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メアリーとフランケンシュタインが結びつかない世界―映画「メアリーの総て」(ハイファ・アル=マンスール監督、英、2017)

 

 『フランケンシュタイン』はよく知られてると思うけど、その物語の作者はについてはどうだろう? 実のところぼくは、この映画をチェックするまでぜんぜん知らなかったし、知ろうとしたことすらなくて、で、にもかかわらず、「その作者は男だ」とは思い込んでいて疑いもしなかった―ということで、もうトホホすぎるわけだけど、それにしてもいったいどうして? ということについてはなんとなく分かるような気がする。

 やはりまずは「フランケンシュタイン」というワード。「フランケンシュタイン」というのはドイツでたまに見られる姓とのことで、だからフランケンシュタイン博士は珍しい姓ということになるわけだけど、そもそも「怪物」の名前が「フランケンシュタイン」だと思ってる人もけっこういるのではと想像するけど、どうでしょう(ぼくもそんなひとりでした…)。
 いずれにしても、このワード「フランケンシュタイン」自体「男性名詞」ということでまちがいないのでは。「怪物」ももちろん男性名詞だし、「怪物」を作り出した「博士」「科学者」、これもやっぱりまだまだ「男性名詞」側かと。「小説家」は? さすがに「小説家」をイコール男性と思い込むような空気はではないけど、でも「昔の小説家」だったら? そう考えると、画家も音楽家も政治家も医者も学者も法律家も、もうみんな「昔の」とセットになったとき一気に「男性名詞」化するわけで、そんなこんなで「フランケンシュタインの作者?知らないけど、誰か男じゃね?」ということに。 

 だから、この映画「メアリーの総て」のモデル、『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーは本当にすごいと思うし、それからもちろん、ハイファ・アル=マンスール監督、サウジアラビア出身の女性で、そのフェミなキャリアの初期をサウジで積んで世界に知られていったこの監督、リアル・メアリー? 彼女が活動をスタートした21C初、サウジは「昔の」がつかなくてもすべてが「男性名詞」みたいな世界だったはずだ。それから20年を経た現在、彼女は思うとおりに活動出来ているかというとそれはたぶん微妙で、彼女とその作品は「変化」「改革」を国際的にアピールしたいサウジにとって魅力的かつ好都合なコンテンツということなんだろうなと。そう考えると、依然めんどうくさい状況なわけだけど、でも監督はそんな状況もしたたかに「支え」に読み替えているに違いない―と考えてみたい。
 
 日常的なジェンダーバイアスの問題については、日本社会でもずいぶん話題になってきてるとは言えそうだし、ときには自身そんなことにピンときて、「おお!」ということになったりもするわけだけど、でも、それでもひとたび思い込んでしまったいろいろにホント簡単に持っていかれてしまう。ぼくはこのことを「メアリーの総て」を通じて身をもって知ったというわけだ。

 ぼくやぼくみたいな誰かたちがメアリーを知らないでいられるのんきさ、というかのんきでいられる特権性を気前よくシェアして使い切ってしまうようなイメージをうまく共有できないかなと思う。

 映画「メアリーの総て」は、小説『フランケンシュタイン』を綴ったメアリー・シェリーがその後三つの世紀に渡って語り継がれることになるこの傑作を「世に出す」までの物語だ。なんで「書き上げるところまで」ではなく? メアリーのこの傑作を引き受ける出版社がなかったから。なんで? メアリーが若くて、そして何よりも女だったから。19世紀序盤、産業革命期英国、混沌と可能性のるつぼロンドン。これはメアリーが圧倒的実力で扉をこじ開ける物語なんだけど、圧倒的実力がなければどうにもならないような社会があたりまえではないことにようやくごくごくわずかな人たちが気づき始める物語でもあるかなと。で、うっかりしてると、せっかくの彼らの気づきを21世紀のぼくたちが、台無しにしてしまうということであって、それは本当に残念すぎるでしょ。

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