リゲイアの蒼白き湖面 第14話 "Hope"
神谷は首に掛けたネックレスを取り出すと、そのチェーンに取り付けられた指輪を見つめた。
もう10年も経つ。
それでも、胸の痛みは癒されることもなく、昨日のことのように鮮明だった。
お揃いで買ったネックレスに、繋がりの証として、拓哉から渡された婚約指輪を通していた。
今は指先に着けられることはない。
しかし、こうして身につけているだけで、拓哉がいつも側にいて、見守ってくれているような気がした。

研究室の扉が勢いよく開き、三雲が慌てた様子で息を荒くしている。
「神谷さん、まずいですよ!"Lethe(レーテ)"が動き出したようです!しかも、リリス自ら先頭に立っているらしいです」
三雲の言葉に神谷の胸がざわついた。
Lethe−−−−ネオビオータの“苦しみからの解放”を理念とする組織。
ネオビオータの「戦うために生まれた」という呪縛。Letheは、戦場でしか生きられないネオビオータに“苦痛からの解放”をもたらす存在。
“記憶の終焉”、“存在の赦し”を与えるのだと彼らは主張している。
処分官たちは“Ferrymen(渡し守)”と呼ばれ、ネオビオータを“川の向こう”へ導く役割。
そして、その頂点にいるのが"鬼神"リリスだ。
「そう…本気でK02を処分するつもりね…」
「K02は、なんというか、他のネオビオータと違う気がするんです。あれは処分されてはいけない!!」
神谷が少し笑いながら、応えた。
「ずいぶん、K02のこと、気に入ったのね」
「え?!…あの研究者としてですよ…」
ゆっくりと立ち上がると、神谷は続けた。
「私も同じ気持ちよ、行きましょう。
我々が先にK02を捕獲すればいいのよ」
神谷は指輪のかけられたネックレスを胸元に戻すと、三雲と共に部屋を後にした。
※※※
ユウリが部屋に戻ると、すぐにアールグレイとミルクを連れて出かける用意を始めた。
このまま、ここに居たらこの子達は研究所に連れて行かれてしまう。
ココアがいない寂しさもあり、ルシウスの言葉から受けたダメージで、ユウリの心は不安定になっていた。
頭が割れそうに痛い。
嫌。
まただ。くる。
あの時のこと。思い出したくないのに。
震災直後、私はココア連れて、街を彷徨った。
建物の下敷きになっている人々。瓦礫の間から手が伸びている姿。
火災で焼けた臭い。人が焦げた肌。
津波で流され横転した車の中には、溺死した人が目を見開き、助けを求める形相があった。
見るもの全てが怖くてたまらない。
暫く歩いた先に、体育館が見えた。
この辺りは洪水でどっぷり浸かった様子で、水が滴っている。
私は、誰かいるような気がして、扉を少し空けて中を覗いて見た。
体育館の中は、泥と海水と、何か焦げたような匂いが混ざり合っていた。
「……!…あ、ぁあ…」
ここは…避難所だったはずなのに。
ここまで洪水が押し寄せるとは、誰も想定していなかった。
何十人もの人が、隅の方でありえない形で折り重なっていた。
まるで、小さな出口を生き延びるために求めて、人を押し退けて、逃げようとしているような姿。
地獄。
と言うのはこんな光景なのだろうか…
足に力が入らない。
這うように、そこからはなれるのが精いっぱいだった。
足が震えて、地面に触れている感覚すら曖昧だった。
「…はぁ…はぁ!……ッ…」
私の心は壊れそうだった。
鼓動が耳の奥でうるさいほど響き、息の仕方を忘れそうだった。
意識が遠のいていく感覚。

頬に伝う涙を、そっと優しく拭う感触。
暖かい。
少しザラザラした感触。
ココアが私の頬を舐めていた。
私の心を察したのか、慰めるように頭を擦り寄せてくる。
あの時、私は生きたいと思ったのか、死にたくないと思ったのか、今でも分からない。
でも、私は生きられた。
壊れずにいられた。
それから何度もフラッシュバックが起きても、ココアがいたから、救いを持てた。
私の額から吹き出した汗を、
ザラザラした感触が優しく拭う。
アールグレイが、
「僕がいるよ」と言っているようだった。
失いたくない。
ココアも、この子達も。
ユウリは深く息をして、呼吸を整え、立ち上がった。
「守らなきゃ…」
※※※
「あのさぁ…何でこんなに沢山買ってきたのに食べないの…」
ケイトが大量の魚を買ってきたのはココアの食事用だった。
「身体大きいんだし、普通、虎だったら肉食でしょ?!」
なぜか美味しそうにクッキーを食べるココアを眺めながら、ケイトは頬杖をついて、鰹の刺身を食べていた。
「美味しいけど、食べきれないなぁ…」
この場所は、ちょっと占いのお店から離れているけど、
小さな小屋があって、小道具を仕舞うのにちょうど良かった。
周りは田畑ばかりで、あまり人気がないエリアで、物件としては安かったのが決め手だった。
小屋は電気が通ってないから、何本かのロウソクで火を灯し、ココアと夕食をとっていた。
ココアが不意に、ケイトの腰に付けられたアクセサリーを見つめた。
「あぁ…コレ?気になるの?
コレはねぇ…私の大切なお守りなんだぁ」
子供の頃、Titanでこの地を離れて移った場所は、田舎だったから、お祈りはいつも隣町の教会まで行ってた。
私はTitanがあってから、皆を見殺しにしたような罪悪感を拭えずに覇気を失っていた。臆病になり、あまり外にも出かけられなかった。
ある時、父さんが言った。
「ケイト、すまない。
今日は教会に届けてもらいたいものがあるんだ。
父さんは用事があって、どうしてもいけないからケイト、行ってきてくれないかな?」
隣町までは歩いて2時間ほど掛かる。
道中は山を越えなければならないので、人気のない心細い場所もあった。
私は、嫌だと言って大泣きしたけど、結局行くことにした。
なぜだろう…。
よくわからないけど、父さんはいつも、私の心を動かすのが上手かった。あの時も。
「ケイト、嫌なのはよく分かった。理由も分かったよ。
……じゃあ、こうしよう」
父さんが小さく笑って、立ち上がると庭先に出て、数分した後に、こんな事を言った。

「ケイト、私にできることは、こんなことくらいだ。
実は、私にもお前に負けないくらいのスゴい力があるんだよ。
ここに魔法を詰めたんだ。ケイトが本当に困ったらこれを空けてみるがいい。きっと助けてくれる」
そう言うと、小さな巾着袋を私に手渡し、ひと言だけ付け加えた。
「ただ、願いごとはひとつしか叶えてくれない。本当に困った時だけ開けるんだよ」
それを手に持つと、なぜだか本当に魔法が込められている様に感じた。
道中は長く、途中で寂しくなって、引き返したかった。でも、この"お守り"があると不思議と勇気が湧いてきた。
あと少しだけ頑張ってみよう。
もし、困ったらコレを開ければ、なんとかしてくれる。
そんな事を繰り返して、なんとか隣町の教会まで辿り着いた。
私は神父さんに届け物を済ませると、"お守り"の中身が気になっていた。
もう、コレに頼る必要はないから…と、恐る恐る開けて見た。
「…!!…なに、これ」
中に入ってたのは、ただの石ころで、たぶん庭先にあったものだろうか。綺麗でもなければ、魔力なんて微塵も感じない。
「…だまされた…」
私がそう言って肩を落としていると、神父さんがそっと私の肩に手を添えて優しい声で言った。
「いいえ、これは紛れもなく魔法の石ですよ。だって、あなたがここまで来れたのは、これがあったからでしょ?渡された時に既に魔法に掛かっていたんですよ。大切にすると良い」
今思えば、父さんは最初から私に伝えたかっただけなのだ。
どんなに辛い現実の中にあっても、"希望"があれば、そこから一歩踏み出せる。
たとえ、それが偽物だったとしても、勇気をもらうことができる。
大事なのは、信じる心なのだと。
「だから、私はこの石ころを、ずっと大切にしようと思ったの、こうして身につけてると、不思議と力が湧いてくる。だって"魔法のお守り"なんだから」
ココアを撫でながら話していると、いつしか笑顔になっていた。
「ユウリにとっては、もしかしたら、ココアが"お守り"なのかも知れないわね」

それぞれに、希望を胸に秘めながら、Letheの川岸に向かおうとしていた。
風が吹いてきた。
ロウソクの灯火は、脆く儚く揺れ、やがて細い煙だけを残して消えた。
第14話"Hope"
終
