歴史旅エッセイ 古戦場を歩く 長篠城から設楽ヶ原へ
✴️歴史旅8,9,10を創作大賞向けに編集したものです。
2026年6月3日、台風6号は和歌山南部に上陸、本州の南を東にかけぬけ列島に大雨をもたらした。台風一過とはいかず、前線が残りぐずぐずした空が続き、6月7日に東海地方は梅雨入りした。
6日朝、名鉄知立駅に晴れ男はターコイズブルーの愛車(以下TBという)で待っていた。その日長篠の空から一滴の雨も落なかった。
長篠から設楽ヶ原、決戦の幕が上がった。
1.長篠城 ほーほけきょ長篠城趾史跡記念館
知立は、東海道39番目の宿場、「池鯉鮒」と書いた。TBは東海道の立派な松並木を走り抜ける。「豊田南I/C」から東名高速を東に。新東名に分岐、「新城I/C」を出、一般道を走ること7〜8分。TBは長篠城址駐車場のなぜか奥にすべり込む。ドアをあけるとすぐ上から「ホーホケキョ」。おっ、そうやこの季節。まけじと口笛で「ほーほけきょ」。こどもか、下手すぎや。それでも、「ホッホー ホーホケキョッ」と鳴き返してくれた。なんか幸せ。
ふりかえると、「火縄銃」の看板。なんと奥には「射的」とあるではないか。突然あらわれた店のサイズに比べ大きすぎる看板、アンチョコ過ぎるがここでこんな商売をやろうとはだれも思わない発想、それでほんとに射的屋をやった。まったく自然に浸っている余裕などない。
信長は、長篠の2年前、1573年(天正元年)の8月、取り囲んだ北近江の浅井救援に重い腰を上げた100年の名門朝倉義景を強襲した。中世が濃く残る朝倉はもろかった。逃げる背にさらに追撃をうけ内部からくずれた。たった1週間で名門は崩壊、一乗谷は灰燼に帰した。
すぐ小谷にとって返した信長は、妹のお市を嫁がせた長政を攻め、三代続いた浅井も亡ぼした。
反信長の中心として門徒に一揆を呼びかけ、同時に各地の大名にも檄を飛ばしていた本願寺は、最強の武田信玄を病で失う。さらに信長は翌年、長く苦しめられてきた長島の一向一揆を、三度目の攻撃で鎮圧した。2万を焼き殺す苦い結果をだしたが。
包囲網は崩れ、信長は最大のピンチを脱した。
1575年(天正3年)勝頼に率いられた武田軍は南下を開始、家康の三河に侵攻した。本願寺は武田と連携し信長をゆさぶる。別働隊が足助を陥し、本隊に合流。旧暦5月1日、15,000の大軍で長篠城を囲んだ。新田次郎の小説「武田勝頼」に、長篠城は「境目の城」として登場する。三河・信濃・遠江、徳川・武田・今川の境目。山から谷にそして平野に広がる境目。ここを奪われると、家康は岡崎と浜松の中間点に楔を打たれる。

イラストマップは歴史資料館のパンフレットを一部拡大・追記 信長の頭がきれた

長篠城址史跡保存館→設楽原歴史資料館→うどん屋さん→設楽原決戦場
新城市のパンフレットを拡大・追記
左右に堀らしき窪みと左に土塁が立ち上がる。本丸跡だ。小説に、城の面積は、東西三十五間、南北二十五間(約65m✕46m)とある、敷地はもう少し広い。天正3年3月から武田の来襲に備え増強した北の曲輪群は武田の工兵部隊に攻略され、兵糧庫は奪われ本丸まで迫られた。もう限界だ。梅雨で増水した激流を抜けてでも武田の包囲網を突破し岡崎の家康に火急を知らせねばならない。屈強で泳ぎの上手い鳥居強右衛門に白羽がたつ。激流を泳ぎ切り岡崎に急を知らせ、「援軍近し」の吉報を仲間に伝えようと城にとって返すが包囲した武田軍に捉えられうそを強要される。それでも強右衛門は「もうすぐ援軍が来るぞー」と仲間に叫ぶ。籠城側は沸き立ったが、強右衛門は磔にされた。三河地方では今も彼は英雄だ、晴れ男の教科書にも「天然の要害」の写真が載っていたという。設楽原の戦いの前哨戦だ。
コンクリートの階段を登って、長篠城址史跡保存館に。設楽原の資料館と共通で100円お得な入場券を買う。血染めの陣太鼓や赤や黒の甲冑、強右衛門の有名な磔の絵図、鉄砲や弾も展示されている。
弾は丸い。鉛製、銅製やその合金も見つかっている。設楽原歴史資料館の「鉄砲玉はどこから来たか」のパネルには、「両戦場で30発の玉が発見されたが、使われた玉数からして少ないのは、貴重品で戦いのあと回収された可能性がある。近年の科学的分析で、国内だけでなく中国や東南アジアから持ち込まれたことも判明。市内にある鉱山の成分と一致したものもあった」と。
2.鉛玉からわかったこと 鉛の同位体比からの分析
「戦国日本VSヨーロッパ」集英社新書により詳しい。引用と抜粋をさせて頂く。
2019年の調査で連吾川右岸、武田軍陣地跡地下20cmで金属探知機に反応した織田軍から武田軍に放った玉と思われる鉛の同位体比分析から、タイのソントー鉱山の鉛と判明したとある。
「『・・・南蛮貿易を進めることのできた大名が、より日本の覇権を握るのに近かった可能性がでてくる。外国船が持ち込んでくる鉛に注目していたのは、信長の先見の明があったところだと思います。』
海外の鉱山まで伸びる鉛のネットワークは信長軍に弾丸の安定供給を約束したことだろう。一方で武田軍は鉛の調達に苦しみ、鉄砲を戦力化できなかった。この違いが長篠の戦いの本質だった。
では誰が戦国時代の日本に鉛をもたらしたのか。取材班がイエズス会ローマ文書館で撮影を許された機密報告文書には、ある男の命令によって日本に売られてていたことが記されていた。その男とは四ツ目のカブラル。1572年に岐阜城で信長に謁見したイエズス会日本布教長のフランシスコ・カブラルである。」
「また鉄砲を撃つには、火薬も不可欠だ。火薬は木炭と硫黄と硝石からつくられる。・・・しかし、硝石は日本に天然硝石の鉱床が存在せず中国や東南アジアからの輸入に依存していた。」
「リスボン大学文学部の歴史学者コレイア博士は、・・『・・宣教師たちも自分たちの価値は、戦争物資を流通させることだと自覚していました。・・カブラルが考えたのは、キリスト教への支持と戦での成功という、ふたつの現実をつなげること。信長が戦で成功し続けたければ、キリスト教を支持し続けていけばよいのだ、というわけです。』」
信長は、鉄砲の三大生産地、堺・国友・根来のうち二つをおさえ、その弾薬(鉛と硝石)のサプライチェーンを「キリスト教への支持」と引換にイエズス会と握った。
3.長篠城と鳥居強右衛門
樹齢100年のけやきとモミの木の間をぬけるとぬれた草原が広がる。
北には堀と土塁が(今はコンクリートの史跡保存館も)守り、堀に引いた水が寒狭川に滝になって落下。後ろは崖、宇連川と寒狭川が南で合流する。北が開いてはいるが、いわゆる「天然の要害」。南に広がる山の緑塊に、鳶ヶ巣山砦他、武田の五砦があった。
強右衛門が敵に捕まってうそを強要された「呼びかけの場所」は城の北。 城の南、磔にされた城直下の場所もみえない。
樹を切って見通しをよくし、磔の絵図のボードをたてれば、臨場感が生まれる。現地に行った人だけが味わえる臨場感。設楽原の決戦場の両軍の位置や距離。臨場感は行った者だけの宝。学芸員の方も窓口の方も、うどん屋のお姉さんも、親切で丁寧でした。新城ありがとう。整備の予算をもう少し。

ほぼ真下、城兵から見えるように強右衛門が磔に。
樹が茂りすぎてみえない。

ここで磔にされた。下から城を見上げるがよくみえない。

左から寒狭川、右から宇連川合流して手前の豊川になる。
梅雨末期の増水した急流を強右衛門は泳いだ
4.火縄銃を放つ

「僕は撃ちたいです。」
晴れ男のきっぱりとした宣言に、設楽原の決戦に向かう二人は、「12発200円」に引きずり込まれた。思った通り夜店の射的のようなレイアウト。せっかちそうな親父さんが200円を徴収すると練習用という銃で、ここが火蓋、ここが・・と説明してくれるが、理解する前に次に移っておりあっという間に説明はおわった。
ただのコルクが「ぽんっ」ではない。うちのはグリーンのレーザーポインターで照準をあわせ、真ん中に命中すると的が倒れる。9発まではポインターで、残りの三発は照準の目合わせで、10発命中で表彰状です。寒狭川のようによどみがない。ポインターで8発を斃したが、目合わせで1発目を外した。利目の右は視力低下でよく見えない。2発目はすこし下を、、、命中、最後の一発は、、、予定通りはずれた。
鉄砲足軽達は後頭部に布を垂らした黒い円錐形の陣笠を支給されかぶる。
「はい、スマホかしてぇ」 よどみがない。
実に楽しい価値のある200円だった。親父さんありがとう。
5.設楽原歴史資料館をかけぬける
資料館に入る前に腹ごしらえを。目標のうどん屋の前に、えらいことや、ぎょっ行列ができてる。
待てない二人は営業時間を確かめ、設楽原歴史資料館に先回りする。
TBは坂を上がる。かなりの急斜面。資料館は勝頼が決戦場を見下ろした信玄台地の一角にあり屋上のバルコニーから馬防柵が小さく見える。駐車場におりるとなんとなく賑やかしい、明日が設楽原決戦場まつりだ。
「やばいです、前線がおし上げられ、雨が、、、晴れ男貸しましょか。」
設楽原決戦まつりチラシ 実射をみたかった。😭https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/event/kanko/shitaragahara.files/shitaragaharakessennjoumatsuri.pdf
「30分で切り上げないと店しまりますからね」
「はい、わかりました」
晴れ男に釘を差され、共通券で入場。圧倒的鉄砲コレクション、パンフレットにも日本一とかいてある(幕末のゲベールやスナイドルまで)。実戦で使った戦国期のものは残存が少ないのか、「ほとんどが江戸時代のものです」、と学芸員さん。堺、国友、薩摩。なにっフィリピン? GEMINIにきくと、種子島に伝来したのがマラッカ型、フィリピンやインドネシアでつくられたものもあり、イエズス会は現地で造らせていたのか? ここに並んでいるということは、海外でつくらせた銃が日本で流通していたということか? いったいどんなレベルの銃、どれくらいの数が入ってきていたか。
後半の岩瀬忠震さんは諸般の都合により次回の楽しみと致します。🍜

6.鉄砲は劇的に進化した
上で紹介した「戦国日本VSヨーロッパ」の三章に「戦国日本の軍事革命」とあり、戦国期の火縄銃の進化とその製造に関する興味深い記載がある。原本での読込ををおすすめしますが、要旨だけ短くまとめてみました。
「 」は原文引用。私見は( )表示しました。
技術的には、「マッチロック機構」の発明。
引金をひくと板バネで火縄を火薬にカチンとつける機構。それまでは、火縄を人が手で火薬に押し付け爆発させていたようで、手着火に比べ、着火スピードが速く安定する、人は照準を合わせることだけに集中できる。鉄砲の武器としての性能は格段にあがった。(設楽原で使われた銃は両軍ともこれ。差があったのは、銃の数と使用できる弾薬(玉と火薬)の量だ。)非ヨーロッパ世界で自力で軍事革命を成し遂げたのは日本だけという。
製造技術としては、その銃身。「爆発の圧力に耐える『強度』と弾道を安定させる『精度』」の両方を、刀を鍛えてきた日本の鉄と鍛造技術が実現した。 『強度』について、たたら製鉄で造られた玉鋼は炭素含有量が高く、硬いがもろい。玉のでる銃口や火薬の爆発する尾栓に使用。
それ以外の銃身には軟鉄が使われた。鋼に比べて硬度は低いがねばりがあって限界点をこえても飛び散ってしまうようなもろさはない。
「曲がらずによく切れると評価される日本刀も、鋼で包まれた刀身の芯は、軟鉄でつくられている。この複合素材のアイデアを火縄銃に転用することで、強度を確保しつつ(銃身を)破裂させずに弾を飛ばすことが可能となった。」
さらに非破壊検査で銃身の組織を観察すると、一枚物の鉄板を芯金に巻いて鍛えた構造と螺旋状にリボンのように鉄板を芯金に巻き付けて鍛えた巻構造がみられ、鉄砲鍛冶はこれらを必要に応じ組合せ鍛え粘り強い銃身を作り出した。
堺で大量の古文書が発見され『通』(かよい)とよばれた部品の納品書が見つかった。銃身の鍛冶屋が元請けになり、各パーツを下請けさんに発注し鉄砲を大量に造るシステムを確立していたことがわかった。(それぞれの部品に、図面があり、寸法公差があり、検査体制もできていた? 一丁毎の現物合わせではなくパーツとしてどの銃にも使えたのか。パーツだけの供給交換も可能だったのか。)
『精度』。「銃身の内径を計測した研究では銃尾部・中央部・銃口部の誤差は0.1mmに抑えられていた。」とあり、(芯金が正確にできていれば同軸もある程度確保されていたであろう。)まっすぐ遠くまで強い破壊力で発射でき、
銃の性能と生産量は格段にあがった。
NHKスペシャル「戦国」取材班恐るべし
こんな本もありました。読めてませんが↓
7.やっぱりおすすめのカレーうどんが絶品や

「おすすめはなんでしょう?」
資料館をでて行列のうどん屋に。意外にすっと入れた。
「カレーですねぇ」
晴れ男は「かけ」に天ぷらを。ぼくは冷たいえびおろし。おすすめのカレーこい味バージョンで。取分けの小どんぶりもお願いします。



あかん、また頼みすぎた。一人前が1.5玉、そうすると全部で、えっ、4.5玉か?
午後、馬防柵やら連吾川を腹をつきだし行軍する二人の鉄砲足軽がいた。
二人は前菜の1.5玉のうどんを完食。メインのカレーを取り分けた。名古屋風カレーうどんではなく、きいない(黃色ぃ)そば屋風カレー。スパイスが五感を刺激する。これこれ。やっぱりおすすめや。

なにがpartⅡなんやろ
おなかをゆすっぶって胃にスペースをつくる(昔アルバイトしていた「うどんや」といううどん屋の大将の秘伝)。そしたらまた入る。さぬきの人はまず冷たいのを食べて2杯目にあったかいのを食べる。なるほど、セオリー通りだがまた食べすぎた。
8.決戦場にたつ

グリーンが台地。①のピンクが馬防柵、柵は弾正山台地に沿って立てられています。
白は平坦地で低い、・・ヶ原というほど広くなく連吾川をはさんで最狭部は180m。下にリンク↓
勝頼観戦地から真東4kmが長篠城。地図右枠外です。
資料館で頂いたパンフレットを拡大・追記しました。
資料館に車をおいて坂をおりる。4.5玉のうどんを隙間なく胃に詰めた鉄砲足軽には過酷な斜面だ。坂がゆるやかになって視界が開けると、左に白いペンキのスレート二階建て。古戦場とは縁もゆかりもなさそうな建屋側面に、
『設』 『楽』 『原』 『古』 『戦』 『場』
と看板が貼り付けてある。
たしかにそうやねんけど。このセンスきらいじゃないけど。ははは、はぁ。

右には北から南に細く連吾川が流れ、川をはさんでゆるやかな傾斜。東は勝頼の信玄台地、西は家康の弾正山台地に続いている。谷底のはらっぱといえばいいか。北を上に、砂時計⏳️の形に上と下が広がって真ん中がすぼまっている。数万の兵が行き来できる平原ではない(武田ばかりが動いた?)、狭い、おまけに湿地だ。
橋を渡り馬防柵に向かう、この辺りも狭い。馬防柵からのぞく、連吾川まで、う〜ん、200〜250m?(まったくのあてすっぽう。) 近い、泥田を進めばば射程に入る。当時の火縄銃の有効射程(鎧を撃抜く)は60mという。
東の信玄台地(標高100m)に勝頼、西の弾正山台地(標高100m)に家康、
信長はさらに西の茶臼山(標高150m)に布陣。勝頼の高さから、弾正山台地にじゃまされ信長軍主力部隊は見えなかったのか。
信長も家康も勝頼も設楽ヶ原を上からみた。
眼下の狭隘な設楽原で両軍は血を流した。
下のリンクの3枚目が断面図、実に狭い。谷底のイメージがわきます。↓
両岸の田圃と川面の落差は結構ある。重い甲冑を着た武将をのせて、120〜130cmのポニー級の当時の馬がひとっ飛びできる距離ではない。馬から下りても渡河は大変だ。後で学芸員さんにきいたところ、地元の古老の話では、「田圃の面が、子供の頃は腰の高さくらいだった」という。昭和に入って田圃が整備され高くなったようだ。『武田勝頼』では田圃ではなく草刈場(農家が堆肥をつくるために草をとる草原)として描かれている。段差はもっと低くなるが、いずれにしても、もたもたしていると徳川の鉄砲の餌食だ。
馬防柵の総延長は約2,500m。横一列に広がってもきっとそれほど多くは並べない。柵は3列まで構えられていたというが、後ろにすぐ台地がせまり、奥行きが十分にとれない場所も多い。その場合、高さ方向に第2列、第3列を造って(斜面に奥行きを持った段を造る)兵を配したのだろうか? 武田兵がぬかるみをぬけ弾丸を避け最初の柵を突破したら今度は上から撃たれる。攻める方はつらい、まるで城攻め。攻める側の戦力は守る側の半分にも届かない。3倍の兵が守る城に少数で攻めかかる戦いの構図。
実際に信長はどれだけ正面に兵力を展開させたのだろう。
武田からみえない位置に自分の主力を隠し、正面の戦力は徳川中心で少なめにみせ、勝頼を決戦に誘ったのか。武田も原いっぱいに軍団を展開した。正面から総攻撃をしかけどこかに穴をあけ、防衛ラインを突破、うしろに回り込めれば武田に勝機が生まれる。ただ陣に厚みがない。どこかが綻びた場合、全線に渡って崩れる。

連吾は弾正山台地に沿って流れ、馬防柵も台地の輪郭をなぞる。
連吾川を渡るとすぐ馬防柵、かくれるところもない。

9.信長は決めていた
え 「えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる」
設楽原古戦場のいろはがるた、馬防柵の内側の看板に記されている。
信長は岐阜を発つ前に「いつ」、「どこで」、「どう戦うか」を決めていたに違いない。いや多分もっとずっと前から、
「勝頼は必ず長篠をとりにくる。その時ここに引きずり込んで決着をつける。」 と決めていた、 私には思える。
信長側から設楽ヶ原を決戦場にするメリットは、
長篠から近い。原はせまく、南北約4km、東西は狭いところで200m程度、連吾川が弾正山台地に沿って流れ、川を挟んで対峙した場合、攻めかかるには連吾川と湿地帯を超える必要がある。足をとられ、渡河できても馬防柵がありすぐ鉄砲の射程に入る。動いたほうが負け。
馬防柵とくぼみや土塁で一夜城を築き、『武田の突進力を弱め、受け止め、そこに圧倒的な火力を浴びせ続ける。「武田に【徹底的な消耗戦を強いる】」。火力と兵力で勝るほうが必ず勝つ戦いに引きずり込む。』
短期での大量動員は、兵農分離を進めた信長なら可能か、弱兵でも鉄砲で敵の損耗をしい、弱ったところに圧倒的な兵力を投下する。
丸太を担がせ縄をもたせ行軍。着陣すると、柵をめぐらし、窪みをほり土を盛り、一夜城を築く。梅雨末期の大雨で設楽ヶ原は泥田、騎馬隊が存在したとしても機動力というレベルではなくなる。雨が上がれば鉄砲が100%の能力を発揮する。梅雨明けが遅れても、火縄の綿化や蝋引き、火薬の調合、雨対策は十分した。
信長が主力部隊を山でかくし、正面の戦力は大きく変わらない。寡兵の武田が、3倍の兵を有する城を攻めるという戦いの構図に引き込める。
武田が予定通り布陣し馬防柵めがけて突進くれるのを待つだけ。負けるはずのない戦いになる。


10.なぜ勝頼は3倍の敵に挑んだ
勝頼はどうして信長が準備したとおり布陣して、勝てても甚大な損耗をするだろう「馬防柵めがけて突進する」という戦いをしたのだろう。私には、攻めたほうが負ける戦いにみえてしまう。
信玄没後、武田は今までで最大の版図を得ている。勝頼は凡庸ではない。
長篠城に3,000を残し武田は12,000、34,000(織田軍30,000+徳川軍8,000、 別働隊4,000を引いて34,000)の連合軍。単純計算で2.8倍、約3倍だ。戦国最強軍団と恐れられた武田といっても兵力差は無視できるレベルではない。信長は主力部隊を山で隠したというがそんな大人数を武田の情報網が見逃すとも思えない。
鉄砲は、武田1,000に対し連合軍3,000(諸説あり)、雨が威力を削ぐとしても3倍の火力は圧倒的だ。鉛も火薬もおそらく武田とは桁違いに準備している。馬防柵からはとんでもない数の鉛玉が雨嵐と飛んでくる。信長は、鉄砲も弾薬もイエズス会や堺・国友といったサプライチェーンをおさえている。こんなことも武田の情報部隊はつかんでいたはずだ。
消耗戦は大軍に利する。勝頼には全軍での決戦を避け甲府にかえる選択肢もあったはずだ。
有名な騎馬隊は本当に存在したのか。120cmの日本馬が武装した兵をのせて機動力を発揮できる運用が本当に可能だったのだろうか。武田軍の騎馬兵率は北条や上杉のそれより低いともいう。弾除けをもった足軽、槍・刀の足軽、鉄砲足軽、騎馬の将の混成部隊がじりじりと柵に近づく姿が私にはみえる。
武田軍は中世を引きずっていた。「一所懸命」。自分の所領に命をかけ、それを守り増やしてくれるリーダーに従う。それができないリーダーならのりかえる、それが中世の武士集団だ。
信玄時代からの宿老も多く、若い勝頼一人の裁量ですべてを決められない。「早く実績を上げて武田の真の棟梁になる」ということ、「ここで信長を叩いておかないともっと差をつけられる」という焦りが彼に無理をさせたのか?
一方信長はワンマン社長だ。作戦の立案も決定も全部一人でできる。古参と新参の将が競い合い命令一つでどこにでも行く。経済の実利を合理的に追う現代の会社組織に近いかもしれない。司馬さんは管理社会といっている。
決戦前日、勝頼は甲府の家臣に「信長と家康が逼迫している」(連合軍が攻めあぐねている)と書状を送っている。この見方はどこからきた? 馬防柵をえんえん廻すことが連合軍の弱気の象徴にみえたか、それとも信長の別のフェイクが巧みだったか? 左翼に展開する家康軍の「びびり」の演技が絶妙だったか。(なにせ家康は三方ヶ原で信玄に完敗、逃げ帰る馬上で脱糞し命からがら逃げた。武田軍には完勝の記憶だ。)
小説「武田勝頼」の新田次郎さんも考えあぐねられたのではないか。信長軍左翼の「佐久間信盛」が武田側に内通し寝返る、という数次にわたる偽情報にだまされ正面対決を主張した宿老に押し切られた、としている。
武田軍の中に、信長に内通し勝頼をこの戦いに引きずり込んだ将がいた可能性はないか。ここからは小説の世界だ。
天正3年5月21日(梅雨明けの頃)早朝、豪雨の夜を徹し山中を突破した酒井の別働隊4,000人が、長篠城を包囲していた武田の鳶ヶ巣山砦に向け一斉に鉄砲を響かせた。
退路が断たれる。
武田軍の進めの陣太鼓はこれだったのかもしれない。
山県の赤備えが崩れ次々に歴戦の将が討たれた。馬場信春が殿をつとめた。勝頼の退却を見届け討たれた。寒狭川を超えた長篠城の西に墓がある。
勝頼はなぜ3倍の敵に決戦を挑んだのか。それがわからない。
・それでも歴史は、、、
鉄砲足軽二人は馬防柵をなで、田の水面をながめ、駐車場のターコイズブルーに向かって行軍を開始した。
「そういえば子供の少年野球の監督が『歴史なんかくそのの役にもたたん』といっとったなぁ。『歴史なんか一銭にもならん』、嫁もそういうとった。」
「それでも、歴史はおもしろいですよ。」
足軽達の足取りは意外にも軽かった。
