あきらめずに継続する祈りに、確信が与えられる――ペテロの説教に学ぶ
聖書箇所:使徒の働き2章14-21節
12℃の曇り空。今朝は起床してから4時間にわたって、空中の水蒸気の大ショーを見続けている。起きた時には余市岳がくっきり見え、街並みには薄もやのベールが漂っていた。それが次第に成長して山頂を見せながら山麓は霧に包まれ、さらに広がって街並みから遠方までもすべて雲の中に消えた。足元も少し霧に覆われた。今はかなり晴れて、毛無の尾根を雲が漂っている。余市岳は見えない。街並みには陽の光のあたる場所もできてきた。早送りムービーにすれば、このドラマを短時間ではっきりと確認できるだろう。こうして朝ゆっくり自然の営みの中に身を置くことのできている今の幸せを、主イエスにあって感謝する。讃美を二曲歌ってデボーションに入る。
朝九時、ペテロは立ち上がった
聖霊が降臨し、弟子たちが他国のいろいろなことばで話し始めたその直後、嘲る者たちが「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」(使徒2:13)と退けた。これに対して「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた」(使徒2:14)。
説教の出だしは誤解への明確な反論だった。「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません」(使徒2:15)。冷静で、ユーモアさえ感じられる語り出し。続けて直ちに本論へ入る。「これは、預言者ヨエルによって語られたことです」(使徒2:16)。今目の前で起こっていることは、神が旧約の預言者ヨエルを通してあらかじめ告げておられたことの成就である――。
当時の人々にとって、ガリラヤの田舎の漁師たちが世界中の国々のことばを話し出すなど、信じがたい光景だったに違いない。しかし、ペテロにはなぜそれが起きたのか確信があった。
確信はどのように形成されたか
ペテロたちの確信は、一朝一夕に与えられたものではない。
主イエスの公生涯――三年半に及ぶガリラヤの宣教の日々、奇蹟、教え、人々との対話を、いつも近くで見続けてきた。最後の壮絶な十字架の苦しみを目撃した。一度は逃げ去り、主を知らないと言ってしまった、その自分のもとに、よみがえられた主が現れてくださった経験を持っていた。そして昇天の日、雲が主を包み隠すまで、目撃した。
その後、エルサレムの屋上の部屋で、約120人の弟子たちは「いつも心を一つにして祈っていた」(使徒1:14)。十日間の長い、ほとんど無言の祈り。何を待っているのか、いつ何が起こるのか、確かなことは分からない。ただ、主が「父の約束を待ちなさい」と言われた、その一言を信じて祈り続けるしかなかった。
公生涯の同伴、十字架、復活、昇天の目撃、そして十日間の祈り――この長い経緯があって、ペテロたちは「主が説かれたことは皆真実だ」という確信に到達した。だからこそ聖霊降臨を前にして、ペテロは確信をもって人々に語ることができたのだ。
ヨエル預言の成就――恐るべき日が輝かしい日へ
ペテロが引用したヨエル預言には、深い変化が読み取れる。「『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る』」(使徒2:17)。ヨエル書では「その後」とあった表現が「終わりの日に」と変わり、終末意識が明確化されている。さらに「その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」(使徒2:18)――身分の上下を問わず、すべての人に聖霊が注がれる新しい時代の到来である。
そして特に注目したいのは、ヨエル書で「主の大いなる恐るべき日」とあった箇所が、ペテロの引用では「主の大いなる輝かしい日」(使徒2:20)と変えられている点だ。終末の到来は、さばきの日であると同時に、神の国の完成に向かう恵みの時として描き直されている。
そして説教のこの部分の締めくくり。「しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」(使徒2:21)。これは使徒の働き全体の宣教の基調をなす一節であり、後にパウロもローマ書で繰り返す招きの言葉である。誰もが――身分も、出身も、年齢も問われず――主の御名を呼び求める者は、皆救われる。
沈黙の中で、あきらめずに歩み続ける
私たちの信仰生活にも、長い沈黙の時期がある。祈っているのに応えが見えない時。聖書を読んでも心が動かない時。理解のいかないことばかりが続く時。そういう時、人は問いたくなる――この祈りに意味はあるのだろうか、と。
しかし、ペテロたちの十日間の祈りを思い出したい。彼らもまた、何が起こるのか分からないまま、ただ主のことばを信じて祈り続けた。その沈黙の祈りの先に、決定的な恵みが与えられた。
信仰歴16年の歩みの中にも、振り返れば何度も「分からなさ」の時があった。82歳になろうとしている今朝、4時間にわたる水蒸気のドラマを窓辺で眺めながら、改めて思わされる。雲が育ち、霧に覆われ、また晴れていく――この自然の営みのように、信仰の歩みにも見えにくい時期と晴れていく時期がある。早送りで見るなら、すべては主の御手の中で確かに進められていることが分かるはずだ。
あきらめずに継続することで、与えられるものがある。これを信じて歩みたい。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」――この招きは、ペテロが語った朝から二千年を経た今朝も、確かに開かれている。
主よ、見えない時にも、あなたの御手は確かに働いておられます。沈黙の中で、あきらめずに祈り続ける力を、今朝新しくお与えください。アーメン。
※聖書は新改訳2017を引用しています。 ※本記事は、AI(Claude、Anthropic社)を活用し、筆者の視点と編集を加えて作成しています。内容の最終確認および責任は筆者が負っています。
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