伊達朱里紗をドラ1で引き抜く新チームが参入して欲しい
コナミの辿り着いた行き止まり
5月1日、セミファイナル最終日に雷電が滑り込みファイナル進出を決めたことに伴い、23-24に続き24-25シーズンもコナミはそっとセミファイナル敗退となった。
スポンサーとしてのコナミ社はどう考えているのだろうか。
別に万年中位帯止まりであっても、一定の存在感さえあれば広告塔として何ら差し支えないと考えており、それよりもメンバー入れ替えによるダーティイメージの方が避けるべきとの思考なのかもしれないが、成績不振のタキ・マリを切れないと永遠に中位帯止まりで優勝するビジョンは見えない。
コナミの何がキツいって「タキヒサのチーム」というタテマエと「伊達のチーム」という実態がどんどん乖離していることにある。
寿人こそレギュラーシーズン後半から持ち直してきたものの、全く安定性が感じられない滝沢の登板数を抑制して、軍師、園田、堀のように、実質的に主力で安定的にポイントを持ち帰る伊達を遮二無二出し続ける根性を見せないと永遠に優勝には届き得ないことに誰もが薄々気づいている。
そうした乖離のもたらす軋みの兆候は23-24時点からいくつも現れており、伊達は敗退時に「他の3人が不調でも自分だけで勝てるような力が欲しい」というコメントをしている。これは「自分が連闘することに対する世論の後押しが欲しい」といったようなニュアンスにもとれる。また寿人は閉幕式で「来年はチーム練習を増やしたい」とも宣言しており、これは「伊達はタキヒサの(=連盟の)嫡流である」という正統性を付与する試みとも捉えられる。

コナミの幸せな展望
高宮は二階堂姉妹嫡流∧和久津嫡流の正しき連盟女流嫡流なのだが、今期のような成績が続いた状態で広告塔に据え続けるにはそろそろ「薹が立つ」頃合いではなかろうか。(薹が立つ=盛りを過ぎたという意味である。)
ゲーム版のファイトクラブの登場プロも入れ替わった頃合い、若手の新メンバーに禅譲するなどのストーリーもあり得るのではなかろうか。あまり「薹が立ったから」みたいな印象を与えないよう、その場合はタキをセットで満了にしてダーティ感を希釈するのが良いと思うが…
ゲーム・ファイトクラブの出演プロのプールから考えるならば、タキ穴はみうみう、阿久津、そしてマリ穴は川上、木下、サミーあたりが埋めることが戦略としては考えられる。
しかし、ファイトクラブの編成を展望(空想)するに、「連盟嫡流」の色が無い者から満了するというタテマエを守らなければならないように見える。すなわち、「連盟色」を持たない伊達より先に、タキマリを満了することはないと。
以下では、コナミの辿る次のようなルートについてそれぞれ考察してみたい。
まず、コナミの幸せなルート①として、
伊達が桜花を獲って「連盟嫡流」の説得力を獲得、心置きなく伊達より先にタキマリを満了できるようになるというものがある。
(これを論じる過程で、コナミのこういう道もあるルート①’としては、マリが桜花を獲ってもう切られる事はなくなり、タキが居づらくなって自ら去るという派生もあり得ると明らかになる。)
そして、コナミにとってというよりMリーグ全体にとって良いと思われるルート②として、
伊達が新チームに引き抜かれてコナミを抜けるというストーリーを真剣に考察する時期が来ているのではないかと考えられる。

”連盟嫡流”という正統性
24年桜蕾戦の際、伊達は出場した若手女流・瀬戸麻衣のタレント性について「思わず魚谷にLINEした」というようなツイートをしていた。(伊達は24年以前のツイートを削除しているため確認できない)
るみあきチャンネルで亜樹が「昔は新人女流に『目標とする憧れのプロは?』という質問をしたとき『二階堂亜樹』と答える人が多かったが今は『魚谷侑未』と答える人の方が多いらしい」と紹介していたように、魚谷は亜樹と違い「連盟レジェンズの末娘」的な色合いをうまく脱臭して、次世代の女流への系譜となるストーリーを繋げていくことができる可能性を示す稀有なプレイヤーであると評価できるところ、
ここでは魚谷を頂点にし、桜蕾戦を函数とした女流としての登竜門的なエコシステムが機能していることをアピールすることで、伊達は自らを連盟の系譜に位置づけようと取り組んでいるようにも見える。実際、Mで大暴れの伊達が第1期桜蕾に鎮座しているのは、連盟にとっても広告塔・ロールモデルとして据わりがいい。

若い瀬戸との間に「中堅として」伊達が立つ
また、上述のように23-24閉会式の寿人スピーチで「チーム練習を増やす」と表明されたことで、サクラが堀→岡田の師弟関係を演出しているように、タキヒサ→伊達の関係の捉え直しも進む。
その関係を、現行のような芸能界からのマレビトとしての伊達がタキヒサに気を遣われることによって連盟の秩序を攪乱しているというものではなく、純粋な師弟のような形に再定義できれば、コナミのサポーター(タキヒサファンであり、"連盟嫡流"を価値づける保守層)に伊達出場の説得力を与える効果をもたらす、といった狙いがあるといったん解釈できる。
そして24-25シーズンに至り、コナミはサクラをパクって「連闘権」の導入を表明し、その皮切りとして伊達を連闘させるという局面に至った。「タキヒサを差し置いて伊達を連闘させる」方便として「連闘権」を打ち出したようにも見え、このような課題への対処が進んだと感じた。

ルート① 伊達は桜花を獲らなければならない
しかし、裏を返せば、こうした方便に頼らざるを得ないほどにコナミが「伊達のチーム」であるというイメージはいつまで経っても浸透しないし、浸透させないような慣性が働いているとすら感じられる。
それがなぜかというと、伊達が女だからとか、声優という外来種だからとか、そういった表層上の要因ではなく、
①「タキヒサや二階堂姉妹を知ってたから」とか「魚谷に憧れたから」とかではなく「襟川がいたから」に過ぎないように捉えられる入会の経緯
②太、仲林、堀、園田など他団体のMリーガーとの関係をフックに、他団体の強豪たちとのセットを通じて技を磨き力をつけているように捉えられる成長過程
③そうして培った力を連盟リーグにおいては十分に発揮できていないという結果
といった複合的な要因があるように見受けられる。
連盟員として斎藤豪との仲の良さをアピールしても無駄で、彼は連盟嫡流ではなくネトマの人である。『朱色のステラ』では勝又との良好な関係が描かれているが、Mでの絡みは僅かであり、演出は不徹底である。好みの男性の顔のタイプはたろうであって、タキともヒサともクマとも、ましてや森山怪鳥とも言わない。これで「連盟嫡流」と言い張るためには、かなりの努力が必要となるだろう。

そして「連盟嫡流」で無い限りは「コナミのエース」には絶対になり得ない。それゆえに伊達は桜花を獲得しなければならない。それ以外に「コナミのエース」になる途はない。
桜花を獲ってようやく、伊達は縷々述べたような、「連盟嫡流」のイメージと背馳する属性を払拭し、「連盟女流の頂点」としてファイナルに10連闘し、KONAMIを優勝へと導くことができるだろう。迂遠ではあるが、このルートを願うサポーターは、それまで待つしかない。

麻雀界の天皇・渡辺太
24-25において、23-24に現れていたチームの亀裂がついに破局へと歩み出したように感じられる事件が何度も発生した。その1つが伊達の「太も行くと言っていた」や「尊重はしたい」といった一連の滝沢を軽視していると捉えられかねないメッセージ、そして最も議論を喚起したのが、ドリブンズ控え室配信凸事件である。(前述の通り伊達のツイートは削除済み)
#滝沢和典 選手 おかえりなさい!!#KONAMI麻雀格闘倶楽部#Mリーグ pic.twitter.com/wJELlevEI3
— KONAMI麻雀格闘倶楽部@Mリーグ【公式】 (@mfcmleague1) February 20, 2025
そこまで蔑んだトーンではないものの、「おまえサラリーマンが上司に『尊重はしたい』とか言うと思うか?」など「尊重はしたい」発言はタコ殴りにされた。そして今度は滝沢が放銃するたびにTL上のヴァルキュリアたちが一斉に「尊重はしたい」とか言い出す展開が生まれるなど、ミーム生成器としての伊達のタレント性が改めて明らかになるが、今は措く。
そしてこれ、4.8伊達ドリブンズ控え室配信凸事件である。
確かに伊達は「距離感がおかしい」し、自分自身ではそのことを「撮れ高やしええやろ」くらいに思ってる感じを受け、身の回りに「こういう奴おるわ」という視聴者のうわぁ意識を的確に刺戟して来るのが炎上体質に繋がっていると思うが、これも本稿では深く立ち入らない。
ここで議論したいのは、伊達が「タキヒサよりも太を頼っているのではないか」という視覚に対する一つの考察である。
やや晦渋な記述にはなるが、元フィギュアスケート選手で、現在はスポーツ科学の研究者となっている町田樹氏による「スポーツをめぐる技術的進歩史観の転回」という論考において、次のような記述がある。
(以下に掲載誌を挙げる。)
さらに時代は今、人工知能が人間の能力を上回る技術的特異点(シンギュラリティ)を迎えようとしている。二進数を用いる現行コンピュータとは処理速度が桁違いの量子コンピュータが実用化され、人工知能がより速く、より大量に、より多角的にスポーツを学習ならびに分析することができるようになれば、その人工知能が導くアルゴリズムは規格という域を超えて、誰も否定しようがない真理に近づいていくやもしれない。もし本当にそうなれば、アルゴリズムの生み出す支配的な権力は、とてつもなく強大なものになるだろう。このような権力下に置かれると、アスリートは自らの身体で技術を探求したり、自らの意思でプレイを行う意義をいよいよ見失いかねない。そうしてアスリートの身体は、まだ見ぬ技術を探し求めて大海原を航海する「エンデバー号」から、技術に関する全てのアルゴリズムが蓄積されたアカシックレコードに接続するための単なる「端子」へと成り果てていく--という悲観的な未来も絵空事ではなくなるかもしれない。
オンレ雀荘で武者修行して実力を高めていった、という昭和-平成期のプロ雀士モデルを通じてタキヒサが推進し、堀や仲林が極めたように見える、自らの身体・自らの思考を用いて探求する「エンデバー号」の近代史観は麻雀のうえでも一定の臨界を迎え、(実際に仲林は「現代麻雀の到達点」とも評される。)
むしろ太に代表される、どこか人智を外れたところにある「アカシックレコード」へ、もっとも純度高く接続すること/できることをプレイヤーたちが志向するポストモダンの境地に、スポーツだけでなく麻雀もまた至ったのではないかと、ここ最近のトレンドから解釈できないだろうか。
周知の通り、技術的特異点(シンギュラリティ)を二つ名とする渡辺太の打ち筋は、麻雀AI「NAGA」の中のタイプの一つである「オメガ」のモデルとなっており、彼はただしくポストモダンの麻雀を体現した人物として人々の前に立ち現れている。
「NAGA率」なる打ち筋の「正しさ」を評価指標として、プロ雀士達の「実力」が測定される時代において、「正しさ」を独占する立場の者が保有する権力はどれほどのものであろうか。彼は「NAGA」という「神」が人の姿に顕現したように捉えられている、と言っても過言ではないだろう。
そして、神ならぬ人々は、神に直面した時にどのように振る舞うのか。これは戦前における「天皇」の比喩がわかりやすいように思う。戦前において右翼団体や軍部は、天皇の統帥権という理論武装の元、天皇本人の意思とは関係ないところで、自分たちの価値観を追認する存在として天皇を都合良く用いながら、暴走して戦争へとなだれ込むという愚挙に至った。
「NAGA」と一致している/していないのだから、あなたの打ち筋は「正しい」/「正しくない」という壟断は、「NAGA」のアルゴリズムが「訊いてみて」「因数分解できない」限りにおいてはインチキ占い師と位相においては変わりないにもかかわらず、あたかも他者を一方的に評価する印籠として機能してしまう。
したがって、伊達が「太はこう言っていた」と伝えるのはタキヒサに失礼、みたいな批判は的外れとまでは言わないが本質的ではない。
以上のような補助線で見れば、伊達は、太のアカシックレコードに託宣のお伺いを立てているに過ぎないのであって、タキヒサの「エンデバー号」に敬意を示している/示していないという評価はそれとは中立に存在する。
言い方を変えれば、タキヒサへの敬意と、太への請願は矛盾せず併存し得るものであると解釈できるのである。「太もこう言ってましたよ!」は、「アカシックレコードへの接続はできていた」という評価指標の明示として、きちんと”慰め”として機能しているのだ。
逆に言えば、仮に同じ「エンデバー号」に乗っている堀や仲林を優先して、「堀慎吾が言っていた」とか「仲林が言っていた」とか伝えたとするならば、それは確かに全く意味が変わってくるのだが、伊達は仮にタキヒサよりも彼らを信頼していたとしても、それを伝えないだけの分別はあるのではないかと私自身は思う。(ただしこれは、そうは思わない人もいるかもしれない。)
問題は、事柄の性質が仮にそうであったとしても、タキヒサ・連盟・コナミと伊達の間には亀裂が生まれてしまっていると、世間がそう解釈してしまうことである。上述したように、芸能界からのマレビトとしての伊達がタキヒサに気を遣われることによって連盟の秩序を攪乱しているという先入観は、拭いがたく確かに存在しているのだから。

ルート② 伊達はコナミを抜けなければならない
ここまでの議論を整理するならば、伊達を取り巻く状況は、
①タキヒサ・連盟・保守・エンデバー号モデル
②太・ポストモダン・アカシックレコードモデル
が絡み合って構成されており、今後、伊達はどのポジションに身を置くかを選択していくことになるだろう。
「伊達は滝沢より太の方が強いと思っている」「思うのは自由だがそう捉えられる発信をすべきではない」という批判は、伊達が帯びる「連盟嫡流」の、既に無きに等しいブランドを益々毀損する行いとして心配されている、という構図であるとも解釈できる。
「桜花」すらも説得力に及ばなくなるようなブランドイメージの毀損は確かに慎むべきであろうが、一方でタキヒサ・連盟・コナミというチームが伊達にとって枷にしかならないのであれば、そこから逃れて新チームを築くのが最適解になる。強い伊達には選択肢がある。
「伊達の強さは連盟・タキヒサが培ったものだ」「伊達は桜花を獲ってそれに答えたのだ」というお化粧を施していくことは、果たして良いアプローチなのだろうか。やはり伊達は「連盟嫡流」の外側に強さがあるという演出の方が良いような気がしないだろうか。
だとすると解決策は新加入チームがドラ1で伊達を指名して、伊達のためのチームを形成することなのだが、そうするとタキヒサファン+連盟保守からは睨まれ、さらに斎藤豪とか襟川とかでメンバーを囲ってバチボコに炎上しそうではある。いや、流石にセット厨活動を通じてもうちょい人脈拡がってるか。
伊達は「連盟色」を払拭してはどうか、と考えるのには理由がある。
おりよく瑞原が良い記事を提供してくれたのだが、
少し話が飛躍するんですけど……今、麻雀は大人の男性が嗜む趣味から、競技性のある知的ゲームというイメージへと変わっていく過渡期にあります。私が現役でいる間にどうなるかわからないし、何世代先になるかわかりませんが、麻雀が多くの人に愛される世界を作るために私も繋いでいきたいです。
年々、麻雀のイメージは向上していると実感しています。小学生で麻雀をやる子も増えているし、中高生もアプリで麻雀をやる人が増えています。だから一歩ずつ普及が進んではいるんですけど、今はまだようやくその流れを作るための立ち上げが終わったところで。その熱を収束させないよう、ここからがすごく大事だと思って活動しています。
麻雀が「eスポーツ」や「メンタルスポーツ」といった看板を掲げて、新しい時代の娯楽として自らを位置づけようとしているなかで、「伊達がドラ1として好き放題できるチームが参入する」ことは、まさに「大人の男性が嗜む趣味」の世界観を体現した連盟保守のような空気感を卒業して、男女の垣根なく強さを追求できるeスポーツとしての世代交代が達成される、そんなエポックに位置付けられるようにも感じて期待してしまうのである。
ひとくちに女流と言っても、そうした役割は例えば連盟保守の系譜を色付けられた亜樹にはもはや果たせない。
魚谷にはブランクができてしまったので、新チームで戻ってきても、「戻ってきた」としか解釈されない。
瑞原は(連盟ではないが)エポックとなるキャラクターとしてはワンチャンあるかもしれないが、パイレーツがハマり過ぎてしまったため、新チームの基軸になるビジョンは上手く見えないだろう。
パイレーツにおいて彼女は謙遜もあってか、「チームメイトから教えてもらった」「チームメイトに怒られた」というレトリックをしばしば用いるが、女流最高位に登り詰めた瑞原ですら、男から教育される地位に過ぎないというメッセージを発することで、女性のエンパワメント効果が限定的になってしまっているきらいがある。
ゆえに伊達なのである。伊達しかいないのである。
連盟保守のコナミというチームから電撃的に引き抜きを経て、アカシックレコードを探求する、新時代のeスポーツを担う新チームを率いていく結節点に立てるのは、保守色を帯び過ぎず、男と対等に渡り合うタレントとしての伊達しかいないのである。
随行する残り3人の家来たちは、伊達は自身が女なので、遮二無二他団体の男性タイトルホルダーを取りに行けるという副次的なメリットもある。一馬でも下石でも直哉でも啓文でも、選り取り見取りである。
その時点での戴冠者で脇を固めれば、時代の流れを味方につけたチームが爆誕するであろう。
24-25シーズンのセミファイナル、コナミは「最終日に、滝沢を差し置いて伊達を出せた」のがひとつの成果ではあった。着実に伊達をチームの主軸へ押し上げようとする流れができている。この流れを止めず推し進めるルート①を行くのか、いや、流れができた今だからこそルート②が劇的になるのか。
すなわち伊達が桜花を獲るのが早いか、コナミを見放すのが早いか。それが今後のMリーグの一つの見ものであることは間違いない。

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