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儀礼的無関心は本当か(フィールドノーツ2026June27)

突然気がついたことがある。ゴフマンの言う儀礼的無関心というのは、あなたは自分たちの仲間ではない、というサインだったのではないか、ということ。公共空間での相互行為一般の話。

ゴフマンのそれに、考慮に入れられていなかったかもしれない性別という変数を導入して考えると、さらにそのインターセクションとして人種などの人間の分類との組み合わせも関係しているように見えてくる。それにより、儀礼的無関心とは、内集団と外集団の境界を決める実践の結果であり、外集団だと判断された場合の反応の方を記述したものだった、と特定することが出来る、かもしれない。

さて。ゴフマンは、人は相手が認識可能な距離まで近づくと、視線を外すことで相手を認識していることと同時に無関心であることも示すことで、逆に、その人を尊重していると示す、という人びとのしていることを儀礼的無関心、あるいは市民的無関心と呼んだ。

男性的に外見を変え出してから、男性は、私のことを認識可能な距離に入ると、私に向かってうなずいて見せるようになった。もちろん、見知らぬ人の場合、である。

あるトランス女性は、それが男性の男性に対する挨拶の仕方だ、と言っていた。別の男性は、あなたを認識したという意味だよと、私に言った。

しかし、全員が私に対して、これをしてくるわけではない。むしろ、視線をそらされる場合を観察すると、あなたは自分とは種類の違うグループ?カテゴリー?だよ、と伝えていると直感する。そうであるなら、先の「あなたを認識した」とは、ある種の仲間だと認識した、ということになるのだろう。

うなずかれるかどうかは場所によるが、同じ人種だったり、同じようなエスニックカテゴリーだったり、社会階層だったり、バスカーだったり、共通点を探しやすい相手であることが多いようだ。逆に小さい町では、もう少し簡単なカテゴリーで認識されていて、うなずかれる確率が高い感じがした。

以上をもとにゴフマンの記述を再考してみると、儀礼的無関心とは、すれ違いざまに罵られたりアグレッシブな態度は取られたりはしないんだけれど、仲間ではないとうなずかないで視線を外すことで示す、という実践であり、ゴフマンは、それを、あからさまな攻撃よりは人格を尊重されている事態として記述した、ということになる、かもしれない。

なぜ、そう再記述したくなるかというと、北米のコミュニティは、他者への認識を、より分かりやすい仕方で示すからである。友だちやコミュニティのメンバーならハグする、声をかける、など。それをしないことは、コミュニティのメンバーではないと言っているのに等しい、と私は認識している。しかし、敵として威嚇をしてみせるほどではない相手、ではある。その結果、ある意味で相手にしていない、ということを示すことになり得る。

こういうことと、キャンセルカルチャというのは地続きに見えるし、パッシブアグレッシブも似ている、と思う。

ただ、東アジア男性は、うなずくということをしないことがむしろ多く、それは、そういう認識を伝え合うカルチャを共有していないから、だというように私は認識をしている。

以上、人とすれ違う際の人びとの仕草について、ゴフマン自身がどこまで何を認識していたか、また後継の研究者が何かを誤解して読んでいないか、確認する必要があるだろう。

たぶん、ここに書いてあることは、かなりの発見だ、と思う。

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