富田メモとは何か ―― 昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」の真意(天皇と靖国神社①)
2006年、日本経済新聞の一面に「富田メモ」が載りました。今も皇室と靖国神社を語るとき、必ず引き合いに出される資料です。
今回から連載「天皇と靖国神社」を始めます。第1回は、この資料を事実と解釈に切り分けて読みます。
誰が、何を残したのか
富田メモとは、元宮内庁長官・富田朝彦(とみた ともひこ)氏が残した記録です。
富田氏は宮内庁の次長を経て長官を務め、昭和天皇の側近として会話やご発言を几帳面に書きとめていました。その手帳や日記が没後に遺族のもとで保管され、2006年7月、日経の報道で一部が世に出ます。
これは「富田氏が書き残したもの」です。 ここが後々の分かれ目になります。
何が書かれていたか
報道されたメモには、昭和天皇が靖国神社への参拝について語ったとされる内容が含まれていました。
繰り返し引かれるのが「私はあれ以来参拝していない」という趣旨の言葉です。そして、そこには松岡、白取という具体的な名前が挙がっていた、とされます。
この「あれ」は合祀を指すと読まれてきました。ただし最後の親拝は1975年、合祀は1978年10月。三年の開きがあります。
松岡は元外務大臣の松岡洋右、「白取」は元駐イタリア大使の白鳥敏夫とされます。二人ともA級戦犯として後に合祀された人物です。日経はこれを「A級戦犯の合祀に不快感を示した」と受け止められる形で報じ、その理解が定着しました。
読み方は、一つではありません
ここが本題です。この資料の読み方は、大きく分かれています。
① 広く知られている読み方 ―― 昭和天皇はA級戦犯の合祀そのものに不快感を抱いていた。報道以来、一番流通している解釈です。
② もう一つの読み方 ―― 名前が挙がっているのが松岡・白鳥という個人である点に注目するもの。A級戦犯一般ではなく、この二人への評価が背景にあったのではないか、という見方です。
似ているようで、意味することはかなり違います。
「松岡・白鳥」という名前の重み
なぜこの二人の名が意味を持つのか。
松岡洋右は、日独伊三国同盟の締結を強く推し進めた中心人物。白鳥敏夫も、外交面で枢軸国との連携に深く関わりました。
ここに背景が重なります。昭和天皇は日独伊三国同盟に慎重だったと伝えられているのです。もしそうなら、その同盟を推した人物への思いが背景にあった、という読み方も成り立つ。ただしこれも一つの解釈です。
なぜ、これほど割れるのか
理由は、資料そのものの性質にあります。
メモは録音でも、発言の全文でもありません。 目にしているのは天皇の言葉そのものではなく、聞いた富田氏が要点を書きとめたものです。前後の文脈も正確な言い回しも分からない。だからこのメモだけで真意は断定できません。
なお、内容を裏づけるとされる資料として、当時の侍従の日記(卜部亮吾侍従日記)も知られています。
筆者の考え
「昭和天皇はA級戦犯そのものを嫌っていた」と言い切るのは、慎重であるべきだと考えています。
報道の受け止めは定着しました。けれど、実際に名前が出ているのは松岡洋右氏と白鳥敏夫氏であって、A級戦犯全体への言及ではありません。
この点を重く見る論者は、「昭和天皇はA級戦犯一般ではなく、松岡氏や白鳥氏に強い不快感を抱いていたのではないか」と説明します。もっとも、これも数ある解釈の一つです。
歴史の資料は、一つの読み方で結論を出さず、複数の解釈を並べて比べる。その姿勢が何より大切だと思っています。
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