最短の道は、遠回りだった。——ダンボールの城から始まった再設計
1. 導入:開けてはいけない箱
僕の部屋には、開けてはいけない箱がある。
何年も前から、そこに置いたままのダンボールだ。
引っ越しのたびに運び込んで、そのまま積み上げてきた。
中身は、もう正確には思い出せない。
トレーディングカードや服、CD、誰かのライブグッズ。
たぶん、そんなものが入っている。
開ける理由がないから、開けない。
開ける理由がないものは、たぶん、これからの自分にも必要ないものだった。
一級建築士という肩書きを持ちながら、僕の部屋には、使われていない空間がいくつもあった。
仕事では、ミリ単位で無駄を削るのに、自分の生活はひどく曖昧だった。
整っているのは図面の上だけで、現実の僕は、何かを積み上げ続けていた。
このままでは、息がしづらい。
理由はうまく説明できなかったが、その感覚だけははっきりしていた。
僕は、自分の生活を一度壊してみることにした。
それは、やり直すための再設計だった。
2. 過去:増やし続けた日々
20代前半の僕は、何かを持っていることで、自分を証明しようとしていた。
車を買った。トヨタのハリアーだった。
ドアを閉めると、外の音が消える。
その静けさに、守られているような気がした。
高い視点から道路を見下ろす感覚も、嫌いではなかった。
しばらくして、それだけでは足りなくなった。
もう一台、マツダのRX-7を手に入れた。
エンジンをかけると、低く響く音が胸に伝わる。
アクセルを踏むと、身体ごと前に引っ張られるような感覚があった。
週末になると、その2台を並べて眺めた。
満たされていたと思う。
少なくとも、そのときはそう信じていた。
気づけば、部屋の中には箱が増えていた。
買ったものをしまう場所が足りなくなり、とりあえず段ボールに入れて、壁際に寄せる。
そうやって空間をやりくりしていた。
車のローン、保険、税金。毎月決まった額が出ていく。
数字としては分かっていたはずなのに、どこか現実感がなかった。
ただ、時間だけが減っていく感覚があった。
持っているはずなのに、何も持っていない気がした。
ある日、コンビニの駐車場で、自分の車を見た。
綺麗に洗車されたハリアー。
その隣に、同じようなSUVが並んでいた。
どちらが自分の車か、一瞬わからなくなった。
そのとき、少しだけ冷めた。
3. 転機:軽い車
このまま続けていくのは、たぶん無理だと思った。
理由ははっきりしていない。
ただ、どこかで歪みが出ているのは分かっていた。
僕は、持っていたものを手放すことにした。
ハリアーとRX-7を売った。
代わりに手元に残ったのは、ダイハツのタントだった。
最初に乗ったとき、少しだけ恥ずかしかった。
以前の自分を知っている人に見られたら、どう思われるだろう。
そんなことを考えた。
実際、誰かに何かを言われたわけではない。
ただ、自分の中にあった。
正直に言えば、惨めだった。
あれだけ車にこだわっていた自分が、軽自動車に乗っている。
それを認めるのが、一番つらかった。
しばらくして、その感覚は消えた。
駐車場での取り回しが楽だった。
ドアを大きく開けられるのも便利だった。
荷物を積むときも、思っていたよりずっと扱いやすい。
それ以上に、何も背負っていない感じがあった。
アクセルを踏んでも、特別な高揚感はない。
誰かに見せるための要素も、ほとんどない。
でも、不思議と落ち着いていた。
車を軽くしたのと同じように、部屋の中も軽くしていった。
部屋のダンボールも、少しずつ減らしていった。
一つ開けるたびに、「これは、もういらないな」と思うものが出てきた。
取っておいたはずのものなのに、今の自分には何も残していない気がした。
迷うものもあったが、結局は手放した。
最後に残ったのは、ほんのわずかなものと、少し広くなった床だった。
部屋の広さは変わっていないはずなのに、前よりも奥行きがあるように見えた。
何も置かれていない場所があるだけで、空気が軽くなる。
それからは、何かを置く前に、少しだけ考えるようになった。
なくても困らないものは、たぶん、これからも必要ない。
それでも、一つだけ開けていない箱が残った。
あの箱の中には、たぶん昔の自分が入っている。
コンビニの駐車場で、隣に大きな車が停まっても、前ほど気にならなくなっていた。
以前の僕なら、間違いなくそちら側に立っていたはずだった。
そのことに気づいたとき、少しだけ可笑しくなった。
本当に恥ずかしかったのは、タントに乗っていることじゃなかった。
他人の目でしか、自分の価値を測れなかったことだった。
4. 再構築:静かな乗り物
何もない状態に近づいてから、しばらくはそのままでいた。
増やさない。足さない。
ただ、その状態に慣れる時間だった。
そのうちに、必要なものが少しずつ見えてきた。
持ち物が減るほど、選ぶものは少なくなった。
車も、その一つだった。
もう一度、車を持つべきかどうか。
正直、少し迷った。
いくつか候補を見たあとで、一台の電気自動車に行き着いた。
テスラのモデル3だった。
最初に乗ったとき、音がしなかった。
アクセルを踏んでも、エンジンの振動も、回転数の上がる気配もない。
ただ、滑るように前に進む。
その静けさに、少し戸惑った。
夜、駐車場に車を止める。
エンジン音がないから、帰宅したことに誰も気づかない。
その静けさが、なぜか心地よかった。
走り出してしばらくすると、その感覚に慣れてきた。
音がないことで、余計な情報が減る。
外の景色や、自分の呼吸のほうに意識が向く。
これまで車に乗るたびに感じていた、どこか演出された時間のようなものが、すっと消えていた。
家に帰って、充電ケーブルを差す。
それだけで、その日の移動は終わる。
生活の中の、小さな手間が一つずつ消えていく。
以前は、それを当たり前だと思っていた。
でも、一度それがなくなると、戻る理由が見つからなかった。
5. 終章:遠回り
2026年の夏、家族が一人増える予定だ。
その事実を考えても、不思議と焦りはなかった。
以前の自分なら、もっと多くのものを揃えようとしていた気がする。
あの箱を開けなくなった頃から、
僕の選ぶものは、少しずつ変わっていった。
あのままの自分で、父親にならなくてよかったと思った。
正確には、あのままの自分では、誰かを守れる気がしなかった。
広い家や便利なものを先に並べて、その中に自分を収めるのではなく、必要になったときに考えればいい。
足りないものは、そのときに足せばいい。
ハリアーの静けさも、RX-7の音も、今でも覚えている。
どちらも、間違いなく好きだった。
タントに乗っていた時間も、無駄ではなかったと思う。
あの期間がなければ、何を手放せばいいのか、分からなかった。
最短の道は、遠回りだった。
部屋の隅に、まだ一つだけダンボールが残っている。
開ける理由は、まだない。
もしかしたら、これからもないのかもしれない。
たぶん、それが今の僕にとっての設計図なのだと思う。
