シャンソンハット物語(上)|無料か
知らない人について行ってはいけない。
40 歳でもだ。
誕生日を迎えたサオリは、この辺りで一番大きな神社を、一人訪れていた。
自分なりの節目には、神様に挨拶したい気分になる。
40歳。ダブル成人式か。
で、ダブル成人式ってなんなんだよ。
2分の1成人式と同じくらい意味ないわ。
そんなことをふと思った。
心が少しカサカサしていたのかもしれない。
あれからもう20年なんて、信じたくない。
私、ちゃんとハタチからの20年、何かを積み上げただろうか?
サオリはなんとなく振り返ってみた。
20年の間に結婚して、母になった。仕事も、ゆるく再開した。
何もしてなかったわけじゃないぞ。ちゃんと自分なりに生きてきたはず。
そんなふうに肯定してみるほどに、なぜか心の奥の柔らかい場所が、モヤモヤしてくるのはなぜだろう。
自信がない。
不安だ。
このまま何も成さずに死んでいくなんて嫌だ。
この神社には、本殿の裏側に「くすのきの道」という神聖な場所がある。
写真撮影は禁止。大楠がそびえ立ち、鬱蒼とした森の中は夏でもひんやりしている。
大楠に手を合わせると、風がヒューっと吹いてきて、枝がゆっさゆっさ揺れた。「よくきたね」と言われている気がした。
平日だからか、サオリの他に歩いている人はまばらで、森はひっそりと静まり返っている。
心を静かにして歩いていくと、誰もいないはずの場所から、カサコソと葉や枝がこすれるような音がした。
何!?
必要以上にビックリして、音の方に顔を向けたまま固まる。
なんだ、鳩か。
やめてー。
神聖だと聞いているから、余計そういうモードになる気がする。
素直か。
サオリは、森の神聖な空気を、胸いっぱい吸い込んだ。日々の不安が一瞬で溶かされていくような清々しさを感じていた。
しばらく歩くと、遠目に数人の人だかりが見えた。そこだけ空気がざわついているようだった。
ゆっくり近づいていくと、グレーの中折れハットを被った紳士が、森の静けさを無視するかのように、シャンソン的な何かを気持ちよさそうに歌っている。
この神聖な森で歌っている人物がいることに、目を疑った。そして立ち止まって見入ってしまった。
やがて、紳士は歌うのをやめると、周りにいる女性たちに何かを配り始めた。
その怪しげな雰囲気に警戒心は大きくなったが、くすのきの道は決して引き返してはいけないような気がしていた。何があろうとも歩き切って、コンプリートしないと意味がないと、サオリは気合を入れた。あの女性たちと話している間に通り抜ければ大丈夫。そう確信した。
立ち止まって考えているうちに、女性達はもう紳士のそばを離れようとしていた。
でも、もう行くしかないのだ。歩幅は自然と大きくなった。
俯き、視線をそらし、やり過ごそうとした。
しかし、ささやかな抵抗もむなしく、ハットの紳士は
「ちょっとお姉さん」
とにこやかに声をかけてきた。
サオリは、肩にかけていたバッグの紐をギュッと握り直した。
お姉さんなわけはない。
それなのに、あろうことか立ち止まってしまった。
「いいものあげるね」
紳士はさらに近寄ってくる。
ここまでくるともう、なぜかわくわくしている自分がいた。
中折れハットが素敵に見えたせいか、
シャンソンが気になったからか、
それとも単に変な人への好奇心なのか。
ハット紳士は、シャンソンを鼻歌で続けながら、くすんだ水色のジャケットの内ポケットから茶封筒を出した。
そして、さらにそこから、何かを大切そうに取り出した。
松葉?
「そう。松葉っていうと、二本が普通でしょ。でもさ、高野山と、この神社に一本ずつ、三本の松葉の松があるの。これはね、なかなか手に入れられる人はいないよ。お姉さん、よかったね!幸運中の幸運」
「なるほど」……多分嘘だな。
「自分も変だけどさ、だいたい神社に一人で来るような女性は変わってるからさ。話すと面白いから声かけるのさ」
「まぁ、そうですね」
変わってると言われると、認められた気がしてうれしい。春先の変質者に絡まれているこの状況が、ちょっと楽しくなっているサオリがいた。
沈黙の中で、のどかな鳥のさえずりが響いた。
「昔俺ね、ここの神主さんと仲良くなって、色々もらったんだ。」
今度は、くたびれたビジネスバッグから、紙きれを出してきた。
……祝詞か。これを、どうしろと。
「俺はね、ひと月に本を15冊読むの。幸せな晩年を過ごしたいなら、40から目標を持って、色々チャレンジすること。本も読まずに、だらだらテレビ見て世の中の文句ばっかりな受け身じゃだめ」
なるほど。それは、そうかもしれない。
紳士は言いたいことがたくさんあるようで、矢継ぎ早に言葉を並べた。
「IQだけじゃだめ。EQが大事なのよ。冗談言い合えるようなコミュニケーション能力。ね?生きる力。冗談ってね、超大事!」
まぁ、確かに。そうかも。
で、一体この人、誰なんだろう。
ハット紳士は、おもむろにスマホを取り出した。
「俺が声かけると、何人かの女性はついてくるの。これほんと」
その瞬間、スッと背中が冷えて森が静かすぎるのを感じた。サオリはちょっと後ずさりした。
「お姉さん、今日がダメだったらさ、次会ったときお茶しよう。ね?」
「はは、そうですね」
(これ以上距離を詰めてきたら通報する)
じりじり後ずさりしているサオリを、気にも留めていないようだ。
「俺っていくつに見える?年齢を当てたら一泊のペア温泉旅行をプレゼントするね」
黙れシャンソンハット。推定65歳。お元気ですね。
絶対について行きますまい。
さあ、そろそろ切り上げようかなと思っていると、
「見て、俺の生命線こんなに長いの」
なぜかシャンソンハットは、生命線をアピールしてきた。
あ、この人も百握りなのか!
思わずサオリは、手のひらを広げて見せてしまった。
サオリも、手相が横棒一本だったから。思わず。
「あ!!やっぱ俺たち運命なんだね」
「違います」
「運命のお姉さんにいいこと教えてあげる。この手相の人はお金に困らないんだよ」
「えー、別にすごいお金持ちとかじゃないんですけど」
「バカ!お金なんて必要なだけあればいいんだよ、家族親戚先祖に感謝して、元気で生きていられるだけで感謝。そうでしょ?お金持ちじゃないとか言うんじゃないよ。もっと今ある幸せに感謝をしなさいよ」
会ったばかりの人に、「バカ!」って怒られた。
なかなかない経験ができたわ。
思いがけず森の中に長く居たから、春なのに手足が冷たくなってきた。
「じゃあ、お疲れさまでした」
サオリが去ろうとした時
「お姉さん、占い興味ある?」
なぜか小声で、そう伝えられた。
興味、なくはない。サオリの耳は自然と大きくなった。
「俺ね、実はその道ではけっこう有名なのよ。前世とか、使命とか分かっちゃうの。手相も得意よ。今から家来てくれたら無料でいいよん」
……無料か。
ただほど怖いものはない。
知ってる。その標語は知ってる。
だけど。一度手相は見てもらいたいって長年思ってきた。
自分の運命とか生きる意味とか、使命とか。
興味は、ある。
「家って近いんですか?」
サオリは自分の発した言葉に驚いていた。
いや、聞いただけですよ?
ごまかしてみたが、
「近いよ!すぐそこ!」
かぶせ気味に言われた。
どうしよう。絶対に行ってはいけないことだけは、分かる。
スマホの充電を確認する。20パーセントか。
多分、ギリなんとかなる。
「運命」とは言わせない。
でも、ここで勇気を出したら何かが変わる気がしたのだ。
サオリは、期待と恐怖がないまぜになった体を、小さく震わせていた。
(続く)
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