問題を解決するためには「力」が必要/「最近の研究では」と常識的見解を否定しようとする「権威主義」/「戦争の危険がある(?)高市内閣」と「正義の戦争」や「正義の平和運動」の危険性
4月25日(土)晴れ
昨日は午前中母を松本の病院に連れていったのだが、途中までは順調だったが帰りにトラブルが起こってちょっと苦労した。母を施設に送り届けたあと蔦屋へ行ってマンガを探し、「ハイスコアガールダッシュ」8巻はあったのだが「ユーベルブラットII」4巻が見つからず、もう一つの書店へ行ったがやはりなかった。そこでガムテープを二つ買い、帰りにマツキヨによって掃除用品を一つ買って帰ったらもう1時だった。松本で買った昼食を食べて、少しだけ竹を切りに行き、入浴して出ようと思ったが結局ギリギリまで横になっていた。どうも疲れてたんだなと思う。
今朝は5時ごろ起きて割合すぐ着替えて車で出かけ、作業場にものを置いてきてそのまま隣町まで走り、ガソリンを入れてから丘の上のデイリーで塩パンなど買って帰った。6時から7時になるとかなり混んでいるのだが、今日は6時過ぎに帰ったのだけどほぼスイスイだった。やはり少しでも早い時間が空いているということはある。高速は必ずしもそうでないのは難しいところだが。
スタンド併設のセブンでふと見たら産経新聞の見出しが「辺野古転覆 平和教育の実態聴取 同志社国際高 文科省、校長から」だったので買ってみた。中身も結構目を通したが、結構知らないことが多くて、やはりネットで見ているだけではダメだな、新聞を読まないと、とは思った。本来朝毎読日経産経くらいは読んでもいいと思っているのだが、リベラル界の論調と保守界の論調くらいは読んでおいた方が、思考とかTwitterでの反応などについての理解にいろいろと役には立つんだろうなとは思う。辺野古転覆に関しては実際産経は頑張ってるなと思う。
最近いろいろ考えているせいもあり、また逆に言えば少し考える余裕が出てきたせいもあって、忙しさに紛れて封印されていた余計なごちゃごちゃした思考が結構噴出する傾向にあり、多分その中には必要な思考もかなりあるので整理していった方がいいと思うのだが、頭がごちゃごちゃしているとその中での軽重がつけにくいということはあるなと思う。ただ、今はおそらく情報収集の風呂敷を広げる時期なので、玉石混交の色々なわけのわからん思考や情報が雪崩れ込み、その中で価値あるものを拾うのも結構大変だなとは思う。
今朝思ったことを三つほど書いてみたい。
一つは車を運転しながら考えていたのだが、生きているといろいろ「よくわからない問題」に遭遇するわけだけど、その問題がよく理解できないのはこの歳になっても自分には「世間に疎い」ところがあるからなんだろう、と思っていた面があったのだが、最近はそれも皆無とは言えないが世間知に長けた人たちでもやはりわけのわからない問題には遭遇し、やはりそういう時には動揺するよな、ということを思い始めて、あまり自分が世間に疎いとか考えなくてもいいなと思い始めたということと、もう一つはそういう「わけのわからない問題」を「いい感じに解決する」ためにはどういう種類にしろそれなりに「力」が必要だなということを改めて思った。
世間に美徳はいろいろあって、真面目さとか親切さとかそういうものはあるけど、それらは問題が起こりにくくしたり、あるいは問題が起こっても激化させにくくしたりとかいうことはあっても、それだけでは問題が解決することはないわけである。結局問題を解決するためには状況をちゃんと把握(一瞬で把握しなければならないこともある)して判断し、これはこうやるぞ、と決断を下して実行しなければ解決しないわけである。母の介護をしていて思うのは、いかに理不尽なことでも今はこうすべきだ、と判断したらすぐに行動して解決しないと問題が悪化するということで、これはおそらく子育てとかでも(私は経験はないが)同じことだろうなと思うことがある。そして行動して解決するためには色々な種類の「力」が必要なわけで、筋道立てて行動すれば解決する場合もあるし、そうでない場合もある。いずれにしてもそれが終わった時に「いい感じ」にならなければ禍根を残すこともあるわけで、そこをうまくシャンシャンとやるには「人望という名の力」が必要であることも多い。
日本というのは古くはボス社会であったからボス同士が話がつけば大体収まるものだったわけだけど、今は理屈だけ言うだけで人望がない人だとか外国人犯罪組織だとか変な活動家団体だとか集団をまとめるちゃんとしたボスがいない無秩序な感じになってきていて、問題がいつまでもズルズルと長引くことが多くなっているのがどうもあまり私などには良くない感じだなと言う気がする。そう言うものを家父長性として否定するのがリベラルであるわけだけど、じゃあリベラルの主張するやり方で社会が収まるかと言えば絶対そんなことはないわけで、その辺のところはもう少し考えて書けるようなら書いてみたい気はする。
リーダーとかボスとかガキ大将とかそう言うものが没落しすぎているのが現代の問題の大きな点の一つであるような気はする。
ただ、そう言ういわば権力とかリーダーシップとか言うものがあれば全ては解決するかと言えばそんなことはないわけで、リベラルとかは逆にそう言う部分を過大評価して敵に投影しているところがある。様々な力を持つ人たちが集まってこそ社会は成り立つと言うことはちゃんと理解しておかないといけないと思う。
これはTwitterでも良く見かけるのだけど、ある種の人たちは「最近の研究ではこういうことになっている」と従来の一般的見解を否定し、そうした見解を持ってるであろうTwitterでの多数派を啓蒙し善導しよう、みたいなムーブをするわけだが、私はあれはあまり好きではない。
私ならば「誰々のこういう本では」とか「こういう論文では」という言い方をするだろうと思うし、「こうした見解に代表される意見が学会的には支持されるようになってきている」と言うふうに言うだろうと思う。
「最近の研究ではこれこれこう言う考え方は誤り」と断定されると私などはすぐ「そうか?」と思って調べ出すのだが、それだけの言説だけを頼りに調べてもほとんど検索に引っかからないことも多く、そうなってくると面倒臭くなってもう調べるのをやめる、と言う感じになることもよくある。
今日はそう言う見解を読んだ後に「これはなんと言う本のこう言う内容を踏まえて言っているのだな」といことがピンときたので、ちゃんと書名まで書けばいいのにと思ったわけなのだけど、書かないと言うのは逆にどう言うことなんだろうか、と言うことを考えてしまったわけである。
考えられるのは「最近の研究・学会ではこう」みたいに宣言することによる「中の人ムーブ」と言うことが一つあり、「ですよねー」と言う反応を待っていると言うこと。もう一つは、一般的に従来の学校教育等で説明されてきた説明に対して「最近の研究」と言うワードを被せることで否定し、「啓蒙し善導するぞ!」と言う姿勢を示すことだが、逆に言えばそれは非常に権威主義的に読めるものでもある。
これは逆に中の人にはわかりにくいことかもしれないなとは思うのだけど、そう言う権威主義的な言い方は私は格好悪いと思うし、一般には「権威をひけらかしている」と言う反感を呼ぶものだと思う。
だから、「最近の研究では」とまとめたような言い方をするのではなくて「誰々のこういう本ではこう言う見解になっていて、それが学会でも支持されるようになってきているようですよ」みたいななるべくフラットな言い方の方が悪印象は与えにくいのではないかと思うわけである。興味がある人はそれで調べてみようと思うだろうし、興味がない人はスルーするから波風が立たない。
ただ逆に、「今の研究ではこうだ」とと断言して「そんなことどこに書いてあるんだ」と言われて「自分の論文に書いてあるから調べろ、あるいはこの自著にこう書いてある」みたいに言う人もあり、それが大学図書館でないと入手できない研究雑誌だったり七千円もする一般の公立図書館にはおいてない自著だったりするとまたあれな印象になったりはする。
これも難しくて、本当に最先端の研究をしていると自著しか説明されているものがないと言うことはあるから読んでもらうしかないし、SNSで論旨を説明してもそれで理解できるような人だけがSNSにいるわけではないからかえって面倒になることもあるだろうとは思う。
そう言うことになるともう「読んでわかってもらえる人にはわかる」と言うしかないのでお気の毒だなとは思うのだけど、自分が読んだ本で感銘を受けた場合にはなるべく応援してTwitterなどでも援護射撃はしたいとは思っている。
何が価値ある研究で何がそうでないのかなどと言うことは、最終的には人類史が終わってみないとわからない部分もあるわけで、一概に「最近の研究では」を権威主義的に振り回すのはやはりあまりかっこ良くはないな、と思う。
戦争とか平和とかについていろいろ喧しい感じになってきているが、どうもなんというか「高市が総理大臣をやっていると日本が戦争を始める」と言う意味のわからない幻想に突き動かされている人たちが平和平和と盛んにやっている感じがして、そう言えば中曽根内閣でも小泉内閣でも安倍内閣でもそんなこと言ってたなといろいろ懐かしい感じはしてくる。
特に冷戦時代の中曽根内閣やテロとの戦争の小泉内閣、日本が国際社会でリーダーシップを部分的にも主張するようになった安倍内閣など、それぞれの時点での日本の安全保障に真摯に取り組んだ内閣ほどそう言う評価を受けるのは理不尽だとは思うが、抗議船に高校生をのせて海から米軍基地の工事を妨害するのが平和学習、というような活動をやる人たちだから何が理にあって何が理に合わないのかも混乱しているのだろうなと言う気はする。
高市政権においては台湾有事をめぐる首相発言やトランプ政権との協調強調などがやや「危なく」見えることがあるのだろうとは思うが、台湾有事というのは基本的に中国が国際法を侵害して台湾に侵攻しなければ起こらないことであり、またハマスの軍事行動をきっかけにしたイスラエルによるハマスやヒズボラなどのイランの手足になる武装組織の壊滅という流れがあるからこそトランプがネタニヤフに乗せられたというような過程もあって、いずれにしても是々非々でやっていかなければならないアメリカとの関係をとりあえずは良好に保つこと自体にそんなにマイナスがあるようには思えない。
戦争というものは、キリスト教徒の十字軍であるとかイスラム教のジハードであるとか、「聖なる戦い」あるいはフランス革命戦争のような「正義の戦い」、ないしはプーチンのウクライナ戦争のような「「(プーチンのいう)正しい国際秩序」を回復する戦い」みたいな「正義の戦い」を除けば、基本的にはやりたくないものである。トランプの戦争もそういう傾向はあるが、基本的に「相手を見ていない」というか「悪だから撃つ」みたいな感じであり、そういう戦争は往往にして禍根を残す。イランとイスラエルの戦争などはその典型だが。
しかし基本的に戦争というものは相手があってするものである。日本の軍備強化を批判する人たちは中国や北朝鮮についてはちゃんと調べているとは言えないことが多い。戦争というものは「正義の戦い」を除けば戦力のバランスが崩れた時に起こりやすいものだから、戦力のバランスを崩すのはある意味相手を挑発するようなものである。中国は自国の戦力を大増強することでそのバランスを崩そうとし、日本の平和運動左翼は自国の戦力を大削減することでそのバランスを崩そうとしているわけで、どちらも危険極まりない。
その背景にある思想は憲法九条の戦力不保持原則という時宜に合わない規定への盲目的信仰であるところがやはりこれも「正義の戦い」になってしまっているわけで、「正義はやはり厄介」というのは日本では特にそこに現れているのだなと思う。
少し違う形だが、基本的にトランプの平和戦略もある意味似たような「世界は商売(ディール)でできている」というところがあり、全てはディールによって収められる、と考えているところがあって、世の中には「(他の国やグループには共感を得られない)正義」というものが強い力を持っているという事実を否定しようとする強い意志が感じられるのだが、彼の非現実的なやり方はアメリカのような最強国家の力を持ってしてもディールだけで戦争を終わらせることができないという逆の証明になってしまっているようには思う。
平和教育というものも、危険な珊瑚礁の海で暴走する抗議船に乗せるようなナンセンスなことはやめて、たとえばウクライナの避難民など実際に戦争の惨禍で従来の生活を失ってしまった人たちに話を聞くなど、より現代の生徒に理解しやすい教育を行った方が良いのではないかと思う。
また戦争というのは相手があって起こるものであり、恐ろしいのは正義の暴走である、ということもやはり平和教育では教えるべきことだろうと思う。
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