「書く」ことについて
自分にとっての「書く」とは何か。私は作家ではないし、いまのところ有料で記事を出すといったこともやっていない。それにもかかわらず、生活の中でnoteやブログ、SNSなど随分と文章を書いているような気がする。学生の頃、最も苦手だったのは国語と体育で、特に国語の作文は水泳と同じくらい苦手だった。それなのに、今日もポコポコとキーを打ちながら文章を書いている。
なぜ文章を書くのかという問いの答えは、人と状況によって変わってくる。とにかく伝えたいことがあって書く、もやもやした気持ちを解消するために書く、自分を知ってもらうために書く、個人で稼ぐために書く、マニアックな知識を残すために書くなど、いろいろとあるだろう。そのコンテクストは多様だとしても、これらの根本には内的な動機が潜んでいる。
一方、何かの外的な事情によって書かされるということもあり得る。その典型例は小学校だか中学校で課せられる読書感想文かもしれない。この現象はその後もたびたび発生するもので、大学での課題レポートから卒論、業務メール、業務メモ、業務報告書、広告文、提案書、製品マニュアルなど挙げればきりがない。このように、現代の社会では、学校・職場を問わず何らかの形で書くことが求められるのだ。だから、義務教育で国語を習うのだろう。
こんな風に書くことにまみれた生活を送る中で、個人的にnoteやブログを書き始める理由は「書きたいから書く」ということだと思う。はじめての記事にはとにかく誰かに何か伝えたい、あるいは吐き出したいことを含んでいるのではないだろうか。
私の場合、初めてブログを書いたのは遥か昔のことだが、好きな文房具だか音楽のことについて書いた記憶が薄っすら残っている。また、noteを書き始めた理由はデータ分析のノウハウや経験をなるべく形式知にして残したいと思ったからだ。つまり、書きたいから書いているのである。
その一方で、書くということは必ずしも楽しいことばかりではない。書きたいことがあるのに上手く書けないとか、書いても誰も読んでくれないとか、読んでもらっても響かないなど、悩みは尽きない。
気を抜くと書くことから遠ざかっているときもある。スランプとまではいかないが、定期的に筆が止まる時期がある。そんなときは大抵、小奇麗に書こうとしているか、壮大な何かを書こうとしているとき。
つまり、内的な動機で始めたことが、いつの間にか外的な動機にすり替わっているようなときにスンと手が止まってしまう。
結局のところ自分が興味がないことは書けないのだと思う。
書き続けるには、自分の中で「これを伝えたい!」とか「何か書きたい!」という思いが必要ということだろう。
まして、生成AIが出した無味乾燥な見出しを元にSEO満載の記事を書く気持ちにもなれない。自分が経験したことや考えたことを書きたいのであって、誰か(あるいは何かの装置)が作った文章を校閲したいわけではない。
なぜなら、個人的な文章は誰かのために書くといいながらも、その先頭には常に自分自身が並んでいるからだ。
少なくともnoteに書く文章はそうありたいと思っている。内的な動機で素直に書ける場所は大切にしておきたいから。もし、noteがそういった場所でなくなったら、別の場所を探すことになるだろう。
今も、noteやしずかなインターネットには素直に「書きたいこと」を書いている。一方、事務所サイトのブログやLinkedInでは、潜在的なクライアントに役立つ情報を発信すべく、あれこれ工夫しながら書いている。いずれも外部から原稿料やサービス料をいただくような活動ではなく、自発的に書いているものだ。
活動の半分は事業のためでもあるのだが、クライアントの課題や関心事を想像しつつも、自分が書きたいことを書きたいスタイルで書いていることには変わりない。
つまり、文章を書くことは自己表現の一つだろうと考えている。絵を上手くかけなくても、内向的で人見知りがちであっても、文章を通して自分を表現することができるのだ。
文章を書くというスキルは義務教育で配られたものであり、多くの人が基本的な武器として使うことができる。そして、その武器をふるう場所はnoteやSNSなどいくらでもあるし、手書きがよいなら手持ちのノートに書きなぐることもできる。
これらのことを端的に表現した一節がある。
自分が読みたくて、自分のために調べる。それを書き記すことが人生をおもしろくしてくれるし、自分の思い込みから解放してくれる。何も知らずに生まれてきた中で、わかる、学ぶということ以上の幸せなんてないと、私は思う。
自分のために書いたものが、だれかの目に触れて、その人とつながる。孤独な人生の中で、誰かとめぐりあうこと以上の奇跡なんてないと私は思う。
書くことは、生き方の問題である。
私にとっての「書く」ということは、ささやかな自己表現の一つなのだろう。そう考えると、あれほど嫌だった国語の時間にも感謝すべきなのかもしれない。
