片耳のひみつと、背中を丸めてくれた優しさ。
一人の部屋にいるとき、片方の耳しか聞こえない静けさには、もうずいぶん慣れた。
だけど、一歩外に出て、街のざわめきや人が集まる場所に行くと、私の心は途端に、目に見えないプレッシャーと戦い始める。
私の耳には、常に消えない耳鳴りが響いている。
その絶え間ない音の奥から、相手の「声」だけを必死に拾い上げるのは、想像以上にエネルギーがいる。
一度で聞き取れなくて、二度聞き返す。だけど、何度も聞き返すのは相手に悪いな、と思ってしまう。
だからいつからか私は、聞き取れたわずかな言葉の破片から「きっとこういう意味だろう」と想像して、答えを返すようになった。
その返事が合っているかどうかの不安。的外れなことを言ってしまって、そこでコミュニケーションが止まってしまうんじゃないかという恐怖。
「もういいです」
過去に、職場の人から言われたその言葉が、今も胸にトゲのように刺さっている。
ただの雑談だった。聞き取れなくて二度、聞き返しただけだった。私の耳が聞こえにくいことを知っているはずの人から、冷たく突き放すようにそう言われたとき、世界から拒絶されたようなショックを受けた。
みんなに「耳が聞こえないんだ」と言って回るのも、気を遣わせるようで遠慮してしまう。だけど言わなければ、聞こえない側から話しかけられたとき、本当に「無視した」みたいになってしまう。それが,たまらなく嫌だった。
大切な人の話や、聞き逃したくない情報。常に響く耳鳴りと、周りの雑音にかき消されないように、全身の神経を耳に集中させて聞く。
だから、人と会った後はものすごく疲れやすくなったし、いつの間にか、みんなで囲む会食もあまり楽しめなくなってしまっていた。
そんな、少しだけ「聴くこと」に疲れていたときのこと。
ある男の人と、一緒に歩いていたときのこと。
妙にその人との距離感が近いことに気づいた。やたらと背中を丸めながら、私に顔を近づけるようにして話してくるのだ。
ふと思って、「耳が聞こえないから、そうしてくれているんですか?」と聞いてみた。
すると、まさにその通りだった。彼は私が聞き取りやすいように、自然と体を縮めて、こちらに歩調を合わせて歩いてくれていたのだ。
それまでの人生で、そんな風に何気なく、当たり前のように配慮してもらった経験が、私にはあまりなかった。
だからこそ、その優しい姿勢が、ものすごくありがたくて、心の底から嬉しかった。
片耳が聞こえない人生は、不便で、常に耳鳴りがして、傷つくことも多くて、正直しんどいことばかりだ。
だけど、その不自由さがあるからこそ、誰かがくれる小さな、本物の優しさに気づくことができる。
普通なら見過ごしてしまうような、さりげない思いやりに触れることができるのも、ある意味、片耳が聞こえない私の特権なのかもしれない。
悪きこともあれば、良きこともある。
そう思えると、私の世界の半分でいつも鳴っているざわざわとした音も、少しだけ愛おしく感じられるのだ。
