嘘みたいな本当の話
だれしも人生のうち一度や二度は、嘘みたいな本当の話に遭遇するという。私にもある。一つだけある。でもそれは、奇跡の感動話でもなく、耳を疑う衝撃の事実でもない。ただただ嘘みたいな本当の話だ。
あれは成人式の日だった。18のときに家族まるごと都内に引っ越した関係で、式に知り合いなど全くいないことは分かってはいたが、祖母たっての頼みで、大昔に手縫いで仕立てた振袖をどうしても着てほしい、その願いを叶えるためだけに出席することになった。まもなく10年前になるが、その日の出来事だけは鮮明に覚えている。
朝5時台だったと思う。着付けとヘアメイクのため、銀座の雑居ビルに入っている、とあるサロンを母とともに訪れた。着付けは年配の女性が担当してくれ、ヘアメイクは40~50代くらいの気弱そうな男性が担当だった。その頭髪はまばらで、細身なのに腹だけはぽよんとしていて、お世辞にもヘアメイクが上手そうには見えなかった。それでも、案外こういう見かけの人の方が本当のプロなのかもしれない、と私は自分を安心させるしかなかった。
着付けは特に問題なく終了し、そのあとヘアメイクが始まった。担当の男性の風貌には心許なさを覚えていたが、彼は私の頭にピンを差し込んだり、毛束の隙間に人毛玉のような物体を埋め込み、それをジェルで固めたりと、作業は着々と進んでいるようだった。ただ、彼の表情だけはずっと不安げだった。ある時、彼は相変わらずの心配顔で私に何か言葉を発した。しかし、その消え入りそうな声はドライヤーの音にかき消されてしまった。
「すみません、……してしまいました……」
「え?ちょっと聞こえなくて」
すると、彼はドライヤーを止め、震える声でこう言った。
「すみません、我慢できなくて……オナラをしてしまいました……」
「え? は……?」
突然の告白に、私は生まれて初めて真の動揺というものを経験した。なんと言葉を返せばよいかわからなかった。オナラに臭いはなく、音もわからなかったので、正直、そのような申告をする必要はないように思われた。むしろ、言わないでほしかった、そんな事実など知りたくなかった。
「風で飛ばしますので……」
彼はそう言い、恥ずかしそうに尻の周辺にドライヤーを当てがい、大きく一振りか二振り風を当てたあと、作業を再開した。
髪を結ったり、またピンを差したり、ヘアセットの作業は続く。私といえば放心状態というか、白昼夢を見ているようだった。先ほどの出来事は、話のネタにしたいがために私の脳内で都合よく生み出された幻影かもしれない、とさえ思い始めていた。ちょうどそのとき、また彼が申し訳なさそうに口を開く。
「あのぅ……また、してしまいました……」
幻影ではなかった。最初の告白から10分後くらいのことだった。初回もかなりの衝撃だったが、2度目があるとは全くの予想外で、私はまたしても何も言うことができなかった。
「風で飛ばしますからね……」
彼は顔を真っ赤にもじもじさせながら、またオナラをドライヤーで吹き飛ばす動作をした。鏡越しに、後ろの方に控えていた母も口をあんぐり開けているのが見えた。最初の告白では、あまりの衝撃に母の顔を確認するのを忘れていたのだった。
私のヘアスタイルは少しずつ完成に向かっていくが、その後も彼のオナラは止まらないらしい。2、3分おきに、やはり恥ずかしそうにオナラをしてしまったことを報告し、ドライヤーで周辺を吹き飛ばす動作がセットで行われた。
ふと、仕切りの外側から、着付けを担当した年配の女性が、彼をにらみつけていることに気が付いた。その視線を見る限り、どうやら彼の一連の行動は今日に限ったことではないらしい。当時の私はただただ混乱しているだけだったが、今になって思い返しても、なぜ彼が毎度律儀に報告していたのかは分からない。過緊張でオナラが止まらなくなる症状のことは聞いたことがあるが、少なくとも、それを申告する義務までは存在しないはずだ。
ものの1時間くらいの出来事だが、慣れとは恐ろしいもので、私もその頃になると「大丈夫ですよ。臭いとかも全然分かんないんで」と彼を励ますことができるようになっていた。当の彼は、私の言葉など聞こえていないかのように、何も言わず顔を赤らめ、腰回りにドライヤーを振るばかりだった。
その当時も今も、不思議と彼に対する嫌悪感はなく、もはや、この奇妙な出来事の渦中にいることが幸運なようにすら思われた。鏡越しの母をもう一度見ると、笑いを堪えておかしな表情になっていた。
そしてようやく、ヘアセットとメイクが終わった。彼は、呪いにかけられているとでもいうように最後の最後までオナラをし続け、報告まで抜かりなかった。そしてやはり毎度律儀に恥ずかしそうにするところまで徹底した。そんな彼が、まるで何かの呪縛に囚われたおっさんの妖精のようにも思えてきて、何とも形容しがたい愛着が湧くとともに、すぐにでもサロンを立ち去りたいような気もした。不安げなおっさん妖精を見るのが嫌になったわけではない。一刻も早く、妖精のもう一人の目撃者となった母と話をしたかったからだ。
ひと仕事を終えたおっさん妖精は、きっと小休憩に入るのであろう、奥へ引っ込んでいった。彼はこの先も、同じように報告と赤面と送風を繰り返すのだろうか。そんな疑問もつかの間、私たちは会計に呼ばれた。店を去る間際、着付け担当の年配女性がヘアメイクに問題はなかったかとしきりに尋ねてきたので、私は込み上げてくる笑いを押し殺しながら「特に問題なかったです、ありがとうございました」と嘘を言った。店を出てからエレベーターまでの間、私たちは顔を見合わせ口元をひくひくと痙攣させた。
エレベーターに乗るや否や、笑い声ならぬ破裂音が響き渡った。幸いにも、誰も乗っていなかったので、心置きなく腹がよじれるまで笑うことができた。母も私もそうそうない出来事の当事者・目撃者となれたことが幸せだったように思う。式まで時間があったので、いったん家に帰り、この奇妙な体験を父に共有せずにはいられなかった。予想に反して父の反応は微妙で、私たちが口裏を合わせて冗談を言っているようにしか思っていないようだった。確かに、あれにはあの場でしか感じられない、言葉にすると途端に嘘くさく聞こえてしまう魔力のようなものがあり、おっさん妖精さながらファンタジーの世界の出来事のようだった。
うまく伝えられない悔しさをよそに、両親にほぼ無理やり連れられ、全く行きたくもない成人式会場へ向かった。式では区長が祝辞を述べ、有名人らによる短い祝いのビデオレターが流され、そのあと、一度も聞いたこともない区歌が歌われたが、その間も私はまだファンタジーの中に囚われたようにぼーっとしていた。式典の後は、ビュッフェ形式の宴会があり、テーブルが小学校ごとに分かれていて同級生が集まりやすいように準備されていた。居場所のない私は、とりあえずおいしそうな物だけ急いで搔っ込み、足早に会場を出るほかなかった。
ロビーに出たところで、ふと、そういえば、母とおっさん妖精の話に夢中で、着付けサロンを出てからよくよく化粧の出来栄えを確認していなかったことを思い出した。目が悪いのに眼鏡もコンタクトもしていなかったから、サロンの鏡では細部までよく見えなかったのだ。そこで、手鏡を取り出して近くで顔を見てみることにした。結果はとてもひどいものだった。分厚く塗られたファンデーションは肌の色と合っていないし、ムラだらけだ。アイラインは左右非対称で、目の下には乾いたマスカラがたくさんついていた。
人前、それも成人式で、ひどい姿を晒していたと思うと、恥ずかしさや怒り、悲しみを覚えるかもしれない。しかし、そんな感情は差し置き、私の頭の中にはあの恥ずかしそうな妖精の姿が思い浮かんだ。やはり彼は、何かの事情でファンタジーの世界から迷い込み、人間世界のことなどよくわからぬまま、あの着付けサロンに行きついて、そこで生きていくほかなかったのではないか。そう思うと自分でもよくわからない笑みがこぼれるのだった。

