昔のガーナの話 その(6)1985年1月
1985/01/16
久しぶりにトーゴとの国境沿いの山々が見えた。ハマタンも昨日の雨で峠を越したのだろうか?しかし、すでに今日の空気は乾燥している。
1985/01/18
授業が終わり、Volta Regionの州都Hoで教師をしている佐藤さんに会いに行くことにした。Kpandoの街のLorry park(公共交通手段のいろんな種類の車が屯している場所)へ行く。いつもなら、Ho行きのLorry(英語、米語ではトラックという)は、頻繁にあるのだが、今日はKpeveのマーケットデーのためKpeveまでしか行かないとのこと。
(Kpando, Ho, Kpeveの位置関係は、サムネ写真の地図参照)
3時間Lorry parkでHo行の車を待った挙句、しょうがなく、アイスクリーム輸送車みたいな箱のついた車に囚人のように乗って出発。2時間かけ夜の7時30分過ぎにHoに到着。街頭などはなく、暗闇を4km程歩き、何とか学校 (Mawuli Secondary)を探し当て、ガーナに来て初めて日本人を訪問をする。Volta regionには、私のほかには佐藤さんしかない。
Ghanaは治安が良いので無事だったが、他の国では夜道の一人歩きは、お勧めしない。
Hoの佐藤さんは、首都アクラへ出かけて留守だった。(当時は)電話も無く、郵便はいつ届くか宛にならず、事前の連絡は取りようも無く、こんな事でめげてはガーナでは、生きていけない。
しかし、Kpandoに帰るLorryはすでに無く、途方に暮れた私を見かねてか、親切な佐藤さんのガーナ人同僚に案内されて、Mawuli Secで教えているカナダ人スコット夫妻(CUSOから派遣されたボランティア)の家に泊めてもらうことになった。
彼らの悩みはアメリカ人と間違われることだそうだ。(笑) 話からするとかなりのストレスのようだ。カナダのCUSOよりアメリカのPeace Corpsの方が、知名度は抜群に高い。同情を禁じ得ない。
Hoは、Region capitalだけあってKpandoより都会で、生活環境も良いみたい。この学校には、日本人とカナダ人夫妻の他に、ドイツ人夫妻教師もいた。ゲーレンさんとアンゲリカさん。(下の写真参照)

1985/01/20
ハマタンが来た。16日の日記訂正。やはり、3月まで新鮮な水は期待できないのか。
乾季に飲む水は、雨季に降った雨水
家の裏にある雨水タンクに溜った水が原因か?Hoへの移動で体力を消耗したのか?ガーナの田舎に順応できていない体は、最初の大きな試練を迎える。
1985/01/28(月)
胸がムカムカする。
1985/01/29(火)
少し回復し授業をする。
いまだに "Sir" と呼ばれるのに抵抗がある。"thank you, sir."とか"Good morning, sir"とか。
6年生(Lower 6)の生徒達は、O Level (Ordinary level: 日本の高校相当)も満足にできないのに、A Level (Advanced level: 日本の高校3年から大学2年に相当)の物理化学、実験化学の授業をしろとせっつく。かといって、A Levelの内容に切り替えると"I do not understand" (わかんない)の連発。それみろ、君たちのために復習をしているのだ。

1985/01/30(水)
昨日、無理した報いか。吐き気と下痢が10回以上数え切れない。
1985/01/31(木)
キリキリ胃が痛む。アメーバ赤痢か?だとしたら、かなりまずい。
腸に穴が開いて、腹膜炎を起こすかもしれない。
この二日間でバナナ、オレンジ、なけなしの梅干1個、カップスープ1杯だけ。
やはり、乾季に唯一手に入る雨季に降った雨水は、やわな日本人の胃には手にあまるのか、(フィルターを通した後煮沸しているのに、、街の食べ物か?)
