「傲慢と善良」と「プライドと偏見」を続けて観て――時代を超えて変わらないもの、変わったもの
先日、邦画「傲慢と善良」(2024年)と、英国映画「プライドと偏見」(2005年)を続けて観ました。辻村深月さん原作の現代日本を舞台にした婚活ミステリーと、ジェーン・オースティンの古典を映画化した19世紀イギリスの恋愛物語。一見、まったくの別世界を描いた作品です。
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けれども不思議なことに、観終わったあとに胸に残った余韻は、よく似ていました。「人が誰かを選ぶとき、いったい何を見ているのだろう」という、静かな問いかけです。
二つの作品の重なり
「プライドと偏見」の主人公エリザベスは、ダーシー氏の高慢な態度に偏見を抱き、彼を遠ざけます。一方ダーシーも、エリザベスの家柄や身分への偏見から、素直に気持ちを伝えられません。二人は誤解と思い込みを重ね、ようやく相手の本当の姿に気づいていきます。
「傲慢と善良」の架と真実もまた、お互いの本質を見ないまま付き合っていました。架は婚活アプリで「もっといい人がいるかもしれない」とどこかで真実を値踏みしています。真実は親の期待に応えて「いい子」であり続けたために、自分の意志で何かを選ぶことができません。
時代も国も違うのに、両作品が描いているのは同じことです。人は、目の前の相手そのものではなく、自分の中にある「ものさし」で相手を測ってしまう。そしてそのものさしには、自分の傲慢さや偏見、過去の経験、世間の評価が混ざり込んでいます。
「偏見」と「善良」――対になる二つの誤り
ここで面白いのは、二作品が選んだ言葉の対比です。「プライドと偏見」では、相手を遠ざける誤りが偏見――つまり自分の思い込みで相手を判断してしまうこと、として描かれます。エリザベスはダーシーの第一印象に引きずられ、彼の本当の人柄を長いあいだ見誤ります。これは、自分の頭で考えて出した結論が間違っていたという、いわば能動的な誤りです。
一方、「傲慢と善良」の「善良」は、まったく違う性質の誤りです。真実は嘘をつかず、親を悲しませず、誰にも迷惑をかけずに生きてきました。世間的にはまぎれもなく「いい子」です。けれども作中で結婚紹介のプロが語るように、その善良さこそが彼女を苦しめます。自分で何ひとつ選んでこなかったから、いざ自分の人生のパートナーを選ぶ場面になって、何を基準にすればいいのかわからない。「ピンとこない」という言葉でしか拒否を表現できない。
つまり「善良」とは、自分の判断を放棄してきたことの裏返しなのです。親の言うとおり、社会の期待どおりに生きてきた人ほど、自分の本当の気持ちが見えなくなる。そしてその空白を埋めるために、無意識のうちに「自分にふさわしい人はもっといるはず」という傲慢さが顔を出します。謙虚さと傲慢さは、じつは表裏一体なのです。
エリザベスの「偏見」が自分で考えすぎた結果の誤りだとすれば、真実の「善良」は自分で考えてこなかった結果の誤り。正反対の方向から、同じ「相手をきちんと見られない」という地点にたどり着いてしまう――これが両作品を続けて観たときに浮かび上がる、奇妙な符合でした。
私自身の経験から思うこと
数年前、知人の婚活相談に乗ったことがあります。彼女は30代半ばで、条件のいい男性と何度かお見合いをしていましたが、どこか「ピンとこない」と断っていました。年収、学歴、容姿、家族構成―一つ一つは申し分ないのに、決められない。
あるとき彼女がぽつりと言いました。「自分でも何を求めているのか、わからない」
これは「傲慢と善良」の真実そのものでした。彼女もまた、子どもの頃から「いい子」で、親の望む進路に進み、親の望む職業に就いてきた人でした。自分で何かを選んできた経験が少ないから、いざ人生最大の選択を前にしても、選び方がわからない。
一方「プライドと偏見」のエリザベスは、母親に勧められた裕福な求婚者をきっぱり断ります。経済的に苦しくなるとわかっていても、自分の気持ちを大切にする。彼女には偏見という欠点がありますが、少なくとも自分の頭で考え、自分の意志で選ぼうとしています。今の私たちの目には、むしろ彼女のほうが自由に生きているように見えるのは、皮肉なことです。
現代日本の恋愛観について思うこと
この二本を続けて観て感じたのは、現代の日本では「善良ゆえの不自由」が、かつてないほど広がっているのではないか、ということです。
選択肢が少なかった時代には、限られた範囲のなかで決断するしかありませんでした。けれども現代は違います。マッチングアプリを開けば何百人ものプロフィールが流れ、SNSでは他人の結婚生活が次々に目に入る。選択肢が無限にある一方で、私たちは知らないうちに「世間がよしとする結婚像」を内面化しています。自分で選んでいるつもりが、じつは他人のものさしで選んでいる――真実の姿は、決して特別な誰かの話ではありません。
エリザベスとダーシーが幸せになれたのは、最終的に互いの偏見を捨て、相手そのものを見たからでした。架と真実が再び向き合えたのも、自分の傲慢さと、そして善良さの裏にある空っぽさに気づいたからです。
結局のところ、恋愛と結婚の本質は時代を超えて変わらないのかもしれません。相手をきちんと見ること。そして、相手を見るために、まず自分自身のものさしを疑ってみること。
「偏見」を手放すのも、「善良」から一歩はみ出すのも、どちらも勇気のいることです。でも、そこからしか本当の出会いは始まらないのだと、二本の映画は静かに教えてくれた気がします。

