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中田花奈のドラマトゥルギー

麻雀プロ・中田花奈の3か年

Mリーグ25-26シーズンファイナル、中田花奈の最終登板は5月14日(木曜日)の第一試合で、トップを取って、優勝への希望を繋いだところで終わりとなった。が、その日の第二試合で東城りおがラスを引いたことで、最終金曜日に向けたサポーターの熱量はある程度終息へと向かった。

条件戦ではなく爆発が求められた木曜日に、その役割を存分に果たした中田花奈が、チームのシーズン最後の輝きになった

ヘッダーにもインタビューシーンを掲げたが、火曜日に下石が引いたハコラスは、振り返ってみれば、もしかしたら彼が加入するかもしれなかったチーム・風林火山からの「引導」であった。あるいは「開幕戦下石の6s単騎に始まり、最終戦下石のドラ6s放銃で終わった」というようにドラマめかせることもできるだろうか。

川上レイ「このあとのプランを教えてください」
「明瞭に数値化した目標設定」はシーズンを経て今や下石のトレードマークにまで至った

参入以来3年目にして初めて進出したファイナルを通じ、BEAST Xはトップも多かったがラス、しかもハコ下の大きなラスを引くことが多すぎた。結果として優勝を逃したのは、まずは短期決戦における確率の偏差の範疇であると負け惜しみを言いながら受け止めざるを得ない。

しかしながら、道中ではただ3着を積み重ねてジリジリと後退するしかなかった消化不良の雷電が最終日の同日連勝で最終順位を上げて溜飲を下げたのと比べ、BEASTサポーターのこの2週間の情緒の振れ幅は大きく、幕が降りてからの余韻はどうしても最終日の「敗戦」ムードへと抑圧される

本記事は、そんな落ち込んだ気分を振り払うためにも、2020年に刊行された『乃木坂46のドラマトゥルギー』(以下、『ドラマトゥルギー』と記載)という批評を参考文献としながら、Mリーグ25-26シーズンにおいてBEAST Xというチームに「残留してしまった」中田花奈が、9月の開幕から5月のファイナルまで、計13勝308.9ptを積み上げ、「覚醒」と寿がれる成績を残したストーリーについて振り返るとともに、次シーズンへの期待をしたためるものである。

あらかじめ断れば、橋本奈々美、生駒里奈、齋藤飛鳥など往時のメンバーのインタビューを縦横無尽に召喚しながら論じる『ドラマトゥルギー』にあって、しかし中田花奈の名前は一切登場しない。

2020年4月に刊行された本書は、同年10月の中田花奈のコロナ禍中の「卒業」、あるいはその後の麻雀プロとしてのキャリアに言及できるはずがないのはもちろんだが、乃木坂46在籍当時における彼女のプレゼンスが「その程度のものである」という傍証にもなっている。

「シンプルに顔面が整いすぎていてびっくりしてます。アイドルとしてはある意味で普通なんでしょうけど、Mリーグに混ぜるとすごい」
「現役時代は見た目褒められる事皆無やったけどね」

そこで、本記事の記述に際しては、25年3月に刊行された中田花奈のフォトエッセイ『解析メモリアル』にも目を通した。刊行から1年以上経ってようやく、あるアイドルファンというわけでもないMリーグ視聴者に「目を通すだけの価値」を感じさせるに至ったのが、今シーズンの彼女の活躍ぶりだったと総括することもできるだろう。

『ドラマトゥルギー』の論述は、「アイドルが演じること」というテーマを背骨にして展開されており、グループとしての演劇的実践や、メンバーたちの演技が照らし出すものついての解釈が主たる分析の対象とされているため、グループ所属当時に女優的な打ち出しの乏しかった中田花奈に言及する紙幅がなかったのは致し方ないだろう。

例えば『ドラマトゥルギー』の記述は、乃木坂46のキャリアのスタート地点として舞台『16人のプリンシパル』から説き起こすのだが、『解析メモリアル』においてこの舞台は「逃げ出したかった」「断片的な記憶しかない」フィールドとして振り返られている。

しかしながら、中田花奈がMリーグ参戦以来3年のキャリアにおいて辿った軌跡は、『ドラマトゥルギー』で描写された「アイドル」に関する見立てをかなりの程度あとづけるものになっている。このことをいくつかの観点から論じたい。

すごいかわいい

「選抜」という見慣れたはずの風景

小林剛が23-24シーズン優勝インタビューで「私と瑞原を鍛えてくれた石橋・朝倉」に言及したことで絶賛されたように、チームを去った選手への思いを残されたメンバーが語るシーンに目の潤む人は多いだろう。

25-26シーズンの基点としての入れ替えオーディションについて、大介は「猿川・菅原に肩入れしてしまう」「肩入れしながら観るのはお互いにとってプラスが無い」「だからオーディションは観るつもりはない」と理知的な口調で述べたが、一方の中田花奈は涙ぐみながら、「もしどっちかが競ってたり、1位2位を争ってたりしたら観ていられない」と、ほぼ同じ内容であるにもかかわらず極めてナイーブな感情を吐露していた。

「ひろえはキレてる」と取り沙汰されたが、チームメイトへの表情は柔らかい

結果的に猿川は予選足切り、菅原は決勝で敗れた。菅原が自分に言い聞かせるように「Mリーガーでなくなったからといって、プロでなくなるわけじゃないし、まして死ぬわけじゃない」とコメントしながら敗れていったのが印象に残る。中田花奈がナイーブに危惧した「猿川と菅原の一騎打ち」までは起こらなかったが、2人とも生還はできなかった。

興行上の地位を賭けて争う「選抜」-それも「選抜」自体がエンターテイメント化された-という局面を、しかし中田花奈は他のMリーガーの誰よりも経験してきたはずであることを私たちは知っている。

すなわち、乃木坂46の「姉」であり「ライバル」であったAKB48グループが10年代アイドルシーンに刻印したゲームのルールとしての「総選挙」は、「センター」「選抜」「アンダー」というヒエラルキー構造を現出させた。

この構造をめがけて所属アイドル一人一人が魂を賭して格闘する舞台の表裏が絶え間なくディスプレイされることで、10年代を経験した大衆は「アイドルとはセンターを目指し格闘するものだ」という共通見解を持つに至った。

女性アイドルシーンについて着目すべきは、彼女たちを選別し序列化するプロセスが、半ばエンターテインメントの印象を決定づけるほどに巨大な呼び物になってきたことだ。AKBグループの選抜総選挙は、二〇一〇年代を通じて恒例イベントとして繰り返され、アイドルに関するトピックのなかでも社会の耳目を大きく集めていた。(中略)
グループ内の配置決めという、本来ならば内輪の論理でおこなわれるイベントを祝祭として拡大し、社会を巻き込みながらグループのプレゼンスを拡大する営みは、AKB48の特徴であり強みになった。(中略)
当事者であるAKB48グループのメンバーたちは、あるいは自らをアピールする場としてこの序列争いに積極的な意義を見いだし、あるいはこのイベントにためらいや疑念を表明し、「戦場」にどのようなスタンスで臨んでいるかをそれぞれに表明する。それら彼女たちがみせる総選挙へのさまざまなスタンスそれ自体をも物語のパーツとして含み込みながら、選抜のエンターテインメント化は歴史を重ねた。

『ドラマトゥルギー』第7章(P138〜139)

しかし『ドラマトゥルギー』では、乃木坂46はこうした「選抜」の構図について、ためらいを見せてきたと分析する。その論証として、「デビュー以来五作品、およそ一年半の期間にわたって乃木坂46唯一のセンターであり続けた生駒里奈」が「わたしにとってのセンターはこわい場所でした」とさまざまな媒体で語るインタビューが引用される。

センターになると、それを喜んでくれるファンと、「なんで生駒なんだ」って批判する人、真っ二つの意見が同時に出てくるんです。この世の真逆のものが、うちにガーンとぶつかってくる感じ。
(中略)
この引用からは、象徴的なポジションに選別されることが、負のまなざしを何重にも引き受ける契機でもあることがわかる。前提として、アイドルとは高い有名性を手にして多くのファンに承認されればされるほど、同時に自身の価値に対して疑義が向けられていく両義的な存在である。あるときにはその「実力」に疑問符が付され、またあるときには大資本の商業主義が糾弾される際の格好の対象になる。
(中略)
「センターになると、それを喜んでくれるファンと、「なんで生駒なんだ」って批判する人、真っ二つの意見が同時に出てくるんです」という生駒の言葉が想定するのは、そもそもアイドルに好意をもたない「世間」ではなく、本来はアイドルに対して好意的なはずの層、すなわちあらかじめファンである人々の反応である。

『ドラマトゥルギー』第7章(P144〜146)
インタビュー部分の初出は引用元に記載

このくだりを読んでいて、筆者は刊行の3年後の麻雀界において、Mリーガーとなった中田花奈が受けたバッシングを、これほど解像度高く予示できるものかと戦慄した

中田花奈がMリーガーにドラフト指名されたとき、これを寿いだファンたちと、「実力に疑問符を付し」「大資本の商業主義を糾弾した」ファンたちで、視聴者たちは二分された。そして中田花奈が最も傷ついたのはバッシングの主体が「麻雀愛好者」たちであったことだろう。「好きだった麻雀が怖くなった」と述懐するのも無理はない。

アイドルとしての中田花奈自身が選抜の記憶について次のように回想するとき、「選抜落ち」として立ち現れる苦痛は、「アンダーセンター」という立場を得ることで、生駒と似通いつつも、後年にBeast入れ替えオーディションにおいて体験する内容を先取りしている点で特徴的であるように思える。

デビューから3枚連続で選抜メンバーになり、フロントも経験させていただいたものの、4枚目のシングルで突然選抜を外れることになりました。しかも、それは大学には進学せず、アイドル活動に専念すると決めた直後のことでした。
その頃の私は、どこか投げやりになっていることも多かったと思います。テレビ出演などのお仕事は減って、7枚目以降のシングルに関しては「どうせ選抜には入らないだろう」という心持ちでした。
(中略)
アンダー曲『春のメロディー』でセンターを任されたときも、胸中は複雑でした。スタッフの方から「中田にアンダーの士気を上げてほしい」と言われましたが、選抜から落ちてきた私自身の士気が下がっているのに、そんなことできるわけがない。それに、選抜から落ちてきた私が突然センターになって、周りのメンバーだってあまりいい気はしないはずです。

『解析メモリアル』選抜からアンダーへ(P48)

整理しよう。中田花奈は乃木坂46という「選抜」に疑義を呈す価値観をもちながら、現実的に「選抜」に規律されたグループにおいて、「選抜」に漏れてきた出自を持つ。

そんな中田花奈がBEAST入れ替えオーディションにおいて直面したのは、自分は「選抜」を経由せずに、それでいて「選抜」をパスし、自分よりも優れていることが明白にみえる選手たちを差し置いて、BEAST Xというチームの「センター」のような立ち位置へ送り込まれるという構図だった。

すなわち中田花奈は25-26シーズンの開幕に先駆けて、①そもそも疑義を抱く「選抜」という論理で、優しいチームメイトだった猿川・菅原が地位を失うプロセス、②自分自身もまたその「選抜」に身を投じていれば得られたであろう罪悪感の緩和の機会の剥奪、③その能力が不足していると自覚しているにも関わらず、怖い怖い「センター」の立場を引き受けること、という三重苦に苛まれていたと振り返ることができるのだ。

ドラフト時の「あぁ、選ばれてしまった」とでも言いたげな「微妙な顔」はぜひ動画で確認されたい
@じゃいちゅ〜ぶ

アイドルとは「門外漢」であること

こうした「負の感情を引き受けた」経緯を引き摺りながら、リーグに包摂された23-24シーズン及び24-25シーズンにおいて、中田花奈の打牌はたびたび批判の的になった。

繰り返される「点数申告ミス批判」は言うに及ばず、最も先鋭的な形で中田花奈への「負の感情」が結実したのが「濡れ衣誤ロン事件」及びドキュメンタリー「熱狂」で取り上げられた「SNSでの意見募集を言い訳とみなされた」空気であっただろう。前者については同卓していた渡辺太が「聞こえませんでしたよ」と擁護することで鎮静した一回性・一過性の事件に過ぎないが、後者は中田花奈の発信を萎縮させ、その影響は今に至るまで長引いている

「失った発信の場所」

ドキュメンタリー「熱狂」では、「自分の打牌をきっかけにした議論の盛り上がり」を企図して投じたポストが曲解され、「女の嫌なところを見た」などと批判されていった悲しみが語られる。この出来事は、タイムラインがそのような批判の場所になるなら、「Xで麻雀のことはもう書くことはできない」とSNSの運用方針を転換せざるを得なくなるほどのインパクトを彼女に与えた。

輪をかけ、上記ポストでの「神目線ではなく議論してくれる人達が私にはいる」という言い回しは、過去に伊達が似たような言い回しで打牌批判をシャットアウトしたことや、茅森の「本当のファン」発言などの、ファンを都合良く選別し、その視聴方法を制限するかのような振る舞いに憤った記憶を持つ人々の感情に油を注いだ。かくいう筆者も「わざわざそんな言い回しせんでも…」と心配したひとりである。しかし、そうした言い回しを選ばざるを得ないほど、本人も余程悔しかったのであろう。

同じ手順でも例えば堀慎吾が組めば「堀オリジナル」と称えられる一方、中田花奈が打てば「パルプンテ」と揶揄されるような恣意的な批評空間で、「誰の闘牌を称え、誰の闘牌を揶揄するか」という恣意性をコントロールするのは何か。これに対するひとつの回答が『ドラマトゥルギー』では橋本奈々美のインタビューを引きながら、アイドルの「職能」に対する不当な見積もりであると看破されていることを読み取ることができる。

アイドルという肩書きがあると、いろんなことができると思うんです。でもその反面、やってみたい仕事にそれぞれ本職の方がいる。アイドルってどこにも行けるけど、どこに行っても本職じゃないのでそれ以上には行けない。比べられる対象が多いのは大変だなと思います。アイドルって肩書きがあることによって評価してもらいづらいだろうなって。
(中略)
ミュージシャンや俳優、モデルなど、ある単一ジャンルの専従者ならば、その人物がスペシャリストとして受け入れられることは比較的たやすい。けれども、さまざまなジャンルへと越境しながらそのつど自らの役割を探り当て、順応し続けるアイドルの営みは、しばしば「一人前」とみなされにくい。それは、一見すると他の芸能分野と並列するかのようにみえるアイドルというジャンルないし枠組みが、実のところそれら他ジャンルとはやや位相の異なる職能として存在するためだ。
(中略)
各メンバーは社会のあらゆる局面に〈顔〉として立ち現れ、その場を成り立たせていく。いうなれば、ポップアイコンを引き受ける役割として存在することになる。
この「あらゆる局面に〈顔〉として立ち現れる」という役割は、ひとつの職能であるとはみなされにくい。前述したように、ミュージシャンや俳優、モデルといった既存の単一ジャンルの専従者であれば、その職業的性格にスペシャリスト性を容易に投影される。対して、多種多様な場に即応して「アイコン」として立ち回り続けることそれ自体が職能とはみなされにくい彼女たちは、あくまで非熟練者としての位置づけを与えられることが少なくない

『ドラマトゥルギー』第1章(P14〜15)

これも中田花奈がMリーグ参入により体験した出来事を的確に捉えている。モデル・岡田や声優・伊達が、麻雀プロとの「二足の草鞋」と表現され、他のジャンルとの架橋という役割を付与されるのに対し、中田花奈が「アイドルタレントとの二足の草鞋」と表現されることは皆無と言っていい。

彼女に求められた役割は「アイドルというジャンルとの架橋」ではなく「大衆への広告塔」に過ぎないものであると不当に低く見積もられ、「プロ」としての取り組みをいかに積み重ねてもそれは無視されていつまでも「非熟練者」の範疇へと押し込められる

その圧力は「麻雀プロ試験にしてもテレビ番組の企画を成り立たせるためのヤラセであり、そもそも彼女は本来他のプロに求められる熟練度に達していない」との言説が罷り通り「何故そこまで…」と言いたくなるほどに徹底的である。

今季「叔母の顔より見た」くらいは言ってもいいのではないか@中田花奈アベマプレミアムCM

幻惑の234チー

始めに潮目が変わったのは25年9月23日、中田花奈がオーラスの着順勝負を躱して2着キープを決めた「幻惑の234チー」であった。

「してやられた」良い表情である

Mリーグきっての試合功者・鳴き読み功者である仲林が中田花奈の鳴きに「一杯食わされ」放銃に至った局面について、自己の視点で中田花奈の打牌を振り返ったポストは、彼のフォロワー層の持つ麻雀のゲーム性に注目する気質を推進剤として、大きな盛り上がりへと波及した。

テキストデータは、動画よりも伝播が容易である性質を持つ。仲林のPCの調子が悪かったという偶然によって、昨シーズン中田花奈が焦がれた「自分の打牌をきっかけにした議論の盛り上がり」が、意図せざる形で実現することになったのである。

そして、このとき中田花奈の打牌に対し「単なるパルプンテっすよ」「仲林さんともあろう方がそこまで分析せんでも…」という空気は限定的であった。「現代麻雀の到達点」とまで称えられる仲林の視点というフィルターを通すことで、「中田花奈の打牌」であっても、他のプロのそれと同様、検討の俎上に乗せることができると図らずも証明されたのだ。

加えて、「中田花奈の打牌」に「検討の価値がある」と捉えられるに至ったもう一つの理由は、勉強のチャネルを明確化したことでもある。猿川が中田花奈の打牌にアドバイスをしていたエピソードを始め、これまでの中田花奈の「神目線でなく議論してくれる取り巻き」と行われたという「勉強」に視聴者たちが納得しなかった理由は、それが「アドバイス」のようなプロ同士の水平的な関係なのではないか、あるいはもっといえば中田花奈を上位に置くことを前提としたもの、つまり「プロパーたちによるアイドルの接待」にとどまっていたのではないか、との疑義を拭えなかったためである。

ひろえは中田花奈を「気遣った」

下石との「週2セット」については過去記事でもたびたび言及したが、その卓越性は、意識的な「師弟関係」の演出であった。下石は大介に対しては慎み深く、「自分が教えるというより、大介さんの意見を聞いて勉強したい。自分の意見も勿論述べるが、大介さんがそれを採用するかは本人に任せること」と対等あるいは歳下としての謙虚な関係をアピールする。一方で中田花奈に対しては明確に実力が足りていないとの認識に基づき、セットメンバーを手配し、自分の打牌との一致率を丹念に確認し、リーグでの対戦譜を全て検討しているという「上下関係」を前提にした「徒弟的指導」の枠組みが構築されていることをアピールしたのだ。

猿川・菅原の中田花奈への関わり方は、「お客様を接待する」性質から脱皮することができなかった。2年目の後半に至って菅原はようやく、ビーストロード勉強会へ河野直也を講師として招聘することによって中田花奈への垂直的な「勉強」の付与をわずかに実現させているが、既に時宜を逸していた。

下石の「徒弟的指導」は彼のイズムの伝承としても受容される。シーズン中、中田花奈の勝利インタビューにおいては「私の鳴きが、他家からどう見えるか考えたりした」という発言に視聴者たちが「下石イズムを感じる」とコメントするなど、その「伝承」を読み取る解釈を積み重ねた。

ましてや対戦相手においては尚更である。「何をしてくるかわからない」「どこまで読まれているかわからない」下石の打ち筋を「一致率84%」で再現する中田花奈と同卓するとき、その者は背後の守護霊としての下石を意識せざるを得ない。下石本人が個人スコア賞に向かって番付を駆け上がるのと軌を一にして、中田花奈も安定的にスコアを持ち帰るようになった背景には、対戦相手のこうした解釈もあったのではないか。

守護霊ひょっこり

意地悪な見方をすれば、仲林が中田花奈を対戦相手として一人前と取り扱う理由として、「Mリーガー」のブランドを毀損しない細心の注意を払っているのだとか、同じ協会勢の下石を称揚しているのだとかいった政治的な意図を読み取ることもできる。しかしいずれにしても、仲林による半ばなし崩し的な「議論の場」の提供が成立した土壌には、このような種が撒かれていたのだ。

いい師匠に出会えたんだよ

「成長」の擬制

Z世代の到来によって中田花奈は真価を問われるだろうと述べた。「未熟さ」をディスプレイすることに一定の価値があり、舞台そのもののクオリティを度外視した「完遂」のみを通じて「成長」を擬制してきた日本式アイドル文化の寵児が、スコアが出力されるゲームにおいて、その「擬制的成長」のメッキを剥がし「未熟であり続ける」様相を露呈させてバッシングを受け立ち竦んでいるとすれば、やはりスコアをもって報いるしか道はない。歳下の朝比奈が荒稼ぎスコアを叩き出したときの中田花奈もまた、帰趨を吟味する頃合いとはなるだろう。

『JTCジェッツと「助けて東城」、ハラスメント風林とヒール花吹雪を添えて~Mリーグ25オフシーズン所感』2025年8月28日

10年代アイドルのキーワードは「未熟」「非熟練」であった。筆者は25-26シーズン開幕前の記事で、上述のように中田花奈の「擬制的成長」をきちんとスコアにより「成長」であると客観的に証明すべきだとエールを送った。

しかし『ドラマトゥルギー』の記述を取り入れるうち、この見解は中田花奈の「未熟さ」に殊更にスポットを当て過ぎたきらいがあると若干の反省をするに至った。下石戟の指導による中田花奈の躍進を語る言葉として、今や筆者は「成長」というワーディングは好ましくないと感じ、「覚醒」を好んで使っている。

それはひとつには、中田花奈の躍進をひとり下石の功績として語るのは、1〜2年目も猿川からのアドバイスを始めとした「勉強」を行ってきた彼女の歴史を蔑ろにするものだからだ。前項で述べたような「師弟関係」の解釈は筆者も「楽しいからする」のだが、冷静に見れば下石の指導は、バッシングからスタートして立ち竦んだ中田花奈に、「自信」という最後のピースを嵌める着火点としての役割を果たしたという程度に評価するのが必要十分との見方もできる。

ふたつめは、「成長」という言葉には依然として「非熟練者」に向けた眼差しが残存していることにある。ドリブンズ・丸山奏子が「育成枠」として採用され、そして「成長」の演出に失敗し退団するに至った故事に学ぶまでもないだろう。

25-26閉幕式インタビューにおいて石井一馬は、「自分たち世代のスターであり、たくさん教えてもらった多井さんに、成長した姿を見せたかった」と述べた。Mリーグとは過去形で「成長した」選手が「成長の結果」として参入するフィールドであるという認識がこの片言に忍ばされている。

一馬と同じアースジェッツの柴田・三浦は今季奮わなかったが、仮に彼らが来季好成績を収めたとき、人々は「成長した」と表現するだろうか。おそらく「調整してきた」「アジャストしてきた」といった語りを口にするのではないだろうか。

Mリーガーたちに求められているのは「成長」ではなく「変化」である。あるいは「更新」と言ってもいい。経済・社会における新自由主義が浸透する時代と共犯関係に立ちながら、まさに10年代アイドルシーンが表象してきた「成長」というストーリーは、20年代に至り資本主義が行き詰まるなかで急速に説得力を失ってきている。

乃木坂46というグループは、もともと「成長」により競争における勝利を獲得する実践にためらいを見せてきたと『ドラマトゥルギー』は論じる。

試練を乗り越えて進む少女の成長譚といった岩下(引用註:映像制作家)が思い描く典型的な物語の鋳型に、乃木坂46がなじまないために岩下は逡巡している。そのうえで岩下が二〇一〇年代終盤の乃木坂46に見いだしたのは、群像劇を提示する存在ではありながらも、あの「戦場」や競争的な世界観とは異なるものによって、組織が求心力を保つ姿だった。
(中略)
岩下が発見するのは、乃木坂46の「仲の良さ」という一見すればあまりに素朴な特徴である。
このドキュメンタリーでは作品全体を通じて、乃木坂46メンバーたちが他のメンバーたちに向ける愛着や、それぞれが乃木坂46の一員として過ごす日々に抱く愛おしさをいくつもの側面から見いだそうとする。そうした愛着とは、何か特定の劇的な事件によって喚起されるものではない。むしろ、わかりやすい「物語」とは必ずしも連動しない日常性のなかに埋め込まれている。

『ドラマトゥルギー』第5章(P106~107)

『解析メモリアル』からも引いてみよう。

いまもプロフィールに「元乃木坂46」と書かれていると、とても嬉しく感じます。それは単なるネームバリューではなく、乃木坂46が本当に素敵な場所だったから。
たしかにつらいこともありましたが、不思議なことに、グループへの嫌悪感は一切ありませんでした。メンバーは「よくこんなに可愛くて、いい子が集まったな」と思うほど素敵な女の子ばかりで、乃木坂46の一員でいられたことはいまも誇りに思っています。
私にとって乃木坂46は、「大学」のような存在だったのかもしれません。将来を模索したり、自分のやりたいことを見つけたり。ときには自分の感情に向き合いながら、一歩ずつ前に進んでいく・・・・・・そんな大切な時間を過ごさせてもらいました。

『解析メモリアル』「乃木坂46」という場所について(P78)

群像劇を彩るのは、今や「競争」ではなく「慈しみ合い」であると『ドラマトゥルギー』は喝破する。麻雀の闘牌はこのような「ヌルい馴れ合い」と矛盾するかに見えて、実のところMリーグは「馴れ合い」を演じることで発展してきた。乃木坂46の価値観は、時代の要請に応じたリーグのありかたを模索する際の道しるべになるはずだ。

最後みっつめに、Mリーグというリアリティショーに、特定の選手を生贄にしてまで「成長」というスパイスを振りかけることは、そもそも視聴者にとって本当に必要なのだろうかという問いがある。

下石は中田花奈の師匠役を引き受けることで、自分自身は「完成された存在である」とブランド化しなければならなかったが、これは師弟関係の予期せぬ副産物であった。一方で、今季最終日の彼の、どこか心ここにあらずの立ち居振る舞いからは、確かに下石自身もまだまだ「成長していく存在である」との雌伏の蠢動を感じた。そんななか、来季の下石にとって、チーム優勝以外に「初年度個人スコア賞」という自分で打ち立てた金字塔を乗り越え「成長」を示すストーリーを描きがたいのも事実であろう。

「成長」をセントラルドグマに据えたリアリティショーのストーリー構成は、いったん栄冠を得た者に退場以外の選択肢を与えぬ冷たい因果律として駆動する。今季のABEMASの「衰退」に対し、閉幕式の多井が何の具体的な対策も打ち出せなかったことなどはその象徴である。

前記事で筆者は「中田花奈との師弟関係を構築したいま、下石の地位は安泰に近づいた」と述べた。その舌の根も乾かぬものの、中田花奈の役割を「成長」にしか見出せないのならば、下石は「成長」をアピールするポップアイコンに養分を与え、枯れ果てて去っていくプロパーとして使い捨てられる、というような恐ろしい未来も考えなければならないのかもしれない。

そして、麻雀プロ達の人生を「成長ストーリー」として、このように焼き畑的に消費していくサイクルが長続きするとも思えないのだ。「成長」の有無が、選手たちの息の根を止める免罪符として機能する視聴態度に対し、筆者は慎重であるべきと感じる。

例えば、最終日に向けた条件を整える天王山と言って良い木曜日の対戦において、中田がトップ、東城がラスを引いたという対比的構図は、サポーターの心に何を植えつけただろうか。東城こそは中田花奈のチームメイトにふさわしく、Mリーグの「慈しみ合い」を体現したようなキャラクターである。

カーニバルが終わってしまう…
勝又は戦後「優勝が『見えてきた』と思ったのは火曜日の下石からの24000、優勝を『もらった』と思ったのは木曜日の東城からの12000」と振り返った。
BEASTは優勝チームの「最大のライバル」であり続けた。

筆者は過去記事を通して、Mリーガーたちが相互に関係性を築き上げることで、リーグ全体をリアリティショーの舞台として整えている実相を指摘してきた。また同時に、当該リアリティショーを磨き上げているのは、レギュレーションによってその地位を失うMリーガーの転落模様を消費する態度であるとも述べてきた。

ライバルチームの選手たちという「形式上の競争相手」と仲の良い関係性を演じることで協調し自身のMリーガーとしての地歩を築きながら、自チームの仲間たちという「形式上の協調相手」とクビレースを賭けて競争していることが、Mリーグ最大の皮肉である。こうした倒錯した「チーム戦」を最終的に規律するのが「成長」という個人責任であるならば、結局のところ「最高の団体競技」とは何重にも空疎なスローガンへと押し込められてしまう。

奪い合う興奮ではなく、与え合う癒やしを求める時代

「生を肯定すること」を託してもいいだろうか

控室配信が炎上するたびに「もうやめたら?」「息抜きもできない選手たちが可哀想」とタイムラインが盛り上がる姿をここ数年のMリーグ界隈では観測してきたが、改めて10年代アイドルシーンを振り返ると、これらの反応は「なんとナイーブなことか」と慨嘆することにもなる。

アイドルの彼女たちは、若年のみぎりから絶え間なく、こうした絡みつくような眼差しを引き受けて、「息抜き」など考える暇もないままに、舞台の表裏に立ち向かってきた。そうした公私が融解した時間軸の中で、彼女たちはただ客体として消費されただけではなく、表現者としてさまざまな印象を、自らを支持するファンダムの受取り手の心に刻み込んだという。

やはり必要なのは「架橋」であろう。そしてかように強靭な心身を鍛えた中田花奈が架橋する先は、岡田の「モデル界隈」や伊達の「声優界隈」をなぞるように「アイドル界隈」というわけではない。

橋本奈々未という存在を介して、「卒業」にまつわる論点に戻ろう。
(中略)
大会場で華やかな演出とともにおこなわれた橋本の卒業コンサートと対照的に、このドキュメンタリーはアイドルとしての橋本のハイライトを散りばめるのではなく、人生のある過程を終えようとする者の背中を、いささかぎこちなく後ろから眺めるような趣になっている。その後味は、乃木坂46の活動終了と同時に芸能からも身を引いて表舞台の人ではなくなった橋本の去り際や、そもそも彼女が有していた「アイドル」のコードへの距離感に似つかわしいとはいえるかもしれない。
(中略)
橋本の振る舞いは、人生のうちの「アイドル」である時期にことさらスポットライトを当てたり特別扱いしたりすることの対極にあるものだった。それは人生のうちのどの過程に立っていようとその生は等しく価値を持つこと、やがて彼女たちが「アイドル」としての日々を終えてのちも変わらず地続きの生を生きていくという、本来ごく当たり前のはずのライフコース観を照らし出す。

『ドラマトゥルギー』第6章(P127~128)

アイドルはただ「若さ」を表象するだけでなく、「いつまでもその身体のままこの世界に留まることができないという無常」「「アイドル」としての活動期間だけで完結するわけではない、一生分のライフスパンがあること」といった「有限の生」を体現した存在であることが『ドラマトゥルギー』では論じられる。

「麻雀プロ」たちが棲むのは実態として、芸能界を始めファーストキャリアを終えた者たちの受け皿として、懐の深さをもって迎え入れる業界である。ネット麻雀が整備された現代において、ゲームとしての参入障壁も比較的低い。(点数計算がわからなくても雀魂はプレイできる。)

「非熟練」の「越境者」として闖入した中田花奈が、しなやかさの象徴としての麻雀界への転生をかたどること。そして、成熟したプレイヤーとして周囲のプロからもファンダムからも認められ、慈しみ合いのフィールドを生きること。こうした姿が提起されることで、長く、そして短い人生を生きる人々を勇気づける存在となる。

一介のテーブルゲームである麻雀を通じて、そうした普遍的な「架橋」が成し遂げられる。そんな構想を抱くのは、風呂敷を広げすぎているだろうか。

アイドルには「現場」がある。その姿に「生を肯定すること」を託してもいいだろうか。

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