気づけてよかった。死ぬまで君たちを守り抜く。
「かわいい……」
君たちをそんなふうに感じる日がくるなんて、思いもしなかった。
君たちのことを決してぞんざいに扱ったことはない。子ども時代にはうっかり忘れることもあったけど、少なくともここ10年は大切にしてきたつもり。でもそこに、特別な愛おしさはなかった。だから君たちの姿をまじまじと見ることになった時、咄嗟に浮かんだ「かわいい」のフレーズがあまりにも似つかわしくなく、驚いてしまったのだ。
まさか歯医者さんの検診台で、
そんなトキメキを覚えるなんて思いもしなかったから。
不意に私がときめいてしまったそのお方とは、
私の歯。
かかりつけの歯医者さんを探して初めて訪れたクリニックにて、検診の一環で歯の写真撮影をした時のことだった。
「まず写真、撮りますね」と歯科衛生士さんに言われたのでレントゲン室に案内されるのかと思いきや、気づけば歯科衛生士さんはカメラ片手に私の右隣に、左隣には何らかの器具を手にしたもう一人の歯科衛生士さんが。
「お口開けてくださーい」という歯科衛生士カメラマンの呼びかけに応じて開いた私の口に、何らかの器具がズイッと差し込まれ、さらに大胆に開かれる私の口。検診台のライトに煌々と照らされ、一瞬にして白日の下にさらされることとなった私の口内。カシャリ、カシャリと鳴り響くシャッター音。未だかつて経験したことのない羞恥心をくすぐられる撮影がしばらく続き、内心ドキドキしながら、平静を装い続ける私。
そうして撮られた写真が検診台前の液晶にバンっ!と大きく表示された時、もはや恥ずかしさはどこへやら、何を考えるよりまず「かわいい……」の感情がじわわーんと体中を駆けめぐったのだ。
撮影された写真は3枚あった。
「いー」をした時の前歯〜奥歯の全体写真1枚と、口を開けたところに鏡を差し込み、鏡越しに撮影した上の歯全体・下の歯全体の2枚。
前歯は歯ぐきの後退が気になったものの、どれも美しく並んでいたし、上の歯全体・下の歯全体も自分が思っていた以上にきれいなものだった。
アラフォーのわりに私、なかなかいい歯してんじゃん?なんて誇らしい気持ちが少なからずあったからだろう、その後の歯科衛生士さんへの受け答えで声にハリが出ていたような気もする。
それにしても、なんて愛おしいんだろう。
つやつやとした乳白色に、コロンと丸みを帯びたやさしいフォルム。
銀色の奥歯も2本、堂々とした風格で輝いている。
神経を抜くことになってしまった前歯が1本だけあるのだが、その子もほかと遜色ない様子でみんなと馴染んでいる。……しかし、この子には本当に申し訳ないことをした。
さかのぼること約20年前、念願の出版社に編集職として採用され、仕事を覚えるのに必死だった新入社員時代。先輩と取材リサーチも兼ねて食事に行った居酒屋で気持ちよく酔っぱらっていたところ、ふと舌先に上の前歯が触れ、そこにガッポリ大きな穴が空いていることに気づいた時の身震いするほどの衝撃は今でも鮮明に覚えている。
瞬時に酔いは覚め、『私のこの前歯はどうなるのか。大丈夫なのか』そんな不安で頭がいっぱいになった。
結局、虫歯は神経にまで達していて抜髄するしかなかったのだけれど、20代半ばにして自分の歯が“正真正銘の自分の歯”ではなくなる、この事実は相当なショックで、忙しさにかまけて朝晩の歯磨きを怠った自分を激しく悔いた。
そんな無念さが残る抜髄した前歯さんも、当時とほぼ変わらぬ佇まいで今なお、私の口内でがんばってくれている。
みんながただそこにいてくれるから、私は美味しいごはんを存分に楽しめるのだ。なんと健気で、そしてありがたいことだろう。
検診ではその後、口内の状態から食いしばりを指摘され、そのせいで歯がすり減ってきていること、奥歯の歯ぐきが後退してしまっていることを宣告された。
かわいいかわいい我が歯たち。
これからもお世話になる我が歯たち。
どうしたら食いしばりをやめられるのか?
これ以上の被害を防げるのか?
と悩みあぐねていたところ、歯科衛生士さんから「ナイトガードを使うといいかもしれません」とナイスなひと言が降臨。
ナイトガードとは、上の歯にパコッとはめることで就寝中の食いしばりなどによる歯のすり減りを防ぐ専用のマウスピースで、約3,000円で作れるとのこと。
そんないいものがあるのか!と感動したのも束の間、「ぜひそれ、お願いします!」と次の瞬間には前のめり気味に返答していた自分に、自分で驚いてしまった。
普段、外食した時などはメニュー選びで悩みに悩む私が、この時ばかりは即断即決。
「愛おしくて大切な歯たちをこれ以上、傷つけたくない」そんな強大な想いが、ナイトガード購入へと私を急き立てていた。
そもそも私が歯を大切にしなければ!と義務感にも似た気持ちで定期検診に行き始めたきっかけは、母から口酸っぱく「歯は大切にしなきゃいかんよ」と言われ続けたことにある。たしか結婚し、家を出てしばらくした頃から、帰省すると決まって「歯は大切にしなきゃいかんよ」と言われるようになった。
とはいえ、ただ言われるだけなら、よくある母親の小言として気にも留めなかっただろう。私が母の言葉を真摯に受け止めるようになったのは、母が鶏の唐揚げすらも「もう硬くて食べにくいんやわ」と敬遠する姿を目の当たりにしてしまったからだ。
「歯は大切にしなきゃいかんよ」とこんこんと説く母本人が、その歯によって、食の自由を奪われ始めている。
母の「歯は大切にしなきゃいかんよ」の裏には、自分が歯を守りきれなかったことへの後悔と、娘には同じつらさを味わってほしくないという、子を想う親心が隠されているのだ。
何より、あんな美味しい鶏の唐揚げを食べたくなくなってしまうなんて悲しすぎる。だから私はもう10年ほど、4か月~半年ごとの定期検診を欠かさず習慣にしている。
そんな母だが、かかりつけの歯医者で歯ブラシを大量に買い置きしては、私が帰省するたび、持たせてくれる。「まだストックたくさんあるから大丈夫だよ」と伝えておいても、数本は必ず、私や子どもたちのために用意してくれている。
昔はそういう細かいところにまで気を回す母のやり方をうっとうしく感じたものだけれど、自分も母となり、小学生の娘に毎朝「髪の毛結ばなくていいの?」「ごはんもう少し食べていきなよ」など、何かにつけて気を回してしまう自分が見事に母そっくりなことにはたと気づき、恥ずかしいやらこそばゆいやらで頬がゆるむ。
あの細やかさは愛情の表れなのだと気づき、思わず胸が熱くなる。
ところで私たち大人の歯は、一般的に「永久歯」と呼ばれている。この永久歯、細胞は入れ替わっているのだろうか?と疑問に思って調べたところ、歯の外側を覆っているエナメル質…私たちが見ることのできる部分は、新しい細胞に生まれ変わることは生涯なく、一度失われると自然再生はできないらしい。さらにエナメル質は人体で最も硬い組織らしく、内側の神経や象牙質を守る「よろい」の役割を果たしているという。
彼らは幼児期や小学生時代、乳歯に代わってひょっこり出てきた当時からずっと変わらずそこにいて、健気に私を守り続けているのだ。
人生の大半をともにしてきた、
愛らしくも頼りがいのある28の精鋭たち―
不意の「かわいい……」に端を発してたどり着いた永久歯にまつわる記憶とその真実は、私にさまざまな感情をもたらした。自分の歯が、これまで以上に身近で大切な存在になったことは間違いない。さらには母が、このずっと変わらない歯を「大切にしなきゃいかんよ」と言い続けていることに、言葉の意味を越えた深い何かがあるような気がしてならない。
母はこれからも帰省前に「歯ブラシは何本いる?」と聞き続けるだろうし、「歯は大切にしなきゃいかんよ」と繰り返すだろう。
私はずっと変わらない、そのままの歯を10年後も、20年後も、30年後も大切にし続ける。
母の言葉と愛情を心に刻み、この命が尽きるまで、ナイトガード片手に自分の歯で食を楽しむ。それこそが、今の私の揺るぎない夢だ。
