映画『廃用身』レビュー ~ 中盤までは、「大傑作!」と思っていた…。

2026年5月16日鑑賞
『廃用身』観て来ました。
(原作小説は未読です。)
「Aケア」(「廃用身」の切除)というアイディアそのものがたいへん衝撃的でありながら、でも納得もできるもので、単なる「思考実験」ではなく、現実的に実用化される可能性についても切実な思考を誘われますし、逆に、「Aケア」なんてとんでもない考えだと主張するならば、その考えの根拠はどこにあるのか、きちんと考えることを迫られる。
いずれにせよ、「Aケア」について、ひいては「人間とは何か」「人間として生きるとはどういうことなのか」等について、身につまされて考えざるをえない、まさに「衝撃作」でした。
ただ、ここに綴りたいのは、あくまでも映画『廃用身』のレビューですので、「Aケア」そのものをどう考えるのか(「Aケア」への賛否等)、ではなく、この映画を映画としてどう見たか、何をどう感じたか、を語りたいと思います。
なお、この映画の性質上、このレビューの文章表現が、皆さんに不快感を与えるものになってしまうかもしれません(それを恐れると、この映画の核心がきちんと語れなくなってしまいます)。あらかじめ、その旨お断りしておきます。
ひと言で言えば、大傑作映画になる要素を多分に持ちながら、「映画を(ある程度の長さの内に)終わらせなければならない」という宿命の難しさをも感じさせる、そんな映画でした。
映画で描かれる物語の「広げた風呂敷は、必ず畳まなければならない」、その手つき・手順・収め方の難しさを痛感したのです。
広げ方の大胆さ・とんでもないワクワク感に比べて、畳み方はややぎこちないというか丁寧すぎるというかありがちというか、モタモタした感じを覚えてしまったのです。
前半は、大傑作!
予告編のイメージから、主人公の漆原が、とんでもなく偏った思想を持ったマッドサイエンティスト的な医者で、彼が薄笑いを浮かべながら非人道的な手術を繰り返していく、近未来SFスリラーみたいなスキャンダラスなあらすじをぼんやりと予想しながら観始めたのですが、全くそんな映画ではありませんでした。
実に落ち着いたタッチで、老人たちの苦悩が、それに対する医療やケアの実情が、描かれていました。
とことん「真面目な映画」でした。まず、ここに感動しました。
シネコンでのプログラムピクチャーでありながら、気軽に楽しめるエンタメ映画(もちろん、これも貴重なのですが)ではなく、重厚な社会派のドラマでした。「お、これ、予想外に、凄い映画だぞ…」という胸の高まりを覚えながら、スクリーンを見つめたのでした。
主人公の漆原は、極めて誠実に、老人たち(やその家族・介護者)のことを考えて「Aケア」という治療法を考えます。そして、スタッフたちの賛同、「第一例」になる患者岩上の紆余曲折の果ての決心もあり、「Aケア」を実行する。結果、「Aケア」の直接的な効果以上に、患者(たち)の幸せが高まるという「現実」が発生し、「Aケア」を希望し、施術され、以前よりも生き生きと生きていける老人たちが増えていく。
このへんの描かれ方、「映画としての」進行具合が、実に小気味よく、映画としての快感を与えてくれる、これに感服しました。
描くところと省略するところの、取捨選択、バランス、配置、これらが理屈を超えた体感として、グサグサとこちらに刺さって来るのです。
漆原を演じる染谷将太の(今さら言うまでもないことですが)醸し出すたたずまいがまず凄い。まっすぐで清潔な精神性をもちながらも大きな闇を抱えている、そんなひんやりした優しい人間を見事に現出させている。
そして、これは極めて個人的な好みなのですが、推しの中井友望さんが、物語の大きな核なひとつとなる看護師内野として出演しているのですが、看護師らしくきゅっとくくった髪型のりりしさが可愛い、美しい。『少女は卒業しない』や『ベイビー・ワルキューレ』シリーズの好演以上に、「わ、かわいい」と思ってしまいました。「俺得」感の強さが最高だった。
(なお、パンフレットには、中井友望のキャスト紹介さえありません、この「映画パンフレットあるある」の弊は、ホントどうにかしてほしいです。きちんとキャストを紹介するのは、映画パンフレットの最低限の責務、ではないでしょうか?)
前半において、「Aケア」に積極的に反対するのは彼女だけで、でもこの彼女の反対(「Aケアへの嫌悪感、恐れ」)が後半への伏線と言うか、この映画を構成する大きな軸のひとつになっているのですが、ここで、看護師内野の「Aケア」への納得できなさは何だったのか?と考えると、極論すれば、「手足のない人間はもう(ほんとうの意味では)人間とは言えないのではないか?」と言う感情でしょう。僕自身、この感情にも同感できる部分があるのです(不快な方、ごめんなさい)が、これって正しい感情なのでしょうか?
「Aケア」というアイディアに、決定的な欠点があるとすれば、この非合理的な感情を全く考慮の裡に入れていなかったということです。
「手足を切断する(ひとを目にする)なんて恐い」という理屈を超えた本能的な心情は、「Aケア」という合理的・実践的なアイディアにおいてはまったく無視されていた。というよりも、そんな感情があるなんて、漆原は思いもしなかったのかもしれません(「翅をむしった蝶」でもふつうに「芋虫的」な虫なのだ、と考える・見なす、彼はそんな人間だったのでしょう。この考えって、人間的なのでしょうか?非人間的なのでしょうか?)。
「Aケア」が挫折してゆく(ように見える)後半まで観ると、まるでこの内野の考えこそが正しい考え方であったかのようにも見えるのですが、もちろん、そんなことはありません。
彼女の「手足を切断する(ひとを目にする)なんて恐い」という心情は、そのまま身障者差別にも直結するあまりにもナイーブな心情です。「手足のない人間はもうほんとうの人間とは言えない」なんてナイーブな差別的な心情を持たないように、僕たちは啓発的な教育を受けて来て(今も受け続けて)いるわけで、例えば、いま公の場でそんな発言をすることは絶対に許されませんし、そんなことは思わないようにしよう、と僕たちは強く自分に言い聞かせているはずなのです。
それでも、僕たちは、心のどこかに、「Aケア」なんて考えはさすがに肯定できない、だって、「手足を切断する(ひとを目にする)なんて恐い」し、という素朴な心情も否定しがたく持ち続けているのではないでしょうか?(不快な方、ごめんなさい)。
この映画の志の高さ(=「前半は大傑作」の主要因の大きなひとつ)は、小説で描かれていたであろう、こうした人間として不可避な葛藤した感情(公の場で言葉にして語り合うことさえタブーである二律背反)を、<映像として見せる>ところにあります。
六平直政演じる「第一例」、岩上の壮絶な姿は、ポップコーンムービーにはまったくふさわしくない凄みを放っていますが、「Aケア」後の姿を、グロテスクに寄り過ぎても、ソフトにごまかしすぎても、映像表現としては不誠実なものになってしまいます。
リアルに、しかし、ある種の気高さも感じさせるかたちで描かないと、この『廃用身』という映画としては失敗だったはずで、そこを、見事に描いていると僕は感じました。
活字で「そして、彼は両脚と右腕を除去された」と書くのと、映像でそれを具体的に描くのとでは、イメージの臨場感は桁違いです。映像だから活字よりもわかりやすい、などというレベルではなく、リアルにしかし映画を観る快感を失わないように「Aケア」を映像化する、というのは、生半可な覚悟で実現できるものではありません。
というわけで、僕は、「これ、凄い映画をいま観てるぞ…」という高揚感・陶酔を強く感じながら、この映画を観進めたのです。中盤までは…。
後半の「映画として」の失速。
「Aケア」がこうして世の中に普及し、老人たちは以前よりもずっと幸せになりました。めでたしめでたし…。ではドラマになるはずがありませんから、当然、ここから物語のコンフリクト(葛藤)が描かれてゆくのですが、冒頭に書いた通り、後半は、どうにも乗り切れないモタモタ感がいくつか感じられて、感動が曇ってしまいました。
「大傑作になりそこねた」感が残ってしまったのです。
① 編集者矢倉の存在
「Aケア」に共感・納得する矢倉が、最後まで、「Aケア」についての本を出版しようという意志を持ち続けながら、漆原やその妻菊子を支え続けます。彼自身も、認知症でもう意思疎通のできない母を抱えていたりして、老年期医療の新たな可能性を切り開く「Aケア」に、それを進めようとする漆原に、熱い期待を抱きつづけている。
この矢倉の存在は、前半では、映画の語り口としてもたいへんに機能していました。矢倉が漆原に取材することが、そのまま、僕たち観客が「Aケア」の世界に入っていくことに繋がっている。そして、僕たちも矢倉と同じように、「Aケア」の合理性・有効性に納得できるようになっていて、この仕掛けがなくて観客が看護師内野のようなナイーブな価値観のみを持ち続けたままだったら、このドラマは(観客の感情に葛藤を抱かせることもなく)成立しません。
ところが、後半「Aケア」がスキャンダルとして取り上げられ、世間に逆風が吹くようになっても、矢倉と漆原がバーで会ったりするのは、あまりにも呑気に感じられてしまったのです。
「一冊本を出したくらいで、このスキャンダルをひっくり返すなんて、無理に決まっているやん。そもそも、こんなスキャンダルがあったら、出版も無理やん」と感じてしまったのです。
矢倉の「Aケア」への期待、本の出版への希望が、酸いも甘いも嚙み分けている大人であるはずの矢倉にしては、あまりにも無邪気で嘘っぽく感じてしまったのでした。(原作では、最後に、矢倉は本を出版するのですか?そうなると、根本的に印象は変わってくるのですが…)
② 漆原の自死
原作小説があるのですから、これは映画としても仕方がないのでしょうが、「Aケア」をめぐるスキャンダル・大騒動の末に、主人公が自死する、というストーリーは、残念ながら「ありきたり」感が否めませんでした。「え、結局、そうなっちゃうの?なんか、普通…」という失望を感じてしまいました。中盤までの、「こんな凄い映画観たことがないぞ!」という衝撃に比べて、<よくある話>に収斂してしまった、残念感が大きかった。
③ 看護師内野の謝罪
矢倉のオフィス、及び漆原の自宅に、「Aケア」を推し進める漆原への告発文が届いていましたし、週刊誌に「Aケア」を非道な行為としてタレコミをした人物がいるはずなのですが、これが誰のしわざだったのか?ということも、いわばミステリーとしてのこの物語の推進力のひとつになっていました。
もちろん、第一容疑者は、漆原に反発して辞めた看護師内野なのですが、「まさか、そのまんま、彼女だったということはないよなあ…」と思いながら観ていると、はっきりと明示はされませんが、漆原の死後、矢倉と会った内野が、「ごめんなさい、ごめんなさい…」と泣きながら詫びるシーンが出てきて、「えっ、やっぱり彼女だったの…」と思うしかなくなります。
第一容疑者が犯人だった、なんてあまりも陳腐なストーリーだ、と興ざめしてしまいました。
なお、僕は自宅に告発状を送った(というか、宛名もなかったので、自宅の郵便受けに入れた)のは、漆原本人(彼の中の葛藤をあらわす、彼の半身)ではないか、とも思っているのですが、映画としては、「ごめんなさい、ごめんなさい…」と泣きながら詫びていることから、彼女のしわざと受け取るのが普通ですよね。
まとめ
映画『廃用身』において、制作陣が意図していたのは、ミステリードラマではなく、「Aケア」というアイディアをめぐる人間ドラマを描くことによって、「人間とは何か」「人間として生きるとはどういうことか」を観客に考えさせること、だったのだろうと思います。
そうした骨太な社会派の「真面目な」製作意図は、十分に伝わってきましたし、映画の迫力として伝わってきました。
でも、それを「映画として」観客に提供する上で、ある種のミステリードラマ的な筋書きは必要で、そこが、(映画としての時間的な制約もあった?)中盤以降のまとめ方に、ある種の既視感・陳腐さを感じさせてしまった、(僕はそう感じてしまった)ということだと思います。
残念ながら、最後まで「大傑作」であり続けることはできなかった野心作、だと。
でも、ほんとうに見応えのある、いい作品であったことは間違いありません。
ラスト・シーンの描き方も、実に抑制が効いていましたね。
見えるか見えないか、聞こえるか聞こえないか、というレベルで、「Aケア」の奇跡的な効果がここにもあった、ということを(わかる人にはわかるくらいのささやかさで示唆する)ラスト・シーンだと僕は受け取りました。
制作陣(監督)の、高い志は、ラストの数秒にもよく現れていたと思います。ほんとうに「真面目」な映画でした。いい意味で。

