ふたり分のざわめく世界~共感しすぎる親と子の毎日~
はじめに
我が子は産まれてすぐから敏感な子だった。私と肌が触れあっていないといつまでも泣き続けた。そして小さく丸め込む姿勢になるうつぶせ寝が好きだった。初めての子育て。どの家庭も同じようなものだろうと疑わなかった。育児雑誌を読むと、よその子はいつもニコニコと機嫌が良さそうに見える。児童館へ遊びに行っても、知らない人に話しかけられるだけで顔がこわばる我が子。子どもとの二人きりの生活に息苦しくなり、後ろ髪を引かれる思いで利用したたった2時間の預かり保育。「どの子も最初は泣きますが、すぐに遊びに夢中になるから大丈夫ですよ。お母さん、良い時間を過ごしてください」そう背中を押されて美容院へ行った。2時間後、我が子は水も飲まずにまだ泣いていた。私に捨てられたのだと感じたのだろうか。何かが違う。もしかすると、この子は私と同じかもしれない。そう思った。
私もまた‘敏感な子’だった
私自身が敏感な子どもだった。大人の話していることを理解し、自分がどうふるまえば理想的かを常に考えていた。そして、友だちとの些細ないさかいに深く傷ついた。それでも、両親はそんな私を理解しようとしなかった。人ごみは苦手、集団生活は嫌いなのに、小学一年生の時にはたった一人で学童保育の宿泊スキー教室に参加させられた。周囲は親子参加者しかいなかった。私は幼い心と体で何とか周りに食らいつこうとしたが駄目だった。見かねて、見ず知らずの保護者が、私のスキーウエアを乾かしてくれ、身の回りの世話を手伝ってくれた。そして家に着くと、何事もなかったかのように装った。幼い姉弟の世話と家事、仕事に追われる母に負担をかけたくなかったからだ。
小学校ではいじめに遭っていた。けれどもその事実を両親はいまだに知らない。
放課後、親に黙って隣の町の山まで自転車で行った。知らない場所は新鮮で楽しかった。幅の広い大きな川が流れる河川敷で川の水を堰き止めて遊んだことを私の親は知らない。一緒に遊んだ友だちは、こっぴどく叱られたようだが、私は親に話さなかったから怒られるはずもない。
宿題を忘れた時には、体調が悪かったと小賢しい嘘をついた。話しているうちに涙がこぼれてきた。すると担任は信じて私は許された。私は、敏感で繊細な子どもであったが、親に放置されていたので、なんとか自分が生きる術を身に付けていった。自分が負った傷は目隠しをして見えないふりをした。そして、他人からも見えないようにふるまった。
集団で過ごしていると常に「自分はここにいても良い人間なのだろうか」と感じていた。だから、その集団の中で必要とされる人材になろうと努力した。気が利く人間が求められていたら、最大限に意識を広げて他人が必要としている物事を探した。
若く美しい女性を求められていたら、思い切り愛嬌よく振舞った。知性が必要とされる場面では、一生懸命考えてブレーンでいようと試みた。常に周りに必要とされたかった。だから、自分の心が休まるかどうかは関係なかった。営業成績を求められたらがむしゃらに頑張った。部署で一番の成績を取ったら妬まれ、どうすれば良かったのかと悩んだ。
好きでもない異性から告白されれば「自分が隙を見せて勘違いさせてしまったのだろうか」と思い悩み本当に病気になってしまった。
私はそうやって生きてきたので、みんなも同じように生活しているのだと思った。大人になり、どうやら自分は他人と違うようだと気づき始めた。
「傷つきやすい」「考えすぎ」「生き急いでいる」「そんなに頑張らなくても良い」と言われた。
そう言われてもどうしようもなかった。そうやって生きてきたし、そうするしかなかったからだ。
ある時、私の生き方はどうやら「気質」によるものだとわかった。名前がつけられてようやく心が落ち着いた。そういう「気質」なら仕方がないじゃないかと受け入れられた。
子どもの敏感さに向き合う
我が子も自分と同じ「気質」を受け継いでいることに薄々気がついていたが、幼稚園に入園して確信に変わった。
先生の話は一度で理解し、一回注意された過ちは二度と繰り返さない子どもだった。そして、同じ年代の子どもと馴染めず、先生と遊ぶことが多かった。先生からは言うことを素直に聞く良い子として可愛がられた。相手が求める自分になるところは私と全く同じだった。
幼稚園は14時までだが、その後は預かり保育が利用できほとんどの園児が利用していた。「まだ遊んでいたい」と言うらしい。我が子は、「絶対に14時にお迎えに来て。一番に来て」と言うので、毎日13時50分には門の前で待機し、開門と同時に園に入った。にも拘わらず、他の保護者が滑り込み、我が子が二番手になっただけで大泣きした。
夏休みや冬休みの預かり保育も利用できるはずもなく、とにかく私と一緒にいたがった。私がいれば、場所は家でなくても構わないようで、息苦しくならないようによく二人で外出した。
電車やバスで泣き叫ぶことなど一度もなかった。また、迷子になったこともなく、触ってはいけないものに勝手に触れるようなこともなく、周囲からは手のかからない良い子に見られがちだった。
けれども実際は真逆で、こだわりが強く、肌障りの悪い洋服や舌ざわりの悪い食事などにははっきりとNOとつきつけられた。
実家に帰った時には、場所見知りをして夜遅くまで寝つけず、深夜に帰りたいと泣き出した時には一緒に泣いた。
守りたい 守れない
自分と同じ「気質」だからこそ、我が子が何に不快なのかを、私は瞬時に察知することができた。満員電車が苦手だったり、通りすがりの煙草の煙に顔を歪めた。突然頭を撫でられるのは苦痛だし、知らない人には話しかけられたくなかった。だから、それらを回避できるように工夫したし、遭遇してしまった時には「嫌だったね」と共感できた。我が子にとって、一番共感してくれる存在である私に依存しっぱなしだった。
小学校へ入学し「学校へ行きたくない」と毎日のように言った。だから、校門まで一緒に登校したり、先生と連携を取ったりして何とか通学している。
我が子には学校へ行きたくないしっかりとした理由がある。クラスメイトの暴言、暴力は何よりも恐怖だ。それ以外にも、授業中に立ち歩くような生徒、授業を妨害してまでダジャレを言う生徒は理解できなかったし苦手だった。それらをほとんど全て下校後に話してくれるので、私は「それは辛いね、大変だったね」と聞いてやる。あまりにひどい時には、リフレッシュの為に欠席を良しとした。そうすることで心身ともに回復し、また学校へ通えることを知っているから。そして、幼き日の私が親にそうしてもらいたかったから。
最近の小学校には、相談員とスクールカウンセラーの両方がいる。いつでも利用できるので我が子も当然利用するが、対応がまちまちだ。
我が子はただ「そう。大変だね」と共感してほしいだけなのに、的外れに「○○法という心理療法があって、嫌なことがあったら教室の中にあるものの数を数えたり、窓の外を見て違うことを考えると良い」などと無意味なアドバイスをくれたりした。または「学校は楽しいよ」などと真逆のことを言って、我が子の気持ちを蔑ろにされたりもした。
だから、我が子は相談員やスクールカウンセラーではなく、世間話をして楽しい算数の先生と養護教員に会いに行くことでリフレッシュしている。
敏感で繊細な人の気持ちというのは、同じく敏感で繊細な人でなければ分かり得ないのだ。アドバイスなどは無用で、「共感」や「受容」「同調」を欲しているのだから。
わかりすぎる私は、我が子の気持ちに寄り添って最大限に時間と労力と愛情を費やしている。現在は高学年になるが、習い事の送迎をしてほしいと言うので、一緒に歩いて通っている。放課後、クラスメイトと遊ぶよりも祖母と遊んでいる方が楽しいというので、祖母との時間を作ったり、一緒に家事をしたりして過ごしている。我が子が興味があることには一緒に向き合い、嫌悪感を抱くものからは可能な限り距離を取るようにしている。
すると、我が子は次第にわがままになっていった。遠足には行きたくないという。レクリエーションの班が嫌だ、お弁当を外の芝生の上で食べたくないと言う。気持ちは理解できる。班に苦手な人がいるのは辛いし、芝生のちくちくした感触は不快だ。青空の下で食べるお弁当の美味しさもわかるが、それならばベンチとテーブルで食べたい。私は、小学校の遠足くらい不参加でも、その後の人生に何の影響もないことを知っている。休んでもいいだろう、と判断した。まだ先の予定ではあるが、連絡帳を書いた。結局、当日になって「やっぱり行く」と遠足に参加した。事前に担任には伝えていたことで、遠足では何度か我が子に声をかけてくれたそうだ。
今度は習い事で一緒になる子どもの落ち着きの無さがストレスだと言い始めた。それも理解ができる。こちらが集中しているのだから邪魔しないでほしいと思う。習い事の先生に連絡をした。
先生の返事は「注意はしてみますが、どこの世界にも一定数落ち着きのない生徒はいるので、その中でも頑張れているお宅のお子様は立派です」とのことだった。褒められて嬉しいが、解決にはなっていない。我が子を褒めてくれなくても良いので、落ち着きのない生徒を何とかしてほしいと思った。
ふと気づいた。「これで良いのだろうか?」と。我が子が感じる不快感を私も同じように感じて生きてきた。けれども、私の親は一切関心を示さなかったので、私は報告することもなくただひたすらに耐えて生き延びてきた。だから、不快だらけの世の中でも耐える力がついたと言える。私は、いまだに親を信頼していないし、親が私を理解してくれたとは全く思えない。もちろん愛情をもって育ててくれただろうが、私が受け取るには十分とは言えない程度の愛だった。衣食住は与えられていた。けれどもその日あった出来事などを聞かれたり話したりしたことはなかった。もっと共感してほしかったし、私の苦悩をわかろうとしてほしかった。私も私で、母に何か話しても理解してもらえないことは知っていたから話そうとしなかった。
我が子はどうだろうか。私がしてほしかったように育てているつもりだ。毎日のように、「あなたは大切」「頑張っている」「わかるよ」と伝えている。これは過剰ではないのか。過保護ではないのか。
我が子は、自分が周囲、特に親に愛されていることを実感している。だから自分に自信がある様子が見てうかがえる。けれども、それが当たり前になっているような気がする。これからの人生、逆境は必ずあるだろう。我が子を苦手だ、嫌いだと言う人が現れるかもしれない。
私は、子どもを守っているつもりで、弱くしているだけではないかと思った。
同じだから分かり同じだから苦しい
共感できることはメリットだと思う。けれども、我が子にとって私の共感は当たり前であり、時に共感できることで傷が深くなっていくと感じる。
ある日我が子が、下駄箱の前でしゃがんて上履きを履いていたところ、クラスメイトに「どけ」と言われた。たったそれだけのことだと周りは言うだろう。そのクラスメイトは普段から乱暴な言葉が多かった。ほとんどの大人なら、あんな奴の言うことは気にするなと励まして終わりだ。けれども、我が子はたった一言に深く傷ついている。世界の終りのような衝撃とさえ感じる。ただ、上履きをしゃがんで履いていただけなのだ。それなのに、この世界から消えていなくなれと言われたような気になってしまう。
私にはそれがわかるからこそ、私も一緒になって「どけ」と言ったクラスメイトをボロクソに言った。もちろん相手に届かない場所で、だ。そうすることによって我が子の怒りが倍増していく。それで良いのだろうかと私は悩む。
「普通」が圧力になる
私も我が子も、周囲からの評価は常に高い。どこに行っても理想的な振る舞いができる。時に気が利きすぎて、他人を助けすぎて苦しくもなる。けれども、評価はどんどん高くなっていくからそれがプレッシャーになっていく。
他の子が「普通」にできることができない。みんなできているよ。どうしてできないの?そう感じてしまう。例えば修学旅行。私にとっては苦痛であったが、行かない選択肢など用意されていなかったので、参加したうえで様々な苦痛に耐え忍び、その中でわずかな楽しみを見つけてなんとかしのいだ。けれども、時代も相まって、我が子には行かない選択肢を用意してしまう。二泊が無理なら一泊はどうか?代わりに別の学習をすることではどうか?と提案しながら、どうして他の子ができることが我が子にできないのかと腹が立ちもする。お楽しみ会でさえ楽しくないから休みたいという。「普通」なら楽しいはずのイベントが楽しくない。
「普通」ってなんだ?
親が変わらなければいけない瞬間
私は我が子よりも先に死ぬだろう。だからこそ、改めて自分の敏感さに向き合う必要があると感じた。確かに私は繊細で敏感な子どもだった。親はそんな私を理解しなかったし、説明しても変な子どもだと一蹴して理解しようともしなかった。そのことで深く傷ついたのは事実だが、それでも生きる為に、自分で工夫して自分の在り方を身に付けていった。
苦手な場所や人に対峙した時に、どうすれば苦痛が軽減するかを一人で考えて何とかやり過ごして生きてきたのだ。
私は、我が子からその能力を奪い去ろうとしていることに気づいた。甘えてくる我が子は可愛い。我が子の歩く道の上にある岩だけでなく小石までも取りのぞこうとしていないだろうかと考えた。
我が子も、繊細さと敏感さを持ったままこの荒れ狂う世の中を生きていかねばならないのだ。自分がそうしてきたように。
「弱さ」だけにはしない
繊細さや敏感さは時に「弱さ」だと表現される。それは私が一番よく知っている。そのうえで、他人は既に持ち合わせている鈍感力というものを身に付けて、強さに変えていかねば苦しくて生き延びられない。
けれども、繊細さや敏感さは決して「弱さ」だけではない。特に、幼少期にあっては私は自分がどうすれば親以外の大人に受け入れられるかを考えて行動してきたので、他人から高評価を受ける術を知っていた。そうすると多少生きやすくなるのだ。
勉強はある程度出来た方が楽であることも知っている。再テストを受けるよりも一発合格の方が結果として勉強時間が少ないことを知っているから最初から一生懸命勉強した。
運動は、得意な人に任せた方が楽だ。期待されない分応援に回れば良いのだ。人には愛嬌良くしておいた方が何かあった時に自分がリターンを受けられるが、人選を間違えてはだめだ。自分を利用しようとする人はきちんと見極めなくてはならない。人を見たら泥棒と思えの精神で生きてきたから他人に期待しないで済む。それらは全て誰に教わることもなく自分で学び身につけてきた。
繊細さや敏感さはある種の特殊能力とも言える。変化にすぐに気づけるので、犯罪者を警察に突き出したこともあるし、ガス漏れをいち早く察知して通報したことも複数回ある。人助けをして感謝されることは日常茶飯事だ。
最近では自分の「気質」を「弱み」ではなく「強み」だとさえ思えるようになってきた。
おわりに
親も子も二人で生きやすくなるために、「過剰な同一視」に気をつけていこうと思っている。
ある時、我が子にはっきりと告げた。「あなたに向き合いすぎて疲れる時がある。私には私の人生があり、自分の時間も必要としている。だから、ママ以外の大人にも相談できるようになってほしい」と。
そう話したことで、学校での問題がスムーズに解決するようになった。いちいち私を通すより、話しやすいスクールカウンセラーに相談することで、係活動がしやすくなったり、席をおとなしい子の隣にしてもらうことができた。我が子は自分が話しやすい大人を探した。養護教諭、専科の教員なら気楽に話せるようだ。それを繰り返していくうち、いろいろな先生に声をかけてもらいやすくなり、自分の居場所ができたように感じたらしい。係活動や委員会には前のめりで関わっている。任務を与えられ、喜びに感じている。
我が子はまだ小学生なので巣立つにはもう少し時間がかかる。完全な解決策などないし、結論も出ていない。だからこそ、「折り合い」をつけていく必要があると思っている。
私たち親子は似ている。だからこそぶつかることもあるし、理解しすぎて辛くなることも多い。それでもこの感受性のまま生きていくのだ。私たちの世界はざわめきが多い。他人が聞き取れない音さえ拾ってノイズを背負って生きていく。
しかし、苦しさだけでなくこの気質だからこそ分かちあう喜びもあるのだ。私たちの共通の趣味は、美術館や博物館などへのお出かけだ。植物園やプラネタリウムもお気に入りだ。美しいもの、素晴らしいものに触れた時の感動を二人で分かち合える。小学生にしては大人びていて感度の高い我が子だからこそできることだ。
お互いを褒め合うことも忘れない。相手がしてくれた些細な親切に気づき合い、たたえ合うことができる。
私は私で良い。我が子も我が子のままで良い。他人が何と言おうとも、この「気質」を抱えたまま広い世界を羽ばたいていく。そう言い切るしかない。
けれども、この世界は、優しさだけでは生き抜けないことを私は知っている。途中で諦めた人もたくさん知っている。それは悲しみとなり私の傷となって刻まれた。
我が子は、この感受性のまま生きていくのだろう。私がそうしてきたのだから。
正直なところ、私は守ることと、手放すことの境界は、今もよくわからない。ただ一つ確かなのは、この子が世界に触れたとき、感じすぎてしまうその痛みも、同じだけ深く、何かを愛せる力になるということだ。私は愛することを知っている。愛の力強さも身をもって体験した。
我が子が、この先傷ついても、その傷以上に強い愛を手に入れると信じている。それを生きる力に変えて、きっと幸せを手にするはずだ。その可能性を信じて、私は少しずつ手を離していこうと思っている。
それが、母として、我が子への愛の形だと思うから。
