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ある場所をなくした人たちは、みんなどこにいくのだろう

もうすぐあるコーヒーショップが閉業する。
常連というわけでもない自分が「寂しい」と思うのはどうなんだろうか、と思うところもあるが、少なくとも顔見知りの店主のいるお店が街から一つなくなっていくのはやっぱり寂しいところはある。

その報をSNSで見たときに真っ先に浮かんだのは、このお店に集っていた人たち、常連だった人たちはどこへ散っていくのだろうという問いだ。そのお店へ通うこと、そのお店のコーヒーを飲むことが日々の習慣のなかにあった人たちにとって、お店がなくなることは何を意味するのか。

そういえば、昨年末に郊外のとある喫茶店が閉店したときも、そのまた前年に自然豊かな町の古民家カフェが立ち退かざるを得なかったときも、同じことを考えていた。

あそこのごはんがもう食べれないのか、あそこのお店の人たちともう話すこともないのか、と思うとともに、もうあそこの空間にぷかぷかと浸かることもないのかと場所そのものに対する郷愁も湧き起こる。

その空間にいることで気分転換ができたり、癒されたり、思わぬ出会いが生まれたり、それらが積み重なって思い出となったり。屋根があって、テーブルがあって椅子がある。背負った荷を下ろすようにして、くつろいだり、ため息をついたりできると、人は隙や弱みが出るような油断した人格になるのだろう。一瞬でも。

そうやって、自然体の自分を晒すことのできる場所を人は求めている気がする。

ちょっと引いて考えてみれば、ある場所に人が集まる、人が居着くというのはなんとも不思議な出来事だ。

誰でも最初から常連だったのではなく、初めてお店を訪れるときがある。
何の因果か、また通ってもいいかなという感触が残り、2回目、3回目と少しずつ訪れることが増え、そのスパンも短くなっていく。いつの間にか馴染みのお店となる。

お店に通うようになる理由は人それぞれだ。初めて扉を開けた瞬間、直感的に惹かれてしまった人もいるだろうし、その空間で過ごすうちにまた来たいと思ったり、お店の人と話が弾んだり、提供しているものに惹かれたり。何がきっかけになるかはわからない。

通ううちに気づけばそこで過ごすことが目的や動機になっている。いや、その目的や動機からはみ出していく体験を求めて通うようになる。コーヒーやごはんを味わいお腹を満たすこと以上の何かを五感をフルに使って味わおうとしている。

使い古されたことばでいえば「サードプレイス」か。家でもなく職場でもない第三の場所。家でもない職場でもない、その場所でこそ形づくられる、自分にとって心地のよい人格。

その場所というのも、コーヒーショップや喫茶店、居酒屋やバーといった飲食店だけでなく、本屋や洋服屋やレコードショップなど、商いが行われている空間ならどこでもそうなりうる。

しかし、いつかは別れのときがやってくるわけで。そうしたとき、集っていた人たちはどこへ行くのだろうか。近い感性の場所を探し求めて彷徨うのか、たまたま偶然自分の好きそうな場所と出会って、同じように常連化していくのだろうか。

でも、自分のことを思い返しても、周りの人を見ていても、お店が畳まれた瞬間はみな戸惑っているけれど、その後は意外となんとかなっている。ほかに代わる(というと失礼だろうか)場所を見つけている。

話は変わって、久しぶりに冒頭のコーヒーショップへ行った。静かで落ち着いた午後のひととき。コーヒーはもちろんおいしかったし、頭を使わずぼーっと過ごすことができた。なんなら、なんで今まで通うことが少なかったのだろうと後悔した。

あとに続くお客さんたちは常連さんがほとんどだったようだ。
ひとこと「深煎り」と口にするだけでオーダーが通じるのも情緒がある。
みんな閉業を惜しんでいるようだった。

ある母娘がやってきた。娘さんはいつもここで宿題をするらしい。

そっか、そういう光景がここでは広がっていたのか。そのシーンを今まで見られなかったのがなんとなく寂しい。ほかの知っている店舗では見られない光景だ。この場所、この空間だからこそ起こり得たこと。

お店がなくなってしまうことは「寂しい」ことではあるけれども、「悲しい」ことではないと思っている。そこで過ごした記憶はずっとその人たちに残っていくだろうし、その場所がきっかけで何かを成す人も出てくる。

その場所の遺伝子はずっとこの先も受け継がれていく。

バイバイ、

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半田孝輔|地域編集者・ライター 最後まで記事を読んでくださりありがとうございます。いただいたサポートは日々の研究、質の高い記事を執筆するための自己投資や環境づくり、書籍、各メディアのサブスクリプション、メンバーシップ等の費用に当てさせていただきます。