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短編連作小説『チル』 第三話 432Hz #創作大賞24 #ファンタジー部門

あらすじ

 深夜のタクシーに乗った乗客たちが次々と失踪する奇妙な事件。カギとなるのが432Hzの音楽と黒猫シャドウの存在。元ミュージシャンの深夜タクシードライバー・怜は、自身の過去と謎めいた事件の接点に気づき始める。失われた記憶と音楽への情熱が、闇に包まれた東京で蘇る。怜は真相に辿り着けるのか?そして、失踪した人々の運命は?

第三話 432Hz

 深夜零時。ネオンの残像がフロントガラスに滲む、東京は不眠症の真っただ中。いつものように、LoFiヒップホップが車内に流れ出す。
 タクシードライバーの岸本怜は、助手席に無造作に置かれたレコードの山に目をやりながら、独りごちた。今日も、埃をかぶった名盤たちは、彼の沈黙のBGMと成り果てる運命だ。
 今日もいつもの432Hzラジオ。不思議と心が落ち着く周波数。
 通りの隅に、傘もささずに立つ女性の姿。怜は車を寄せ、ドアを開けた。
 乗り込んできたのは、長い黒髪をアップにした、大きな丸眼鏡の女性。どこか見覚えがある。
 「どちらまで?」。
 「エンドレス・カフェまで」
 ハッとして、バックミラー越しに女性の顔をよく見る。
 「ひ、響?」
 「れい?」
 月島響の目が大きく見開かれた。
 車のエンジン音に混ざる沈黙。
 そして、怜は咳払いをして話を切り出した。
 「…ミッドナイト・ドライブの調子は?」
 「まあ、なんとかね。ツーアの準備中なんだけど...」
 「へえ」
 「れいは? まだ音楽...」
 「やめたよ」
 怜は言葉を遮る。
 「タクシーの方が、客を乗せるのも降ろすのも簡単だからね」
 響は少し躊躇したが、それでも言葉を続けた。
 「れい、もう一度音楽をやらない? 私たちのバンドに戻ってきてほしい」
 「いや、今は、この通り。深夜のタクシー運転手。気楽でいいよ、気楽が一番」
 皮肉っぽく聞こえるのは、怜自身が一番自覚していた。
 「俺にはもう才能なんてないんだ。忘れたのか?」
 「いや、あの頃の怜君なら、きっとそんなこと言わない。目を輝かせて、新しい曲聴かせてよ!なんて言うはずなのに…」
 響が弁解しようとするが、ただ気まずい空気が車内に漂う。
 「着いたぞ、エンドレス・カフェ」
 怜は、メーターを止めて、無言で料金表示を指差した。響は、名残惜しそうに車内を見渡してから、口を開いた。
 「…ねぇ、この音楽、何?」
 車内に響くモノクロの電子音。響は少し顔をしかめた。
 「432Hz。宇宙の周波数、DNAを修復する音楽…まぁ、色々言われてるけどな」
 怜は、自分の言葉にすら熱がこもっていないことに気づき、舌打ちした。
 「…そう。じゃあ、またね」
 響が笑って、 車を降りた。
 その時、怜がふと後部座席に目をやると、黒猫の姿が一瞬映った気がした。しかし、よく見れば単なるシートベルトのバックル。
 ま、ネコよりはマシか。チップはおろか、毛玉しか残さないだろうしな。
 そんな冗談を心の中で転がしながら、怜は車に戻った。

 「…昨日の深夜、人気バンド『ミッドナイト・ドライブ』のボーカリスト月島響さんが、行方不明になっていることが分かりました。警察は…」
 テレビから流れるニュースに、怜はコーヒーを吹き出しそうになった。画面には、自分のタクシーに乗っていた響の姿が。昨日の夜、「またね」なんて、少し寂しそうに笑ってた響が、忽然と姿を消した?
 朝からLoFiビートにどっぷり浸かっていた怜の脳みそは、まだ完全に起動していなかった。バグだ、きっとシステムエラーだ。そう自分に言い聞かせるように、怜は432Hzのラジオの音量を上げた。
 その日以来、怜の周りには奇妙なことが起こり始めたのだ。信号待ちでボンネットを見ると、黒猫がこちらを見つめていたり、アパートのゴミ捨て場で黒猫が足元をすり抜けていったり…。
 「…気のせいか」
 目撃するたびにそう呟いた。疲労と睡眠不足のせいだろう。最近、記憶も少し曖昧になってきた。あの夜の出来事さえ、まるで夢の中のことのように感じられる。
 「…警察は、一連の失踪事件の関連性を調べています。現在までに、5人の女性が行方不明となっており、最後の目撃情報から、全員がタクシーに乗車していたことが分かっています…」
 ラジオのニュースは、怜の心臓を鷲掴みにしていた。画面に映し出されるのは、ここ数日、自分のタクシーに乗車した女性たちの顔写真。そして、その中心には、寂しそうな表情の響の姿もあった。
 冷や汗が背中を伝う。その時だった。視界の隅で、何かが動くのが見えた。ゆっくりと振り返ると、そこには、タクシーの後部座席で、気持ちよさそうに眠っている黒猫の姿があった。
 「にゃあ…」
 黒猫は、澄んだ青い目をゆっくりと開き、怜と視線を合わせた。その瞬間、怜の脳裏に、言いようのない不安と、奇妙な懐かしさが同時にこみ上げてきた。
 平和だったタクシードライバー人生は、黒猫の登場によって、リミックスかけられてるかのように歪んだ空間に吸い込まれていく。

 怜のタクシーは静かに、しかし確実に深夜の都市の血管を巡っていた。その車内で起こる不可解な出来事は、まるで曲の中に隠されたサブリミナルメッセージのように、人々の意識下に潜り込んでいった。
 怜のタクシーは、いつの間にか「ミステリー・ライド」の異名を取るようになり、街の噂話に刻み込まれていった。
 「岸本さん、またですか」
 ベテラン刑事の声は、少し歪んで怜の耳に届いた。
 「今度は作家さんが...どうなってるんです?」
 怜は肩をすくめた。
 「知りませんよ。最後のお客様を降ろしたのは、たしか、23時45分頃、ビニール・タワーの前です。それからは、誰も乗せてません」
 怜は言葉を詰まらせた。自分でも記憶が曖昧だった。確かに、あの後も客待ちをしていたような気もするし、そのまま営業所に戻って仮眠を取ったような気もする。
 「月島響さんとは...」
 「『ミッドナイト・ドライブ』というバンドで...僕はギターをやってました。響はボーカルで…」
 刑事と他愛のない雑談をしている。過去の記憶が、サンプリングされた音源のように、断片的に蘇る。スタジオでの夜、響の歌声、ギターの音色。
 「…ひどい失恋したみたいですね」
 刑事たちの視線は、憐の過去を優しく包み込むようでもあり、同時に、何かを探るように冷たくもあった。
 「まぁ……それから、響たちはメジャーデビューして、僕はタクシー運転手…それで音楽を聞かなくなったのです」
 怜の声は、次第に小さくなっていく。才能の壁、成功へのプレッシャー、そして、ほかのメンバーにコンプレックス…。
 「432Hzの音楽を聴いているのは、なぜですか?」
 「いや…あの音楽だけが、心を落ち着かせてくれるんです」
 「…分かりました、岸本さん。今日はこれで帰ってもらいますが、何か思い出したらす ぐに連絡を…」
 「俺は必ず真犯人を捕まえますよ」
 「それはありがたいですが、もう一個確認したいことがありまして…タクシーのドライブレコーダーを確認したんですけど、奇妙なものが映ってたんですよ。後の席に…」
 「奇妙なもの?」
 「ええ、まるで… 黒い影が、一瞬だけ、フッと。まるで、ネコみたいに…」
 刑事の言葉は、怜の意識を揺さぶった。
 黒猫、失踪事件...
 あの黒猫が、何かやったのか?

 深夜のタクシー車内、432Hzの静かなリズムが流れる中、怜は失踪者たちのプロフィールを見つめていた。
 みんな、何かに悩んでいる。
 怜はうっすらと思い出した。失恋した女性、締め切りに追われる作家、借金を抱えたサラリーマン。
 ふと、バックミラーに黒い影が映る。
 そうだ、あのネコだ。
 その瞬間、頭がくらくらとし始めた。
 黒猫は、怜の手に頭をこすりつけ、喉をゴロゴロと鳴らした。その瞬間、怜は、再び激しい頭痛に襲われた。
 視界が歪み、意識が朦朧としていく。気づけば、怜はアパートのベッドに横たわっていた。
 頭痛と吐き気。そして、断片的にしか思い出せない、ここ数時間の記憶。
 テレビをつけると、ニュース番組で再び失踪事件の特集が組まれていた。
 「…警察は、防犯カメラの解析を進めた結果、失踪事件に新たな共通点があることを突き止めました。なんと、全ての事件現場付近で、一匹の黒猫が目撃されていたのです…」
 画面には、不鮮明ながらも、確かに黒猫の姿が映し出されていた。
 怜は、胸騒ぎを抑えきれなかった。あの黒猫は、一体何の目的で、自分につきまとうのだろうか? そして、失踪事件との関係は…?
 シャドウ、あの黒猫にそう名付けた。
 ふと窓際に目をやると、そこにはシャドウの姿があった。黒猫は静かに窓枠に座り、怜をじっと見つめていた。その眼差しには、何かを伝えようとするように感じる。
 そして、次の瞬間、シャドウは窓から飛び出して行った。
 「…おい、シャドウ、どこに行くんだ…?」
 路地裏、薄暗がりの道を、黒猫はスタスタと進んでいく。怜は、その後ろを、まるで何かに操られるようについていくしかなかった。

 最初に導かれた場所は、街はずれの古びた公園だった。錆びついたブランコが、夜風に揺られてきしむ音が聞こえる。怜が近づくと、シャドウはブランコの上に跳び乗った。
 怜はためらいがちにブランコに腰掛ける。その瞬間、記憶が波のように押し寄せてきた。
 そうだ、ここで...一人で音楽を聴いていた。
 幼い頃の怜が、大きすぎるヘッドホンを耳に当て、孤独に浸る姿が蘇る。周りの子供たちが楽しそうに遊ぶ中、怜だけが一人、音楽の世界に閉じこもっていた。音楽は彼の唯一の友達であり、逃げ場所だった。
 あの頃から、ずっと悩んでいたんだ。
 思わず苦笑いを浮かべる。
 シャドウは、まるで慰めるかのように、怜の膝に乗った。
 次は、廃れた音楽スタジオだった。窓ガラスは割れ、壁には古びたポスターがかろうじて貼り付いている。ドアを開けると、埃と懐かしさが混ざった空気が怜を包み込む。
 「ミッドナイト・ドライブ...俺たちのバンド」
 怜の指が、埃をかぶったギターの弦を優しく撫でる。かすかな音が、眠っていた記憶を呼び覚ます。スタジオミラーに映る自分の姿が、若く情熱的な「零」に重なる。
 「零」—。
 それは、怜がバンド活動をしていた頃の、アーティストネームだった。あの頃の怜は、今の彼とはまるで別人のように、情熱的で、自信に満ち溢れていた。
 今の自分とは別人のように見える「零」。その目には迷いがなく、音楽への純粋な愛に満ちていた。
 シャドウが、古いアルバムの上に乗る。怜が開くと、そこにはバンドメンバーとシャドウの写真が収められていた。若かりし日の響、そして他のメンバーたちの笑顔。そしてその中心に、黒猫のシャドウがいる。
 「お前は...俺たちのマスコットだったんだ」
 バンド結成の日、初ライブの興奮、拾った迷子のネコ、そして...別れの日。全てが鮮明に蘇ってくる。
 しかし、痛みも鮮明に。インスピレーションの壁、自信を失っていく日々。バンドメンバーとの軋轢、そして最後にはプロデューサーの「才能がない」という冷酷な言葉。愛した音楽、怜を残酷に裏切ったのだ。
 最後に辿り着いたのは、港の近くの廃墟と化したライブハウスだった。「ZERO」と書かれた看板が、今にも落ちそうに傾いている。壊れかけたスピーカーから、かすかに432Hzの音楽が漏れ出している。
 怜は、震える手で扉に手をかける。ここで初めてライブをし、そしてここで「零」としての最後のステージに立った。
 シャドウは、まるで背中を押すかのように鳴いた。その声に、怜は決意を固める。
 そして、怜はシャドウと共に、暗がりの中へと歩み出した。

 ライブハウス「ZERO」の扉を開けた瞬間、怜は息をのんだ。
 薄暗いフロアに、失踪した人々の姿があった。響も、他の乗客たちも、椅子に座って静かに目を閉じている。まるで、穏やかな眠りについているかのようだった。しかし、怜にはわかった。彼らは、どこか遠くの世界に囚われているのだと。432Hzの音楽が、空間全体を包み込んでいる。
 そして、スタジオの隅に、古びたギターが静かに置かれていた。
 怜は、フロアに駆け込もうとした。しかし、その時だった。今まで怜の後をついてきたシャドウが、彼の足元で激しく鳴き始めたのだ。
 「にゃあーーー!!!」
 「シャドウ…? どうしたんだ…?」
 怜は、困惑しながらしゃがみこむ。シャドウは、怜の足元にすり寄りながら、必死に鳴き続ける。
 「…なぜ、止める…?」
 怜の脳裏に、あの刑事の言葉が蘇る。「まるで、猫みたいに…」。もしかしたら、シャドウは、彼らを連れ去った犯人に操られているのかもしれない…。
 「違う…」
 別の声が、怜の心の奥底から響いた。
 「あいつらは、俺が連れてきたんだ…」
 それは、まるで別人の声だった。低く、嗄れた声。しかし、確かに、怜自身の内側から聞こえてくる声だった。
 「…零…?」
 「久しぶりだな、怜。まさか、こんな形で再会するとは思わなかったぜ」
 432Hzの音楽が流れる中、もう一人の怜、いや、「零」と呼ぶべき存在が、姿を現した。それは、音楽に心を奪われる前の、純粋で、同時に危ういまでの情熱を秘めた、過去の怜自身の姿だった。
 そして今や、彼の中に潜む別人格だった。
 シャドウが現れる度に、「零」が「怜」と交代する。そのことを今、怜が確信した。
 「お前が…犯人なのか」
 怜は震える声で言った。
 零は肩をすくめた。
 「犯人?違うな。俺は彼らを救ったんだ」
 「救った?」
 「ああ。この音楽には特別な力がある。人々の悩みを忘れさせ、平穏をもたらすんだ」
 「だが、それは…」
 「そう、俺たちが求めていたものだ。音楽で人々を救う。彼らの苦しみを和らげる。それが俺たちの夢だったはずだ」
 怜は首を振った。
 「違う。確かに俺たちは音楽で人々を幸せにしたいと思っていた。でも、こんな形じゃない」
 「なぜだ?」
 零は挑むように言った。
 「彼らは今、何の苦しみもなく、ただ音楽に包まれているんだぞ」
 「だが、それは逃げているに過ぎない!」
 怜は叫んだ。
 「悩んで何が悪い?必死に悩んで何が悪い?それも音楽だ。それを乗り越えることで、音楽は前へと進む。俺たちだってそうだった」
 零は動揺した。
 「だが、お前は音楽を諦めた。俺たちの夢を…」
 「違う」
 怜は静かに、しかし力強く言った。
 「俺は諦めていなかった。毎日悩み、苦しみながらも、音楽を愛し続けていた。それが、今の俺を作ったんだ」
 その時だった。客席から声が聞こえた。
 「れい…零…」
 振り向くと、響が目を覚まし、ゆっくりと立ち上がっていた。
 「さしぶりだね」
 響は優しく微笑んだ。
 「また会えて、うれしい」
 「いや、俺は…」
 「怜の優しさも、零の強さも、どちらも間違っていないよ。音楽は人を幸せにすることができれば、不幸にすることもできる。それらすべてを含めて、音楽を愛しているじゃないか」
 怜と零は、響の言葉に静かにうなずいた。
 「あ、そうだね」
 怜は零に向かって手を差し伸べた。
 零はためらいがちに、手に持っているギター怜に渡した。
 「ああ、そうみたいだ」
 怜は深呼吸し、ギターを手に取った。
 「さあ、みんなを目覚めさせよう」
 432HzのLoFi音楽に、怜のギターの音が重なる。その音色は、失踪者たちの心に静かに、しかし確実に働きかけていった。
 音楽がライブハウス全体に響き渡る中、失踪者たちは、ゆっくりと目を開けていった。彼らの表情は、穏やかで、まるで深い眠りから覚めたばかりの赤ん坊のようだった。
 警察のサイレンの音が、遠くから近づいてくるのが聞こえた。
 怜は、安堵の表情で、響と顔を見合わせた。
 響は、怜の手をそっと握った。
 そして、シャドウに視線を向けると、優しく微笑みかけた。
 「シャドウ、ありがとう」
 シャドウは、満足そうに小さく鳴いた。
 新しい朝陽が、ライブハウスの窓から差し込んできた。

 夜明け前の街を、一台のタクシーが走っていく。車内には、かすかに432Hzの音楽が流れている。
 運転席には岸本怜。彼の目は道路を見つめているが、その眼差しには以前にはなかった深 みがある。後部座席を確認しようとバックミラーを覗き込んだ瞬間、怜は小さく微笑んだ。
 シャドウの姿はもうそこにはない。そして、事件も平和に収まった。しかし、怜は心の中でシャドウの存在を感じていた。いや、それはシャドウだけではない。かつての自分、「零」のことも。
 信号待ちで車が止まると、怜は助手席に置いてあるギターに目をやる。以前は触れることすらためらっていた楽器。今では、それは彼の大切な相棒となっていた。
 「お客さん、音楽でも聴きますか?」
 後部座席の男性客が顔を上げる。疲れた様子の中年男性だ。
 「ええ、構いませんよ」
 怜はニッコリと笑い、ギターを手に取った。432Hzの音楽をバックに、彼の指が優しく 弦を弾き始める。
 「♪ 真夜中のドライブ、心の奥底へ〜」
 怜の歌声が、車内に染み渡っていく。
 歌い終わると、後部座席から小さな拍手が聞こえた。
 怜は鏡越しに優しく微笑んだ。
 「最近何かお悩みでも?」
 男性は少し躊躇したが、やがて口を開いた。
 「実は...」
 そうして、怜は耳を傾ける。
 タクシーは、夜の街を走り続ける。

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