家族の音がする店
家族でよく通った洋食屋があった。商店街の奥、そのまた奥に。父が幼い頃から通う、顔馴染みの店。
ニスで艶めく焦茶の板張りに、店先の色褪せた食品サンプル。ガラス扉を開けると、カランと心地の良い音。
店中に染みついた料理の匂い。飴色に育ったテーブル。大きな窓ガラスには、群れて飛ぶ鳥のステッカー。ちぐはぐなレースのカーテン。天井に実るぶどうの造花。棚には漫画や絵本、雑誌。エビスビールのポスター。
入学式の日も、運動会の後も、なんでもない日も、この店で食事をした。「おかえり」と同じ温度の「いらっしゃい」に迎えられ、いつもの席へ。グラスの細かい氷をガリガリと噛み、もうページをめくらなくても続きがわかる絵本を開く。
コックコートを着たマスターが鍋をふるい、エプロンをつけたショートヘアのマダムがチャキチャキと注文をとる。
父はハンバーグ。母はジュージュー焼きという名の、しょうが焼き。祖母は幕の内。わたしたち兄弟はみんな、決まってドリアを注文していた。(のちに知ったのだけれど、あの店はハンバーグが有名だったらしい。)
今でも舌の奥で思い出す、甘めのケチャップライスと、ホワイトソースの上で焦げたチーズ。グラタン皿はテーブルに置かれてもしばらくジュウジュウ鳴いていた。冷めるのを待ちきれず、キャラクターの取り皿に少しずつよそって食べた。
小学校高学年になると、兄弟と同じものを頼むのがなんとなく嫌になった。そわそわしながら初めて口にした「レディースセットで」。これにはマダムも二度聞。
目の前に運ばれてきた瞬間、思わず背筋が伸びる。三角にきちんと折られた紙ナプキンの上に、フォークとナイフ。初めてのレディースセットは、いつものドリアより少しだけ大人に見えた。隣の母も、「おいしそう」とのぞき込む。
お子様ランチよりちょっぴり大人なプレート。正面にハンバーグ。それに寄りかかるエビフライ。上品に並んだサンドイッチ。キャベツときゅうりのサラダに、うさぎのりんごとオレンジ。
思いのほか、新しい味にすっかり夢中になった。ほろりとほどける手捏ねハンバーグに、芳醇なデミグラスソース。シンプルでやさしいサンドイッチ。振り返ると、私にとって初めての洋食屋の味だった。
それ以来、マダムの脳内メモには「長女はレディースセット」と刻まれていた。ハンバーグはおいしいけれど、兄弟が変わらず食べているドリアをみると、どこか恋しくなることもあった。ちらりとドリアを盗み見しながら、ハンバーグを頬張った。
帰り際、マダムは飴をたくさん持たせてくれた。商店街を歩きながら一つ開けて、家に着く頃にはまた一つ。行きも帰りも同じ道なのに、帰り道のほうが少しだけうれしかった。
あの店で、家族と何を話したのかは覚えていない。ただテーブルを囲んで、お決まりのメニューを食べて、マダムと、時々マスターと談笑したことだけ。そんな店が、またできるだろうか。
三十七年、愛され続けたピーコック。今でも思い出す、マスターのコックコート、マダムの気さくな声。ドリアの焦げたチーズの味、そしてレディースセットのハンバーグ。
ああ、あのドリアが恋しい。ドリアがジュウジュウ鳴く音も、今思えばドリアの音だけではなかったのだと思う。父のハンバーグが鉄板で弾ける音も、母のジュージュー焼きの音も、祖母とマダムの会話も。全部混ざって、あの店は、私たち家族のアルバムになっていた。
今でも、ときどきページをめくるように、あの店の音がふと蘇る。そんな日は、無性にドリアが食べたくなるのだ。
