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短編連作小説『チル』 第五話 Pの日記 #創作大賞24 #ファンタジー部門

あらすじ

 実は、迷子の猫は人間の言葉を理解していた!さらに、夜な夜なこっそりLo-Fi音楽を作り出すDJでもあった。「彼」と別れた元飼い主の「彼女」の元に届けられた一枚のレコード。それは迷子の猫が作った、特別なLo-Fi音楽だった…!?そして、Pの姿を見かけた「彼女」が、Pのあとを追い、ネコの世界へ迷い込むのだ。

第五話 Pの日記

 薄暗がりの中、ネオンサインがぼんやりと光る街角。ほのかに甘い香りが漂ってくるのは、きっとあのカフェのせいだ。毎晩のようにLoFiヒップホップが流れ出す、人間どもお気に入りの場所。
 路地裏のゴミ箱で一仕事終えた俺は、カフェのショーウィンドウの前に移動した。ガラスに映る自分の姿は、黒曜石のような毛並みとエメラルドグリーンの瞳で、夜の帝王そのものだ。だが、俺の視線の先には、店内でくつろぐ人間たちがいる。
 「この曲、すごくいいね。作った人は天才かも」
 「そうだね。ネコみたいに気まぐれで、でも優しい感じがする」
 「本当、まるでネコの気持ちがわかるような」
 聞こえてくる言葉に、鼻で笑いを漏らす。ああ、滑稽だな。俺が作った曲を聴きながら、よくもまあ、そんな風に言えるものだ。そう、店内に流れているメロウなビート、チルなメロディー、紛れもなく俺様の作品なのだ。
 人間は本当に単純な生き物だ。少しばかり耳障りの良い音を聞かせれば、たちまち癒されたと錯覚する。俺の芸術が、彼らの心を解きほぐすためのBGM程度にしか思われていないことに、苛立ちを覚えないと言えば嘘になる。
 だが、次の瞬間、俺の耳に届いたのは、聞き慣れたベースラインだった。思わず耳をそばだてる。このグルーヴ、この浮遊感…紛れもなく、俺が昨日、あの廃墟の屋上で作り上げたばかりの新曲「Midnight Stroll」だ。
 人間たちは、俺の曲のどこが「チル」で「リラックス」できるのか理解しているのだろうか?
 ほんの数時間前、俺は孤独と不安に苛まれながら、この曲を作ったというのに。
まあいい。人間どもが理解できなくても構わない。俺は俺の音楽を創造し続けるだけだ。
ショーウィンドウに映る自分の姿をもう一度見つめる。冷めた瞳、どこか寂しげな横顔。
 ああ、そうか。俺の音楽が冷めているのは、俺自身の心が冷めているからだ。

 夜も更けてきた頃、いつもの裏路地に足を向ける。ここは、我々猫たちの社交場だ。といっても、人間たちのそれとは訳が違う。派手なパーティーだの、くだらない社交辞令だの、そんなものは一切ない。ただ、互いの縄張りを尊重しつつ、適度な距離感を保ちながら、夜の静けさを共有するだけだ。
 「おお!Pじゃないか!」
 突如、耳障りな声が静寂を破る。振り向けば、例の派手な三毛猫が興奮気味に駆け寄ってくるではないか。俺は軽く目を細める。まったく、落ち着きのない奴だ。
 「Pさん!昨日の新曲、最高でしたよ!あのベースライン、鳥肌もんでした!」
 熱烈な賛辞に、俺は静かに頷くだけだ。
 「ねえねえ、Pさん。次はどんな曲を作るんですか?」
 そうこうしているうちに、他の猫たちも集まってきた。みんな、口々に俺の音楽を褒め称える。まるで、俺が何かの有名人にでもなったかのようだ。
 「Pさんの曲を聴いていると、人間に拾われなくて良かったって思えるんです」
 「そうそう!迷子の誇りを感じるよね」
 ...ふん。
 「まあ、そういうことだ」
 俺は適当に相槌を打ちながら、ゆっくりとその場を離れる。背中には熱い視線を感じるが、振り返らない。
 だが、内心では何とも言えない気持ちになった。嬉しいような、空しいような。認められたいような、理解されたくないような。
 月明かりに照らされた路地を歩きながら、俺は深くため息をつく。ああ、この気持ち、きっと次の曲に昇華されるのだろう。そう思うと、少しだけ心が軽くなった気がした。
 ...さて、今夜はどこで眠ろうか。屋根の上がいいかもしれないな。星空を見上げながら、新しいメロディーを考えるのも悪くない。
 そう決意し、俺は軽やかに塀を飛び越えた。夜はまだ始まったばかりだ。

 夜の街を歩く俺の足取りは、いつもより少し重い。というのも、今日はあの日からちょうど2年。俺が「自由」を選んだ日さ。人間に見捨てられたんじゃない。俺が去ったんだ。...そう、そうに違いない。
 ふと気づけば、またあのカフェの前。ったく、この体の記憶ときたら。でも、まあいい。今宵はどんな人間ドラマが見られるか。
 ガラス越しに店内を覗き込むと...ゾクッとした。あの顔、間違いようがない。かつて俺に餌をくれた手、頭を撫でてくれた指を持つ人間。
 そう、俺の元飼い主だ。
 少しやつれた様子のその顔。短く切られた髪は以前よりも落ち着いた色合いになっている。目の下にはうっすらとクマが見えるが、どこか優しさと寂しさが同居する瞳。着ている服はシンプルだが、手入れの行き届いた清潔感がある。
 「もう終わりにしよう」
 男の声。...ってことは、あいつが元飼い主の彼氏か。
 「どうして...?私たち、うまくいってたじゃない」
 震える声。懐かしい声。でも、今は違う。俺には関係ない。そう言い聞かせる。
 「君は...僕のことを縛りすぎるんだ。もっと自由に生きたいんだ」
 「でも、私...あなたのために変われる。だから...」
 冷ややかな目で二人を観察し続ける。男は困ったような、でも決意に満ちた表情。元飼い主は...ん?彼女の目が、俺と合った。
 一瞬、時が止まったような気がした。主の瞳に映る悲しみ。そして何か...言葉にできない何か。それは俺の曲の中にある、あの言葉にならない感情に似ている。
 目を閉じると、主の悲しげな瞳が浮かんでくる。ちっ、なんだよ。まるで曲のインスピレーションが湧いてきた時みたいじゃないか。いや、それ以上だ。懐かしさと、痛み。そして、どこか安らぎも。
 ゆっくりと目を開け、もう一度店内を見る。二人の姿はもうない。別れ話は終わったんだろう。
 俺は尻尾を軽く揺らし、静かに夜の街へと歩み出す。頭の中では、新しいメロディーが鳴り始めていた。悲しみと、懐かしさと、そして何かわからない希望が混ざったような音色。
 ふん、まったく。元飼い主の ドラマに影響されるなんて。情けない限りだぜ。
 ...でも、主、これからどうするんだろう。

 夜の闇に紛れ、俺は再び主のアパートへと足を運んでいた。どうしてこんなことを...いや、考えるな。ただ、観察するだけだ。
 屋根の隙間から、こっそりと部屋を覗き込む。
 「はぁ...」
 耳に届いた溜め息に、思わず身を縮める。そして目に飛び込んできたのは、まるで嵐が過ぎ去った後のような光景だった。
 散らかった衣服、積み上げられた空のカップ麺。床には、踏み潰されたスナック菓子の袋。そして...ああ、なんてこった。壁一面に貼られた写真。全部あの男のものじゃないか。笑顔の二人、肩を寄せ合う姿、キスをする瞬間...まるでモザイク画のように、幸せだった頃の記憶で埋め尽くされている。
 主は、その写真の海の中心で、スマートフォンを握りしめたまま、虚空を見つめていた。画面には、送信されなかったメッセージの文字が並んでいる。
 「どうして...私じゃダメなの?」
  震える声。その言葉に、俺は思わず耳をピンと立てる。
 主は立ち上がると、よろよろとクローゼットに向かった。開けた扉の中から、男物のシャツを取り出す。それを胸に抱きしめ、深く息を吸い込む主。
 その姿を見ていると、胸が締め付けられる。こんな気持ち、久しぶりだな。
 ...ふと、2年前の記憶が蘇る。
 あの頃の部屋は、まるで別世界だった。明るい日差しが差し込む窓辺には観葉植物が並び、整然と片付けられた本棚。壁には彼女のイラスト作品が飾られ、部屋中に主の個性が溢れていた。
 そして、ソファの上で、俺は主の膝の上で丸くなっていた。幸せそうに俺の頭を撫でる主。あの頃の主の瞳は、希望に満ちていた。
 現実に引き戻される。目の前の光景は、あの頃とはあまりにも違う。
 主は再びベッドに倒れ込み、男物のシャツを抱きしめたまま、小さく震えている。スマートフォンの画面が明滅する。新しい通知。だが、彼女は見向きもしない。
 「もう...どうすればいいの...」
 その言葉で、胸の中で何かが熱くうねる。そうだ、そうしよう。
 俺の音楽で、彼女を…チルにさせる。ただの気まぐれさ。そう、気まぐれで構わない。
 静かに立ち上がる。月明かりを浴びながら、いつもの場所へ向かう。
 ...ったく、人間に構うなんて。野良の誇りが泣くぜ。でも、まあいいか。これも、アーティストの気まぐれってことで。
 廃ビルの屋上。ここが俺のスタジオさ。
 古びたターンテーブルの前に座り、目を閉じる。耳を澄ませば、街の音が聞こえてくる。車のクラクション、人々の話し声、風に揺れる木々のざわめき。全てが音楽になる。
爪でレコードを軽くスクラッチ。尻尾でフェーダーを操作。体全体でリズムを刻む。ビート、ベースライン、メロディ。全てが頭の中で組み上がっていく。
 そして、主の姿が蘇る。悲しみに沈んだ瞳。けれど、その奥に秘められた強さ。あの時、一瞬だけ見た希望の光。
 指先から溢れ出す音が、少しずつ形になっていく。冷めているようで温かい。切なくて、でも力強い。そう、これこそが俺の求めていた音だ。
 「...できた」
 満足げに微笑む。いや、笑ってなんかいない。ただ、口元が少し緩んだだけさ。

 街灯の光を避けながら、俺は影から影へと駆け抜ける。人間たちの目など、気にする必要はない。迷子の王にふさわしい、静かで素早い身のこなし。
 ほら、目的地が見えてきた。彼女のアパート。...元飼い主の。
 外壁に爪を立て、スルスルっと登っていく。
 「ふぅ...」
 3階まで来た。主の部屋の窓だ。開いている。...ったく、危ないじゃないか。...いや、俺にとっては好都合か。
 静かに、忍び足で部屋に侵入する。暗闇の中、寝息が聞こえてくる。ベッドに目をやると...
 「...」
 思わず、足を止めてしまった。月明かりに照らされた彼女の寝顔。穏やかで、儚い。
 ...って、何考えてんだ。さっさと任務を果たすぞ。
 背中からそっとレコードを降ろし、部屋を見渡す。どこに置こう...ああ、そうだ。デスクの上。主が必ず見つけるはずだ。
 そーっと...そーっと...
 「にゃっ!」
 思わず声が出そうになる。危ない、危ない。これだから人間の部屋は...
 レコードをデスクに置き、ホッと一息つく。よし、任務完了だ。さっさと帰るとするか。
 ...その時だった。
 「...ん...?」
 振り返ると、主の目が開いていた。俺と目が合う。
 時が止まったかのような一瞬。主の目に映る驚き。俺の胸に広がる戸惑い。
 「...まさか、P...?」
 その声に、背筋が凍る。
 咄嗟に、窓に飛び乗る。振り返ると、主が起き上がろうとしていた。その目に浮かぶ懐かしさと、喜び。...そして、悲しみ?
 「待って...!」
 その言葉を背に、俺は夜の闇へと身を投げ出した。
 アスファルトに着地し、全力で走り出す。心臓の鼓動が耳に響く。
 「はぁ...はぁ...」
 やっと立ち止まったのは、いつもの廃ビルの屋上。月を見上げる。
 「...ったく、失敗じゃないか」
 そう呟きながらも、どこか安堵している自分がいる。彼女に会えた。そして、彼女は俺のことを...
 いや、考えるな。これは単なる任務。アーティストとしての使命を果たしただけだ。これからどうなるかなんて...
 ...でも、彼女はあの曲を聴いてくれるだろうか。
 そんなことを考えながら、俺は夜明けを待つ。なぜか、胸の中がポカポカと温かい。まるで、昔、彼女の膝の上で眠っていた時のように。

 ったく、面倒なことになっちまったぜ。
 あのレコードを届けてから、俺の日常は少し...いや、かなり変わった。街を歩けば、どこからともなく聞こえてくる彼女の声。そう、元飼い主の。
 「P!ちょっと待って!」
 ほら、また始まった。知らんぷりを決め込んで、さっさと歩を進める。人間なんて、所詮は...
 「P!お願い、話を聞いて!」
 ...うるさいなぁ。
 路地裏に身を翻す。ここから先は、人間には付いてこられないはずだ。塀を軽々と飛び越え、屋根を颯爽と駆け抜ける。風を切る感覚が心地良い。
 「はぁ...はぁ...P!」
 ...おや、まだ諦めてないのか。屋根の上から覗き込むと、彼女が息を切らしながら辺りを見回している。その顔には、懸命さと...悲しみ?が浮かんでいる。
 胸がチクリとする。昔、俺を探し回っていた時と同じ顔だ。...いや、関係ない。俺は自由な身だ。誰にも縛られない。
 再び走り出す。今度は複雑に入り組んだ路地を選ぶ。右に左に、まるで迷路のように。人間には、とても追いつけないはずだ。
 「P!」
 突然の声に、思わず足を止めてしまった。目の前に、彼女が立っていた。息を切らし、汗を流しながら。でも、その目は決意に満ちている。
 「やっと...見つけた...」
 彼女は深呼吸をして、少し落ち着いた様子で続けた。
 「最近...どう?」
 ...なんだ、そんな他愛もない質問か。
 俺は彼女をじっと見つめる。昔のように撫でてくれた手。餌をくれた優しさ。でも、今の俺は違う。自由で、誰にも縛られない迷子の王様だ。
 無言のまま、彼女の横をすり抜けようとする。
 「P...待って」
 その声に、一瞬だけ足を止める。振り返らずに。
 「...にゃ〜」
 小さく鳴いて、そのまま歩き去る。胸の中で、何かがモヤモヤとする。これが正しいのか、間違っているのか。
 でも、今の俺には、まだその答えは出せない。だから、ただ歩き続ける。
 背中に感じる彼女の視線。それは温かく、そして切ない。
 ...次はどんな曲を作ろうか。そんなことを考えながら、俺は夕暮れの街へと消えていった。

 夜の街がLoFiビートを刻む中、俺の予想外の一夜が始まった。
 「P!ちょっと待って!」
 その声が背中に突き刺さる。ったく、なんでこうなった?ああ、そうさ。あのレコードのせいだ。
 知らんぷりを決め込み、俺は影から影へと身を躍らせる。路地裏の狭間、ゴミ箱の陰、古びた看板の裏。人間の目など、およびもつかない。
 「はぁ...はぁ...どこ...行ったの...」
 主の息遣いが聞こえる。ちらりと振り返れば、主は街灯の下で辺りを見回している。その目に浮かぶ懸命さに、胸が締め付けられる。
 ...いや、考えるな。俺は自由な身だ。誰にも縛られない。
 屋上へと飛び移る。月明かりを浴びながら、街を見下ろす。ビルの隙間から漏れる光、車のヘッドライト、ネオンサイン。全てが音楽のように見える。
 「P...お願い...話を聞いて...」
 げっ!こんな高所まで来るとは。相変わらず しつこい奴だ。
 再び逃走開始。屋根から屋根へと軽やかにジャンプ。風を切る音が、まるでシンセサイザーのアルペジオのよう。
 時折、主の姿を確認する。まだ追ってくる。その執念深さは、2年前と変わらない。...いや、むしろ強くなっているかもしれない。
 夜が深まった頃、ようやく彼女の姿が見えなくなった。ほっと胸を撫で下ろす。...って、俺が安心してどうする。
 「にゃぁ〜」(まったく、疲れた)
 古い公園のベンチで一息つく。と、その時。
 「やっと...見つけた...」
 主が、息を切らしながら近づいてくる。なんて執念深い人間だ。
 「P...最近どう?元気にしてた?」
 彼女の問いかけに、俺は知らんぷりを決め込む。目を閉じ、尻尾だけをゆらゆらと揺らす。
 「...そっか。話したくないんだね」
 その声が、まるで古いレコードの最後の一音のように、空気に溶けていく。
 「P...」
 だが、彼女の手が伸びてくる。
 瞬間、俺は跳ねるように立ち上がる。彼女の目に驚きが走る。
 「P!待って!」
 その声を背に、俺は再び走り出す。朝もやに包まれた街を、風のように駆け抜ける。後ろから主の足音が聞こえる。しつこいったらありゃしない。
 廃ビルの屋上に辿り着く。びたターンテーブル、擦り切れたミキサー。
 疲れた体を横たえる。目を閉じれば、まだ彼女の声が聞こえる気がする。
 「...バカバカしい」
 呟きながらも、俺は立ち上がる。ターンテーブルに向かい、レコードを乗せる。針を落とす。
 シュッ...シュッ...
 LoFiビートが流れ出す。俺の最新作だ。彼女に届けたはずのあの曲。
 目を閉じ、音に身を委ねる。不思議と、彼女の笑顔が浮かぶ。2年前の、あの頃の。
 「...クソッ」
 思わず、爪でレコードを引っかく。ノイズが鳴り響く。
 でも、そのノイズが心地よかった。
 疲れた体を丸める。俺の一日が終わる時間だ。
 目を閉じながら考える。明日は...いや、今夜は、新しい曲を作ろう。彼女のことなんて、忘れてさ。
 ...本当に忘れられるのか?
 その疑問を胸に、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。夢の中で、かすかにLoFiビートが鳴り響いていた。

 早朝の魚市場。俺の鼻をくすぐる生臭い香りが、胃袋に直接訴えかけてくる。
 「さばー! 新鮮なさばはいかがですかー!」
 威勢のいい掛け声が、まるでジャズの即興演奏のように飛び交う。俺はその音楽に乗って、影から影へと滑るように移動する。
 そう、ここは俺の狩場。
 「あら、P?」
 その声に、俺は思わず毛を逆立てそうになる。振り返ると、そこには主がいた。
 「やっぱりここにいるんだね。昔と変わらない」
 彼女の目が優しく微笑んでいる。くそっ、なんでこんなところに。
 知らんぷりを決め込み、俺は魚の切れ端を探し始める。ここで一匹、あそこで一切れ。猫の手は借りれんって言うけど、俺の手なら大歓迎だろうさ。
 「もう、相変わらずね」
 主の声が近づいてくる。俺は警戒しながらも、目の前の魚に集中する。
 「あの、すみません!」
 突然、彼女が大きな声を出した。店主が振り向く。
 「この魚、どこで獲れたんですか? 見たことないような種類で...」
 店主の注意が彼女に向く。...なるほど、そういうことか。
 俺は素早く動く。あっちの箱から一切れ、こっちの氷の下から一匹。彼女の会話の合間を縫うように、次々と戦利品をゲット。
 「へえ、そうなんですね。ありがとうございました!」
 彼女の声が遠のく。俺は獲物を咥えたまま、影に潜り込む。
 「P、こっちよ」
 彼女の声に導かれ、俺たちは市場の裏手に移動する。彼女は小さな布を広げ、そこに俺の獲物を置く。
 「さあ、食べましょう」
 彼女は魚を二つに分け、片方を俺の前に置く。俺は警戒しながらも、その魚に顔を近づける。
 ...ん? この味は。
「美味しい?」
 彼女の問いかけに、俺は答えない。でも、むしゃむしゃと食べ続ける。
 この味。この雰囲気。まるで、2年前のあの頃に戻ったようだ。
 俺は無表情を保つ。でも、胸の奥で何かが温かくなっている。主と食事を共にする喜び。...って、何言ってんだ。単なる空腹のせいさ。
 「P、また一緒に来てもいい?」
 主の問いかけに、俺はちらりと目を向ける。答えはしない。
 でも、尻尾が勝手に動いている。

 夜の帳が街を覆い始める頃、俺の本領発揮の時間だ。今宵は特別な夜。LoFiフェスの準備をしなきゃならない。...って、こいつは何でついてくるんだ?
 「P、待ってよ!」
 主の声が後ろから聞こえる。まったく、しつこい奴だ。...でも、まあいいか。
 「にゃぁ」(ついてくるなら、俺の世界を見せてやるぜ)
 街の喧騒を抜け、裏路地に潜り込む。ここからが俺の演奏会場さ。
 まずは、古いビルの非常階段。錆びた金属が風に揺れて、キュイーンという音を奏でる。
 「わぁ、この音...なんだか切ない感じ」
 主の声に、思わずニヤリとする。ふん、まだまだこんなもんじゃないさ。
 次は、地下鉄の通気口。規則正しく吹き出す風が、ビートを刻む。
 「まるでドラムみたい!」
 彼女の目が輝いている。
 そして、雨樋を伝う水滴。ポタポタと落ちる音が、メロディーラインを描く。
 「P、これ全部音楽になるの?」
 俺は黙ったまま、尻尾を揺らす。そうさ、全てが音楽になるんだ。
 夜が更けるにつれ、彼女の目の輝きが増していく。俺の世界に魅了されていく様子が、手に取るようにわかる。...別に、うれしくなんかない。本当だぞ。
 「ねぇ、P」
 ん? 急に真面目な顔して、どうした?
 「P、一人の生活って...寂しくないの?」
 突然の質問に、俺は足を止める。
 「私ね、あなたに届けてもらった音楽、とても好きなの。聴くたびに...あなたのことを思い出すの」
 その言葉に、俺の心臓が跳ねる。まるで、ベースドロップのように。
 振り返れば、彼女の目に涙が光っている。ああ、こんな顔を見せるなよ。
 俺は黙ったまま、彼女をじっと見つめる。そして...
 「にゃぁ...」(まったく、面倒な話だ)
 そう言って、歩き出す。でも今回は、いつもより少しだけゆっくりと。
 主がついてくる気配がない。
 ここで再び、彼女と離れた。
 いや、気にしていない。今は、LoFiフェスの準備に集中しないと。
 街の喧騒が、俺を包み込む。その中に、新しい曲のヒントが隠れている。

 月が満ち欠けすること三回。我ら迷子の祭典、LoFiフェスの時が来た。
 廃工場に集結する猫たち。毛並みも性格も十人十色...いや、十猫十色か。そんな彼らが一致団結する、稀有な瞬間だ。
 「よっこらしょ!」
 巨大な歯車を運ぶ三毛猫。その歯車、猫の身長の三倍はあるのに、まるで綿菓子のように軽々と持ち上げている。重力?そんなの知らね。
 「ここに置くニャ」
 錆びついた配管をくわえたキジトラが、歯車の上にそれを乗せる。するとどうだ、即席のターンテーブルの完成さ。
 俺は高所から全てを見下ろす。そう、ステージだ。かつて人間が使っていた巨大なボイラーを、猫たちが爪で削り、尻尾で磨き上げた。その頂上に立つ俺の姿は、まさに...猫神だな。
 ...って、また妄想が過ぎたか。
「音響どうニャ?」
 デブ猫のボスが叫ぶ。彼の「にゃ〜ん」という鳴き声が、工場中に響き渡る。壁に吊るされた魚の骨が共鳴し、奇妙なリバーブを生み出す。
 完璧だ。
 俺は目を閉じ、耳を澄ます。工場の金属音、猫たちの足音、外の風の音。全てが音楽になる。
 そう、これこそが俺のLoFi。混沌とした現実から生まれる、幻想的な音の世界。
 ...ふと、彼女の顔が脳裏をよぎる。人間の彼女が、この光景を見たらどんな顔をするだろう。
 「また変なこと考えて」
 自分で自分のアホさ加減に呆れる。今は曲作りに集中しないと。
 目を開けると、辺りの景色が少し歪んで見える。猫たちの動きが、スローモーションのよう。いや、俺の意識が高まっているだけか。
 古びたミキサーの前に座り、爪でフェーダーを操作する。尻尾でリズムを刻み、耳でメロディーを紡ぐ。
 そう、これこそが俺の音楽。現実と幻想の狭間で生まれる、唯一無二の音色。
 ...でも、どこか物足りない。
 ちらりと辺りを見回す。猫たちは熱心に準備を続けている。でも、俺の目は彼らを捉えていない。
 探しているのは...彼女の姿か。
 「まったく、面倒な話だ」
 そうつぶやきながらも、俺の耳は人間の足音を探している。彼女が来てくれたら、きっとこの曲も完成する。
 ...なんて甘ったるい考えだ。さっさと仕事に戻るぞ。
 俺は再び目を閉じ、音の海に身を委ねる。今宵のLoFiフェス、絶対に成功させてみせる。たとえ彼女が来なくても...ね。

 夜の帳が降りた頃、俺たち猫族の真の姿が目覚める。人間どもが知らない、俺たちだけの世界。そう、秘密のクラブさ。
 廃ビルの地下への入り口は、一見しただけじゃ分からない。でも俺たち猫には、匂いで分かるんだ。カツオ節とミントの混ざった、あの独特の香り。
 「開けゴマ」
 俺がつぶやくと、コンクリートの壁がスルリと開く。まるでバターを切るように。
 中に足を踏み入れると、そこは別世界。ネオンみたいな光を放つ蛍光キノコが、壁一面を彩っている。青や紫、ピンクの光が交錯して、まるでオーロラのよう。
「やあ、P」
 声の主は、サングラスをかけたクールな白猫、DJ・スノウ。彼のターンテーブルの上では、魚の骨がレコードの代わりになっている。針が骨を擦る音が、不思議なビートを刻む。
 「よう」
 軽く頷いて返事をする俺。スノウの隣では、派手な毛染めをした三毛猫のDJ・レインボーが、尻尾でミキサーを操作している。虹色に光る彼女の毛並みが、蛍光キノコの光と共鳴して、幻想的な空間を作り出している。
 クラブの中央では、デブ猫のボスが、巨大な毛玉をボールのように転がしている。それが床を転がるたびに、低音が響き渡る。
 「今夜のゲストはお前だぞ、P」
 ボスが俺に向かって言う。
 ステージに向かって歩き出す。途中、バーカウンターでは、タキシード柄の猫バーテンダーが、魚の目玉をシェイクしている。出来上がったカクテルは、まるで宇宙の星屑のよう。
 「Pさん、いつもの?」
 バーテンダーが声をかけてくる。
 「あとでな」
 そう言って、俺はステージに立つ。目の前には、様々な猫たちが集まっている。野良猫あり、家猫あり。でも、ここでは皆平等だ。音楽の前では、すべての猫が自由なのさ。
 ターンテーブルの前に立ち、深呼吸する。爪を立て、尻尾を上げる。そして...
 「にゃおーーーん!」(Let's groove!)
 俺の声と共に、クラブが揺れ動く。蛍光キノコの光が激しく点滅し、猫たちの鳴き声が歓声となって響き渡る。
 ...ふと、彼女のことを思い出す。人間の彼女が、この光景を見たらどう思うだろう。
「またか」
 自分でも呆れるぜ。
 蛍光キノコの光が俺を包み込む。爪先から尻尾の先まで、全身が音楽と一体化する瞬間だ。
「さあ、行くぜ!」
 俺の声と共に、クラブが揺れ動く。ターンテーブルの上で、魚の骨がキュッキュッと音を立てる。そこに尻尾でリズムを刻み、耳でメロディーを紡ぐ。
 ふと、人間の彼女の顔が脳裏をよぎる。...って、またか。集中しろ、俺。
 「ふん、それが噂のPか」
 鼻持ちならない声が聞こえてくる。振り返ると、そこには毛並みの美しい長毛種の猫。DJ・フラッフィーだ。
 「野良如きが、このクラブの主役を務められるとでも?」
 その高慢な態度に、思わず毛が逆立つ。だが、ここは冷静に。
 「にゃ」(やれるもんならやってみろよ)
 フラッフィーが俺の隣のターンテーブルに立つ。彼の演奏が始まる。
 ...くそっ、なかなかじゃないか。
 彼の毛並みが光を反射し、まるでディスコボールのよう。その美しさに、観客の猫たちが魅了されていく。
 俺も負けじと演奏を続けるが、どこか調子が出ない。観客の視線が、徐々にフラッフィーに集まっていく。
 「まずいな」
 そう思った瞬間。
 「P!頑張って!」
 その声に、俺は思わず振り返る。そこには...彼女がいた。人間の彼女が。
 「にゃにゃにゃ!?」(なんでここに!?)
 動揺する俺。フラッフィーの演奏がさらに激しさを増す。
 「ほら見ろ。所詮人間如きに頼る元家ネコなんぞ」
 フラッフィーの言葉が、俺の心に突き刺さる。
 だが...
 「P、あなたの音楽が大好き!この世界を教えてくれてありがとう!」
 そうか...俺の音楽は、彼女とのつながりから生まれたものだったんだ。
 「にゃおん!」(よし、行くぜ!)
 俺は再び演奏を始める。今度は違う。街の音、彼女の声、そして...俺自身の鼓動。全てが一つになる。
 爪がターンテーブルを走る。尻尾がリズムを刻む。耳がメロディーを紡ぐ。
 蛍光キノコの光が、俺の演奏に合わせて激しく点滅する。観客の猫たちが、次々と俺の音楽に身を委ねていく。
 「にゃにゃにゃ〜!」(すげぇ!)
 「にゃおーん!」(最高だにゃ!)
 フラッフィーの演奏が、俺の音楽に飲み込まれていく。
 「ば、馬鹿な...」
 彼の驚いた声が聞こえる。だが、もはや誰も彼に注目していない。
 クラブ全体が、俺の音楽と一体化する。猫たちが踊り狂い、蛍光キノコが虹色に輝き出す。
 そして...彼女の姿。人間なのに、猫たちと一緒に体を揺らしている。
 「にゃふふ」(ばかだな)
 そう思いながらも、俺は嬉しさをかみしめる。
 演奏が最高潮に達する。クラブ中の猫たちが一斉に鳴き声を上げる。
 「にゃおーーーーん!」
 その瞬間、俺は全てを理解した。野良も家猫も、猫も人間も関係ない。音楽は、全てを繋ぐんだ。
 演奏が終わり、クラブが静寂に包まれる。と思いきや。
 「P!最高だよ!」
 彼女の声と共に、猫たちの歓声が沸き起こる。
 俺は、少し照れくさそうに彼女を見る。そして、小さくつぶやく。
 「にゃ」(ありがとう)
 この夜、俺の中で何かが大きく変わった。そして、新しい音楽の扉が開かれたのを感じた。

 月明かりが差し込む廃ビルの一室。俺のスタジオだ。古びたターンテーブル、擦り切れたミキサー、そして...彼女。
 「P...家に帰ろう」
 主の声が、静寂を破る。
 俺は黙ったまま、彼女を見つめる。人間の言葉なんて理解できないはずなのに、なぜか彼女の言葉だけは心に響く。
 「お願い...もうこれ以上何も失いたくないの」
 彼女の目から、涙が溢れ出す。その姿に、胸が締め付けられる。でも、俺は動じない。少なくとも、表面上は。
 「にゃ...」(そうか)
 耳をピクリと動かし、尻尾をゆっくりと左右に揺らす。これが俺なりの返事だ。
 彼女は俺の反応を必死に読み取ろうとしている。その姿が、どこか痛々しい。
 「にゃおん」(聞いてくれ)
 俺はその目をじっと見つめる。言葉は通じなくても、気持ちは伝わるはずだ。
 お前は、ただ俺に執着しているだけじゃないのか? 失うことへの恐怖に囚われているだけじゃないのか?
 耳を後ろに倒し、尻尾を床に叩きつける。俺なりの厳しい指摘だ。
 主は驚いたように俺を見つめ返す。
 本当に必要なのは俺じゃない。お前自身の中にある音楽だ。俺が作る音楽は、ただのきっかけに過ぎない。本当の音楽は、お前の中にあるんだ。
 目を細め、耳をピンと立てる。これが俺の真剣な表情だ。
 彼女には俺の言葉は伝わらないだろう。でも、俺の眼差しから何かを感じ取ったようだ。
 「P...」
 その目に、何かが宿る。気づきの光だ。
 「私...自分に執着していたのね。失うことが怖くて、前に進めなかった」
 涙を流しながら、彼女は語り始める。
 「でも、あなたの音楽を聴いて...自分の中にも音楽があることに気がついたの」
 俺は静かに彼女を見つめる。その変化を、しっかりと目に焼き付ける。
 「これからは...自分の音楽を見つけていく。それが、あなたとの約束だと思う」
 決意の言葉に、俺は小さく頷く。
 「にゃ」(そうだ、その調子だ)
 尻尾を優しく彼女の足に擦り寄せる。これが精一杯の励ましだ。
 彼女は俺を抱き上げようとするが、俺は軽くよける。まだその時じゃない。
 「わかった...ありがとう、P」
 主は涙を拭いながら、微笑む。そして、立ち上がり、部屋を出ていく。その背中を見送りながら、俺は考える。
 これで良かったのか?
 ...でも、それはもう俺が決めることじゃない。彼女自身が選んだ道だ。

 月が満ち欠けすること数回。俺は相変わらず夜の街を徘徊している。
 でも、今夜は特別な夜だ。
 主の部屋の窓辺に腰を下ろし、中を覗き込む。
 「にゃ?」(おや?)
 主の部屋が、すっかり変わっていた。壁一面に貼られていた元カレの写真が消え、代わりに色とりどりのポスターが貼られている。ジャズミュージシャンに、クラシックの作曲家、そして...LoFiアーティスト?
 「ふん」
 思わず小さな笑みがこぼれる。
 主が窓を開ける。俺は咄嗟に身を隠す。
 「はぁ...」
 彼女の深い息遣いが聞こえる。そして...目を閉じ、耳を澄ます姿が見える。まるで...俺のようだ。
 街の音が彼女の部屋に流れ込む。車のエンジン音、遠くの犬の鳴き声、風に揺れる木々のざわめき。主の表情が、少しずつ輝きを増していく。
 「にゃおん」(なるほどね)
 それからというもの、俺は時折その様子を窺うようになった。決して姿は見せない。ただ、遠くから見守るだけ。
 彼女の部屋には、新しい機材が増えていった。小さなシンセサイザー、ループステーション、そして...ターンテーブル。
 「まったく」
 呆れながらも、どこか嬉しそうな俺がいる。
 彼女の部屋から、かすかな音が漏れ聞こえてきた。
 「にゃ?」(ん?)
 耳をピンと立て、注意深く聴き入る。
 そこには、主の作った音楽が流れていた。拙い技術ながらも、心のこもった音色。街の音をサンプリングし、そこに彼女自身のメロディーを重ねている。
 思わず、俺は窓辺に姿を現す。
 主は気づいていない。目を閉じ、音楽に身を委ねている。その表情は、かつての俺を思い出させる。
 「にゃぁ...」(やるじゃないか)
 小さくつぶやき、俺はその場に座り込む。音楽に、静かに耳を傾ける。
 時が経つのも忘れ、俺たちはそうしていた。彼女は音楽を奏で、俺はそれを聴く。
 やがて、夜が明けてくる。
 彼女が目を開け、ふと窓の方を見る。その瞬間、俺たちの目が合った。目が大きく見開かれる。俺は動じない。
 「P...?」
 その声に、俺はゆっくりと立ち上がる。
 別れの時だ。
 彼女に背を向け、俺は屋根の上に飛び乗る。そして、最後にもう一度振り返る。
その顔に、大きな笑顔が浮かんでいる。その横で、新しい曲が流れ続けている。
 「にゃ」(じゃあな)
 一瞬だけ、俺も微笑む。
 そして、朝日に照らされた街へと駆け出す。今日も、新しい音を探す旅が始まる。
彼女との物語は終わった。でも、俺たちの音楽は、これからも鳴り続けるだろう。
 街の喧騒の中、俺の尻尾が軽快にリズムを刻む。
 新しい曲が、もう頭の中で鳴り始めていた。

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