心弾ませ、新たな気持ちで。
新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
旧約聖書 詩編96編1節 (新共同訳)
あけましておめでとうございます、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
2023年を迎えました。今年はうさぎ年だということです。
干支なんて年賀状を作る時とお正月くらいしかあまり意識しないのですが、そういう時には何となく「うさぎ年なんだから、ぴょんぴょん跳ね回るような軽やかな愉快な年にしたいな」なんてことを考えてみたりします。
昨夜は珍しく紅白歌合戦をちょっと見ていたのですが(例年はほとんど見ない)、私と同じか、それよりもっと上の世代のミュージシャンたちのいろんなチャレンジが垣間見えたのが印象的でした。
いくつになっても新しい挑戦をしていいし、これまでの経験や実績があればこそ醸し出せる迫力もあるし、年を重ねたからこそもっと自由になれる部分もある。そんなことを思いました。
私の現在の仕事は転勤も無く、企業みたいな昇進も無く(役職は回って来るけど、これはまあ任期制で分担するものだから全然昇進とかとは関係ない)、良く言えば安定した、悪く言えば変化の少ない職場です。
本務の中心はもちろん授業で、授業は基本的には一人で担うものだから、停滞も刷新も自分次第なところがあります。多少は文科省主導のカリキュラム変更なんかに影響を受けるけど、私の教科はそれも少ないし。
だからこそ、自分に対して「安住」を許してはいけないという思いがあって、学び続けること、今の自分を肯定し過ぎないこと、時代の変化や生徒さんたちの性質に敏感であろうとすることに心を砕きます。
でも「同じ学校の中で」「同じ顔触れの中で」「同じ教科で」の仕事では「マンネリ化」という蟻地獄にずぶずぶ吞まれていきそうな恐怖感が付きまとって、「いっそ辞めた方がいいんじゃないか」「この学校にずっと居ていいんだろうか」などと悩んだりもしてきました。
ひとつの転機になったのはやっぱり「はたぼう塾」との出会いで、学校という枠組みと全くかけ離れた出会いや繋がりを得られたのは私にとって本当に大きな刺激になったのでした。(はたぼう塾については過去記事をお読みいただけると嬉しいです ↓↓↓)
昨夜の紅白でサザンオールスターズの桑田佳祐さんが、「来年も明るく楽しく、遊び心を忘れず、時代遅れのメッセージを伝えていきたい」みたいなことを仰っていて(完全にクドウの意訳です、原発言はちょっと違うと思いますのでお許しを~)、「そう、一周回って『古臭い』『当たり前』と言われることであっても、『他ならぬこの自分が、新鮮な気持ちでそれを言い続けていく』ってことを大事にすればいいんだよな~」と感銘を受けました。
「古臭いくらい当たり前」のことを「新鮮な気持ちで」伝えていく。
キリスト教会がやって来たこと、キリスト教学校でやっていくべきことは、これなんだろうな。
「新鮮な気持ち」でいるということは案外難しいことで、私たちはどうしても「知った気」になりがちだし、その方が「分かってる」「こなれてる」みたいにプラスに思われることも多くあります。でもやっぱり子どもたちのビー玉みたいなきらきらした目を見ていると、「知らないものとの出会い」って素敵だな、世界に対していちいち驚いていたいな、と思ったりもします。
冒頭に引用した詩編の言葉もとても有名で、私にとってはすでに「知った気」になっていた言葉です。でも「新しい歌を歌う心持ちとは?」と改めて一から考え直してみると、戸惑いや不安と共にある期待感やときめきみたいなものが思い起こされて、「ああ、そういう気持ちで神さまと向き合うのっていいな」なんて思ったのでした。
新しい歌を歌う時って、不安ですよね。「次どういう音だっけ?」「歌詞の切れ目はどこだ? 息継ぎは?」とか考えちゃうし。でも「お、ここんとこのメロディーの展開かっこいいな」「あ、今上手く歌えた!」とかわくわくするのもあって、やっぱり楽しいですよね。あの感覚。
うさぎ年にあやかって、うさぎのような軽やかな弾む足取りで一年を歩んで行きたいし、そうすることで「当たり前として見過ごされがちだけど、大切なもの」を、新鮮な気持ちで発信していける、そんな教員、牧師であれればな、と思うのでした。
今年も韓国語勉強頑張るぞ~。新たな学びというのは、自分を何度もまっさらにしてくれる感じがして、良いものです。そして今年は渡韓して会話力も試していくぞ~。
皆様もどうぞ、新たな気持ちでわくわくと心弾む瞬間に満ちた一年をお過ごしくださいますように。

