見出し画像

遠回りした私の、里帰り的韓国田舎旅

「半分韓国の血をひきながら、日本の学校で歴史の授業を受けるのってどんな気持ち?」
と韓国の農家さんに聞かれたことがある。

どんな気持ちも何もただの授業だよ?と思い返事に困っていると、「居心地悪くないのかと思って」と笑顔で言われ、この話は終わった。

居心地悪かったことなんてない。
だって、子供の時は自分は普通に純粋な日本人だと思っていたから。
「お前にはウリナラの血が流れていることを忘れるな」みたいなパッチギ的なことを言う大人もいなかったし、自分から疑問に思うこともなかった。

だけど、後から考えれば、至る所によその家との違いが散らばっていた。
一番の違いは食べ物と、祖母の家の匂いだ。

母のご飯には、私と父にはない赤い辛そうなものがいつも置かれていた。
他の料理は綺麗に器に盛り付けられているのに、そういう母だけの不思議な料理はグシャグシャっとアルミホイルから開けられたまま置かれていたりした。

親戚で集まると、私を含め他の子供達もキムチを水に浸して食べていたし、お正月に祖母の家へ行くとお雑煮は韓国のトックッだった。
小さい時に「トックッより(日本の)お餅の方が好きー!」と無邪気に祖母と母の前で言ったことを今でも良く覚えている。
「そうなのー?」と2人は笑っていたけど、本当はどういう顔をしていたんだろう。

90年代。
初めて母と訪れた韓国。
金浦空港の匂いが、祖母の家とアメ横の匂いと同じだと思った。
スルメイカみたいな香辛料みたいなニンニクみたいな高麗人参みたいな匂い。

中学生になると、さすがに気づいた。
祖母も母も大阪のおばちゃん達もみんな日本人じゃないと。
気づいてたけど、触れてはいけない気がして聞けなかった。
何となく、完全なる日本人として暮らすことで母は私を守ろうとしている様な気がしていた。
だから、安易に気づいていることを口に出すのは、母の努力を無駄にしてしまう気がして黙っていた。
大人になってから聞いた話だけど、母と祖母はいつか私に家の事を聞かれたら教えようと思っていたけど、聞かれるまではあえて自分たちからは話さないと決めていたんだそう。
韓流ブームのずっと前。
まだまだ気を使うことが多かった。
思春期になり、そろそろかなと思っても私は一向に聞いてこない。
高校生になっても聞いてこない。
さすがに母は「うちの子まだ気が付かないなんて、アホなんだろうか」と心配になったんだそう。
失礼な。
アホじゃない。気を使っていたんだぞ。

高校を卒業してアメリカへ留学した。
最初はサンフランシスコ。
初日のオリエンテーションで、目の前に座っていた在日韓国人のお姉さんと仲良くなった。
お互いの実家がたまたま隣の駅だったのだ。
彼女の繋がりで韓国人の留学生達とも仲良くなり、一緒に過ごす事が多くなっていた。
英単語より韓国語の単語を覚える日々。

面倒見のいいオッパ、オンニ達。
寮のご飯に飽きると、部屋でホットプレートを広げてキムチポックンパ(キムチ炒飯)を作ってくれた。
肉も野菜も入らない、卵とキムチと韓国海苔だけだったけど、この味が私のキムチポックンパの原点になっていて、未だに具材をあまり入れずに作ってしまう。

ある時は、どこで手に入れたのかパッシルトッを食べさせてくれた。
パッシルトッは甘くない小豆のお餅で、祭祀の時に並べられたりする。
母はパッシルトッが好きで、子供の時に法事で食べられるのが嬉しかったと言う話をしていた。

サンフランシスコからロサンゼルスに移った後も、近所に住む韓国人夫婦と仲良くなった。
ある日、散歩の途中にふらっと家を訪ねると、嫌な顔せず「ご飯食べていけ」と言って家に招いてくれた。

沢山並ぶおかずの中に、えごまの葉のチャンアチ(醤油漬け)があった。
母のクシャクシャのアルミホイルによく乗っていたやつだ。
一枚取って、熱々の白米を巻いて食べると、もっと食べたいと一気に食欲が増す美味しさだ。

小さい時に日本のお雑煮の方が好き、と言っていたのに、真夏のロサンゼルスで突然猛烈にトックッが食べたくなって、母に電話をしながら初めて自分で作った。
お正月でも何でもないただの暑い夏の日。
生まれて初めて自分で韓国料理を作った日になった。

アメリカと言う外の世界へ出て、思いを募らせるのは日本ではなく韓国だった。
そして同時にコンプレックスも芽生えてきた。
片方の親は日本で、片方は国を持たない在日韓国人だ。
ハーフの定義が二カ国間の親の間に生まれた子供なら、私は日本とどこの国のハーフなのだろうか。
言葉も日本語しか分からないし、訪ねる親戚も韓国にはいない。
そう、私は中途半端なハーフなのだ。

最初の違和感は会話だった。
自分も半分は韓国人の血を引いているのに、韓国人と英語で話す事がずっと気になっていた。

日本に帰国し、しばらくして、韓国語の学校に通い始めた。
象形文字に見えていたハングル文字が、一つまた一つと読める様になる過程は、新しい世界を吸収して脳みそが喜んでいるようだった。
駅やトイレの看板の、英語の下に小さく書かれている韓国語の文章が目に入ると、意味は分からなくても無意識に文字を追いながら声を出さずに小さく口を動かしていた。

その後、紆余曲折を経て韓国料理の道に進んだ。
もう30歳を過ぎていたし、限られた時間で沢山の事を学ぼうと、お店の掛け持ちなどもして働いていた。
働いていたお店のひとつは、韓国料理屋と農業を一緒にやっていた。
ある日、そこが突然WWOOF(ウーフ)ジャパンのホストになった。
様々な目的や理由と共に、異なる国々から集まってくる人達との交流は、刺激的でいて羨ましくもあった。
店が忙しくなり、業務が増え、家と職場の往復の生活の中で、半年に一度の韓国出張だけがほぼ唯一の楽しみだった。
食材を買いに市場へ出かけ、タイミングが合えば気になる先生の教室で料理を習ったりもした。
先に韓国語の勉強をしておいて良かった。

いつもはソウルの京東(キョンドン)市場で買い出しをしていたけど、もっと生産者に近いところに買いに行きたいと思い、長距離バスで江華島の市場へ行ってみた。
ちょうど五日市の立つ日で、ほんわかとした雰囲気の中に活気があり、市場の2階で食べる、なんて事ないアサリのカルグクスも江華島産ヨモギをふんだんに使ったススブクミ(高黍の餅)も何だか特別美味しく感じた。
もっと韓国の田舎に行きたい。もっと生産者の近くに行きたい。
働き出して2年半。
初めての有給を1週間取り、韓国の農家さんの元でWWOOFをしに行く事にした。

訪れた場所は慶尚北道・青松(チョンソン)。
農業と食堂の経営をしているご夫婦。
秋だったので唐辛子の作業が多かったけど、時々駆り出される食堂の手伝いも、韓国の飲食店の仕事が経験できて楽しかった。
唐辛子の葉の新芽を摘み、ごま油と塩だけで和えたムッチムを食堂のおかずに出していて、美味しさに感動し日本に帰って来て早速作ってみた。

初めての韓国田舎旅は、それはそれは楽しかった。
チョンソンのマ・ドンソクの乱入があったり、怪しいタバン(喫茶店)に行って無言で甘いコーヒーを啜ったり、農楽の練習をしているグループに遭遇しみんなで一緒に踊ったり。
早起きして山に入り松茸狩りもした。
生の松茸を手で割きながら、ごま油と塩につけて食べるだなんて贅沢な事も経験してしまった。

夢のように楽しい日々だった。
これで終わりたくないと思った。
1年頑張って働いて、翌年もまた有給を取り韓国の農家さんの元でお世話になった。
場所は江原道・寧越(ヨンウォル)の人里離れた山の中。
広大な土地を自分達で開拓し、とんでもなく可愛くオシャレなセルフビルドの家を建てて暮らしている。
五味子(オミジャ)の収穫をしシロップを作り、貴重な天然の松の実拾いもした。
松脂と格闘しながら天日で干し、これは高くて当たり前だと松の実の価値を知ることが出来た。
料理の上手な農家さんで、江原道名物のカムジャジョン(じゃがいものチヂミ)やコンドゥレと言う山菜のご飯もここで初めて食べた。
チュソク(旧暦の盆)の頃だったので、一緒にソンピョンも作った。
ソンピョンは半月型のお餅で、チュソクの時には欠かせない。
どれも、今も作り続けている料理だ。

知れば知るほどむしろ満たされず、私はとうとう仕事を辞めてしまった。
韓国の田舎をもっと回りたいと思った。
けど、何もかもを捨てて行く勇気は私にはなかった。
片道チケットを買って、現地で出会った人と結婚でもしていたら、もっとドラマチックな旅の話になっていただろう。
しかし小心者の私はアパートを解約せず、再びこの部屋に帰って来る往復チケットを予約して、1ヶ月と1週間という何とも中途半端な期間の旅に出た。

季節は春と夏の間。ちょうど気持ちの良い時。
まず江原道・鉄原(チョルウォン)の農家さんに日帰りで会いに行った。
WWOOFではなくインスタで見つけて気になり、直接メッセージを送ってみたら快く迎えてくれた。
ズラッと並ぶハンアリ(瓶)で漬けるカンジャン(醤油)、テンジャン(味噌)の見学をさせてもらいながら、採れたての野菜と自家製キムチ、豆ご飯に舌鼓を打った。
北朝鮮との国境近くで開催されているDMZマーケットにも行き、その後も付き合いが続く地元の農家さんともここで出会った。

京畿道・漣川(ヨンチョン)は野草農家さん。
広大な敷地に生息している沢山の野草達。
トンナムル(ツルマンネングサ)の水キムチ、スッケトック(よもぎ餅)、にんにくの芽のチャンアチ、カンテンジャン、玉ねぎの酵素シロップ、全て今でも作っているものだが、元々はここで教えてもらった。
親と同年代の農家さんご夫婦。
朝鮮戦争を子供の時に経験し、食料が乏しかったため野草の知識が身についたんだそう。
子供の時に食べられなかった反動だそうで、家の中には常に大箱のチョコパイが常備されていて、食後に必ず「食うか?」って聞いてくる。

京畿道・楊平(ヤンピョン)は同年代の自然農を営む農家さん。
自然農の田植え合宿やマッコリ作りも大きな学びになったけど、何よりも益田ミリさんの漫画について夜遅くまで語り明かしたり、夜な夜なWu-Tang Clanをかけて盛り上がったり、毎日のそういう時間が楽しくて新しい友達が出来たように嬉しかった。
2人は、農業を始める前に8ヶ月間ヨーロッパを旅し、色々な農家さんを回った経験を本にし出版していた。
韓国語の勉強も兼ねて、残りの旅のお供に私も一冊買った。

全羅南道・新安郡イムジャ島の塩田は、念願叶って訪れた場所。
ソウルから高速バスで木浦まで行き、フェリー乗り場へ行くバスに乗り換える。
キンパを食べながら1時間半程バスに揺られ、今度はフェリーに乗りやっとイムジャ島到着。
塩田で収穫した塩は8年間麻の袋の中でジッと眠らされる。
8年前の塩を開け、まずは人力で虫などの異物を除去する。
チョッカル(あみえびの塩辛)の製造も行っていて、週に一度船を出し、獲れたてのあみえびを船上で塩漬けしてしまう。
こちらは3年寝かす。
こちらもまずは人力で異物を除去するのだが、タツの落とし子とか可愛いのもいれば、海のエイリアンみたいな謎の生物もいて面白かった。
塩の作業は男性達、チョッカルの作業は女性達の仕事。
仕事終わりはあまりすることがないので、自転車で気持ち良さそうなスポットを探し楊平の農家さんの本を読んで過ごした。
波の音しか聞こえないような静かな空気の中で本を読みながら、私もいつか旅の本を書きたいな、と思った。

イムジャ島でのWWOOFが終わった後、真っ直ぐソウルに戻らず木浦に2泊した。
全羅南道は祖父母の故郷。
木浦は祖父の生まれ育った場所だ。
祖父は若くして亡くなっているので会ったことがない。
祖父の出生地は分かっているので、役場などに行って親戚を探したりできるんだろうか…なんて事も一瞬頭をよぎったけど、まずは初めて訪れる木浦を思い切り楽しむ事にした。
坂が多い港街。日帝時代の建物が多く残る旧市街。
祖父は何を思いながら、ここから日本に向かって旅立ったのか。

この年の9月にも再び韓国を訪れた。
滞在期間は長くなかったけど、ヨンウォルの農家さんとDMZマーケットで出会った鉄原の農家さんを訪ねた。
友人の紹介でソウル付岩洞にあるお寺で尼さんから料理を教えてもらい、韓国精進料理の面白さを知った。
当たり前の様に、この先もずっとずっとこんな風に韓国と行ったり来たり出来るものだと信じていた。

年が明けて2020年2月。
味噌と醤油の仕込みをするため鉄原へ向かった。
1ヶ月前に航空券を予約してから、日々繰り返されるニュースに世界中がどんどんと不安になっていった頃。
出発日。成田空港はガラガラだった。
こんなにも人がいない空港は初めてだった。

帰国してすぐに大邱でロックダウンが始まった。
私は、韓国に行けなくなってしまった。

世界が混沌とし始めすぐに出会ったパートナーと、東京から現在暮らしている地に移住し、小さな事業を始め、妊娠、結婚、出産と怒涛の勢いでライフステージが変わって行った。
事業は発酵調味料や韓国惣菜の製造、ワークショップなどをしている。
韓国には行けなくなってしまったが、韓国で教わった発酵や料理の知識は、小さな仕事用のスタジオと自宅のキッチンで変わらず息づいていた。

パンデミックが明け、人々が再び海を越えて往来するようになっていた。
SNSを通じ、以前の様に韓国へ行く人々の様子を見ながら、羨ましくて悶々とする日々。
私の中の韓国へ行きたい気持ちが、沸々と再燃し始めていた。
息子が生後10ヶ月を迎えた、暑くもなく寒くもない秋の日。
3年8ヶ月の時を経て、再び韓国の地に向かった。
今度は夫と息子を連れて。

8日間の滞在の間に鉄原、楊平、寧越の農家さん達を訪れた。
ずっと1人で訪れていた地に息子がいる不思議。
ベビーカーを押しながらの田舎巡りは、エレベーター探しの旅でもあり、1人の時とは勝手が違い大変なことも多かったけど、韓国に親族のいない私にとって家族を連れての農家さん達との再会は里帰りの様な嬉しさがあった。

家族で韓国に行っていた間、近所の人に家の猫たちのお世話をお願いしていた。
お礼のお土産を渡しに行き韓国での写真を見せていると、しきりに「これは親戚のお家?」「この人は親戚のおばさん?」
と聞いてきた。
「もう韓国には親戚はいないんです。」
と返しながら、改めてよくよく写真を見てみる。
息子を囲み目を細めているみんなの顔の緩みっぷり。
「寒いだろう」と息子の足に靴下を履かせてくれる、しわの刻まれた温かい手。
ヨンウォルの農家さんは自分のブログに「日本から孫がやってきた!(笑)」と書いていたぐらい。

韓国にも息子の誕生を喜んでくれる人がこんなにいると言うことが、血のつながりよりも嬉しい事だ。

中途半端なハーフだと自分のアイデンティティに悩み、韓国との接点を模索していた日々。
韓国料理と出会い、食を通じ文化を知り、歴史を学び、人と出会い続け、すっぽりと空になっていた自分の中の「韓国パーツ」にトポトポと液体が満たされている様。

2025年。
5年ぶりに1人で韓国を訪れた。
醤(ジャン)の授業を受けるためだ。
3月、5月、11月の計3回の渡韓。
韓国は小さい国だけど、まだまだ知らない人が沢山いる。
まだまだ行ったことがない場所が沢山ある。
まだまだ食べたことのない料理が沢山ある。

次はいつ行くのか分からない。どんな出会いが待っているかも分からない。
私はまだまだ旅の途中だ。


いいなと思ったら応援しよう!

阿部こずえ 最後まで読んで下さりありがとうございます! よろしければサポートして頂けるととても嬉しいです☺︎ 今後の活動費(交通費、材料費)として使わせて頂きます。

この記事が参加している募集