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ずっと「挑戦中」が終わらない組織の向かう先

「挑戦中です」「挑戦しましょう」「難しいことに挑戦しています」

やたらと、挑戦という言葉を耳にすることはないだろうか。

だが冷静に振り返ってみてほしい。
それは、いつから言ってただろう。

何ヶ月前からか、いや何年前からだろうか。
気づけばずっと挑戦中のまま、時間だけが過ぎている。

そもそも何に挑戦しているのか。
どこまで行けば成功なのか、失敗したらどうするのか。

誰も答えない。

不思議なのは、答えが曖昧でも挑戦だけは続くことだ

人類は「よくわからない状態を前向きな言葉で包む技術」を、
ドラえもんより先に発明したのかもしれない。

そしてたぶん「挑戦」という言葉は、その最高傑作だ。


そもそもそれは、挑戦でいいのか?

挑戦という言葉には、どこか魔法のような効力がある。

それっぽく聞こえる。
前向きに見える。
なんなら少し尊い感じすら出る。

「困難に立ち向かっています」
「リスクを取っています」
「前例のないことをしています」

かなり便利な言葉である。

だが、少し嫌な言い方をすると、
挑戦という言葉は、現代社会における高機能な緩衝材でもある。

計画が雑でも包める。
準備不足でも包める。
数字が死んでいても包める。

そしてなぜか、未熟ではなく勇敢に見える。
本来、ちゃんとした組織は「挑戦してます」とあまり言わない。

やることを決める。
必要な資源を集める。
勝ち筋を検討する。

これらが適切にできていれば、挑戦ではなく実行というだろう。

本来であれば、
挑戦とは結果としてそう見えるものであって、自称し始めると少し危うい。

うまくいかなくても挑戦中。
結果が出なくても挑戦中。
いつまで経っても挑戦中。

挑戦というラベルを貼った瞬間に、準備不足も詰めの甘さも、
なぜかチャレンジ精神という美談に変換される錬金術だ。

たぶん挑戦というラベルは、準備不足や設計の甘さを、勇気として再包装する機能を持っている。

だが基盤もないまま「挑戦しよう」と言い、
壊れた計画のまま「まだ挑戦中です」と言い続ける組織もある。

それが何年も続く場合、優秀なのは事業ではない。

たぶん資金調達力か、周囲の恐ろしいぐらいの鈍感さである。

挑戦は、手探りでするものではない

挑戦と言いながら、自分たちの都合でゴールは設定している。
まあいいだろう、どこに向かうかを決めることは、当然だ。

だが問題はその先だ。
普通は、ゴールを決めたら道筋を考える。

どのルートなら現実的か。
何が足りないか。
どこで詰む可能性があるか。
最低どこまでは再現性を持って進めるか。

完璧な未来予測をしろと言っているわけではない。

ただ少なくとも、
「なぜ行けると思ったのか」くらいは説明できないと困る。

ところが、挑戦を好む組織は、この部分が驚くほど雑になる。

ゴールは立派だ。
スライドも美しい。
キックオフ動画には、謎にエモいBGMまで流れる。

だが肝心の「で、どうやるんですか?」になると急に空気が変わる。

「そこは皆さんで考えてください」
「前例がないので」
「まずは走りながら」

便利な言葉である。
だいたいこれらは、設計不足のときに出てくる。

つまり整理すると、

我々は、あそこへ行きたいと思っています。
行き方はわからないので、皆さん頑張って連れて行ってください。

と、言っている。
かなり無責任だが、挑戦という言葉を添えると、なぜか少し美談になる。

不思議である。
しかも別に、本当に前人未到の話をしているわけではないことも多い。

市場もある。
類似事例もある。
成功パターンも多少ある。

にもかかわらず、「どう到達するつもりか」の説明だけが異様に薄い。
ゴールを語ることと、そこへ辿り着けることでは話は別だからだ。

未来を語るのは気持ちがいい。
だが、道筋を具体化する作業は地味で苦しい。

人員、予算、工数、成功率、撤退条件、急に現実が色濃く混ざる。

だから多くの組織は、未来の話をする時間に比べて、途中の現実設計に使う時間が驚くほど少ない。

そして、その不足分を挑戦だからで埋め始める。

だが本来、挑戦とは手探り感のことではない。
未知の領域に踏み込むことと、何も考えていないことは違う。

そこを混同し始めると、挑戦はただの準備不足の言い換えになる。

挑戦は、いつも間にか博打に変わる

挑戦という言葉が便利なのは、途中経過を美しく見せられることだ。

うまくいっていない。
数字も悪い。
計画も崩れている。

でも、「困難に挑んでいます」と言えば、なぜか物語になる。
人は結果より、頑張っている姿に感情移入できる生き物だからだ。

だから挑戦には、かなり強い延命効果がある。

失敗しても、「まだ途中」
赤字でも、「成長痛」
崩れていても、「前例のない挑戦中」。

だんだん言葉が、現実の止血テープみたいになってくる。

以前、エベレストに何度も挑み続ける人物の話を見たことがある。
世間的には、夢を追い続けるすごい登山家として扱われることも多かった。

だが、一部の本物の登山家たちの評価はかなり冷たかった。

「あれは登山ではなく挑戦している姿のビジネスだ」
「下山を繰り返して物語を延命しているだけだ」

かなり辛辣だが、たぶん本質でもある。
登頂そのものではなく、挑み続けている状態が商品化していたのだ。

そしてこれは、組織でもわりと起こる。
挑戦できている間は、挑戦している感を維持できる。

ビジョンを語る。
苦労を語る。
仲間との絆を語る。
そして過程をコンテンツ化する。

別に悪いことではない。
人間は物語で動くので、むしろ自然ですらある。

問題は、その物語が現実から切り離され始めた瞬間だ。

本当はもう厳しい。
勝ち筋も薄い。
立て直しも難しい。

でもここまで来ると、引き返すこと自体が難しくなる。
なぜなら、ここまでやった自分たちを否定することになるからだ。

だから続ける。
本当は撤退戦なのに、最後の挑戦と言い換えながら。

そして徐々に、挑戦は博打へと変わっていく。

それは、本当に挑戦の結果なのだろうか

挑戦には、いつか終わりが来る。

成功する。
失敗する。
途中で撤退する。
形を変えて生き残る。

結末のパターン自体は、実はそんなに多くない。

ただ少なくとも、
挑戦として成立しているうちは、自分たちで終わり方を選べる。

ここが重要だ。

どこで勝負するか。
どこで撤退するか。
何を諦めて、何を残すか。

本来、挑戦とは自分で決着をつけられる状態でもある。

だが、博打に変わった瞬間から、それができなくなる。
なぜなら、その頃にはもう選択肢が残っていないからだ。

資金もない。
時間もない。
信用も削れている。

なのに、なぜかまだ「ここから逆転できる」と言っている。
だんだん事業計画ではなく、年末ジャンボ宝くじに近づいていく。

しかも怖いのは、
本人たちも途中から成功と延命の区別がつかなくなることだ。

資金調達できた。
まだ会社がある。
社員が辞め切ってない。

すると、「まだいける」と錯覚する。
だがそれは、勝っているのではない。

まだ死んでいないだけである。

そして多くの場合、終わりは静かに始まっている。

優秀な人から抜ける。
会議から具体性が消える。
数字の話より、想いの比率が増える。

そしてある日、突然終わる。

いや、正確には突然ではない。
かなり前から壊れていた。

ただ人間は、崩壊の途中を日常として処理できてしまう。
だから終わる瞬間だけが、急に見える。

不思議なもので、
組織は死ぬ直前まで普通にカレンダーに招待が飛んでくる。

来週の定例。
来月の戦略会議。
来期の成長計画。

全部ある。

でも実際には、
その頃にはもう未来ではなく延長戦をやっていることも少なくない。

本当に怖いのは、失敗そのものではない。

挑戦でもなく、成功でもなく、
失敗ですらない、よくわからない終わり方をすることだ。

何を目指していたのか曖昧なまま終わる。
誰も責任を取らない。
総括もされない。
なかったことみたいに静かに消える。

たぶん挑戦には、本来もっと残酷な緊張感があったはずだ。

勝つかもしれない。
負けるかもしれない。
でも少なくとも、自分たちで現実と向き合う覚悟がある。

だから挑戦は美しいのであって、
挑戦している雰囲気だけを維持し始めた瞬間、それは別の何かになる。

ずっと挑戦中のまま時間を使い続けた組織の最後は、

「挑戦の結果」とすら、呼ばれないのかもしれない。


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