逢川恵夢はタカラヅカ化するABEMASにBetしない
タイトルはいわば「釣り」で、逢川恵夢は本記事の重要な構成要素ではあるものの、彼女自身を主題にしたいわけではない。本記事ではMリーグという舞台の性質に対する受け止めについて、演者としてのMリーガー間に存在する懸隔と、これに相関してファン層の規範意識が複線化しているのではないか、という見立てを論じてみたいと考える。
伊達朱里紗ドリブンズ控室配信凸事件が浮き彫りにした分断
筆者も過去の論考で取り上げた「2025.4.8伊達朱里紗ドリブンズ控室配信凸事件」について、当時さまざまに分析ノートが記述されるなか、その主要な論点になったのは、以下のような視聴者の立場・見解の分断に基づいて導出されるそれぞれの主張であった。
①「闘いの見届人」
Mリーグを優勝賞金5000万円(7000万円)を分捕り合う競争のフィールドとして捉える者たちで、彼らは「Mリーガー同士はリーグ戦を争う敵同士なのだから、楽屋に入り込んで敵チーム同士で牌譜検討を行うような馴れ合いは見せるべきではない」と主張した。
②「頭脳ゲームの視聴者」
麻雀を頭脳ゲーム・メンタルゲームとして楽しむ者たちで、Mリーグという”最高峰の舞台”においてレベルの高い牌譜が生成されていくのを寿ぐ彼らは、「いやいやMリーガーである前に麻雀プロである彼彼女たちが、レベルの高い打ち手同士で議論を重ねて研鑽するのはアリでしょ」と主張することになるだろう。
③「関係性の消費者」
そしてさらに近年強まっているのが、いわゆる「推し」文化と相まって「麻雀プロというインフルエンサーである彼彼女たちが闊達な議論を通じて仲良く盛り上がっている様子を見せてほしい」と主張するような視聴態度を有する層の拡大である。

これらの立場は、普段は意識されないものの、Mリーグの存立基盤となっているところの「スポンサーは何を求めているのか」=「どのようなビジネスモデルでもって、Mリーグチームを所有することを株主に継続的に説明していくのか」というもう一つの軸を憲法典として参照することでそれぞれの主張の正統性をアピールする。
①は分かりやすく、賞金の分捕り合いに至上価値を置く。
②は、麻雀というゲームの認知度を上げるため、外界の要素をなるべくノイズとして排し、価値中立なゲームが繰り広げられることを評価するだろう。
そして③は、とにかく遮二無二、アテンション・エコノミーにおける地歩を獲得することを欲求していくのだと解釈する。
もちろん、フィクサー・藤田社長の思惑は「プロたちの生活の安定性・持続可能性」であったことはこれまでいくたりものメディアにより明らかにされており、これを達成するためには短期的には①をインセンティブとしつつも、中長期的には②によって麻雀経済圏の足腰を鍛えていくことが企図されていたところ、近年では制御を失ったと言えるほどに、どんどん③の経済が拡大している、というのが筆者の見立てである。③のファン達は、なぜ伊達が批判されるのかが分からない。
私見だが、上述の通り「賞金の分捕り合い」を価値におくのは短期的なものであり、すでに創設から7年以上を経過した現在においてまで、これを主要なビジネスモデルとして捉えるのは本質を見失わせるミスリードであると感じる。5000万円(7000万円)という数字は、「それ自体をビジネス上のゴール」であると主張するためには、ゼロが2つ3つ足りないだろう。

スポンサーは「ギャンブルという悪イメージを排したビジネスモデルであるならば」という留保付きではあるが、ある意味では「儲かれば何だっていい」のである。③へとシフトしていく経済の拡大についても、戸惑いながらも、資本主義社会においてはこれを堰き止めるほど悪い流れであるとは考えないだろう。この意味で、筆者の立ち位置は”スポンサーの価値観を汲み取って”「②に寄るべきと理解しつつも、つい③の楽しさに溺れてしまう」といったところである。
先取りすると、ここでは、「実際には関係性を消費しているのだけれど、あたかもそうではなく、私たちは競技を鑑賞しているのだという建前を保持し続ける必要がある」という複雑な主観が確立されていると表現するのが精確ではないか。この点を少し掘り下げてみたい。
日向「りおちゃん」、白鳥「げきちゃん」
ここまではスポンサーの価値観を類推(多分に忖度)することでファン達が視聴態度を調整している相を描写してきたが、ファン達の語り口はSNSを通じて演者であるプレイヤーたちに伝播し、その立ち居振る舞いへと影響を及ぼすという相互関係が、現代の「推し活」文化の醍醐味でもある。
近年のABEMASの試合後インタビューでは、日向が歳下の東城を「りおちゃん」と呼ぶだけでなく歳上の浅見までも「まきちゃん」と呼んだり、白鳥が同い年同性だが他団体の下石を「げきちゃん」と呼ぶだけでなく、異性であっても遠慮会釈なく「りおちゃん」や「藍子ちゃん」と呼ぶなど、狎れ・馴れ合いが目立つように見受けられる。
ここで筆者は「そういう呼び方を絶対にするな」と主張しているのではなく、あくまでも「インタビューという公式の場では控えるべきである」と述べていく。(上述の図表1における、伊達ドリブンズ控室配信凸に対する②の視聴者の態度なども参照されたい。)
他チームの選手達は、インタビューの場は公式と心得て〇〇選手、〇〇さん呼びを心掛けており、それは「げきちゃん…いや下石選手」みたいな言い直しを行うシーンで強く感じられる。
昨シーズンでは仲林が醍醐のことを「丁寧に呼ぼうとして逆に思わず「清原さん」と呼んでしまった」シーンや、最近では亜樹が思わず「まきどん、あ、浅見さん」と呼んだシーンなどが思い起こされる。「醍醐」は雀ネームであることから、本名を述べてしまうことはまた別の意味合いを孕むものの、視聴者達は「うっかり言ってしまった」と評価していることに注目して振り返ってみて欲しい。

今日のハイライトはやっぱり仲林さんがキヨさんってうっかり言っちゃったとこだろうな
— きよハルンケア (@kiyoharunkea1) January 23, 2025
ABEMASの選手達も、数年前までは控室とインタビュー室は峻別して呼称を調整していた印象があるが、最近は急速に箍が外れている。ここでは「箍が外れている」とマイナスの表現を使ったが、逆に言えばABEMASは、筆者も過去記事でたびたび言及した「ショーマツプロマイド」を発信するなど、③「関係性の消費者」への感度が高いと評価することもできる。
みんな想像して欲しい
— 多井隆晴🦅(おおいたかはる) (@takaharu_ooi) September 13, 2024
野球でもサッカーでもいい
バンドでも劇団でもいい
普通の会社でも学校の部活でもいい
チームメンバーが
こんなんだったら
どんな気持ちになる???
ϵ( 'Θ' )϶ https://t.co/mt7HdRP3s4
Mリーガーの四層構造
さて、ここまで③「関係性の消費者」という言葉を仮置きして使ってきたが、これには多少の学術的背景がある。ここからの議論は『宝塚・やおい、愛の読み替え』(2014)という著作に依拠しながら展開していきたい。
同書は、ルーマンの「親密性のコード」や、セジウィックの「ホモソーシャル」などをキー概念としながら、女性のオタ活(まだこの時代は「推し活」とは言っていない)を通じて、男性同士だけでなく女性同士も絆を深めているという実践を描き出そうと試みているのだが、そのフィールドの一つとして宝塚歌劇団の観劇という「界隈」が(多分に著者自身の趣味を反映して)選び取られている。
そして、その準備作業として、宝塚のスター達が四層構造をなす人格・身体としてファンに受容されている相が詳述されている。以下では同書の論旨にとってはあくまで準備作業ではあるパートであるが、Mリーグを分析するにあたってたいへん示唆に富むという視点で、要点を抜粋しながら、Mリーガーとの相似形を確認していきたい。

まず、宝塚の男役だった大空祐飛は「映画やドラマなどの俳優さんとは違い、舞台で演じる役とはまた別に、大空祐飛という長い時間をかけて作り上げてきた男役像があります。その架空の人物である大空祐飛が、舞台で更に〇〇役という役柄を演じているのです」とインタビューに答えているように、男役という宝塚の世界における男性を演じ、その上で個々の役を演じるという二重の演技をしているのだという。前掲書ではこのように上演される作品の登場人物を「役名の存在」、作品から自律して作品を横断する男役/娘役を「芸名の存在」と名付けている。
これをMリーガーに適用すると、Mリーグという舞台で最高峰の闘牌をする選手としての姿を「役名」、その準備段階として、長い時間をかけ、所属団体のリーグ戦を主な戦場として、Mリーガーに包摂されるために麻雀プロとしての技術力やキャラクターをディスプレイする姿を「芸名」に該当するものとして位置づけることができるのではないだろうか。

次に、宝塚は『歌劇』や『宝塚GRAPH』といった月刊誌や、CS放送の『タカラヅカ・スカイ・ステージ』といった自前のメディアを持ち、ここではタカラジェンヌの稽古場での研鑽の様子や、休日の過ごし方など、舞台裏の姿が描き出されているという。そしてまた、ファンは劇場の出口でスターが楽屋に出入りする姿を見る「入り待ち」「出待ち」をしたり、ファンクラブがスターを招いて「お茶会」と呼ばれるトークショーのような交流会が催されることもあるという。
これらの経済圏は、麻雀界でも『近代麻雀』を始めとする業界誌や、紙ベースのメディアが衰退する中で存在感を増すnote記事が勃興している状況、あるいはYouTube配信、そしてまた、公式の一気通貫ツアーやPVだけでなく、オフ会や雀荘ゲストなどでMリーガーに会いに行ける場がセッティングされている状況とリンクさせることができるだろう。
そして、ここからが肝腎だが、宝塚には「すみれコード」と呼ばれる暗黙のルールがあり、上記のような舞台裏の姿の中にあっても、年齢やスリーサイズ、恋愛話、他人の悪口、給料等の金銭的な話など、一般的に品のないとされる話題は厳格に事前規制されている。
また、歌劇団員には全員に「愛称」がついている。例えば早霧せいなの愛称は「ちぎ」であり、「ちぎさん」「ちぎちゃん」などと呼称されるという。愛称は芸名または本名に由来することが多く、本名を推測することもできるが、在団中にフルネームの本名が公表されることはない。
このように、タカラジェンヌの舞台裏の姿には、ファンに公開されている部分と公開されていない部分があり、ファン達はその両者があることを理解しているというのが特徴であるという。ここでは公開された素顔を「愛称の存在」、非公開の私的な人格を「本名の存在」と名付けて整理している。
この点を麻雀プロに適用してみると、麻雀プロ達はYouTube配信や雀荘ゲスト・バーゲスト活動等でファンと交流することで、宝塚スターよりもむしろ自律的に「愛称」の人格を露出していくことができるし、またそうすることが事実上、彼らの成長戦略・生存戦略にもなっている。

日常のセット活動や、研究会への参加はどうだろうか。これはやや分類が難しく、Xに「今日のセットメンバー!」というような4人組の集合写真がアップロードされるという意味では「愛称」の世界かもしれないが、しかしその内容がファンに公表されている訳ではないという意味では、「本名」の世界に最も近いと分類できるのではないだろうか。
そしてもちろん、家族関係、恋愛関係、麻雀以外の趣味など、ひとりの独立した大人にとって「本名」のフィールドは広いということは、だれしも常識的に理解していることである。
Mリーグの<物語消費>
改めて、③「関係性の消費者」とはMリーガー同士の日頃の愛称の領域における関係性を前提にした上で、舞台の上での何気ない出来事にそれらを上乗せ・投影して、高度にコンテクスト化された物語として消費する視聴態度を指す。
例えば、今シーズン12月11日の第二試合オーラスで東城がトップ目からリーチしたのは、跳満直撃に該当する手組が現実的に消えたことを受けての判断であったが、視聴者からは「伊達を3着にするためにわざとリーチした」などと解釈され、東城と伊達の不仲が、言いがかりのように囃し立てられている。


伊達がらみで言えば、24年12月19日の伊達のオーラス跳満ツモは、確かに最終局での順位逆転という劇的なシーンではあるものの、トップが取れず苦しむ岡田にようやく見えた光明を、不仲とされる伊達が大きな壁となって立ちはだかり阻んだという物語に人々は盛り上がり、この夜の5chの流速はあたかもコンコルドであったことは色褪せない記憶である。


少し伊達の話をしすぎた。本題に戻ると、前掲書では「物語消費」の様相を二つ挙げており、一つは東浩紀を引きながら、「感情表現の省略化」すなわち現代ポピュラーカルチャーではタイムラインのあちこちに「感情を喚起するポイント」を設けておいて、あとは好きなように「読者のほうで補えという感じで作られている」という叙述を紹介する。
もう一つは大塚英志を引きながら「ビックリマンチョコ」のように共通の世界観と情報さえ提示すれば、視聴者は表層の物語だけでなく、深層の大きな物語にも思いを馳せるだろうと見立てられているという。
そして、舞台に立つ演者達の、愛称の存在としての人格を理解し、物語を読み取ることができる視聴者達は、他の視聴者達も同じような物語を共有していることを確信し、「普通の人には見えないものが見える<私たち>を析出する」のである。この機序こそが③「関係性の消費者」たちの絆を強固なものとするのだ。

団体の垣根を超えてセット勉強会で研鑽し合う麻雀プロたちの姿や、深夜まで続けられるYouTube牌譜検討配信のコメント欄にMリーガー達が登場し、相互にコメントし合って配信を盛り上げる姿などがファンに「日頃の関係性」を開示する契機として機能し、Mリーガーはタカラジェンヌと同様、複層構造化された人格として消費者の前に開かれている。
Mリーグのことを「Mの舞台」と通称することも多いが、この"舞台"というレトリックは、プロたちがそれぞれ研ぎ澄ましたところのこうした人格が切り結び、化学反応を起こす場としての意味合いを追認し、促進しているようにも見える。
そしてABEMASの選手達は、こうした視聴態度への感度抜群に、麻雀プロの愛称の関係を積極的にディスプレイし、物語を喚起するためのフックを供給することに余念がない。
さすがはリーグの始原であるプラットフォーム企業の率いるチームとして、Mリーグ全体の盛り上がりに目配せのできるメンバー達であると評価することもできるだろう。
Mリーガーのマトリクス分析
しかし、筆者個人としては、ABEMASの選手たちの実践を「箍が外れている」と表現したように、必ずしも肯定的には捉えていない。③「関係性の消費者」たちからしても、愛称の存在としての人格は、あくまで非公式のコンテンツから供給されるべきであって、舞台の上ではMリーガーとしての役名を果たして欲しいと望んでいるのではないか。対戦後インタビューでの愛称呼びは、四層構造の境界を融解させ、舞台の上をたちまち内輪サークルノリへと傾斜させていく。
そういえば伊達は麻雀遊戯王のインタビュー動画で声優職との両立を問われた際、「自分はそもそも芝居がそんなに好きじゃないことに気づいた」と述べていた。Mリーガーとして「役名の存在」「芸名の存在」までは乗り込んだとしても、「愛称」の世界にまでBetして、四層構造をかたどって物語消費の登場人物へと没入するかどうかは、個々のMリーガーによって見解が分かれていそうである。これを図示したのが図表4である。いくつか代表的なプレイヤーを挙げると、

もとより、②頭脳ゲームの視聴者としての色合いが濃厚な瑞原はYouTube配信でPCを冷凍うどんで冷やすなどの愛嬌を見せたのは今は昔、ファンクラブ結成以降は限定公開ブログを中心に綴ることで「愛称」の世界を意図的に狭め、舞台上の物語消費からは距離を置きたい/置いているように観測できる。
太もまた②頭脳ゲームの視聴者たちの寵児として参入してきたキャラクターに違わず、YouTube配信は「ないおトン」というVtuberのペルソナを纏って実行することで、「渡辺太」とは異なる「愛称」の存在を形成し、Mリーガー「渡辺太」とは人格を切断するという戦略をとっている。
石井一馬は、若い頃はプロ同士の馴れ合いを拒んでピンピンに尖っていたが、ふとしたきっかけで研究会に参加して、強い者同士で研鑽をし合うのは別に悪いことではないという価値観の捉え直しが、人生の一つのターニングポイントであったと様々なメディアで振り返っている。彼は頭脳ゲームを飄々と楽しんでいるように見えて、その実最も、強くなることと自分の存在証明を直結させている求道者としての性質が濃いようにも見える。

というように、考え始めると寝食を忘れるくらいに楽しいテーマではあるのだが、これ以上細かい説明は本文では加えない。読んでいただいた各位も、Mリーガー40名がどのあたりに配置されるかをアレコレ検討して楽しんでもらえれば幸いである。
逢川恵夢はタカラヅカ化するABEMASにBetしない
こうした文脈の中で、ここでようやく、タイトルとして挙げた逢川恵夢について言及していきたい。筆者はオフシーズン、ドラフト後の展開を見守る中で、逢川に対して以下のような期待と不安を述べた。
(Z世代からの黒船、朝比奈ではなく、逢川がアースにアサインされたことで、)「世代交代」に変わる新風として「初の協会女流」である逢川に期待される役割は非常に大きい。
ガオーポーズや令和生まれ設定、演劇部で鍛えたわざとらしい声など、イロモノとしての方向性は、その期待された役割とは矛盾するように感じられる。彼女はこれから、強さを示すことが求められるのだ。しかもそれは、ただの強さではなく、他のプレイヤーとは一線を画す打ち回しや、瑞原・伊達という現行女流の2トップと並び、さらには打ち倒すドラマ性までも要求される。その主人公役を遂行するには、余計な要素は何も要らないのである。
では、上記のキャラ設定という鎧を脱いだ彼女の素顔とはどのようなものなのか。麻雀遊戯王の人生年表では聴いてる側が引くくらいの大阪での貧困生活が語られ、Mトーナメントや日清BS杯のインタビューでは、その明るさの裏の、迎合的なコミュニケーションが身に染み付いたような闇を見出してしまうのは著者だけであろうか。
実際に渋川やたかきなど同世代の協会員は口を揃えて「意外に根は暗い」と評するが、意外でも何でもなく、むしろ「解釈一致」のようにも思える。境遇が真逆で、ボンボン育ちのチームメイト一馬とのシナジーがどのようになるかという危うさも孕んでいるように思える。

だから逢川がシーズン早々年齢公表したことには非常に好感を覚えた。「令和生まれ」を始めとする「愛称」の世界に傾斜しすぎる戦略を切り替え、永世女流雀王という十分すぎる「芸名」を引っ提げて、「役名」の世界をまずは築き、伊達・瑞原に伍していこうという戦略の嚆矢としてはこれ以上にないとっかかりだと腑に落ちたからである。
「愛称」を押し出していくのは、結局のところ、認知を獲得するための健気な努力なのである。Mリーガーになった以上、最低限の認知関数機能はMリーグという舞台そのものが果たしてくれる。そうしたフィールドに到達したいま、逢川は外連味に満ちた「愛称」によって、認知獲得のためにリソースを割く必要はなくなった。まさに「肩の荷が下りた」のだ。
逢川の長尺自己紹介は排され、これからは、「役名」の世界において、真水のコンテンツ力を高めていく方向へとシフトしていくのである。そして優れていたのは、黒縁メガネによる「エロ女教師」などの演出についても、みずから発信・表明するのではなく、周囲の「語るに任せた」ところだ。
汝の道を進め、そして人々をして語るに委せよ
”Segui il tuo corso,e lascia dir le genti !”
(汝の道を進め、そして人々をして語るに委せよ)
この言葉は中世の詩人・哲学者であるダンテの代表作「神曲・煉獄篇」で登場するもので、「他の人からの評価なんて気にせず、思うように生きていきなさい」というように訳されることが多いようだ。
しかし、ここではやや異なる解釈でこの箴言を読んでみよう。ある程度認知を獲得したインフルエンサーは、ファンダムによる語り直しを信頼して、ただ恬淡とファクトの供給を行うべきであると。すなわち「汝の道について、人々にペラペラと語るべきではない」とでも解釈するのだ。
自ら「語る」のは野暮なのであって、解釈や評価はスタッフやファンの手に委ねられているという視座を持つこと。これが却ってファンダムの足腰を鍛え、その持続可能性を高めていくことに繋がるのではないかと思う。

その意味ではインフルエンサーとして一日の長がある中田花奈に学んでみよう。中田花奈は11月21日の「下石越え」「中田越え」の同日連勝のインタビューで、下石のことを「師匠」と言いかけたものの、そうではなく「たくさん教えてもらっている」というファクトベースに言い換えて表現した。これは「師匠」という関係性はあくまでファンダムが語り直すものであって、演者自らが定義するものではないと理解したうえでの、流石のバランス感覚だと言える。
そして、シーズン前に期待感を持って受けとめられていた下石との「週2セット」は、スケジュールもあって「週1」に縮減はしているようだが、シーズンが深まり、中田が好調となって「覚醒」と寿がれるなか、ファンからは「下石塾」と呼ばれ、その劇的な効果が驚かれている。ここで太字にした「覚醒」や「下石塾」は、ファンが言うからよいのであって、下石や中田本人が述べるのは興ざめであろう。
"週2セット"の四層構造
また、筆者はシーズン前、この「週2セット」について以下のように述べた。
下石との「週2セット」はメッセージとしてはとても良かった。堀と岡田のような協会中堅男性と連盟芸能女性という組み合わせの明確な師弟関係を、牌譜検討配信など仕組み化して築ければ、と楽しみにするが、下石のチャンネルは受け皿として弱いので、チーム運営がそのあたりのディスプレイを企画してやるのが良い気はする。
現在のところ、この「週2セット」は、下石、中田と、中田と同年代の女性2人を加えたラインナップで実施されることが多いと説明されているが、配信はされていない。このことについてのファンの不満はそれほど大きくなく、むしろ「中田花奈が闊達に意見を述べる場を設定するという意味で下石の慧眼」と評価されてすらいる。
「週2セット」の取り扱いについては、以下のような選択肢があった。
beastチャンネルでの配信:芸名の世界
下石チャンネルでの配信:愛称の世界
現行の体制:本名の世界
どのような体制をとるか、本人達もオフシーズンの短い時間のなかで頭を悩ませ、最も負担の少ない「本名の存在」としての現行の体制を選び取ったのだと推測するが、結果的にそれは正解であった。
このことによって中田花奈を、心ない配信コメントから守り、自由な発言の場を確保するとともに、その講義内容を他のチームに明かさないことで、蓋を開けて見れば中田花奈が積極的に展開する鳴き仕掛けの背後に、同卓者たちは「何をやって来るか分からない」下石ブランドの亡霊(守護霊)を幻視して翻弄されている。
サクラ堀ー内川勉強会が百害あって一利なしであった故事に学んだのかもしれないが、目先のアテンションではなく地に足の着いた実力向上に取り組んでいると好感している。
「本名の世界」に没入することで、「携帯ストラップがお揃いだったのを匂わせと勘ぐられた」というような副作用もあるがご愛敬。なんにしても、上記引用のようになんでもかんでも「配信してコンテンツにしろ」という意見を述べた筆者のかつての短慮に対し、ああ③関係性の消費者過ぎたなあと、ここで陳謝しておきたいと思う。
冒頭で筆者は、視聴者側にも「実際には関係性を消費しているのだけれど、あたかもそうではなく、私たちは競技を鑑賞しているのだという建前を保持し続ける必要がある」という複雑な主観が確立されているのではないかと仮説を立てた。
以上見てきたように、愛称の世界は③関係性の消費者たちと親和性が高いのは事実であるが、視聴者側が前提視しているこうした演者達の複層構造に配慮し、Mリーガーという演者が積極的に愛称の世界を膨らませて語る必要は必ずしもなく、自然体でええねんというのが筆者の見立てである。
このとき、ABEMASの選手たちの実践は「役名」と「愛称」を混同することで、視聴者の暗黙の「お作法」や、これを踏まえた他の選手達のバランス感覚を台無しにしかねないポテンシャルを孕んでいると感じている。
Z世代がその幻想をぶち壊す
ここで論考を終えても良いのだが、今後の展開を占う一つの要素を指摘しておきたい。それは今シーズンから新たにインタビュアーとしてデビューした四人娘たちである。山本亜衣はキャリア的にZ世代ではないと思われるが、川上レイ、木下遥、かじりさはみなZ世代女子たちである。


麻雀研究者・川上レイは②頭脳ゲームの視聴者として選手達に向き合い、新規4人の中では抜けて良いインタビューを実行できていると筆者は評価している。卓全体が見えているのでキーワードだけで選手の記憶を引き出してるし、選手からの質問にも打ち返せる。選手も安心して喋ってる感じが伝わってくるので、ぜひ登板回数を増やしてほしい。
とはいえ、恩人・太にはメロメロで、トップインタビューにおいて、ないおトン配信に言及しながら「パツキャッチムリキュア」を引き出すに至った。

前述したように太は、YouTube配信において「ないおトン」というVtuberのペルソナを纏い、「渡辺太」とは異なる「愛称」の存在を形成し、Mリーガー「渡辺太」とは人格を切断するという戦略をとっている。
川上レイが公式インタビューにおいて「パツキャッチムリキュア」を引用するすることは、いったん憧(あくが)れ出したはずの「ないおトンの魂」を、「Mリーガー渡辺太の身体」へと再憑依させる実践であるとみなすことができる。このように、②頭脳ゲームを体現したような川上レイであってすら、「推し」の前では③へと傾斜するのがZ世代的である。
例えばまつかよが「推し」の滝沢へのインタビューでしばしば「職権濫用」と揶揄されたとき、それは単なる滝沢へのインタビューの「長さ」に起因しており、その内容については礼節を踏まえており、滝沢の「愛称」へのアクセスについては、(おそらく相当な意識をもって)抑制されていた。これは川上の「職権濫用」が太のYouTubeへの誘導さえ試みていることと比べれば随分と牧歌的であった。
もちろん、古くはコバミサが実況で渋川の配信を念頭に、トップ取り先生の「押せ…」の声色を真似たり、たかきの四暗刻ツモの際には「ついに役満が出ましたねぇ!」と述べたり、明らかにYouTube見過ぎやろお前というツッコミをしたくなるくらいに愛称の世界からネタを引っ張ってきているのだが、実況での言及は一方通行で、選手達はそれに答える必要はないので、むしろ闘牌する役名の姿を鑑賞しながら、副音声で愛称の解説を受けるというのは、世界観の導入として役割を果たしていると言える。


一方で、インタビューは応答を求める呼びかけであるため、役名の存在として立っているはずの選手に向けて、愛称の存在として呼びかけることで、戸惑いを生むことにもなりかねない。これが発生したのが、12月12日、下石同日連闘連勝の2戦目インタビューにおける木下遥の「高評価を押してもらえるのでは」という投げかけだった。
下石がYouTubeで「高評価おじさん」と呼ばれていることを念頭に置いた投げかけであることは分かるのだが、前述の川上の「パツキャッチムリキュア」の猿真似・二番煎じ感が拭えなかったうえに、下石は「ないけどね、アベマには(高評価ボタンは)」と、苦笑いするなど、アベマの番組でYouTubeネタをこすられることに対する戸惑いをもたらしていた。

「連盟のゴリ押し枠」と揶揄される木下遥にはこういう危うさがあるが、木下に限らず、Z世代は自分自身がインフルエンサーとして生きていく覚悟が決まったプレイヤーが多く、③関係性の消費者と親和する性質を持っている。
彼女たちがインタビューで、愛称の存在としての自己にこの場では言及して欲しくない(①や②の立場でいたい)Mリーガーたちとせめぎ合う局面が増えていくのではないか、という見立てを記して、いったん筆を置こうと思う。
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