下石戟の「鬼神」に関する汎神論的一考察
レギュラーシーズンを終えて、悲喜交々の感想noteがTLを駆け巡るタイミングで書くのが適切なのかは分からないが、25-26シーズン個人スコア賞・下石戟について少々オカルトな変化球で論じてみたい。普段はMリーグを技術論ではなくもっぱら公共政策・社会学・経済学といった観点から読み解いているが、今回は東洋哲学の晦渋な議論に立ち入ることを試みる。
下石のバックグラウンドが「実家が神社であり」「おそらく皇學館大学を指すと思われる”三重にある神職の大学”に学んだ」というものであることは、Mリーグ界隈の情報を追っていれば多少なりとも接することとなるデータであろう。
下石の強みとして「飄々と」「読みを駆使して」攻めてくるという点が仲林やたかきといった同団体の選手から語られ、永井は日吉配信にゲスト出演した際には「苦手意識がある」と吐露し、園田はその圧力に抗しかねて悪名高い7s差し込みに至り、伊達はラス牌4pツモで四暗刻を蹴られてブチギレながらその選択を讃えた。
こうした対戦相手たちの態度や、彼自身の所作、そして何より爆運から感じられたのは、下石には何かが「憑いている」のでは、そしてそれが彼には「視えている」のでは、という底知れぬ不気味さであったのではないか。
その「オーラ」に一役買っているのが、下石のバックグラウンドにあると思われる、東洋哲学への造詣にあるような気がしている。
下石はシーズン中インタビューでは「字牌を押したときに失う点数の期待値が1,475点なのでノーテン罰符1,500点よりも安いと判断した」「中田さんと自分合わせて15勝できたらいいねという目標を20勝に修正できた」「200pt持って3月に行きたい」といった明確な数値目標を口にし、単に「いつも通り、自分らしく打ちたい」といった曖昧で定性的なコメントをする他の選手達とは一線を画しているとの評価を受けた。

また、シーズン終了後インタビューでは「最終ポイントが奇数で終わったので、セミファイナルで半減する際の計算が切り上げであることから、自チームは0.1ptトクしている」という、あきれ顔の東城だけでなく視聴者達もみな、誰が気にしてんねんと言いたくなるような観点にまで目を向けた発言をしており、その情報収集・分析力及び、それを言語化し発信する作法に至るまで、ただ者ではない雰囲気を纏っている。
そんな下石が二つ名に選んだ「鬼神」はどういう意味なのか。ひとまずは「奇人」と掛詞になってるんだよね?という視聴者達のあたたかいコメントに下石ははにかんだ笑いを見せていたが、明確な意味合いについては管見の限りでは今に至るまでどこでも語っていない。
鬼神(きじん・きしん・おにがみ)は、人間を超越した能力を持つ目に見えない霊的存在、あるいは荒々しく恐ろしい神や精霊を指す。天地の神霊や死者の魂(善悪両面)を意味し、仏教では法を守る善鬼神と人に害を及ぼす悪鬼神に大別される。また、凄まじい能力や勢いの比喩としても用いられる。
元来は畏怖される神の力を指していたが、物語や表現においては人智を超えた恐ろしさや、圧倒的な力を持つ存在の形容として広く使われている。
意味と特徴
超自然的な存在: 人知を超えた威力・霊力を持ち、幸福や災いをもたらす存在。
神と霊魂: 天地万物の霊魂や死者の魂、または荒々しい神々のこと。
仏教における役割: 仏法を守護する「善鬼(夜叉など)」と、仏法を妨げ人畜を害する「悪鬼」に分けられる。
比喩的表現: 凄まじい働きや、人並み外れた行動をする者(例:鬼神の如き強さ)。
一応、AIに通り一遍のことは尋ねておこう。ここで言う「凄まじい能力や勢いの比喩」「圧倒的な力を持つ存在の形容」との一般的意味合いで名付けられた二つ名と受けとめればいいのか。

いや、ここでは敢えて盾の両面を見るかの如く、裏側の意味を探ってみよう。以下の記述は『ダーウィン、仏教、神 近代日本の進化論と宗教』(2020)という書物及び『<怪異>とナショナリズム』(2021)に収録の「井上円了の妖怪学と天皇神話」という論考に依拠しながら展開する。
明治期の仏教が、廃仏毀釈という政治要因により衰退し、さらには「進化論」の輸入によって「人間は猿が進化したものであるから、自然に対して優越してなどいないし、心や道徳といった至高の価値は存在しない」という還元主義によって思想的な基盤崩壊の危機に遭った時代、その復権に力を尽くした思想家に井上円了(1858-1919)という人物がいた。
一般的な知名度は不明だが、「東洋大学井上円了哲学センター」という東洋哲学に関する学会誌を刊行している機関に名を冠したり、いわゆる「妖怪博士」として妖怪モノの創作などで名を見かけたりすることがある人物である。
その思想体系は広範かつ複雑多岐、さらには欧米留学や教育勅語の制定などの時系列の経過に伴う変化をきたしたことなどもあり、全体像を要約することは筆者の力量を超えるのだが、彼が彼の哲学体系において「鬼神」という言葉に付与した意味合いは、現代の目から見れば極めて特殊なものであった。
円了によれば「鬼神」とは、人間が自らの意思や行為で左右できないものに接することで、世界には「人知、人意の関せざる一種の力」があるという想像が生じ、それが様々に名づけられたものである。とはいえ、日常の身近な物事でさえ、突き詰めれば結局はすべて知りえないことにつながっていて、「全体の上より見るときは、一つとして鬼ならざるなく、一つとして神ならざるものなし」ということになる。そのため、鬼神の存在を円了は肯定する。つまり、汎神論的な意味での神としては存在するということである。ただし、それは無形の存在であって、人々が通常思い描くような姿形がある鬼神とは別物である。有形の鬼神は自然現象に対する恐怖などによる心理的現象、妄想・幻像であるにすぎないとされる。
少し補助線が必要だろう。井上円了は上記のように「妖怪博士」と評されるが、その業績は「科学的合理主義に基づいて、妖怪を「迷信」とみなし撲滅しようとした否定論者」として、近代日本の啓蒙に貢献したことと一般には捉えられている。しかし、上述の論考では「それは一面では正しいが、問題が少なくない」とする。
すなわち円了が真に行ったのは、妖怪を「仮怪」と「真怪」に区別し、「仮怪」については合理的解釈による撲滅を企図したが、「真怪」についてはむしろ、どうしても説明しきれない「不思議」であり、「理想」や「真如」と呼ばれる真理の領域へと人々を誘う入り口であると位置づける妖怪学の整備であったとするのだ。
「鬼神」という哲学用語の導入により円了が図ったのは、前近代的な信仰における有形の存在を、汎神論(宇宙、自然、あるいは万物そのものが神であり、全ての中に神性が宿るという哲学的・宗教的な立場)による無形の概念へと分散させていき、西洋合理主義的な思想と統合することであった。
これは、前述したような「進化論」による還元主義が猛威を振るった思想的な危機の中で、「神」や「仏」といった存在を温存させるための切実な論理的旋回であったとも評価される。

少し明治思想史の記述が長くなったが、引用した「人間が自らの意思や行為で左右できないもの」という言い回しからは、牌山の積まれ方が偶然に左右されることから、運の要素が非常に強い麻雀というゲームを想起することができるだろう。これを例えば小林剛は単に「確率」と呼び、多井は「じゃんけん」と腐し、醍醐は「システム」と捉え、土田は「宇宙」と表現する。
この偶然という要因を味方に付けること、それは全ての麻雀プロが願ってやまない能力であり、だからこそルーティンやジンクスや願掛けや神社参詣や高尾山登山がときところを構わずに実践されるのである。
そして下石戟は、彼なりのバックグラウンドと東洋哲学への見識に思いを致しながら、この不可思議な力を「鬼神」と呼ぶことを決め、みずからの二つ名に冠したと筆者は解釈している。麻雀卓の上に展開される宇宙全体を司り、宇宙そのものと同化する願い。これこそが「鬼神」の意味するところである。
25-26シーズンにおいて、さっそく「鬼神」はこれに応え、下石に微笑んだ。かつて人々は若干の揶揄を込めて「伊達is麻雀」と呼んだが、個人スコア賞を獲得した今こそ、鬼神・下石をして、真の意味での「麻雀そのもの」と呼び習わす時宜が到来したのだ。
<蛇足>
筆者は↓のかたが書いている記事全般を「まーた意味分からん与太話だわ」と思いながらついつい全部読んでしまうくらいハマっている。一度こういうテイストで書いてみたかったので、今回は満足しました。
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