゃ手狭だよねぇ」
「まだ何も決めていないのですが、この近くで物件を探そうかなと思っています」
「そう、この近くで探すのぉ。それなら、ここ買わない?」
「え、それは願ってもないですけど、お恥ずかしい話、そこまでの資金はないですよ」
「用意できる額でいいよぉ。その代わり、ひとつお願いしたことがあるんだぁ」
「え、そんな、今でも格安の家賃にしてもらっているのに、これ以上お世話になるのは心苦しいですよ」
「なあに、気にしなくて良いよぉ。ほら、うちはカミさんと二人で子供もいないし、この先、そんなにお金を残してもしょうがないしねぇ。それにお願いしたいことを受け入れてもらえればカミさんも喜ぶよぉ」
下地の願いは意外なことだった。この家を購入するための資金で隣に小さなゲストハウスを建てて欲しいというものだった。この家と隣の土地は無償で提供するので、そこに小さなゲストハウスを建て、部屋が空いている時に使わせてくれないかと申し訳なさそうに言ってきた。
「え、それってこの家と隣の土地を無償で提供していただけるということですか。そこまでしてもらう訳にはいきませんよ。せめて、この家を譲っていただく分のお金は支払わせてください。ゲストハウスは下地さんが運営すれば良いじゃないですか」
「うーん、前にも言ったけど今のお店と別に何かをやる余裕はないんだよねぇ。人を雇うという手もあるけど、ほら、僕らも良い歳でしょ、それに生活に困っているわけでもないし、これ以上忙しくなりたくないんだよねぇ」
「でも、家も土地も無償でいただく理由がないですし」
「理由はあるよぉ」
「え、どういうことですか」
「僕ら子供がいないでしょ。そのせいもあって内野さん達が子供みたいに感じていたんだぁ。あ、ごめんね、変なこと言って」
「いえ、それはとても嬉しいです。俺たちも下地さんは宮古のお父さんとお母さんだねって美春と話したりしますし」
「そう言ってくれると嬉しいよぉ。あと、海姫ちゃんが可愛くて、きっと孫ができたらこんな感じなんだねとカミさんと話したりしているんだぁ」
「あはは、海姫はお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、叔父さんに叔母さん、宮古の縁者が沢山いて幸せ者です」
「今も厚かましいと思いつつ、日をあけずに海姫ちゃんに会いに来ているでしょ。でも、度々来ると美春さんも大変だし、隣にゲストハウスがあれば美春さんの負荷も減るんじゃないかと思ってさぁ」
「そんな、気兼ねなく訪ねてきてくださいよ。部屋数が少なくてみなさんが寛げないのは申し訳ないですけど、この家を譲っていただけたら改築するか増築して部屋を増やすつもりですから」
下地夫妻の好意はとても嬉しかった。そもそも、右も左も分からない宮古島に何の問題も無く移住できたのは下地のお陰だった。住むところを提供してくれただけでなく、日々の生活を親身になって支援してくれた。更に自分たちのことを子供だと言い、海姫を孫と言ってくれた。この島に住み続けることを決めた自分たちは、この先、下地夫妻に恩を返していかなければいけない。下地の意向をできる限り汲み止めることにした。
ゲストハウスを建てる資金は下地と折半にすることで折り合った。更に、無理だと思っていた移住支援を受けることができ、建設費の一部を賄うことができた。宮古島に引っ越してから一年半、住民票は移動せずに千葉に残してきていた。しかし、既に生活している実績があるので受けられないと思っていたが、下地庵の常連で市役所に勤める川満が担当者を説得してくれた。改めて住民票を移動することと、海姫がこの地で生を受けたことが説得する要因になったと川満から聞かされた。
下地との共同所有とはいえ、ゲストハウスの運営は自分たちが主体となってやっていくことが予想された。運営するからには宿泊客の満足度をしっかりと考慮していきたい。更に費用対効果も考えると初期投資はある程度抑えて運転資金を残しておくことも必要だった。それらのことを勘案し、コンテナハウスを活用することにした。これなら初期投資をある程度抑え、更に建築期間も一般の住宅建築に比べて大幅に短くすることができる。また、MB Houseがコンテナハウスを活用していたことから、宮里に業者を紹介してもらうことができたのも幸運だった。
半年後、四人が宿泊できるコンテナ二棟のゲストハウス、SU Houseが完成した。宮古ブルーをイメージしたエメラルドブルーとコバルトブルーのグラデーションが陽の光を受けて鮮やかに浮かび上がった。
「いやぁ、とても素敵なゲストハウスができたねぇ。お洒落すぎてうちらみたいな年寄りが泊まるには勿体無いよぉ」
「そんなことないですよ。さあ、今日は下地さんと奥さんだけの貸切です。ゆったりと寛いでください」
「ありがとねぇ。でも、僕らは海姫ちゃんの相手をさせてもらう方が嬉しいよぉ」
「海姫、下地のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが遊んでくれるって。良かったねぇ」
晩秋、東京の夜は冬の訪れを予感させるように冷込み、空には秋の四辺形が輝いていた。
「彼が宮古島に移住してどれくらい経ちましたか」
「二年と二ヶ月です」
「何か変化はありましたか」
「子供が産まれました。女の子です」
「ほお、それはおめでたい」
「ええ、島民にも仲良くしてもらっているようで、島に永住することを決めたようです」
「そうですか、“阻止”の時には申し訳なっかたけど、結果的には良かったのですかね」
「そうかも知れません。人生、何が起きるかわからないものですね」
「あはは、我々がそれを言いますか。ところで、次回作はまだですか」
「生活が変わって気分が変わったのか、最近はたまに散文を書いているようです。まあ、本格的に作品を作るまでは至っていないようですが」
「そうですか、それでは少し揺さぶってみますか」
「“阻止”を再浮上させる形でよろしいですか」
「そうですね。それをネタに周りから煽ってみましょう」
「わかりました。すぐに手を打ちます」
「あ、“阻止”の時みたいにならないよう、十分に注意して進めてくださいね」
「わかりました。慎重に進めていきます」
第八章 再評価
相澤がテレビを見ていると歌番組に出演していたアイドル歌手、朝倉凛が番組の中で“阻止”を誉めるコメントを発した。
「実は私、本を読むのが大好きなんです。今は仕事が忙しくてあまり読めないのですが、最近読んだ本では“阻止”が好きですね。とても素直な文章が心に染み入って、なんだか幸せな気分になれるんですよ」
めったに歌番組など見ない相澤だが、この時は映画を観た後そのままにしていたらこの番組が放映されていた。彼女のコメントを聞いた相澤は潮目が変わることを感じた。
朝倉凛の発言に反応したのは相澤だけではなかった。彼女のファンがコメントを肯定する内容でS N Sにメッセージを書き込んだ。すると、彼女のファンを中心に“阻止”に関してコメントする者が続出した。コメントの多くは“阻止”を肯定するもので、否定するコメントは花田仁と西野圭吾のバッシングを引用するものが多かった。ところがしばらくすると朝倉凛のコメントに同調する芸能人が現れ始めた。
「実は私もあの作品、好きなんですよね。彼女は最近読んだと言っていましたが、私は発売後、割りと早い時期に読みました。前作の“流布”も読んでいて、二つの作品の違いがとても興味深かったです。デビュー後の二作品でイメージを一変させたから、次の作品がどうなるのか楽しみでしたよ。ところが、その後、著名な作家の方から批判的なコメントが出てしまい、いつの間にか名前を聞かなくなって、次回作の噂も聞こえてこないですね。とても残念です」
前向きな発言をする芸能人がその後も続いた。その影響か、“阻止”が再び売れ始めた。書店にはほとんど在庫がなかったため、各地の書店から仕入れの依頼が河合出版に入るようになった。
「編集長、やりましたね。時間は掛かりましたが、花田先生と西野先生のバッシングをようやっと振り払うことができましたよ」
「そうだな。しかし、意外な展開だったな」
「ええ、まさかあのアイドル歌手が“阻止”のコメントをするとはビックリですよ。普段、歌番組なんて見ないですし、あの時は何のことだかすぐに理解できませんでした」
「あはは、相澤でもそういうことがあるのか。これまた意外だな」
「茶化かさないでくださいよ、編集長。それよりも内野さんに次回作を書いて貰えるよう依頼しましょう!」
「そうだな。彼も宮古島で十二分に充電しただろうし、今回は我々も全力で支援して世間をアッと言わせてやろうじゃないか」
相澤からメールが届いた。“阻止”の評価が見直されて書籍が売れているらしい。メールに書かれたURLを辿ると朝倉凛というアイドル歌手のSNSが表示された。そこには“阻止”を評価するコメントが記載されており、フォローするコメントの多くも肯定的な評価をしていた。
「どういうことなの?“阻止”が酷評されてから三年近く経っているのよ。今更何で再評価されるの?」
「知らないよ。相澤さんのメールにはアイドル歌手の一言から始まって他にも伝播していることが書かれていたけど、何だって今頃こんなことになるんだろう」
「まあでも、書籍が売れれば印税が入るし、良いことだよね」
「あはは、現金だなぁ、美春は」
「あら、お金は大事よ。SU Houseの損益も芳しくないんだから」
「それは仕方ないよ。元々そこで沢山稼ぐつもりはないんだから」
「まあね、だけど、稼がなくてもある程度の支出はあるから補填しないといけないでしょ」
SU Houseは主に下地夫妻や知人に利用してもらうことにした。平日は彼らに使ってもらい、一般の利用客が見込まれる週末だけの営業とした。最初は口コミで利用してくれる客がいたが、数ヶ月経つと予約の入らない日が増えていった。元々売り上げに期待はしていなかったが、クリーニングなどのコストを支払うと手元には僅かな額しか残らなかった。
「今は儲からなくても問題ないけど、先々を考えると維持費とか手当しておかないといけないんじゃない?」
「うん、そうだよな。俺も少し気になってきたよ」
「“阻止”が再評価されたから次回作でも書きますか?平成の大作家先生!」
「おい、冗談はよしてくれよ。俺はもうあの針の筵状態は勘弁だよ」
「あはは、そうだよね。あの時はみんなでこちらのことなんか気にも止めず、好き勝手なこと言ってたもんね」
「だけど何であそこまで否定するのかねぇ。俺の作品が気に入らないなら読まなきゃ良いだけだと思うんだよなぁ」
「みんな承認欲求が強いのよ。私はこの作品に関してこれだけのことがわかっている、偉いでしょ、みたいな」
「そんなことしたって何も起きないと思うけどなぁ。まあ、例の二人に関しては明らかに売名行為だって相澤さんが言ってたけど」
「お金の話は別として、清二さん、本当にもう書かないの?たまに文章書いているんでしょ。それって作品を作ってみたいってことじゃないの?」
「文章を書いていると言ってもその時々に思いついたことをつらつらと書いているだけだよ。作品にしようとしたらプロット考えたり登場人物の性格とか背景とかを決めないといけないからね、そう簡単にはできないよ」
「そうなんだ。私、清二さんの次の作品、読んでみたいけどなぁ」
「おいおい、今日はどうしたんだよ。美春は読書、あまり好きじゃなかったよな」
「え、そう言われればそうだね。でも、読んでみたいなと思ったのは本当だよ」
美春の何気ない一言が心に沁みた。作家としては未熟もいいとこだが、それでも誰かが自分の作品を読みたいと想ってくれるのは素直に嬉しい。口では書かないと言ったものの、心の奥底では書きたいという気持ちが生まれつつあったのかも知れない。
先日、美春のLineアカウントに相澤からメッセージが届いた。近々、SU Houseのお祝いを兼ねて訪問したいと書かれていた。お礼のメッセージを送ったら、清二のいない時に電話をして欲しいとの返事が来た。清二に聞かせたくない話の内容が気になったが、清二が買い物に出かけた隙を見計らって相澤に電話をかけた。お祝いの言葉と訪問の調整をした後、相澤が改まった口調で告げてきた。
「今度の訪問でご主人に次回作を書いて貰えるようお願いするつもりです」
「え、でも清二さんはもう書かないと思いますよ」
「本当にそうですかね?」
「え、どういうことですか」
「ご主人は“阻止”を一人で書き上げましたよ。確かに一時、批判を浴びて評価を下げましたが、今回のように肯定する読者も数多くいます。これって彼に物書きの才能がある証拠じゃないですかね」
「まあ、確かにそういう面は否めないですね。でも、清二さんは“阻止”が売れたのは“流布”があったからだと思っているんじゃないでしょうか」
「勿論それはありますね。何といっても芥木賞を受賞した作品ですからね。ただ、それは単なるきっかけにすぎないと私たちは考えています。実際、そちらに移住してから彼は文章を書くようになりましたよね。それって作家として大事な素養のひとつだと思うのです」
「素養、ですか」
「ええ、作家と呼ばれる人たちは例外なく文章を書くことが好きなんです。彼もまた文章を書くのが好きなはずです。そうでなければ自ら文章を書いたりしないですよ。そう思いませんか?」
「そうですね、確かに清二さんは文章を書くことが好きだと思います。時々庭にパソコンを持ち出して何か書いているみたいなんですけど、その時の彼の表情が面白いんです」
「面白い?どういうことですか?」
「色々な表情になるんです。顰めっ面をしたかと思えば急にニヤニヤしたり、いきなりびっくりした顔になったり、まあ、人様には見せられないです」
「あはは、そうでしたか。きっと文章の中にのめり込んでいるんですね。やっぱり書きたい欲で溢れているんだな」
「書きたい欲、ですか。そんな言葉ありましたっけ?」
「あ、今勝手に言いました。多分、そんな言葉はないです」
「相澤さんって面白いこと言いますね。清二さんと馬が合う訳だわ」
美春は相澤から訪問する前にこっそりと焚き付けてくれないかと頼まれた。
相澤が内野家を訪問する一週間前、花田仁がバラエティ番組にゲスト出演することがわかった。“阻止”が再評価されてきたこの時期に出演することを知った業界関係者が大田原に伝えてきた。大田原は番組が放映される時間帯に相澤を自宅に招いて一緒に見ることにした。
「あの人のことだから絶対に何か言いますよ」
「そうならないことを願うけどな。まあ、たまにはお前と差しで飲むのも良いかなと思ってな」
「ありがとうございます」
「内野家を訪問するのは来週だったよな。どうやって説得するつもりだ?」
「とりあえず美春さんに煽ってくれるようお願いしておきました。後はその場で徹底的に持ち上げてみようかなと考えています」
「うーん、彼は思考がロジカルだからなぁ、持ち上げるだけじゃ納得しないんじゃないか」
「そっかぁ、それじゃどうしようかなぁ。海姫ちゃんを引き合いに出しましょうか?」
「お、それは良いかもしれんな。美春さんの話だとロジカルで冷静な反面、情に脆かったり突発的なことへの対応が苦手なんだろ」
「ええ、そうみたいです。停電とかあると清二さんがバタバタして美春さんが落ち着いているそうです。あと、海姫ちゃんが生まれた時は舞い上がっちゃったみたいですから」
「あはは、あの内野さんがねぇ、意外だな」
「あ、花田先生が出てきましたよ」
一時間のバラエティ番組は内容の薄いものだった。昭和の大作家と評される花田が出演した理由はわからなかったが、番組の後半、“阻止”を肯定した朝倉凛が登場した。彼女が登場したコーナーで花田との絡みはなく、コーナーが終わると朝倉凛の出番は終わってしまった。おそらくそのコーナーだけ録画だったらしい。ところが、次のコーナーの冒頭、司会を兼ねたお笑いタレントが軽い口調で朝倉凛のコメントについて花田に質問した。グラスを持った大田原の手が止まった。
「花田先生が否定した小説を凛ちゃんが絶賛しちゃいましたね。先生の面目丸潰れぇ」
「あはは、ほんっと困っちゃいましたよ。俺の作家生命も終わったな」
二人は実のない会話を交わしてすぐに次の話題に移っていった。大田原と相澤はほっと胸を撫で下ろした。ところが、番組の最後、花田が薄ら笑いを浮かべたままサラッとコメントした。
「凛ちゃんの評価が正しいか、俺の評価が正しいのかは“某氏”の次の作品を読めばわかるよ。まあ、俺の評価の方が信憑性があると思うけどね。ほら、俺の方が凛ちゃんより少しだけ人生経験長いしね」
最後は薄ら笑いのままフェイドアウトしていった。
「あの先生、最後っ屁でしたね」
「ああ、ほんっとああいうところは直してもらいたいもんだ。良い作品を書くのに勿体無いよな」
「でも編集長、もしかするとあの一言、内野さんを焚きつけるかも知れませんよ。ほら、彼、何だかんだ言いながら自分の作品の評価を気にしているじゃないですか。昭和の大作家とアイドル歌手の評価が真っ向からぶつかっていることを知ったら次回作を書いて評価してもらうことに気が向いたりしないですかね」
「そうだな、可能性は十分ありそうだな。相澤、このネタ、上手くぶつけるんだぞ」
「わかっていますって。長年編集をやってきていますからね、こういった駆け引きは任せてください!」
この晩、二人の酒量はいつもよりかなり多くなった。
「機長の大隈です。本日の飛行ルートの天候ですが、九州近辺まではおおむね良好との報告を受けております。ただ、沖縄近辺は三日前に発生した台風の影響で多少荒天となっています。揺れましても飛行の安全性には影響御座いませんが、お座りの間はシートベルトを緩みのない様にお締めください」
相澤が宮古島に向かう三日前に沖縄の南海上に台風が発生した。台風の進路によってはしばらく宮古島に滞在することになる可能性があった。ただ、今回は内野に再びペンを握ってもらうよう説得することが目的であり、ある程度時間が掛かることを想定していた。滞在日数が増えるのは好都合だった。大田原と相談して宮古島に滞在する間の相澤の仕事は他のスタッフに委ねることとし、相澤は予定通り機上の人となった。
「へえ、これがゲストハウスですか。とても良い雰囲気ですね。これなら一週間とか滞在しても全然大丈夫ですね。ところで、何でSU Houseと名付けたのですか?」
「以前相澤さんも会われたと思いますが、この家や土地を提供してくれた下地さんに敬意を評して“S”、それととってつけたような内野の“U”です。あと、コンテナハウスを紹介してくれたオーナーが経営しているリゾート施設がMB HouseなのでそれをもじってSU Houseです」
「へぇ、色々な人との縁ですね。だけど、コンテナハウスと聞いていたのでもう少しいかついのかと思っていました」
「そうですよね。私も初めて知ったのですが、今時のリゾートはコンテナハウスを使うことが多いそうです。勿論、コスト面のメリットが大きいのですが、内装や使い勝手とかユーザー品質も以前に比べて格段に良くなっているそうです」
「ここは眺めも良いし、静かだし、ゆったりするには最適ですね」
「今回は台風が迫っているから、飛行機が欠航になるかも知れません。そうしたらここでのんびりと寛いでいってください」
天気予報では台風が宮古島に接近するのは二日後だった。その影響が既に出始めているのか、時折強い風に混じって雨滴が飛んできて顔に当たった。空を見上げると以前訪れた時に見たそれとはまるっきり異なる濃い灰色に覆われていた。
「相澤さん、中に入ってお茶でもどうぞ。これくらいの風でもたまに物が飛んできて危険ですから」
「美春さん、これくらいの風って、これ台風の影響なんですよね?」
「ええ、でも実際に台風が接近したらこんなもんじゃ済まないですよ。それこそ立っていられないほどになりますから。まあ、そんな時は家の外に出る人はいませんけどね」
コンテナハウスの窓に打ち付ける風を感じながら台風が接近した時のことを想像したが、相澤にはイメージすることができなかった。
その晩、美春が腕によりをかけて作った料理に舌鼓を打った。宮古で獲れる海産物を堪能し泡盛の古酒で気分が良くなった相澤は事前に考えたシナリオとは異なる形で本題に入った。
「内野さん、次回作を書きましょう!」
それまで和かに泡盛を飲んでいた内野が表情を変えた。何も言わずに相澤の顔を、目を睨みつけるような表情で黙り込んだ。相澤はつい今し方までの心地よさが吹き飛び、事前に考えたシナリオに戻すかどうか迷った。答えが出ない相澤は内野の迫力に押されて視線を外して項垂れるように下を向いた。この時の沈黙は後から考えてもとてつもなく長かった。堪えきれずに視線を戻そうとした時、内野が口を開いた。
「わかりました。どこまでできるかわかりませんが、書いてみます」
「え、それは・・・」
「清二さん、本当?本気で書くの?」
「美春、今は相澤さんと話しているから・・・」
「あ、ごめんなさい。私、嬉しくて・・・」
「美春さん、構いませんよ。私も美春さんと同じ思いですから」
「相澤さん、美春、本気で書いてみます。自分に才能があるとは思えませんが、最近、文章を書くのが楽しいんですよね。“阻止”を書いた時は無我夢中だったせいか楽しいと感じる間もなかった。だけど、この島に来て海を見ながら、自然に包まれるような環境で文章を書き始めたら楽しさがどんどんと強くなってきたんです。今は散文しか書いていないから作品を書き上げるのにどのくらい掛かるのか、そもそも書きあげることができるのかもわかりませんが、やってみようと思います」
「やったぁ!」
急に立ち上がった相澤はふらついて危うく後にひっくり返るところだった。気持ち良く飲んでいた泡盛が効いていたのか、単に勢い余っただけなのか、そんなことはどうでも良かった。三年間待ち続けた“某氏”の第三作がついに書籍化される。その事実は相澤が編集者として初めて書籍化した時と同じくらいの感動を与えてくれた。この晩も相澤の酒量は普段より多くなった。お陰で台風が過ぎ去る三日後まで体調が芳しくなかった。
相澤が帰京した翌日、美春とこれからのことについて話をした。次回作を書くとなるとある程度の時間を割かないといけない。しかし、サイダーズを辞める訳にはいかなかった。自宅やゲストハウスを購入したり運営したりするのにかなりの金額を費やしていた。更に今後、海姫の養育費も賄わなければならない。まだ貯蓄はあるものの、当面は収入を途絶えさせる訳にはいかなかった。
「SU Houseを開ける週末だけ海姫を保育所に預けようか。そうすればお客さんの対応とかメンテナンスは私がやれるし」
「そうだな。俺も執筆の合間に手伝うことはできるだろうから、人手はそれで賄えるな」
「清二さんは執筆に専念してください。SU Houseは私が切り盛りします。大船に乗ったつもりで素敵な作品を読者のみなさんに届けてください」
「以前から思っていたんだけど、この島に来てから美春の性格、随分と変わったよな」
「あら、そう?どう変わったの?」
「うーん、何ていうか、しっかりと大地を踏みしめているような感じかな」
「やだ、なにそれ!それじゃ千葉にいた頃はフラフラしていたみたいじゃない」
「いや、そうじゃなくてさ、以前はほんわかした感じがしていて、その感じに随分と助けられていたんだ。だけど、最近はしっかりとしてきて、今度はその感じに助けられているんだよね」
「なんだかよくわからないけど、清二さんのお役に立ててるのならそれでいっか」
一ヶ月後、担当している流通システムの基本設計書を書いている時にスマホが鳴った。画面を見ると東都テレビの大川からの電話だった。花田との対談を企画してもらって以来なので三年半ほどが経っていた。
「ご無沙汰しております。河合出版の相澤さんから聞きましたよ。いよいよ第三作に着手されたそうですね」
「ええ、まだ書き始めたばかりですからいつになるかわかりませんけどね。ところでどうかされたのですか」
「実は出版業界とコラボした企画を進めておりまして、内野先生にもご協力願えないかと思いまして連絡させていただきました」
「私は今は作家ではないですから協力しろと言われても何もできませんよ」
「そう仰らずに話だけでも聞いていただけませんか」
大川の話によると低迷している出版業界を活性化させるべくイベントを開催することになった。そのイベントは芥木賞と直川賞に焦点を当て、今後の小説がどのように進化していくのか検討する内容だった。イベントに出演するのは、芥木賞と直川賞の歴代受賞者と読書好きの芸能人、あと一般の読者を観客として招いてテレビ放映すると同時にネット上でライブ配信するというものだった。その取りまとめを大川が行っていた。
「芥木賞の受賞者といっても私は二作品しか書いていませんし、そんな大きなテーマについて発言なんかできませんよ」
「いえいえ、芥木賞受賞作の“流布”は出版業界に大きなインパクトを齎しました。内野先生の発言は業界にとって貴重な言葉ですよ」
「そう言われましてもそんな大きなテーマに対して言えることなんてないですよ。そもそも小説がどういうものなのか、そんなこともわかっていないのですから」
「もしかして内野先生は花田先生の発言を気にされているのですか」
「そうですね、気にしていないと言ったら嘘になりますかね。でも、そのこととは関係なく、私なんかでは役不足だと思いますよ」
「先生は朝倉凛をご存知ですか?」
「ええ、私の作品を褒めてくれた方ですよね」
「ええ、そうです。ご存知かと思いますが、彼女の発言からネット上では“阻止”に関するコメントが数多く飛び交っています。そして、彼らの多くは内野先生の次の作品に期待をしています。今回の企画ではそういった期待される方に是非とも小説に対する想いを語っていただきたいのです。変な意味ではなく、出演していただく先生方には高尚な内容ではなく、小説に対する熱い想いを語っていただけるようお願いしています」
「小説に対する想い、ですか」
「そうです、熱い想いです。先生方に書き手側の想いを語っていただき、その想いを受け手側の読者がどう受け止めるのか、そこが今回の企画の肝になると考えています」
即答することはできないと伝えて電話を切った。花田や西野が出演する場に出て行くことは躊躇われた。その情報だけだったら出演の依頼は断っていただろう。ただ、電話を切る直前に朝倉凛が出演することを聞かされた。彼女は“阻止”の作風が好きだと言ってくれた。今、こうやって新しい作品を作ろうと思えたのは彼女の発言に拠るところが大きい。いつか会う機会があったら是が非でも礼を伝えなければいけないと常々考えていた。今回の企画に参加すれば礼を伝える時間くらいどうにかなるのではないだろうか。
相澤に連絡すると出演しなければいけないと言われた。執筆活動を再開することを決めたからにはいずれ何処かで花田と決着をつけなければいけない。今回は応援してくれる朝倉凛も出演するのだから丁度良い機会であるとも言ってくれた。それでも躊躇していると電話を切る間際に彼らしくない穏やかな声で最後の一押しをしてくれた。
「今回、仮に花田先生に言い負かされてもいいじゃありませんか。内野さん、いえ、内野先生の作家人生はこれから先何十年も続きます。その過程で花田先生の鼻っ柱を折ってあげればいいんですよ。内野先生にはそれだけの才能がありますから大丈夫です」
いつものテンションで言われたら迷ったかも知れない。この時の相澤は妙に落ち着いていて、もしかしたら花田を言い負かすことができるかも知れないと思わされた。
大川に参加する旨の連絡をした数日後、朝倉凛のマネージャー、飯村から電話が入った。大川を通じて朝倉凛と話をしたい旨を聞いたと事務的に伝えてきた。番組が始まる前であれば十五分ほど時間が取れるとのことだった。番組が放映される当日、飛行機の関係で二時間前に赤坂にある東都テレビに着いた。朝倉凛との約束まで一時間あったのでラウンジでお茶を飲みながら時間を潰すことにした。コーヒーが運ばれてきて口をつけようとしたら唐突に声を掛けられた。
「おや、これはこれは平成の大作家先生じゃありませんか。随分と早いスタジオ入りですな。ああそうか、これからの出版業界を背負って立つ先生としてはいち早くスタジオに入って場を仕切ろうという訳ですな。流石です」
「花田さん、ご無沙汰しております。今日はよろしくお願いします」
下手なことを言って揚げ足を取られたくなかった。かといって相手を立たせたまま話を続けるのも失礼と思い、自分が立ち上がるか花田に座ることを進めるか一瞬悩んだ。すると後ろから声が聞こえた。
「内野先生、お待たせしました。遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
振り返ると朝倉凛がマネージャーらしき女性と並んでこちらに向かって頭を下げた。慌てて立ち上がり二人に向かって軽く頭を下げた。
「あ、朝倉さん、今日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。あれ、お約束の時間より少し早いようですが」
「あ、そうでした?すみません、時間を間違えていたようです。遅れちゃいけないって飯村さんと慌てて走っちゃいました」
結果として花田を蔑ろにするような形になってしまった。まずいと思ったが既に遅かった。
「おやおや、今日は朝倉さんとタッグを組もうというわけですか。流石は平成の大作家先生だ。事前に手回しをするなんて抜かりがないですねぇ。おお怖い怖い・・・」
言うだけ言うと花田はその場を離れていった。
「雰囲気が悪そうに見えたので声掛けてしまったのですが、すみません、火に油を注いじゃったみたいですね。番組、荒れるかも知れませんね」
悪びれる風もなくあっけらかんと言って朝倉凛は正面に座った。
「いえ、どう対処しようか悩んでいるところだったので助かりました。まあ、番組内で多少言われるかも知れませんが、どうにかなるでしょう。それよりも朝倉さんには大変感謝しています。私なんかの作品を好評していただきありがとうございました。お陰様でこれからも執筆活動を続けていく決心ができました」
「いえ、私の言葉なんて大したことないです。元々内野さんの作品が素晴らしい、ただそれだけなんじゃないでしょうか」
「そう言っていただけると本当に嬉しいです」
番組が始まり作家がそれぞれの意見をある者はストレートに、ある者は抽象的に主張した。それを受けて、朝倉をはじめとした読者が想いの丈を伝えることで番組が進んだ。前半は何事もなく色々な意見交換がなされ執筆に携わる身としてもとても参考になる話を聞くことができた。ところがというか、予想通りというか、後半に入ると花田の論調が少し怪しくなっていった。
「俺はねぇ、最近の物書きに少し疑問を感じることがあるんだ」
「物書きというのは作家のことですよね。どのような疑問でしょうか?」
「ネットが当たり前になって簡単に作品を作れるようになったせいなのか執筆歴が短くても評価される作家が増えているよね。だけどポッと出の作家で本当に能力がある奴なんてほんの一部なんじゃないかな。作家の多くは沢山の文章を書き、いろんな経験をすることで文章に深みが出てくると思うんだ」
「そうすると花田先生は作家になるためにはある程度の時間を掛けるべきと考えていらっしゃる訳ですね」
「あくまでも一般論ね。ほら、平成の大作家先生なんて処女作で芥木賞を持っていっちゃったでしょ。ああいう人は特別な人だよね、多分」
まさかこんな形で自分の名前が出るとは思っていなかった。司会に振られたら何と答えようと考え始めたら反対側から声がした。
「執筆歴ってそんなに大事なんでしょうか。私は素人なのであくまでも読者の感想として聞いていただきたいのですが、花田さんが言われた文章の深みというのが今ひとつわかりません。今回、この番組に出演させていただくことになった時、考えてみたんです。私が好きな本ってどういうのかなって。そうしたら過去に読んで良いなと思った本は読んでいるうちに作品が勝手に私の内部に入ってくるものでした」
「内部に入ってくるというのはどういうことですか?」
「うーん、言い方が難しいですね。文章の読みやすさとかではなくて、読んでいるうちに登場人物や状況、背景など全てがしっくりとしてくるんです。ああ、この言い方もわかりにくいですね、すみません」
「いえ、わかりますよ。例えが良いかどうかわかりませんが、私たち日本人は日本語で会話している時に一語一句を理解しようとはしないですよね。だけど、海外の言葉を聞いた時には単語を頭の中で翻訳してから文章を訳そうとするため理解度が落ちるそうです。今、朝倉さんが言われたことにも通じるように思えます」
「そうです。そんな感じです。それで私が言いたかったのは、そういう作品って読み手と書き手の相性みたいなものじゃないかと思ったのです。仮にそうだとすると執筆歴ってあまり関係ないかなと」
「確かにそうですね。人と人の出会いと同じですね。ここで少し観客席にいらっしゃる読者代表の方々に聞いてみましょう。藤乃さん、よろしくお願いします」
観客のコメントも朝倉を擁護する内容が多かった。花田が苦虫を噛み潰したような表情をしたがカメラがそれを捉えたかどうかはわからなかった。
番組終了後、ロビーのあるフロアに降りたら朝倉凛がマネージャーの飯村と会話している姿が目に入った。
「朝倉さん、今日はありがとうございました」
「あ、内野さん、お疲れ様です。あれ、私お礼を言われるようなことしましたっけ?」
「番組の後半で花田さんがコメントされた時、朝倉さんが切り返してくれたじゃないですか。あの時、司会の人に振られたらどうしようかとビクビクしていましたよ」
「ああ、あれですか。別に思ったことを言っただけですよ。でも、内野さんの援護になったのならそれはそれで良かったです」
「私は作家としてはまだまだだと思っていますが、朝倉さんのように本と対峙する読者がいることを知れたのはとても良い機会でした」
「内野さんの“阻止”はとてもしっくり来たんですよ。その理由を言葉にするのは難しくてあんな言い方になっちゃいました。でも、観客席にいた方が私と同じように受け止めていることを聞いてびっくりしました。内野さん、次の作品も期待しています」
宮古に帰って下地庵を訪れると下地や常連客に囲まれた。
「内野さん、作家さんだったんだねぇ。全然知らなかったよぉ」
「すみません、別に隠していたわけではないのですが、ここに来る前に作家を辞めていたものですから」
「え、辞めちゃったの?でも一昨日のテレビでは次の作品を執筆中と言ってたじゃない」
「ああ、それは最近、再度作家に挑戦することを決めたものですから。すみません、わかりにくいですね」
「まあ、細かいことはいいさ。だけど芥木賞を受賞していたなんて驚いちゃったよ。そんな偉い先生にあんな辺鄙な所に立つ家を譲っていいのかってみんなに言われちゃったさぁ」
「偉いなんてことはないですよ。受賞したのはたまたまだし、二作目はメチャクチャ貶されましたからね。それにあの家があったから私も美春も沢山の元気を貰って、海姫を授かって、永住することを決められたんです。下地さんには感謝の気持ちで一杯です。足を向けて寝ることはできません」
「内野さん、もう一押しすれば下地さんが今日の酒代をチャラにしてくれるよぉ」
「こらこら、変なこと言ってると倍の料金を請求しちゃうよぉ」
自宅にやってくる人たちに作家であることが知れ渡ったが、彼らの言動は以前と変わらなかった。“流布”が芥木賞を受賞して自分が“某氏”であることを公表した時は態度を大幅に変える人間が続出した。今思うと彼らの多くは内野という人間を見ているのではなく、“芥木賞を受賞した人”として見ていたのだろう。だから“阻止”の評価が下がった途端に手のひらを返すように態度を急変させた。改めて思った。この島に来て良かった、と。
番組出演は思わぬ所に波及していた。番組出演から一週間ほど過ぎた頃からSU Houseの予約や問合せが急に増えた。最初はたまたまだろうと思っていたが、ある日、問合せの電話に出たら今まで言われたことのない言葉が伝わってきた。
「内野先生がこのゲストハウスを経営されていると聞いて予約したんです。当日、内野先生がご在宅でしたらサインをいただくことは可能でしょうか。すみません、図々しいことを言いまして」
「いえ、普段は隣の自宅におりますので大丈夫ですよ」
「え、もしかして内野先生ご本人ですか?」
「ええ、内野です。今回はご予約いただきありがとうございます」
「えぇ、まさかご本人が電話に出て下さるなんて目茶苦茶感動です。私、“流布”も“阻止”も大好きです。次の作品もとっても楽しみにしています」
どうやらどこかから情報が流出したらしい。その後も続々と予約や問合せが入り、あっという間に一年先まで予約が埋まってしまった。以前はネットからの問い合わせが大半を占めていたが、電話によるものが増えた。少し迷ったが、今ある固定電話をSU House専用にすることにした。同時に、励ましや応援のメッセージが続々と届くようになった。それらの多くはSU Houseの公式ページ経由で届いたが、中にはどこで調べたのか、プライベートで使う個人用のメールやS N Sアカウント宛にメッセージが届いた。数は少ないものの、中には誹謗中傷するものがあり、“阻止”が批判された時のことが蘇った。
“海姫はまだ理解できないが、美春が海姫の分も負担に感じて調子を崩したりしないだろうか”
メールアドレスやS N Sのアカウントを見直し、プライベート用と仕事用を明確に分けて使うことにした。皮肉なことに、SU Houseが繁盛すればするほど想定外の作業が増えて美春だけで対応することが難しくなった。必然的にSU Houseの運営に費やす時間が増え、その結果、執筆に掛ける時間が減っていった。
ある日、サイダーズの社長、緑野から連絡が入った。大川が企画した番組を見て社内で番組の話をしていたところ、自社の社員が出ていたことを知って電話をかけてきたと言った。
「来週、那覇のサテライトに行くので、もし良かったらお宅にお邪魔させていただけないでしょうか」
「え、それは構いませんが、どのようなご用件でしょうか」
「あ、すみません、先に説明すべきでしたね。実は僕、“某氏”の大ファンなんです。その“某氏”がうちの社員だなんて思いもよりませんでした。内野さんがよろしければ是非ともお会いして話を聞かせていただきたいと考えた次第です」
緑野は“流布”に衝撃を受けたが実は“阻止”の方が好きだと言った。番組で花田に批判されていたが、朝倉の意見の方がしっくり来るとも言ってくれた。唐突の電話に驚いたが、“阻止”を評価してくれる人間が身近にいたことが嬉しかった。翌週、那覇から緑野が訪ねてきた。
「いやぁ、素敵な場所ですね。こんなところで執筆したらさぞかし良い作品ができるのでしょうね」
「私なんかではなかなか良い作品は書けないですよ。まあ、それでもこの眺めは私も家族も気に入っています」
サイダーズの社長が社員の自宅を訪問すれば多少なりとも仕事の話が出るものと思っていた。しかし、緑野は小説の話とこの地での生活振りに終始した。
「そろそろお暇します。ところで、サイダーズの仕事をして、SU Houseを経営されて、執筆の時間は大丈夫なのですか?」
「まあ、なんとかやりくりしています。ただ、編集者さんには申し訳ないなと思っています。なんせ時間が掛かってしまうので」
「部下から内野さんの評価を聞いてきました。とても優秀な方ということでした。ですから社長の僕がこんなことを言ってはいけないのかも知れないのですが、内野さん、しばらくサイダーズの仕事を休みませんか」
「え、それって、クビ、ということですか?」
「あはは、いえいえ、そんなことはないです。すみません、言い方が良くなかったですね」
緑野は早く次の作品を読みたいと言ってくれた。ただ、今の状況では執筆にかける時間を確保するのが難しくて作品を仕上げるまで時間が掛かってしまう。サイダーズの仕事を休めば時間を確保できるのではないかとのことだった。
「ただ、仕事を休んで収入が減ってしまうのでは意味がない。そこでご提案です。弊社と別の契約を結びませんか?」
「別の契約ですか。どういうことですか?」
「弊社の広告塔になってサイダーズに貢献していただけませんか」
「広告塔ですか。具体的にはどういうことですか?」
「例えばサイダーズが主催するイベントに登壇して講演していただくとかです。今は思いつきませんが、講演以外でも内野さんに担っていただけるイベントがあれば協力していただくことになると思います」
「講演なんてやったことないですよ」
「大丈夫ですよ。まあ、講演だけでなく、企画担当者と事前に詰めて、無理のない範囲でやっていただければ良いですから。この案の肝は如何にして内野さんの執筆時間を確保するかですしね」
「確かに時間を確保できるのはとても魅力的です。ですが、私なんかにそんな優遇して大丈夫なのですか?」
「僕も社長です。個人的な感情で社員の誰かを優遇することはしませんよ。それと、会社にとってマイナスになるようなことはしませんから安心してください。今の給与を確認しないと明確なことは言えませんが、拘束時間はかなり短くできると思いますよ」
「ありがとうございます。そういう形で働かせていただけるのであれば大変助かります」
「内野さん、僕はね、サラリーマンの概念に常日頃疑問を感じています。だからうちの社員には慣習に囚われない生き方を選択して欲しいと思っています。その選択がサイダーズにメリットをもたらすのであれば一緒になって進めていけば良いと考えています。今回の内野さんの場合、会社としては内野さんのIT技術者としての能力を手放したくない。一方、作家としての能力を発揮して欲しい。その両方を実現する手段があればこれまでのルールを変えていっても良いと思います」
緑野の行動は素早かった。翌日の午後には人事部長から連絡が入り、今の仕事をチームメンバーに引き継いだ時点で休職の手続きをすることになった。合わせて引き継ぎが完了するまでに新たに締結する契約内容を詰める旨を告げられた。
一ヶ月後、サイダーズの会社説明会に参加することになった。緑野から依頼されたのは作家としての生き様を話すことだった。説明会の参加者はほぼ全員が大学三年生と聞いて何を話すか悩んだが、作家として話せることなどほとんどなかった。緑野にその旨を伝えると笑いながら答えが返ってきた。
「そんなに硬く捉えなくて良いです。内野さんが小説を執筆する際に感じたことや考えたことなど、日常のちょっとしたことで構わないです。説明会に参加する彼らは自分の生活や夢を実現させるためにサイダーズという会社を検討するのです。立場は違いますが内野さんは作家を選んだ。でも両者ともに選択する際に何を感じ、何を考えるのか、その辺りの根本は同じだと思いませんか。今回、内野さんに登壇して貰うのは、彼ら大学生に考えるきっかけやヒントを伝えてもらいたいのです」
会社説明会の当日、三十名ほどの大学生がサイダーズの会議室に集まっていた。会議室に入るまでは緊張していたが、彼らの顔を見た途端、不思議と緊張が和らいだ。最前列に座っている男子学生が明らかに緊張していることを表情に浮かべていた。彼を見た時に自分が社会に出ようとしていた頃を思い出した。今の彼と同じように緊張して面接で何を喋ったかわからなくなるくらい舞い上がったことを思い出したら急に気が楽になった。
流石に芥木賞のことを話すのは憚られた。“阻止”を書いた時のことと現在取り組んでいる作品のことを話していった。格段面白い内容ではないので眠くなったら可哀想だと思っていたが、思いの外、真剣に聞いてくれていることがわかりありがたかった。作家を職業とする人間が周りにいる大学生は少ないだろうから、物珍しさで興味を持たれたのかも知れなかった。質疑の時間に上がった質問も多くは作家を職業として捉えた際、自分たちの選択肢になり得るのかという点だった。それでもちゃっかりと自分をアピールするような質問もあった。
「文章を校正する際、御社の文章校正アプリ、CyderWordを使われるのですか?」
「本来はイエスと答えなければいけないですよね。でも正直に言います。すみません、使っていないです」
会場のあちらこちらから苦笑が起きた。
「誤解されるといけないので言っておきますが、CyderWordはとても良いアプリです。ただ私の場合、校正は出版社の方に行っていただくのでアプリを使う必要がないのです。みなさん、文章校正する時は是非ともCyderWordをお使いください」
その後も月に数回の頻度で社内外のイベントに参加した。イベントの目的は毎回異なったが、担当者からの依頼内容は毎回ほぼ同じだった。イベント参加者の年齢や性別、関心事は都度都度異なったが、サラリーマンとして働きながら小説を書くことを軸にしてイベントのテーマに沿って話すだけだった。お陰でイベントに向けた準備で多くの時間を取られることもなく、空いた時間を執筆に充てることができた。二ヶ月も経たずに執筆のペースを取り戻すことができた。その旨を含めてお礼のメールを緑野に送ったら簡潔なメッセージが返ってきた。
“内野さんの次回作に貢献できたのであればとても嬉しく思います。次回作、楽しみにしています”
緑野に感謝すると同時に次回作への良いプレッシャーを得ることができた。
時間ができると精神が安定するのか、執筆の合間にSU Houseの運営を手伝ったり、保育所から帰って来た海姫の相手をして更にリラックスすることができた。
「清二さん、海姫の相手ばかりして大丈夫なの?」
「勿論大丈夫だよ。逆に海姫の相手をすることでアイデアが湧いてくることもあるしね」
「ふーん、そんなもんなんだ。それじゃSU Houseの手伝い、もっと増やして貰おうかなぁ」
「いやいや、こういうのは気持ちに余裕がある時にやるから良いのであって・・・」
「んもう、冗談だってば。今だって平成の大作家先生に手伝ってもらって恐縮しているんですから」
「またそうやってからかう。勘弁してくれよぉ」
「あはは、ごめんごめん。で、次回作の方はどうなの?」
「うん、このところいい感じで進んでるよ。まあ、今度の作品が処女作みたいなものだし、まだしばらくは掛かるだろうけど、楽しく書けてるよ」
「そっか、それは何よりだね」
前作の“阻止”は相澤たち、プロの目で校正することもなく出版したが、今度の作品は書き始めた頃から相澤と頻繁にやり取りをしながら進めてきた。自分では良い感じに書けたと思って原稿を送ったものの相澤から厳しいコメントを貰うこともしばしばだった。最初の頃はコメントを読んで落ち込んだこともあったが、ある日、その旨を相澤に伝えたところ彼から予想外のコメントが返ってきた。
「内野さん、私が指摘した部分をそのまま鵜呑みにしないでくださいね。この作品はあくまでも内野さんのものです。私がなんと言おうと内野さんが納得できないのであれば納得できるまで考えて修正するなり元の文章のままにするなりしてください」
「え、でも、相澤さんが指摘する内容はこれまでに読んで取り扱ってきた小説を参考にしているのですよね。その指摘に沿った方が良いのではないですか?」
「そういう面は否定しません。ですが、私の指摘をすべて取り込むことで良い作品ができるとは限らないですよ。もしそうなるのであればとうの昔に私が作品を書いていますからね」
「そうなんですね」
「それよりも大事なことは内野さんの感性を文字に織り込むことです。読み手は一つの文章から色々なことを受け取ります。その際、書き手の想いが伝わってくるととても嬉しくなりますからね」
「そんなこと、私にできるとは思えませんけどねぇ」
「まあ、当面は無意識でも構いませんよ。
生活のリズムが安定し、大田原や相澤のサポート体制が整うことで筆が進むようになった
そして半年後、河合出版から“某氏”の第三作、“真実”が発売された。発売前からマスコミやネットで話題になったこともあり、発売直前からネット予約一位になり、発売直後の売り上げもダントツだった。平積みされた書籍は飛ぶように売れ、同時に各種メディアに取り上げられた。
「内野さん、やりましたね。大成功です」
「ありがとうございます。偏に相澤さんのお陰です」
「いえいえ、内野さんの才能が覚醒したんですよ。これはお世辞でも何でもないです。人と人の争いを負の面から見るというテーマが重くて読み手の心を暗くしがちな内容ですが、読み進んでいくうちに透明感を覚える不思議な作風ですからね。“流布”でもない、“阻止”でもない、これぞ“某氏”の作風だって評判ですよ」
出版前から花田のことが気掛かりだった。そこはマスコミも狙っていたようで、発売の翌週には週刊さざなみが特別企画と銘打って花田と朝倉のコメントを掲載した。
【花田仁(作家)】
うーん、なんだこりゃ、というのが第一感想かな。もうこうなると良いとも悪いとも言えないよ。これほど評価の難しい作品、いや、作品群というのかな、いや、作家の個性とでも言うのかな、とにかくこれは読んだ人間が自分のうちでどう感じるか、それだけだよ。恐らく他人の感じたことは参考にならないと思うよ。いやぁ、まいった!
【朝倉凛(歌手)】
ええと、何て言ったら良いのか、正直なところまだよくわからないです。確かにテーマは重いので、途中まではページを捲る手があまり進まなかったです。でも、読み進むうちに気持ちに変化が出てくるんです。軽くなるとかではなく、何て言うのかな、そう、色、色です。最初はすごく暗い色なんです。テーマが重いから当たり前かもしれないんですけど、その重さは変わらないのに徐々に色が明るくなっていくんです。最後はその色がなくなるような、、、上手く言えないです。不思議な作品です。あ、でも、全然嫌いじゃないです。それどころか大好きな作品です。
“阻止”を肯定した朝倉だけでなく、否定した花田までが“真実”を認めた。しかし、読者の反応は様々だった。ネット上では賛否両論が飛び交い、一時、“真実”というワードがバズるまでになった。
緑野がZoomの画面越しに笑いながら話し掛けてきた。
「いやぁ、内野さん、何だか凄い作品を書き上げましたね」
「ありがとうございます。自分では良くわかりませんが、みなさんのコメントを見ていると良いと言ってくれる方が何割かいるのでホットしています」
「あれ、随分と謙虚ですね。ネット上では賛否両論とか言われていますが、テキストマイニングでコメントの分析をしたら多くの方が作品を肯定していますよ。否定と言われているのはあくまでも印象ですよ。これは私の想像ですが、テーマが重いのでそのイメージでコメントしている人が多いんじゃないかな」
「そうですか、ありがたいことです。正直なところ、こんな暗い作品じゃ駄目かなと思っていたので、多くの方に評価されたのであればとても嬉しいです」
「こうなると早く次の作品が読みたいです。もうしばらく今の契約を続けましょう。あ、でもそうすると現場から突き上げ喰らいそうだな。あ、そもそもこれだけ売れると作家一本で十分にやっていけますね。あ、でもそれはそれで弊社にとって痛手だなぁ。うーん、困った」
「緑野社長、落ち着いてくださいよ。社長には大変感謝しています。サイダーズを裏切るようなことはしませんから安心してください」
“真実”が評判になるとそれに合わせるように“流布”や“阻止”が再び売れ始めた。その結果、収入については当面心配しなくて大丈夫になった。一方、マスコミ対応などで時間を取られるようになり、サイダーズでI T技術者として復帰することは断念せざるを得なかった。それでもサイダーズとの関係を断つことは憚れ、優先的に講演などの仕事を請け負うことにした。
第九章 異なる土俵
“真実”を書き終えてから三ヶ月、これから先のことを考え続けた。自分の中では“真実”を書き上げたことで作家としての達成感を得ることができたと感じていた。そのせいか、今後も“真実”と同等、若しくはそれ以上の作品を書ける気がしなかった。マスコミ対応が落ち着いてきた頃、相澤や緑野、それと下地を始めとする下地庵の仲間達にその想いを伝えた。皆、自分の想いに理解を示してくれた。一方、緑野や相澤はもっと“某氏”の作品を読みたいとも言ってくれた。下地や下地庵の仲間は“書きたくなったら書けば良いさぁ。気楽に行こうよぉ”と言って笑ってくれた。
「海姫ちゃん、どうしたら良いと思う?」
「もう、海姫に責任転嫁しないでよ。ってか、そんなこと海姫に言ったってわかるわけないでしょ」
「そうだよなぁ。美春はどう思う?」
「あらあら私は海姫のおまけ?随分と軽い扱いなのね」
「うっ、そ、そんなつもりは・・・」
「あはは、冗談よ。私は小説なんて書いたことないからわからないなぁ。だけど、“真実”を執筆していた時の清二さん、楽しそうだったよ。次の作品も書いて楽しかったら続けてみたら?面白くなかったらやめちゃえば良いじゃない。本も売れているし、SU Houseも順調だから当面の生活に困ることもないしね」
「楽しそうに書いていたんだ。自分じゃ気づかなかったよ。へぇ、楽しそうにねぇ・・・」
美春の一言で気づいた。自分が感じていたのは達成感だけではなく、同時に不安を覚えていたことを。“真実”は“阻止”の時と違って自分の中にあるもの全てを言葉にできたように感じた。そのことが達成感に繋がっていた。しかし、次の作品を書いた時に“真実”以上の言葉を吐き出すことができるだろうか。いくら考えても答えは出なかった。庭に置かれた椅子に座って広い海原に沈んでいく夕陽を見ていた時、“流布”という言葉の意味を思い出していた。
流布:世間に広まること。広く知れ渡ること。
理由はわからないが“某氏”として自分は作家になった。“阻止”が世間に広まったのは“流布”があったことが大きく影響している。“事実”が世間に広まったのは“阻止”の影響があったからだが、やはり根底には“流布”があったからだろう。もし次の作品を執筆したら、その作品は世間に広まるのだろうか。仮に広まった場合、やはり“流布”の影響力だろうか。それとも“某氏”いや、内野清二の実力だろうか。次の作品を世に問うのはとても怖い。しかし、作家としての資質を知りたい気持ちが入道雲のようにムクムクと湧いてきた。下地の言葉が聞こえてきた。
「気楽に行こうよぉ」
美春の声が聞こえてきた。
「楽しかったら続けてみたら?面白くなかったらやめちゃえば良いじゃない」
目の前にあったノートパソコンの蓋を開いた。CyderWordを立ち上げ、“過去”、“現在”、“未来”と打ち込んだ。この三ヶ月、気付かぬふりをしていた自分の気持ちが創ったこれからの作品名だった。
作家を続けることを決めてからの日々は執筆作業に明け暮れた。緑野に相談してサイダーズのイベントは控えめにしてもらった。SU Houseの運営はアルバイトを雇うことで自分の関わる部分をほぼ零にした。三本の作品を同時並行で書き連ねていく作業は大変だったが無茶苦茶楽しかった。日の出と共に起きて海姫を保育所に送るまではのんびりとした時間を過ごした。その後、海姫を迎えに行くまでの時間を使って集中的に筆を進めた。時間はあっという間に過ぎていき、気がつくと二年の月日が流れていた。三つの作品を書き上げた日、庭から見える海は明るく、静かな表情を見せていた。
「いよいよですね」
「そうですね」
「編集者として長年携わってきましたが三作品を同時に出版するなんて初めてです。どんな結果になるのか想像もつきません」
「我が儘を言って本当にすみませんでした。“真実”を書いた後、この三作品は同時進行で書かなければいけないような気になってしまって、相澤さんには無理を言いました」
「いやぁ、最初、内野さんから提案された時はびっくりしましたよ。ひとつの作品を上下巻や三部構成にすることはあっても、全く異なる作品を同時に執筆して同時に出版するなんて考えたことがありませんでしたからね」
「だけど、お陰様で満足のいく作品を書き上げることができました」
「内容も違うし作風も全然違うし、正直、最初に読んだ時は三作品を同時に出版するメリットがあるのかなと思いましたよ」
「でも、河合出版さんは同時に出版してくれました」
「読み終わって暫くした後に不思議な感覚に襲われたのです。理由は上手く説明できないのですが、これらの作品は同時に出版すべきだと」
「実はこの二年間、今回の三作品だけではなく、“阻止”を含めた五作品、いえ、“流布”を含めた六作品が常に頭の中を渦巻いていました」
「ということは、六つの作品でひとつの世界を形成しているということでしょうか」
「うーん、そこはまだよくわかっていません。ただ、今回の三作品を書いている時に常に他の三作品が頭の中を飛び交っていたのは事実です」
執筆している時は不思議な感覚はなかった。ただ、こうやって相澤と話していると執筆時に感じたことがとても不思議に思えてきた。
二年ぶりの作品はいずれも順調に売れていった。作品の内容が異なることに加え、作風がこれまでの作品も含めて全て異なっていることが珍しがられたのか、販売直後から順調に部数を伸ばしていった。マスコミの取り上げ方も優しく、これから先も良い作品を書くだろうというコメントが多かった。“某氏”の作家生命は順風満帆と見られていた。
ところが、ある日、唐突に“某氏”は筆を置いた。S N Sに書き込まれたメッセージには読者へのお礼と筆を置く旨の一言だけが書かれていた。
筆を置く三ヶ月前、海姫が四回目の誕生日を迎えた。宮古島で海姫が生まれた時、自分の肩書きに作家の二文字はなかった。その後、周りにいる優しき人たちの後押しや協力があって今がある。これまでに書いた五作品は“流布”の売り上げ部数の二倍となっていた。この結果が自分の力量によるものなのか、それとも“流布”の影響力が為せる技なのか、いくら考えても答えは出なかった。この頃から“流布”を書いた“某氏”のことがとても気になり始めた。理由はわからなかった。いや、わからないふりをしていたのかも知れない。とにかく会って話をしたくなった。
「相澤さん、“某氏”から連絡はありますか?」
「え、今更どうされたのですか?“某氏”は内野さんじゃないですか」
「いえ、私に引き継ぐことを願った彼のことです」
「ああ、本家“某氏”ですね。芥木賞の授賞式前に電話で話してから一切連絡はないですよ。彼がどうかしたのですか?」
「いえ、今どうしているのかなぁって、ふと、思っただけです」
相澤が嘘をついているようには見えなかった。しかし、一度気になると止め処がなくなった。雲を掴むような気持ちでSNSにメッセージをアップした。とはいえ、たった一度しか話したことがない相手を探すのは容易ではなかった。電話で話した時の会話を必死になって思い返し、彼と私にしかわからない情報をオブラートに包むようにして発信した。知らない人から見ればチンプンカンプンなメッセージに読者は戸惑いの反応を示した。そして肝心の“某氏”から連絡が来ることはなかった。諦めかけていたある日、SNSを通じてダイレクトメールが送られてきた。本文はごく普通のファンレターで、アカウント名は“名無し”となっていた。最初はファンレターだと思ったが、アカウント名に違和感を覚えた。以前、“某氏”の英訳を調べたことがあり、翻訳アプリが返した英文は“a certain person”若しくは“an unnamed person”と表示された。少し気になって二つの英文を今度は和訳してみた。すると前者は“ある人”、後者は“名前のない人物”と表示された。“名無し”に返信のメッセージを送ってみることにした。ただ、本人でない場合、下手な情報を送ることで周りに迷惑をかけてしまうことが懸念された。慎重に言葉を選んでメッセージを送った。すると、彼と私以外は知り得ない情報の一部をキーワードとして送ってきた。“流布”を書いた本人であることを確信した。その後、メッセージを数回やり取りし、一度会って話をしたい旨を伝えた。返信が届くまで一週間待たされたが、返ってきたメッセージには“どう返すべきか中々答えが出なかった”と書かれていた。“某氏”を引き継ぐきっかけとなった山の上ホテルで会うことになった。
海姫の誕生日は過ぎていたが、両家の祖父母に会わせるべく美春と三人で上京した。東京滞在の最終日、山の上ホテルに宿泊した。
「いよいよだね、ご対面。緊張している?」
“某氏”と会うことが決まった晩、美春に真実を告げた。“流布”が芥木賞の有力候補に挙がった時、どういった経緯でマスコミに情報が流れたのかは今でもわからないが、自分がその作者と間違われたこと。受賞が決まれば真実が明らかになるだろうと鷹を括っていたこと。ところが受賞が決まった瞬間からマスコミが直接自分を追いかけ始めたこと。マスコミに取り囲まれた時に相澤が助けてくれたこと。相澤と大田原も自分が“某氏”であると信じていたこと。“某氏”から相澤に連絡が入って賞を辞退すると伝えて来たこと。相澤と大田原から“某氏”になり変わることを求められたこと。“某氏”の氏素性は一切わからないこと。
「そうだったんだ。もう随分前のことだから細かいことは覚えていないけど、最初、清二さんが小説家と言われてもピンと来なかったのは覚えてるよ。そうか、偽物だったのか」
「に、偽物って、、、まあ、確かにそうなんだけどな」
「何で黙っていたの?」
「最初は俺自身が混乱していてきちんと説明できる自信がなかったことと、記者会見や授賞式への対応で頭がいっぱいで余裕がなかったからだと思う。その後も今までやったことのない雑誌への寄稿やらマスコミ対応などで精神的に余裕がなかったことに加えて、そういった作業をこなしていくうちに内野清二と“某氏”の境目がわからなくなったんだ」
「境目がわからない?それって清二さんが“某氏”に成り切ったってこと?」
「うん、多分そうだと思う。最初に感じたのは受賞が決まった日の晩に行った記者会見の時なんだ。記者の質問に答える際、相澤さん達の想定外の内容を聞かれた時に自分の考えを自分の言葉で返したんだけど、その時、自分が“某氏”であると錯覚したのを今でも覚えているよ」
「へぇ、清二さんってそういう思い込みをしないタイプだと思ってた」
「俺もそう思うよ。ってか、今でもそう思ってるよ。だけど“某氏”のことだけはなぜか違うんだよなぁ」
「不思議だね。それで、何で今になって白状する気になったの?」
「最初は“流布”の作者に成り変わるだけで、作家としてやっていけるなんて全然思っていなかったんだ。だけど、その後、紆余曲折はあったけどこうやって罷りなりにも作家として五つの作品を執筆することができた。そうこうするうちに“流布”を書いた“某氏”ともう一度話をしてみたくなったんだ」
「もう一度ってことは以前にも話したことがあるんだ」
「授賞式の前の晩に彼が辞退する旨の連絡をして来た時に電話で少し話した。だけど、彼の本心はわからなかったな」
「今度は何を話すの?」
「うーん、実はそこが自分でもよくわかっていないんだ」
「え、どういうこと?」
「美春も知ってるように俺が初めて書いた“阻止”は酷評された。だけどそこそこの部数が売れた。その次の“真実”は賛否両論があったけど世間が受け入れてくれた。そして今回書いた三作品は今のところ順調に受け入れてもらっている。この五作品の評価は“流布”の影響なんだろうか。それとも内野清二の実力なんだろうか。そんなことを考えていたら無性に会って話してみたくなったんだ」
「ふーん、それって承認欲求なのかな。それとも“某氏”を追い越したいという欲なのかな」
「うん、もしかするとそのどちらかなのかも知れない。いずれにせよ、彼に会って話をすれば何かがわかるような気がするんだ。だけど、彼に会うには美春にすべてを話しておかないといけないように感じたんだ」
「そっか、唐突な話で消化し切れていないけど、正直なところ少しモヤモヤしている。経緯はどうあれ、今まで隠されていたんだしね」
「本当にすまなかった」
その後、美春は怒るでもなくいつも通りの生活を続けていたが、この件に関しては一週間、一言も話さなかった。もしかすると愛想を尽かされるのかも知れないと覚悟を決めた頃、美春が口を開いた。
「清二さん、“某氏”のことを隠していた件、正直言って残念だなって思った。授賞式が迫っていたとはいえ、話をする時間はあったのだから相談して欲しかったな」
「うん、本当にごめん」
「だけど、芥木賞を受賞して、すなわち“某氏”に成り変わってからの清二さんはずーっと“某氏”だったなって思った。悪い時も良い時も“某氏”内野清二として考えて発言して執筆してきた」
「美春」
「時には成り切ることが辛かった時があったのかなとも思えた。勿論、良いことも沢山あったよね。それとね、今回、清二さんが“流布”の作者に会いたいと感じたのは何故なのか、私なりに考えてみたの。それって、清二さんが“某氏”と決別というか、独り立ちしたいと感じているんじゃないかな」
「独り立ち?」
「うん、清二さんは自分が書いた作品を“流布”と比較しているみたいだし、実際、“阻止”とか“真実”の時は“流布”に影響された可能性もあるよね。だけど、元々別人なんだからそんなことする必要はないと思うし、今回書いた三作品は“流布”と比較する必要はないと思うんだよね」
「そうなのかな」
「そうだよ。だから“某氏”に会って返上しちゃえばいいんじゃない」
「美春って俺が思いもよらないことをサクッと思いつくよな。ほんっと、すごい奥さんだよ」
「えへへ、煽てたって何も出ないからねぇ」
冗談めかして言ったものの、本心から思っていた。美春と一緒になって本当に良かったと。
「いよいよだね、ご対面。緊張している?」
山の上ホテルの客室はシックな色調で統一された内装が宿泊客の気持ちを落ち着いたものにしてくれる。
「うーん、それがさぁ、不思議なことにリラックスしているんだよね。東京に来るまでの方が緊張していたかも」
「ふーん、変なの。清二さんの人生を変えた人なのにね」
「そうだな、そういう風に考えるとこの六年間で俺の人生、百八十度?、いや、方向じゃないな、線路自体が変わっちゃったんだよなぁ」
「あはは、確かにそうだね」
部屋を出て最上階にあるバーラウンジに向かった。入り口でスタッフに待ち合わせしている旨を伝えると奥のカウンターに案内された。六人ほどが座れるカウンターには男が一人だけ止まっていた。
「ご無沙汰しております、内野です」
「今日はわざわざお越しいただき恐縮です」
止まり木に腰掛けるとバーテンダーが適度な距離に来ていた。
「ジントニックをください」
「はい、かしこまりました」
「“過去”“現在”“未来”、良い作品ですね」
「ありがとうございます」
「今回も前作までとは異なる作風にされたのですね」
「はい。前作は意図的に異なるものにしましたが、今回は自然とああいう形になりました。どうやら私には型というものがないようです」
「そうでしょうか。私にはどの作品にも内山さんの心情が現れているように思えますよ」
「そう言っていただけるとちょっと安心します。毎回作風が変わることを良しとしない読者や評論家の方々もいますから」
「万人に肯定される作品などないのではないでしょうか。名作と呼ばれる作品でも苦手だったり嫌いだったりする人が必ずいますからね」
「万人という捉え方だとそうですね。でも、“流布”は芥木賞選考の際、満場一致でしたよ。あの作品は本当に素晴らしいです」
「はは、内野さんは変なことを言われる。ご自身の作品を絶賛される方は珍しいですね」
「私、筆を置くことにしました」
「え、どういうことですか」
「“阻止”はさておき、“真実”から“未来”まで必死になって書きました」
「ええ、存じております。その結果、どの作品も評判が高いし、売り上げも好調と伺っています」
「運が良かったのだと思っています。朝倉さんを始め、著名な方に後押ししていただけたし、大田原編集長や相澤さんに手厚く支援していただけました」
「それでも筆を置かれるのはどうしてですか?」
「“流布”を超えることができないことがわかったからです」
“某氏”は正面を見つめたまま言葉を発しなかった。棚に置かれた酒瓶を見ているようにも見えたし、何も見ていないようにも見えた。しばらくして“某氏”が正面を見たまま口を開いた。
「私がこんなことを言って良いものかどうかわかりませんが、“流布”とそれ以降の作品は比較できない、異なる土俵にあるのではないでしょうか」
「異なる土俵、ですか?」
「ええ、異なる土俵です」
「それはどういう意味ですか」
「あくまでも私の勝手な想像なので気を悪くしないでくださいね。内野さんの作品は“流布”から始まっていると思っています」
「え、でも、“流布”はあなたが書かれた作品ですよ」
「ええ、書いたのは私です。ただ、内野さんが“某氏”を引き継いでくれた後に書かれた作品、いや、作品群といった方が良いのかな、“阻止”に始まって“未来”までの作品はすべてが繋がっています」
「すべてが繋がっているとはどういうことですか。私はそれぞれ単体で書いたつもりですが」
「恐らく意図されたものではないのでしょう。ただ、“流布”を書いた者からみると、“流布”と内野さんが書かれた五作品はすべてが繋がっているように思えました。そして、その繋がりは今後も続いていくのだろうと確信しています」
「すみません、仰っていることがよくわからないです。私は素人なりに頑張って作品を書いてきました。そして幸運にもある程度の評価をいただくことができました。だけどどうしても“流布”を超える作品を書くことができないこともわかってきました。だから筆を置こうと決めたのです。それなのに、“流布”と私が書いた作品が繋がっていると言われても何のことだかさっぱりです」
「すみません、戯言なので忘れてください」
気まずい沈黙が訪れた。バーテンダーが雰囲気を察知したのかゆっくりと近づいてきた。
「何かお作りしましょうか」
「内野さん、今更ですが芥木賞の受賞祝いをしませんか」
「いいですね」
「すみません、シャンパンを二つお願いします」
シャンパングラスを掲げると六年前のことが脳裏を過った。今思えば、あの時、あの騒動に巻き込まれなければ今の自分は存在しない。恐らく中途半端な形でサラリーマンを続けていただろう。それが、紆余曲折はあったものの、今はこうして一人の作家として認められる立場にまで来ることができた。そして、今、その立場から舞台を降りようとしている。人生とは本当に先が見えないものであることを、今更ながら実感した。
「先ほどはすみませんでした」
「いえ、私も言葉が足りませんでした。ところで、作品名はどうやって決めたのですか」
「作品名ですか、うーん、“阻止”の時はどうだったかなぁ。多分、書いている途中で思い浮かんだと思います。それが何か?」
「いえ、私は勝手に“流布”を“阻止”する、と考えていました。そして、その後に続いた作品名を知った後に、“ああ、この人は全ての作品をトータルで考えているんだなぁ”と思い込んでしまったのです」
「へぇ、面白い見方ですね。あれ、でもその後の作品はどう繋がるんですか?」
「“流布”を“阻止”する“真実”、そして、“流布”に関する“過去”“現在”“未来”、でしょうか」
「あぁ、それも面白いですね。しかし、無意識のうちに命名したのかなぁ、不思議なものですね」
「私はてっきり内野さんが意図されているものと思い込んでいました」
「それで繋がっている、と」
「ええ、そうです」
「あ、異なる土俵、そういうことですか」
「ええ、今日お話しして無意識のうちに命名されていることがわかったので外れていましたけどね。仮に全作品が繋がっていると考えると、個々の作品を比較することにあまり意味はないと思った次第です。トータルでひとつの作品だと思っていました」
「そうでしたか。あ、でも、中身は繋がっていませんけどね」
「それはそれで良いのではないでしょうか。実は私、このことに気づいてとても嬉しかったのです」
「作品名がですか?」
「ええ、そうです。これも私の勝手な妄想なのですが、今言ったように考えると作品名の繋がりは全て“流布”から始まっています。“流布”という作品は自分の手を離れてしまったものの、一度は自分が書いたものが内野さんの作品群の中心にあると思うと自然と笑みが溢れてしまいました」
「そうでしたか、こうやってお話を伺うと偶然という言葉では済まない、何かを感じますね」
「いえいえ、これは私の願望みたいなものが作り出した与太話ですよ」
“某氏”との会話を終えてバーを出た。再会に関しては何も言葉を交わさなかったが二度と会うことがないことを確信していた。恐らく、今日ここで会ったことも思い返すことがないのだろう。何故だかそう思えた。
部屋に戻ると美春が出迎えてくれた。
「海姫は?」
「つい今し方まで起きていたけど欠伸を繰り返すから寝かせたよ」
「そっか、明日は沢山遊んであげないといけないな」
「何言ってるの、今日だってあちこち連れ回していたじゃない」
「海姫にとっては初めての東京だからね。思い出をいっぱい作ってあげなきゃ」
「はいはい、いつまで経っても親馬鹿は治りそうにないわね。海姫が大きくなって彼氏を連れてきたり結婚するとか言ったらどうなるのかしら」
「美春、それだけは言わないでくれ。想像すると心臓が止まりそうになっちゃうよ」
「もう、大袈裟なんだからぁ。それより本家“某氏”さんとの対面はどうだったの」
「うん、色々と話ができて良かったよ」
「作家を辞めることは言ったの?」
「ああ、その件を伝えたら面白いことを言われたよ」
「面白いこと?」
「うん、俺が書いた作品は“流布”も含めて全部繋がっていると思っていたんだって」
「繋がっている?どういうこと?」
「作品の内容はさておき、作品名について面白いことを言ってたよ。俺が書いた五作品の作品名は全部“流布”に繋がっているって。“流布”を“阻止”する“真実”、そして、“流布”に関する“過去”“現在”“未来”、なんだって」
「へぇ、確かに繋がっているね。流石本家さんだね。でも、それって清二さんが意図的にやったことなの?」
「いやいや、そんなこと微塵も考えなかったよ。多分、“流布”を書いた本人だから気づいたんじゃないかな。その後、筆を置くことについてこうも言われた。自分は“流布”を書き終えてから一度も筆を握っていないし、今後も握ることはない。ただ、内野さんがこれから書く作品に何らかの形で“流布”との繋がりを盛り込んでもらえたら嬉しい、だって」
「え、それじゃ清二さん、筆を置かないの?」
「うーん、正直まだわからないかな。この前言ったように俺は今回の“未来”まで一生懸命書いたんだ。だけど“流布”を超えることはできないと痛感した。だから筆を置くことを決めたんだけど、さっきの話で“流布”を含めた六作品が全体で一つの作品だから比較自体が意味をなさないと言われたんだ」
「そっか、小説って面白いね。書く人も読む人も色々な捉え方をする。以前、大先生に糾弾された時は酷いと思ったけど、アイドル歌手の一言に救われたこともあったよね。今回は清二さんのお師匠さんみたいな方から誰も指摘しなかったことを言われている。こうやって考えると正解とか間違いとかの概念もないんだろうなぁ、きっと。清二さん、筆を置くか置かないかはゆっくり考えればいいんじゃない?」
「うん、そうだな。それより明日、海姫をどこに連れて行けば喜ぶか考える方が大事だな」
「もう、親馬鹿度だけは超一流、これだけは誰も否定しないよ!」
“某氏”のS N Sに書かれたメッセージを読んだ相澤は狐につままれたのかと思った。つい数日前に内野と電話で話した時はいつもと何ら変わりがなかった。作品に対する評価も上々で今回出版した三作品に加えて過去の作品も順調に売れている。内野がどういう理由で筆を置いたのか皆目見当がつかなかった。
「内野さん、あのメッセージは本当なんですか?」
内野家の庭に置かれた椅子に座って遥か彼方の海を見ながら相澤が問うた。戯れる海姫の相手をしながら内野が答えた。
「本当ですよ。私は“某氏”としての作家活動を辞めることにしました」
「え、“某氏”としての作家活動ですか?」
「ええ。実は先日“某氏”に会いました」
「え、何か言ってきたのですか?」
「いえ、私からコンタクトして話をしてきました。山の上ホテルのバーラウンジで会って話をしてきました」
「山の上ホテルですか、芥木賞の受賞式を開催したホテルですね」
「ええ、私達が泊まるには敷居が高かったのですが、彼と会うのはあの場所しかないと思いました」
「それでどんな話をしたのですか?」
「どうってことないですよ。“某氏”の全作品についてお互いの認識を確認した感じでした」
「それで筆を置くことにしたのですか?」
「そのことは彼に会う前から決めていました。ただ、筆を置くにあたって彼と話をしたかった。“某氏”を引き継いでここまでやってきましたが、私にはどう足掻いても“流布”を超える作品を書くことはできません。そのことを伝えてから筆を置きたかったのです」
「“流布”を超えるとか超えないというのはあまりにも抽象的じゃないですか」
「そうかも知れませんね。正直、何を以て超えたと言えるのか言葉で説明する自信はないです。ただ、私の中ではどうやっても超えられない、そのことが今回の作品執筆で肌身に沁みたのです。完膚なきまでにやられたって感じでした」
「それで、“某氏”はなんと言ってきたのですか?」
「異なる土俵では争えないと言われました」
「どういうことですか?」
「私が書いた作品に対する彼の評価は個別のものではなく六作品、全体に対するものでした」
「六作品?内野さんが書かれたのは五作品ですよね。もうひとつは“流布”ですか?」
「そうです。“流布”を“阻止”する“真実”、そして“流布”に関する“過去”、“現在”、“未来”、これらが一つの作品だと言われました」
「確かにそういう風に捉えたら単純に比較する意味は薄れますね」
「私はそんなことを意図してはいませんでした。彼も自分の妄想だと言っていました。ただ、偶然にしては出来過ぎですよね」
「あ、それで異なる土俵なんですね。あれ、そうしたら内野さんが筆を置く理由は成立しないじゃないですか」
「流石相澤さんだ。ほんの少ししか話していないのにその点に気づくとは」
「それじゃSNSに書いたメッセージは取り消しですね」
「いえ、さっきも言ったじゃないですか、“某氏”としての作家活動は辞めます、って」
「それじゃ、これからは作家、内野清二として活動するのですね」
「うーん、どうしようかなぁ。海姫、おとうたんはどうしたら良いかなぁ?」
「おとうたん、海姫、下地じいちゃんのお店に行きたい!」
「そっか、それじゃみんなで下地じいちゃんのお店に行こう」
終章
閑静な住宅街、しもた屋作りの一軒家。広めの和室に横たわる老人、横に居住まい正して座っている中年の男がいる。男は河合出版の編集長、大田原だった。
「大田原君、今回はいろいろとあったけど、なんとかなったようですね」
「ええ、一時はダメかと覚悟を決めた時もありましたが何とか乗り越えることができました。これで彼も先生の心、“流布”の作風を忘れないでしょう」
「彼は“流布”の作者と会って話をしたそうですね」
「ええ、SNSで“某氏”のことを探していたのでしばらく様子を見ていたのですが、こちらで代役を立てて会わせることにしました。まずかったでしょうか」
「いえ、構わないですよ。それでどんな話をしたのですか?」
「はい、彼は今回の三作品を書いた後で“流布”には到底敵わないと実感したそうです」
「ほお、彼は“流布”を超えることを目指していたのですね」
「どうやらそのようです。ただ、今のままではいつまで経っても越えられないと感じたようです」
「それで、“某氏”にどう答えさせたのですか?」
「はい、この疑問は想定外だったことから代役がその場で判断して答えたのですが、“土俵が異なるから比べても意味がない”と伝えたそうです」
「異なる土俵ですか、まあ、確かにそうですね。なかなか面白いことを言う方ですね」
「はい、後から聞いて思わず苦笑してしまいました。あと、これは事前に“某氏”に伝えておいた言葉ですが、六つの作品は全て繋がっている、即ち、“流布”を“阻止”する“真実”、そして、“流布”に関する“過去”“現在”“未来”です」
「ほお、大田原君は面白いことを考えますね。うん、それはいい!」
「恐縮です」
「それで彼はその言葉をどう受け止めたのですか?」
「担当者の相澤が聞いたのですが、そんな関係は一度も考えたことがないと言ってたそうです。表情はスッキリとしていて、頭の中がクリアされてわだかまりが取れたように見えたそうです」
「それでは彼は元気なのですね」
「ええ、“流布”という素晴らしいお手本に出会い、そして試行錯誤の末に自分の作品を生み出すことができました。“某氏”としての作家活動は終了するようですが、“内野清二”としてこれからも執筆することでしょう。今は宮古島でのんびりしているようですが、相澤には今後も執筆することを匂わせていたようです」
「そうですか、それは何よりです。こんな形で彼を作家に仕立ててしまいましたが、彼にとって迷惑ではなかったのかな」
「彼は今、作家として生きていくことにとても魅力を感じているようです。“阻止”を執筆した後に勤めていた会社を辞めて、それと同時に筆を置いたこともありましたが、今回の三作品を同時に執筆している時はとても楽しそうにしていたとのことです。恐らく、作家という職業が彼にとっての天職だったのでしょう」
「そうですか、そうであれば私の気持ちも少しは和らぎます」
「先生もご存知のように、彼が書き上げた作品は僅か五作品です。正直なところ“阻止”を書いて持ってきた時は無理だと思いました。しかし、その後の“真実”で化けて、今回の三作品で大化けしました。やはり先生が見込んだだけのことはあります。今の気概を忘れなければ、彼はきっと成功すると思いますよ」
「それはとても楽しみですね。私にはこの先どれくらいの時間があるのか心もとないが、彼にはできるだけいろいろなことを伝えてあげたいと思っています。その為にも今執筆中の作品をなんとか書き上げたいと願ってはいるが、どこまで身体が持つことやら」
「先生、そんな気弱なことを仰らないでください。先生にはまだまだ素晴らしい作品を執筆していただきますから、早く体調を良くしていただかないと困りますよ」
老人はやさしい微笑を浮かべていた。
「年寄りをそんなにいじめてはいかんよ。花には花の、鳥には鳥の、そして人には人の、それぞれに生きる時間が定められているのです。私の場合、その時間が少し予定より長くなったようだけどね。それもきっと彼を見つけ、素晴らしい作家になってもらうための計らいだったような気がします」
「先生にはまだまだ長生きしていただきますが、確かに彼にとっては先生の大病が生んだ幸運だったのかも知れないですね。あの時の闘病生活で先生が偶然読まれた本に彼の論文が載っていたのですから。まさか彼も論文を評価されて小説家になるとは、夢にも思わなかったでしょうね。まあ、本人はそのことに関して自覚しようがないのですが」
「あの論文を読んだ時、とても不思議な気分がしたのを今でもはっきりと憶えている。論文なので小説のような表現はないはずなのに、何故か彼の文章から得もいわれぬ、匂い立つような感動を覚えたんだ。私は無神論者だが、あの論文を読んだ時のあの感覚は、それこそ“神の啓示”といっても良いものだった」
「そうそう、その直後でしたね。私がお見舞いに伺ったら先生が唐突にあの本を私に渡して、“その男を作家にさせたい!”って。病人とは思えない勢いで言われてびっくりしましたよ。正直言って、病気の影響で夢うつつの戯言を仰っているのではないかと心配もしました」
「はは、それは悪いことをしたね。しかし、君の協力のおかげで無事彼に作家人生を歩んでもらうことができたし、君には本当に感謝しているよ。何かお礼を考えないといけないな」
「そんな、感謝だなんて、私はただ先生のご希望に沿えるよう動いただけですから。それに、ビジネスの方でも良い思いをさせていただきましたし、十分過ぎるくらいの役得をいただいております。こんな私のことより、とにかく先生のお体の方が大事です。本当に早く直してください」
窓から木漏れ日が射し込み、庭で鳥がさえずっているのが聞こえた。老人は穏やかな笑顔を微かに浮かべ、目を閉じていた。
