TAKANAKAの音を支えたキーボード──小林泉美という天才
記憶の針を落とす Vol.43
音楽は、ときどき、忘れていた時間を連れてくる。
今日もひとつの音に、記憶の針を落としてみる。
YouTubeに、高中正義のロンドン公演の映像が流れてきた。
会場には、真っ赤なスーツに黒い蝶ネクタイという、かつての高中を思わせるコスチュームの若者たちがいて、カメラを向けられると嬉しそうにインタビューに答えている。

高中正義、72歳。サディスティック・ミカ・バンドでステージに立って以来、51年ぶりのロンドン公演だったという。
70年代のバンド少年にとって、サディスティック・ミカ・バンド、そしてサディスティックスのメンバーは憧れの存在だった。
その映像を見終えると、YouTubeは昔の高中のライブ映像を次々と勧めてきた。『BLUE LAGOON』の頃、『T-WAVE』の頃、そして『虹伝説』。
懐かしくて何本か見てしまう。
そして、いつの間にか高中のギターではなく、その後ろで鍵盤を弾いている女性から目を離せなくなった。今まで気にしたこともなかった高中のキーボード。

小柄な身体を弾ませ、踊るようにキーボードを弾いている。
そして、その音は単なるサポートではなく、高中サウンドの中核にいるようにさえ感じた。
気になって検索してみる。
小林泉美(こばやし いずみ)という人が出てきた。
当時は「ミミちゃん」と呼ばれていたそうだ。
今回は高中正義ではなく、その音を支えていた一人のキーボード奏者について書いてみたい。
高中の隣にいた「ミミちゃん」
高中正義のアルバム『JOLLY JIVE』が発売されたのは1979年。
翌年、このアルバムの1曲目に置かれた「BLUE LAGOON」がパイオニアのTVCMに採用され、高中の名前は一気に広がっていった。
当時バンド少年だった私たちの間でも、当然、話題に上る。
誰かが練習しているスタジオを覗くと、いつも誰かがブルーラグーンのフレーズを少し得意げに弾いていた。

小林泉美は、このアルバムの中で3曲のレコーディングにキーボード奏者として参加し、その後はツアーバンドにも加わる。
1981年、日本武道館で行われた『虹伝説 THE RAINBOW GOBLINS』のステージにも、石川清澄と並んでキーボード奏者として立っている。
私がYouTubeで見たのも、この時の映像だった。
高中のギターに耳が向くのは当然だ。
今回、改めて聴いてみると、その後ろではシンセサイザーやエレクトリック・ピアノがかなり重要な役割を果たしている。若い頃は、ギターやベース、ドラム、パーカッションといった、前に出てくる音にばかり耳が向いていたようだ。
高中の音楽には、海の上を風が抜けていくような独特の開放感がある。
その空気の正体。
そこに、キーボードの音があった。
ギターを支える伴奏になり、時にはギターに代わってメロディを受け持つ。そして、サウンド全体の色までつくっている。
小林泉美の鍵盤は、思っていた以上に大きな役割を担っていた。
高中の1980年のアルバム『T-WAVE』には、小林泉美が作曲した曲も収録されている。彼女は、演奏で高中サウンドを支えていただけではなかった。
最初は、なにげなく検索しただけだったが、調べるほどに、この人の経歴は高中だけでは終わらない。むしろ、その先を追っていくほど興味がわいてきた。
日本にはまだまだ私の知らない才能がいた。

米軍キャンプで覚えたリズム
小林泉美は1957年生まれ。幼い頃からピアノを学んでいたというところまでは、音楽家としてそれほど珍しい経歴ではない。しかし、彼女は10代になると米軍キャンプで演奏を始める。
そこで出会ったのは、学校で習う音楽とはまったく違う世界だった。
譜面をきちんと読めなくても、とんでもなく格好いい演奏をする人がいる。小林は後年、この時期の経験を通して、「グルーヴを自然に身につけていった」と振り返っている。
1970年代のアメリカでは、アース・ウインド&ファイヤー 、オハイヨ・プレイヤーズ、コモドアーズなど、ファンクやソウルが勢いを増していた。
米兵たちからのリクエストに応じていくうち、小林の音楽の底に、そうしたリズムが染み込んでいく。
演奏技術だけでは説明できない独特の跳ね方が彼女の鍵盤にはあり、それが高中の音楽と相性がよかったのだろう。
1976年、小林は「ASOCA」というバンドで、ヤマハのアマチュア・コンテスト「EAST WEST」に出場する。後にサザンやカシオペアを輩出するコンテストの第一回大会でグランプリを獲得した。
この時のメンバーには、後に日本の音楽界を支えることになる、渡嘉敷祐一(ドラム)や土方隆行(ギター)もいた。
そして、このコンテストの審査員の一人に高中正義がいた。
Flying Mimi Band

その後、ASOCAを母体として、「小林泉美&Flying Mimi Band」となる。
1978年に『ORANGE SKY -Endless Summer-』を発表し、続いて『Sea Flight』をリリースした。当時まだ21歳の小林による、セルフプロデュース作品だ。
メンバーを見ると、アマチュア時代からの渡嘉敷祐一、土方隆行、そして、清水靖晃といった名前が並ぶ。その後の彼らの活躍を知る今から見ると、若手のバンドというより、すでにオールスターのような顔ぶれだった。
Flying Mimi Bandの音を聴いてみると、高中正義の音楽とかなり近いものを感じる。ファンクやラテンのリズムがあり、明るく開放的で、どこか南の空気を感じさせる。
この演奏に高中のギターをのせたら、そのまま高中のアルバムに入っていても不思議ではない。
それほど、高中の音とFlying Mimi Bandには共通する空気がある。小林が高中のバックに入ったのも、単に腕を買われたからだけではないはずだ。もともと二人が向いていた音楽の方向が、かなり近かったのだろう。
ただ、Flying Mimi Bandのほうが、高中よりもファンク色は強い。
この頃から、小林泉美は一般的なジャンルの枠では括りにくい存在だった。
彼女はその後、高中だけでなく、PARACHUTE、松任谷由実、井上陽水などのバックでも演奏するようになる。
つまり小林泉美は、10代のうちからプロの現場に入り、20代前半には日本の第一線のミュージシャンたちから次々と声をかけられるキーボード奏者になっていた。
23歳で作った『Coconuts High』
1981年、小林泉美は初のソロアルバム『Coconuts High』を発表する。
このアルバムを聴くと、高中のバックで弾いていたキーボーディストのソロ作品という先入観とは、かなり違う音が出てくる。
1曲目は、高中正義の『T-WAVE』に提供した「PALM STREET」を、自ら「PALM ST.」として再演したものだ。
2曲目以降になると、ファンク、ラテン、ジャズが入り交じり、インストゥルメンタルだけでなく、自ら歌う曲もある。何よりも音楽の自由さを感じる。
「こういう音楽を作れば売れる」という方向から逆算しているのではなく、自分が面白いと思ったものを、そのまま一枚のアルバムに詰め込んだようだ。
翌1982年の『夏・Natsu・夏』では、また音が変わる。
前作のファンキーな路線から離れ、レゲエとラテン、ニューウェーブが混ざり始めた。

そして1983年の『TROPICANA』になると電子音の比重が増していく。
わずか数年で、ファンクからラテンへ、そしてニューウェーブへ。
小林泉美の音は、立ち止まることなく変わっていった。
ここまで聴いて、私はますます分からなくなった。この人はいったい何者なのだろう。
これほど短い期間に、自分の音を次々と変えていったアーティストを考えると、私はビートルズくらいしか思い浮かばない。
普通なら、前作が評価されれば「次も同じようなものを」と求められそうだが、小林泉美の作品を順番に聴いていると、そもそも、そうした発想自体をもっていなかったのではないかと思える。
面白い音を見つければ、そちらへ行ってしまう。そういう人なのだろう。
10分でできた「ラムのラブソング」
そんな小林泉美を取り巻く状況が変わるきっかけになった曲があった。
『うる星やつら』の主題歌「ラムのラブソング」。
歌っているのは松谷祐子だが、作曲したのは小林泉美だ。
私は今回調べるまで、それを知らなかった。
しかも本人によれば、この曲を書くのにかかった時間は10分ほどだったという。もともと『少年サンデー』で原作を読んでいて、作品のイメージがすでに頭の中にあったため、ほとんど迷わず書けたと後に語っている。
改めて聴くと、メロディーのいくつかのフレーズが妙に耳に残る。
「あんまりソワソワしないで」から始まるメロディーは、当時の普通の歌謡曲とはかなり違う。拍の頭へ素直に乗るのではなく、細かくシンコペーションしながら進んでいく。
小林自身も、当時はその細かな16ビートについて指摘されたと話している。
10代で米軍キャンプに入り、ファンクのリズムを身体で覚え、高中正義のバックで鍵盤を弾いた人が書いたアニメ主題歌。
あの妙に跳ねるメロディーには、必然とも言える背景があった。
「ラムのラブソング」は大ヒットし、小林泉美はその後も『うる星やつら』をはじめ、多くのアニメ音楽の仕事が舞い込むようになる。
作曲家として仕事があり、スタジオミュージシャンとしても求められ、自分のアルバムまで作ることができる。
ところが小林泉美は、その場所を自分から離れてしまう。
仕事があるのに、日本を出た
1985年、小林泉美はイギリスへ渡る。日本で仕事がなくなったからではなく、むしろ次々と仕事が入っていた時期だった。
本人は後年、当時の日本の音楽業界について、バブルへ向かう中で制作予算が増え、作品を作れば利益が出るため、音楽が大量に作られるようになっていたと振り返っている。
「コマーシャルの仕事がものすごく多くて、
(お金はすごくあったんですけど)スタジオ代のために
とにかく早く早く作る粗製乱造になっていた。
『音楽をちゃんとやりたかった』んです。」
最初は半年ほど滞在するつもりだったそうだ。ところが、その半年が、その後30年以上にわたるロンドン生活へとつながっていく。
ここから、小林泉美はもっと予想外の方向へ進む。
高中正義のバックで鍵盤を弾き、「ラムのラブソング」を書くところまでは、日本の音楽史の中でも何となくつながって見える。
ところがロンドンへ渡った小林は、今度はヨーロッパのニューウェーブや実験音楽の世界へ入っていった。

1989年に発表した4枚目のソロアルバム『iK.i』をプロデュースしたのは、ドイツの音楽家ホルガー・ヒラー。この作品は、それまでの音楽とはまるで違う、かなり前衛的な内容になっている。
前作『Coconuts High』から8年。同じ人が作ったとはとても思えない。
しかし、改めて作品を発表順に追ってみると、不思議と大きな断絶は感じられない。
ファンクからラテンへ、ラテンからニューウェーブへ。
そして、生のリズムへの興味は電子音へ。
その時々で自分が面白いと思った音を追いかけているうちに、いつの間にかロンドンまで来てしまった。
アルバムの音を追っていくだけで、そんな流れを思わせる。
さらに、90年代のクラブへ
小林泉美は、ロンドンで音楽活動を続ける一方、1990年代になるとクラブミュージックの世界にも深く関わるようになる。
R&S、Warp、Ninja Tune、Mo' Wax。
90年代にテクノやエレクトロニカを聴いていた人なら、一度は目にしたことがある名前だと思う。小林は、そうしたヨーロッパの新しい音楽と日本をつなぐ仕事をするようになった。
Ken IshiiやDJ KRUSHなど、日本のアーティストが海外へ出ていった時代とも重なっている。
「イギリスのいいところは、個性を大事にすること。
技術的にヘタでも、オンリーワンだったらいい。
イギリスに行って本当に良かったと思うのは
『味がないとダメなんだ』ということ」
気がつけば、小林泉美は90年代のテクノやクラブミュージックの現場にいた。こんな道を歩いたミュージシャンを、私はほかに知らない。
39年後、再び高中の隣へ
やがて時代が一周する。
2010年代になると、日本の1970年代から80年代に作られた音楽が、海外で再発見され始めた。
いわゆる「シティポップ」のブームだ。
山下達郎、大貫妙子、竹内まりやといった名前だけでなく、当時はジャンルの境界にいて、どこへ分類していいのか分からなかった作品まで、海外の若いリスナーが掘り起こすようになった。
その中に、小林泉美の音楽もあった。
2021年にはFlying Mimi Bandの2作品とソロ4作品、合わせて6作品が一斉にリマスター再発され、かつての作品が改めて聴かれるようになった。
そして、その少し前の2020年12月。
小林泉美は、高中正義の中野サンプラザ公演にゲストとして登場した。
高中のステージで演奏するのは、1981年の「POWER PLAY '81」以来、39年ぶりだった。
ロンドンへ渡り、実験音楽やクラブミュージックの現場にまで入っていった人が、39年を経て、また高中の隣でキーボードを弾く。
その光景を誰が想像できただろうか。
「シティポップ」では収まりきらない
いま「小林泉美」を検索すると、「シティポップ」という言葉と一緒に出てくる。『Coconuts High』やFlying Mimi Bandの作品を現在の耳で聴けば、そう呼びたくなるだろう。
ただ、彼女のたどってきた人生を追ってみると、その言葉だけでは括れない。
ファンク、ラテン、フュージョン、ニューウェーブ、アニメ音楽、実験音楽、そしてテクノ。
小林泉美は、そのどこか一つに長く留まっていなかった。
むしろ、それらを全部通り抜けてきた。だから当時よりも、ジャンルの境界が薄くなった今のほうが、この人の魅力は伝わりやすいと思う。
YouTubeで高中正義の古い映像を見ていて、私はたまたま、その後ろで楽しそうにキーボードを弾く女性が気になった。
「ミミちゃん」と呼ばれていた、その人を少し調べてみただけだった。
一本のレコードの溝を追っていたはずなのに、気がつけば40年分の音楽を旅してしまった。
小林泉美という音楽家は、天才と呼ぶべき人だと思う。
彼女自身に大きく光が当たったわけではないが、いくつもの時代とジャンルに確実に足跡を残した。
おそらく本人は、何かを残そうとして歩いてきたわけではない。
ただ、面白い音を見つけるたびに、迷わず次の場所へ向かっていっただけなのだろう。
音は変わらない。
変わっていくのは、それを聴く自分のほうだ。
だからまた、記憶の針を落とす。
1980年前後、小林泉美が参加していた頃の高中正義を聴くとき、今度は少しだけ、ギターの後ろにある鍵盤にも耳を傾けて欲しい。
小林泉美も参加した伝説の81年武道館ライブアルバム。
小林泉美&Flying Mimi Bandのファーストアルバム
小林泉美の初のソロアルバム
イギリスに渡った小林泉美が発表したアルバムは、あまりにも変化していた
高中正義を一躍有名にした一枚。
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同じ頃、日本で広がっていたフュージョンについては、Native Son『Coast To Coast』の記事でも書いています。
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