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願いを行動に変える。人生後半を立て直すための、怪しくない開運の話

神社に行くのは、好きだ。

鳥居をくぐると、少しだけ背筋が伸びる。手水で手を清め、拝殿の前に立ち、二礼二拍手一礼をする。

その短い所作のあいだだけは、日々の焦りや、頭の中で鳴り続けているお金の不安や、過去の後悔が、少し静かになる。

私はこれまでずいぶんと神社に行ってきた。

伊勢神宮、出雲大社。

金運にご利益があると聞けば、山梨の新屋山神社、鳥取の金持神社、東京の小網神社、大阪のサムハラ神社にも足を運んだ。

奈良の大神神社や天河神社、茨城の御岩神社。思い返せば、あちこちに行っている。

もちろん、神社そのものが好きなのだ。

境内に入ったときの空気。木々の間を通る風。手を合わせているあいだの静けさ。それらには、今でも意味があると思っている。

ただ、正直に言えば、私はどこの神社に行っても、最後には金運をお願いしていた。

家内安全も、健康も、仕事のことも願った。けれど、心の底にあったのはやはりお金の不安だった。

どうか金運が上がりますように。

どうか仕事が順調になりますように。

どうか人生が好転しますように。

そう願うたびに、心のどこかで、もう一人の自分がつぶやいていた。

そんなに金運ばかりお願いしているから、金がないのではないか?

引き寄せの本には、願ったら手放せと書いてある。

宇宙にお願いしたら、あとは信じて任せればいい。執着すると、かえって遠ざかる。そんな言葉を何度も読んだ。

では、自分はどうなのか。

手放しているどころか、握りしめている。願っているというより、しがみついている。

金運をお願いしながら、お金の不安を何度も確認しているだけではないのか。

今になって思う。

私はずいぶん遠くの神社まで出かけたのに、自分が帰ってくる家の玄関を、ろくに見ていなかった。

靴は散らかり、砂埃がたまり、机には未処理の書類が積み上がっていた。

遠くに答えを探しながら、いちばん近くにある自分の暮らしを後回しにしていた。

神社に行く前に、玄関を掃け。

玄関を掃けば運が開けるからではない。

神様にお願いする前に、まず自分にできることを一つやっておくためだ。

これは誰かを叱るための言葉ではない。

あの頃の私に、今の私が言ってやりたい言葉である。

答えを買えば、人生が変わると思っていた


私はこれまで、成功哲学や自己啓発、開運、投資に関する本や情報商材に、ずいぶん時間とお金を費やしてきた。

その原点の一冊が、世界的ベストセラー『金持ち父さん 貧乏父さん』だった。

本を読んだあと、その考え方を学ぶための関連DVD教材まで購入した。おそらく、生涯で初めて買った情報商材だったと思う。

当時の私は、そのDVDを観れば、金持ちになるための答えが手に入ると思っていた。

ところが、DVDの中身は、私が期待していたような「金持ちになるための答え」ではなかった。

結局は、自分で考え、自分で動かなければ何も始まらない。

答えを教えてほしかったのに、返ってきたのは「自分で動け」だった。

私は落胆し、最後まで観なかった。

願いを強く思い描けば、望む現実を引き寄せられる――そんな考え方を紹介した『ザ・シークレット』を注文したときも、同じだった。

注文ボタンを押した瞬間、私は本気で思った。

「これで俺も金持ちだ」

まだ本すら届いていない。注文ボタンを押しただけ。

それなのに、もう成功した未来を手に入れたような気持ちになっていた。

今思えば、私は本や教材を買っていたのではなく、注文ボタンを押した瞬間にだけ手に入る「今度こそ救われる未来」を買っていたのだと思う。

新しい本や教材を買うと、不安が一時的に静かになる。

「これで変われる」

「今度こそ答えが見つかった」

「これまでうまくいかなかったのは、この方法を知らなかったからだ」

そう思えるのだ。

私は土木系の自営業である。

独立した頃、世の中には「公共事業は悪だ」という空気があった。

地元の建設会社が次々と倒産し、その下請けのような立場で仕事をしていた私にとって、それは他人事ではなかった。

仕事が減る。

先が見えない。

このままではまずい。

そんな不安の中でインターネットを開くと、まるで別世界のような言葉が並んでいた。

「高卒ニートが片手間三十分で月収五十万円」

「専業主婦が家事の合間にスマホだけで月収二百万円」

パソコン一台で、好きな場所から自由に働く。

今なら、「そんなにうまい話があるわけないだろう」と思える。だが、当時の私は冷静ではなかった。

ブログアフィリエイト、情報起業、コピーライティング、ドロップシッピング。

高額な塾や、マインドセットの動画教材にも手を出した。

一万円、三万円、五万円。三十万円ほどする講座もあった。

動画一本が五万円で、それを何本も買ったこともある。

買った瞬間は、未来が開けたような気がした。

新しい会員サイトにログインすると、自分も成功者の列に並んだ気になった。

教材を開き、動画を観て、ノートまで取った。

今思えば、私はずいぶん勤勉なカモだった。

笑いごとではないのだが、少し笑うしかない。

開運の本。

金運の本。

引き寄せの本。

波動を上げるという本。

宇宙にお願いする本。

占星術の本。

パワースポットの本。

それだけではない。

コピーライティング、アフィリエイト、マーケティング、投資。

スピリチュアルからビジネスまで、ありとあらゆるジャンルの本を買った。

方向は違っても、私が求めていたものは同じだった。

これを読めば、人生を変える答えが見つかるのではないか。

これまでうまくいかなかったのは、この知識を知らなかったからではないか。

新しい本を買うたびに、今度こそ何かが変わる気がした。

読んでいるあいだは、前に進んでいる気にもなった。

だが、本を閉じれば、目の前には同じ現実が残っていた。

借金は減らない。

収入が急に増えるわけでもない。

仕事が楽になるわけでもない。

本もDVDも、買っただけでは現実を1ミリも動かさない。

願うだけでは、現実は動かない

本を買う。DVDを観る。セミナーに参加する。神社で願う。

どれもきっかけにはなる。心を立て直す助けにもなる。

けれど、それだけでは生活は何一つ変わらない。

変化が始まるのは、そのあと、自分が何か一つ動いたときだ。

人生を変えるのは、注文ボタンを押した瞬間ではない。最後のページを読み終えた瞬間でもない。

その後、自分の暮らしの中で何を一つ変えたかだ。

借金を減らすには、返済計画がいる。

収入を増やすには、働き方や稼ぎ方を変えなければならない。

投資で資産を増やすには、企業を調べ、資金を管理し、損失も引き受けなければならない。

仕事の負担を減らすには、働き方の構造そのものを変える必要がある。

必要だったのは、強運を手に入れることではなく、暮らしや働き方の構造を変えることだった。

もちろん、本や教材のすべてが悪かったと言いたいわけではない。

同じ教材を使い、毎日手を動かし、失敗し、改善し、結果を出した人も大勢いるだろう。

購入したものの中には詐欺的だと感じた商品や商材もあった。

けれど、それらがすべて最初から人を騙すために作られたものだったとは思いたくない。

売る側も未熟で、自分の小さな成功を、誰にでも再現できる方法のように語ってしまったものもあったのではないか。

人の不安につけ込む売り方が許されるわけではない。

一方で、私もまた、難しい現実を簡単な答えで飛び越えたがっていた。

結局、道具は使いようなのだ。

包丁も、ペンも、パソコンも、本も教材も、それ自体が人生を変えてくれるわけではない。

それをどう使い、自分が何を続けるか。

現実が変わるのは、その先である。

今の私は、投資本を買っただけで儲かるとは思わない。

本から条件を抜き出し、会社四季報で企業を調べ、チャートを見て、少額で試す。

間違っていたら修正する。

そこまでやって、初めて本が道具になる。

本を「答え」として買うのではなく、現実を動かすための「道具」として使う。

答えを買う人生から、道具を使う人生へ。

その違いに気づくまで、私はずいぶん長い時間とお金を使った。

行動はしていた。ただ、続かなかった

セミナーにもよく参加した。

有名なマーケターの話を聞き、ネットビジネスで成功した人の話を聞いた。

会場に向かうとき、私はいつも少し高揚していた。

今日聞く話の中に、今の自分を抜け出す答えがあるかもしれない。

これで人生が変わるかもしれない。

しかし、思い描いていたようには変わらなかった。

とはいえ、「私は行動しなかった」と言い切るのも少し違う気がしている。

セミナー会場まで足を運ぶ行動力はあった。教材を買う決断もできた。遠くの神社にも出かけた。

本を読み、ノートを取り、感動することもできた。

足りなかったのは、そこから先だった。

学んだことを毎日の仕事に落とし込む。

一つの商品を作る。

一本の記事を書く。

反応がなくても続ける。

失敗したら直して、また出す。

そういう、地味で、誰にも褒められない作業のところで、私は何度も止まった。

ネットビジネスは、思っていたよりずっと時間がかかる。

一日三十分で何十万円という言葉に惹かれて飛び込んだ世界は、実際には毎日手を動かし、反応を見て、改善を繰り返す世界だった。

すぐに結果が出ない。

思ったほど反応がない。

自分には向いていないのではないかと思う。

すると、今取り組んでいることを続けて形にするより、次の教材や、次の成功法則を探したくなる。

私は、行動できなかったのではない。

結果が出るまで、同じ行動を続けることが苦手だったのだと思う。

プロ野球選手になりたい人が、ルールブックばかり読み、素振りを一度もしない。

それでプロになれるはずがない。

少し乱暴なたとえだが、当時の私はまさにそれだった。

お金の本を読む。

成功者の話を聞く。

神社で金運を願う。

アファメーションを唱える。

宇宙にお願いする。

その一方で、机の上の書類を一枚片づけること、一本の文章を書き上げること、目の前の仕事を最後まで終わらせることを後回しにしていた。

人生を変えるのは、セミナー会場で胸が熱くなった瞬間ではなかった。

その熱が冷めた翌朝に、自分が何をするかだ。

ただ、「結局、何も変わらなかった」と言い切るのも違う。

セミナーに行かなかった人生と、行った人生を比べることはできない。

本を読まなかった自分と、読んできた自分を比べることはできない。

コピーライティングやマーケティングを学んだからこそ、人がどんな言葉に希望を感じ、どんな不安にお金を払うのかを知った。

その知識は、今こうして文章を書くことにも生きている。

高い授業料だったとは思う。

けれど、全部が無駄だったとも思わない。

正しく言えば、人生が変わらなかったのではない。

私が思い描いていた形には、まだなっていないのだ。

この「まだ」を、言い訳にするのか、それとも今日の行動につなげるのか。

結局、そこも自分次第である。

善いことまで、金運との取引にしていた

「成功した人は、貧乏な頃から寄付をしていた」

そんな話も、私はかなり素直に信じた。

先に出せば、あとから巡ってくるのかもしれない。

お金のないときに寄付するからこそ、豊かな人間になれるのかもしれない。

そう思って、保護猫のボランティア団体に寄付を続けたことがある。

私自身、保護した猫と暮らしている。

だから、保護猫の活動を応援したい気持ちは本当にあった。

猫を保護し、世話をし、新しい飼い主につなぐことが簡単ではないことも、少しは分かっているつもりだ。

けれど、正直に言えば純粋にそういう気持ちだけではなかった。

これだけ出したのだから、いつか自分にも返ってくるのではないか。

善いことをしたのだから、金運も上がるのではないか。

そんな見返りを心のどこかで期待していた。

神社の賽銭箱に、小銭ではなくお札を入れたこともある。

もちろん、そこにも期待があった。

貧乏なのに寄付をし、小銭ではなくお札を賽銭箱に入れる。

金運への投資として考えれば、利回りはまったく分からない。

それでも当時の私は、かなり真剣だった。

寄付が悪いわけではない。

私の下心が混ざっていても、団体に届いたお金は、保護猫のために使われたはずだ。

善意がなかったわけでもない。

猫たちを助けたい気持ちと、自分も助けてもらいたい気持ち。

その両方があった。

人間の心は、そんなにきれいに分けられない。

ただ、寄付も、賽銭も、感謝も、祈りも、見返りを求める取引にすると苦しくなる。

こんなにしてあげたのに、まだ返ってこない。

まだ報われない。

まだ足りない。

見返りを待っているあいだ、心はずっと「ないもの」を数えているからだ。

善いことをした自分を責める必要はない。

けれど、自分の心がどちらを向いているかは、ときどき確かめたほうがいい。

誰のためなのか。

自分の不安を消すためなのか。

おそらく多くの場合、その両方である。

なぜ神社に行く前に、玄関を掃くのか

神社に行く前に、玄関を掃け。

そう書くと、玄関を一度掃いただけで人生が好転するように聞こえるかもしれない。

もちろん、そんなことはない。

玄関を掃いたくらいで、お金の不安が消えるわけではない。

仕事も、人間関係も、家族との関係も、一夜で好転するわけではない。

金運が目に見えて上がるわけでもない。

私自身、毎日きちんと掃けているわけではない。

偉そうに人に言えるほど、できた人間でもない。

それでもなぜ玄関を掃けと言えるのか?

玄関は、毎日必ず出入りする場所だからだ。

外の世界へ出ていく場所であり、疲れて帰ってくる自分を最初に迎える場所でもある。

靴の乱れ、砂埃、濡れた傘、出しっぱなしの荷物。

暮らしの乱れが、目につきやすい場所である。

玄関を整えることは、自分の暮らしを見直すことに近い。

では、なぜ神社に行く「前」なのか。

神社から帰ってきた後に掃いても、もちろんいい。

参拝後に気持ちを新たにし、玄関を整えるのも悪くない。

それでも私が「行く前に」と言うのは、神様に願いを預ける前に、自分でできることを一つやっておきたいからだ。

金運を上げてください。

仕事が順調になるようにしてください。

人生を好転させてください。

そう願う前に、自分が毎日出入りする場所を、自分の手で少し整える。

順番が変わると、祈るときの姿勢も変わる。

誰かに人生を変えてもらうための祈りから、「自分もやるべきことをやります」という祈りに変わる。

だから「前」なのである。

玄関掃除は、開運の儀式ではない。

願いを行動へ切り替える最初の一歩なのだと思う。

一度掃くだけでは何も変わらない。

大切なのは、続けることだ。

ただし、続けるとは、一日も欠かさないことではない。

掃ける日もある。

掃けない日もある。

整えたはずなのに、また靴が散らかる日もある。

それでも、気づいたときに戻ればいい。

継続とは、一度も途切れないことではなく、途切れても戻ってくることなのだと思う。

願いを、毎日の行動に変える

玄関だけを掃けばいい、という話でもない。

玄関は入口である。

玄関を整えたら、次に目に入るのは机かもしれない。

未処理の書類を一枚片づければ、頭の中で鳴り続けていた「やらなければ」が一つ減る。

財布の中を整えれば、自分が何にお金を使っているかを見ることになる。

金運を願う前に、お金との付き合い方を確かめられる。

言葉を整えることにも理由がある。

愚痴や不満を口にすると、それを一番近くで聞いているのは自分自身だからだ。

言葉が荒れると、自分の心も少しずつ荒れていく。

感謝も同じである。

感謝すれば運が上がるから感謝するのではない。

感謝できるものを一つ見つければ、「足りないもの」しか見えなくなっていた視線を「今すでにあるもの」へ戻せるからだ。

玄関、机、財布、言葉、感謝。

どれも地味で、お金はほとんどかからない。

状況が自然によくなるのを待つのではなく、まず体を動かし、今できることを一つずつ片づける。

思い通りにならないことが起きても、そのあと何を考え、どう動くかは選べる。

情報商材に使ったお金も、遠回りした時間も戻ってこない。

だが、それをただの失敗にするか、これからの判断に使える経験にするかは、今からでも選べる。

捉え方だけでは人生の問題は解決しない。

けれど、捉え方が変われば、次に選ぶ行動は変えられる。

私は長いあいだ、「思い描いていた人生になっていない」と感じていた。

けれど、そもそも私は、どんな人生を望んでいるのかを、具体的に考えていただろうか。

人生を変えたいとは何度も言った。

だが、どんな朝を迎えたいのか。

どんな働き方をしたいのか。

何にお金を使いたいのか。

どんな言葉を使う人間でありたいのか。

どんな気持ちで一日を終えたいのか。

そこまで考えず、ただ不安から逃れたかったのかもしれない。

だから買った瞬間に安心できる教材を選び、参加した瞬間に変わった気分になれるセミナーを選び、願った瞬間に救われる気がする神社へ向かった。

欲しかったものが「一時の安心」だったのなら、その願いは何度もかなっていたのかもしれない。

だから今は、大きな願いの前に、自分がどんな一日を送りたいかを考える。

静かな机で仕事をしたい。

家族や周りの人に、余計な苛立ちをぶつけたくない。

お金を怖がるだけでなく、何に使うかを自分で選びたい。

疲れて帰ったとき、散らかった靴ではなく、整った玄関に迎えられたい。

人生を思い描くとは、壮大な夢を見ることではない。

自分がどんな一日を積み重ねたいかを決めることなのだと思う。

少なくとも私には、願うだけで終わらせず、毎日の行動に変える必要があった。

願ったら、玄関を掃く。

願ったら、机に向かう。

願ったら、財布を整える。

願ったら、言葉を選ぶ。

願ったら、目の前の仕事を一つ終わらせる。

私はこれからも神社に行くと思う。

そして、おそらく金運もお願いする。

急に無欲な人間になれるほど、私は人間ができていない。

ただ、以前とは順番を変えたい。

まず、自分でできることを一つやる。

靴を揃える。

砂埃を掃く。

机の上の紙を一枚片づける。

ありがとうと言う。

余計な一言を飲み込む。

それらは、人生を劇的に変える魔法ではない。

けれど、自分の暮らしを、少しずつ自分の手に戻していく作業ではある。

開運とは、奇跡を待つことではない。

自分の人生を、もう一度、自分で引き受けることだ。

だから私は、神社に行く前に玄関を掃く。

玄関を掃けば運が開けるからではない。

願いを行動へ切り替える最初の一歩にするためだ。

神様に願うのは、それからでも遅くない。


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