キリギリス型のぼくたちはどう生きるか
4時間以上働きたくない。
それが正直な、紛れもない本音だ。
どのような仕事であれ、4時間以上の継続的な拘束を僕は嫌う。身体も、心も。
君もそうじゃないか? 「キリギリス型」に生まれついた同志よ。
これは君のために書いた文章だ。
まず君は、他の人に比べて退屈するのが早い。早すぎる。どうして周りは平然とそれを続けられるのかが分からない。
ーーどうしてこんな退屈なことをしていなきゃならないんだ?
仕事に就いたらこんな風に思うときが来るだろう。学校や塾、他の習い事や部活の付き合いでもそういう風に思ったことがあるかもしれない。
ーーはやく解放してくれ!
僕もそうだ。そんな風に思いつづけてきた人生だったかもしれない。
部活の後にみんなで溜まっているのが面倒だった。学校の滞在時間は長すぎた。アルバイトの拘束時間は耐えがたく、仕事は4時間を超えると急激に帰りたくなってくる。
退屈な時間を過ごすとき、僕たちは時間が速く過ぎ去っていくことを願いつづけることになる。それほど空虚な瞬間はない。実に最悪の「タイムパフォーマンス」だ。
まず、僕たちの集中力は長く持たない。それはショート動画ばかり観ているせいで400字以上の文章が読めないような集中力のなさとはちがう。1つのことを楽しみつづけられる時間がどうやら短いようなのだ。
たとえば僕は文章を書くのが好きだ。この文章は原稿用紙という古のアナログデバイスに、普通の(それゆえに大好きな)無印良品の100円鉛筆で書いている。これは僕が楽しく閃きのままに文を書くために見つけた方法で、まさにこの瞬間、即興で君に向けての言葉を紡いでゆく遊びに夢中になっている。
しかし、この最高に充実した遊びを、毎日全身全霊で8時間やりつづけろと言われたら僕はそれを拒否する。どんなに金を積まれてもだ。そんな毎日は集中力が持たない。楽しくない。僕は音楽をやりたいし、絵だって描きたいし、アプリ制作もしたいし、スポーツを楽しみたいし、能を舞ったり、語学を勉強したり、読書会のようなイベントだって開きたいんだ。
僕たちに全身全霊は無理であり、頑固一徹、宮崎駿や大谷翔平、青山剛昌や上原ひろみのような求道者になることは難しい。8時間どころか、プラス2、3時間の残業もいとわない「働き者」になることも叶わない。
たった1つのことをずっとやり続けていたら僕らは発狂してしまう。
例外的にそんな日々を送っていたこともある。1つは小学校高学年。『ゼルダの伝説 時のオカリナ』というTVゲームを延々とやっていた(あれは最高のゲームだった)。もう1つはWebメディアを運営していてPVが面白いように伸びていったとき。まるでゲームのようにWordPressをいじりつづけていた。
ゲームは中学校に入ってふと辞めてしまった。「ゼルダ」シリーズを一通りやってもう満足したのだと思う。Webメディアはなんだか虚しくなって撤退した。数字を追いかけるゲームに「それ自体の楽しみ」なんて存在しない。本当に届けたい言葉はそこに見出せなくなり、それを追求すれば数字にならない時代が来ていた。
「キリギリス型」の人間は、1つのことのみに全身全霊を注ぎつづけるスタイルは合わない。そう、ただ合わないのだ。そしてこの社会は現状、僕たちのスタイルにあっていない。
どういうことか。まず、日本企業が標準として設定している労働時間、すなわち「フルタイム」は1日8時間だ。長い、あまりに長すぎる。それを週に5日間連続でやる。やりつづける。これができてようやく「正社員」になれる。「正・社員」。読んで字のごとく「正しい社員」ということであり、その会社の正規のメンバーということである。ゆえに正規の保障、正規の福利厚生、正規の給与を安定して受け取ることができる。
僕たちは社会の、会社の「正規のメンバー」になることは難しい。なぜなら気質的にそんなに長く同じところにいつづけることができないから。同じことをしつづけたくないから。できないから。そういう気質に生まれついたから。
この気質に抗おうともした。長く働けるように工夫も凝らしてみた。「意義」とやらを見出そうと努めた。
しかしそんなの関係ねえ。どんなやつでも1日24時間働けないように、おれたちに長時間労働は無理なんだ。
だったら起業しろ? そしたら労働から解放される? 起業家ほど鬼のように働く人たちを他に知らない。彼ら彼女らのエネルギーを僕は心から尊敬する。正社員だろうとパートだろうとアルバイトだろうとフリーランスだろうと同じだ。長く働ける人たちをすごいなあと思う。そして社会はその能力を持つ者に合わせて作られている。
なぜか。企業にとっては長く働いてくれればくれるほど利潤、つまりお金を生み出してくれるからだ。拘束時間が長いほど管理がしやすくコントロールできるからだ。これは企業にとっての要望であり、応えられる人が優れている訳ではない。
仕事が好きな人はさほど苦もなくこの要求をクリアし、期待の120%を満たして出世していくこともある。
いいなあ、と思う。そんなに働けることが、ではない。この社会の仕組みに、社会が厚遇する気質を予め有していることにだ。
有している人はそうでない人がいることを想像することはできない。知るしかないのだ。「性的マイノリティ」とされる人々のことは、「性的マジョリティ」側の人にとって知ることしかできない。無から想像することはできない。
僕たちは「労働的マイノリティ」であり、「労働的マジョリティ」からは想像もできない気質を持っていて、だからこそ知らせるしかない。知って”もらう”ですらないと言いたい。知ら”せる”んだ。キリギリスが鳴いて、アリたちに自分の存在を差し挟んでいくように。完全なる対等を目指して(女性の権利はそのように獲得されていっている)。
「アリ型」はサラリーマンのことを意味しない。長い時間、続けて1つのことができる気質を有している人のことであり、分かりやすい指標としては1日4時間以上同じ活動を継続して行えることが挙げられる。
音楽や美術を極めるアーティスト、週刊連載を持つ漫画家、日常のすべてを競技パフォーマンス向上に費やすプロアスリートもまた「アリ型」である。
そう、「キリギリス型」の人間は正社員(あるいはそれに準ずるような労働形態)、起業家、クリエイティブやアスリート型のプロフェッショナルになることも難しいのである。
こりゃ大変だ。もう複業しかないじゃないか。4時間ずつの労働を2種類やるのだ!
やったよ。やりましたさ。5時間プログラマの仕事をして2〜3時間教育系のアルバイトをしましたさ。
キビしいね。キビしかったです。何でかな。労働というものに1日7時間とか持ってかれるのが難しかったね。だってそれ拘束だもん。会社も場所も職種も違うけど、何かに縛られつづける時間が長すぎる。あとその割にもらえる給与も少ない。「副業」でなく「複業」、つまり何か主軸でたくさん働いている仕事があってプラス何かで稼いでいるのではなく、「主軸」に満たない2つ以上の仕事を足しているからだ。それぞれの「一流」にもなれないし企業にとっても「正規」じゃないから、同じところで働き続けるより報酬は上がらない。
努力はした。社会に合わせるような努力は。合っていない分「アリ型」の人より余分な努力量を費やしてきた。ストレスで体調も崩した。しかし、手厚い保証は望めない。正社員じゃないからね。
さて、「キリギリス型」の定義はこうかもしれない。1日4時間以上の「労働」に強いストレスを感じるため持続可能でない人。
僕たちが持続可能に、楽しく文化的な生活を送るためにはどうしたらいいだろう? 僕たちの努力と、社会側の努力の両方を考えていく必要がある。僕たちだけが余分な努力を強いられてたまるか。
そう、楽しく暮らしたいんだ僕たちは。人の役に立つことが楽しい人もいるし、よく分からない権力闘争や年収ゲームに明け暮れる人もいる。僕らはみんな楽しく生きたくて、「アリ型」と「キリギリス型」もその点に関しては同じ欲望を持っている。人々は退屈を嫌い、可能な限り自分の持っている力を生かして表現したり、世界を味わいたいと思っている。
キリギリスは1つのことに全身全霊を注がない形で、自由に様々な活動をもって世界を遊ぼうとする。アリとキリギリスはあくまでグラデーションで、みなそれぞれの要素をある配分で合わせ持っていると思うが。とにかく、僕たちは色々な遊びがしたいのだ。たった1つの好きなものに没入し、金を稼ぎたいわけではない。どうして世界を遊ぶその活動自体を金に換えなきゃ「価値」の低い世の中なんだ。「夢」とはお金に換えられる活動方法の言い換えじゃないか。いつから「夢」は職業に限定されるようになったんだ。「1日中植物園で草花を眺めていたい」という「夢」をなぜ書いてはいけないのだ。そもそも「夢」は「たった1つの目標」を意味する。「キリギリス型」にとってはそんなのクソくらえだ。生きることに仮初の目的を覆いかぶせるな。生きることは何か「使命」や「夢」や「計画」があってそのための手段なんかではない。断じてない(その最悪の形態が戦争だ)。
ただ遊ぶこと。目的もなく公園を散歩して、木々の匂いや池の波紋のリズムや鳥のさえずりに浸ること。タイムなど計らず、ただ2本の脚で大地を軽やかに踏みしめ走り回ること。文学を味わうこと。雑談に笑うこと。子どもをつくらないセックスをすること。哲学を勉強して世界の見方の変化を遊ぶこと。日記をつらつらと書くこと。壁の素材を触ってみて凸凹を面白いと思うこと。金にならない美術や音楽や芸能やスポーツを習うこと。山に登ること。湖でカヌーを漕ぐこと。編みものをすること。『耳をすませば』の立体模型を1つずつ組み立てること。そのすべては金にならない活動だ。この世界には「働くこと」以外の楽しみなんて腐るほどあって、みんなはそれに気がつかない。「働くこと」に忙しいから。心を奪われているから。資本主義、バンザイ。
我々キリギリスが社会の役に立てるとしたら、遊ぶことの楽しさをアリたちに思い出させることだろう。しかし、役になんて立たなくていいんだ。僕たちは役に立つ気質を持っているわけじゃない。「性的マイノリティ」の人は、「性的マジョリティ」の人の役に立つからその気質を認められているわけじゃないし、そうであってはならない。ただそうであることが認められるべきだから、理解され、マジョリティと同等の権利が認められるべきなんだ。認めて”もらう”わけじゃない。認め”させる”のが正しい。
ゆえに「キリギリス型」の人間も、ただそのような傾向があるというだけで(誰かを傷つけるのでない限り)、認められ、理解され、「アリ型」と同等の権利があって然るべきである。
まずは金だ。とにかく、これは金の問題である。もちろん尊厳の問題でもあるが、それが社会の仕組みとして解決したとき、新しい金の流れ方に結実するだろう。アリとキリギリスで発生している不平等は金において現れるからだ。まず社会側から考える。その上で私たちキリギリスができる「自己努力」も考える。この順番は逆であってはならない。まず自己努力から考えたら、ルールの不公正さが見えなくなるからだ。マイノリティはマジョリティに適合してはじめて主張の権利を得るのではない。その構造自体のアンフェアをまず暴き立てるのだ。
だからこれから書くことは「アリ型」の人たちを怒らせるかもしれない。面倒くさいと思わせるかもしれない。それこそがマイノリティとマジョリティの対等な関係への第一歩である。マジョリティとはそもそも面倒がられるようなことを言わなくても世界に馴染んでいられる人の属性を指すのだから。
さて、どうしようか。どこから行こうか。金だ。金の不公正を正す仕組みを考えるのだ。僕は次のような会社をつくりたいし、勤めたい。標準労働時間は6時間。全社員(正社員だ)は1日6時間労働を原則とする。全てはここから始まる。アリ型に合わせられた既存の標準労働時間(8時間)と、キリギリス型に適している理想の労働時間(4時間)の間を取り、ここを全正社員の拘束時間の基準点とする。これで互いに痛み分けだ。
……本当にそうか? ほとんどのアリ型も8時間が6時間に減ったら喜ぶのではないか? もちろん給料は同じ前提だ。ならば労働時間を減らして同じ給与を払わないといけない資本家だけが困るのではないか?
話は複雑だ。だが、シンプルに進めたい。
ここにはアリ型、キリギリス型という2タイプの「労働者」に加えて、給与を支払う側の「資本家」も登場させる必要がある。「法人」さんについて考える場合はね。
話を戻す。標準労働時間は6時間でいい。超重要なのは8時間のときと給与水準は一切変えないことだ。これにより痛みを被るのはまず資本家のみである。資本家とはすでに資本を持っていて、労働者を生産手段として用いることでさらなる利潤、つまりお金儲けをしやすい立場にいるプレーヤーなのだから。確かにその人は頑張ってその立場になったのかもしれない。多大なる仕事量と責任とリスクを以て、そこまでのし上がったのかもしれない。
だが、その恩恵はすでに受けている。労働者より遥かに多くの貨幣を獲得し、自分の構想した「ゲーム」を、自分の身体と労働者の身体を使って楽しむだけの毎日の環境を得ている。みんなが自分の「ゲーム」、自分の「遊び」を、自分のペースやスタイルで楽しみたいと欲している中で、法人においては資本家だけが完全にその恩恵に浴している。そもそも資本家が資本家になれたのは、親の資力や教育環境、元々の論理的思考能力の高さや肉体的なタフネスなど、本人の自己努力で得られたものとは到底言いがたい要素が多分に含まれている。そこには運だって含まれるだろうし、「アリ型」で働ける気質も含まれるだろう。
注意したいのは、資本家は「悪い人」ということではない点だ。属人的な性格や能力に関係なく、彼ら彼女らはそのような立場にいるという構造上の分析を今行っている(それはフェミニズム的観点から見た「男性」と同じだ。「良い男性」「悪い男性」問わず、男性はある面で有利なサイドに置かれており、それは変更可能なはずの「構造」において生まれている不公正である)。
だから資本家は、労働生産性を高めることで(つまりは労働者の拘束時間を減らしてなお、会社に必要な売上を保つ工夫を凝らして)労働者の負担を下げるような「痛み」を負うぐらいで、労働者との負担のバランス的に丁度良いのではないかと考える。
さて、労働時間を6時間に減らした。給与は変わらない。「キリギリス型」にとっては朗報で、「アリ型」にとっても悪くない(たぶん喜ばしい)。アリだろうとキリギリスだろうと、強制的に拘束される時間が1日6時間くらいの方が健全であると私は考える。これなら家事や育児もしやすく、趣味と休息の時間も持てそうだ。文化的に最低限度のレベルで持続可能そうだ。
しかし、またキリギリスにとって6時間は長い。そうだよな? 4時間超えたあたりから「早く終わらないかな」と思ってくるよな? それでいい。その感覚は弱さでも悪さでもないのだと声を大にして言いたい。だから、労働時間は「カスタマイズ制」にする。人によって変えていい。大事なのはそれが例外的な措置でないということだ。「子どもがいて」「体調の都合上」「親の介護が」「別の仕事があって」という理由付けなど一切することなく、「私は1日4時間労働にします」と申告し、それが承認されるということだ。
で、細かい話だが、時給換算したときに6時間から4時間にしたときの減給分は2時間でなく1時間分とする(時給2千円換算なら1日で減るのは4千円ではなく2千円だ)。なぜか。これも痛み分けだ。キリギリスは6時間ストレスなく働けるアリ型よりも収入は減ってしまう。しかし、その特性差を活かして働いてもらうことで4時間を集中して活動できると考え、時間幅に比べて減収幅を抑えるのだ。アリ型はもちろん4時間より長く働いていると考え、キリギリス型より収入は多い。しかし、単に時間で割った分よりはキリギリス型と差がつかない。
また、「6時間でなく8時間働きたいんだ」というアリ型にも選択肢を付与する。8時間という「オーバータイム」を働いた2時間分は収入が増えるが、その幅は1時間分の給与のみとする。なぜか。その人はそこまでして働きたい仕事に出会えてすでにハッピーだからだ。資本家に近いノリで、自分の「ゲーム」、自分の「遊び」のように労働をストレス控えめに楽しめているからだ。オーバータイム働いたのに給与の上げ幅が少ない、ということで痛み分けとなるが、それぐらい楽しんで働ける人はそもそも出世のチャンスに恵まれもするだろう(今までの「フルタイム」(8時間分)の給与はすでに「次なるフルタイム」(6時間)で得られていることに改めて注意されたい)。人々の抱えているストレスで労働の対価を調整する。資本を考慮した上で、人々のことを真に考えた仕組みの給与体系が望ましい。
どうだろう。この給与形態で「正社員」という仕組みが持続して駆動されるようになったとき、我々の前にはとても文化的な社会が訪れるのではないか? それは「資本主義」という、欠陥は大いにあるが確かに文化的豊かさ・面白さをもたらした仕組みを捨て去ることではない。アップデートすることだ。資本主義のその先へ行くことだ。資本主義とは消費者サイドでなく生産者サイドのありようを説明する言葉だ。お金をどう稼いでいきましょうか、という次元の話だ。だから資本主義の先へ行くには生産者、つまりは基本的に法人における「資本家」「アリ型常勤者」「キリギリス型労働者」という3種類のプレイヤーの自由を、資本以上に重視するシステムを作り上げるしかない。
それができれば既存の「働き方」の問題の多くは解決するのではないか。その意味で、最も柔軟な働き方を要求しなければならない我々「キリギリス型」が、ーー「アリ型」の人が感じる程度のーー持続可能なストレス下で働けるような社会も実現することは、そのまま多くの賃労働者にとって有益な社会の実現につながるだろう。
我々は自由だ。それは何にも縛るものが無いという意味においてではない。「これが私だ」と心から思える時間を持つことができるということだ。そのための力が十分に引き出され、守られるようになった社会を「自由主義社会」と呼ぶことにする。僕たちは「自由主義社会」に住みたいんだ。アリも音楽を奏で、キリギリスも楽しく働ける社会をつくりたいんだ。これが資本主義の先にある夢であり、手を伸ばそうと一定数の人が努力すれば掴める星である。
さて、社会に要求したのは端的に言えば「労働時間の短縮」である。ここから、今君が、僕らができることを考えてみよう。
まず、労働時間を短縮できること。そしてなるべく高い給与水準を保つこと。この2つが絶対条件である。もちろん、様々な保障に守られる正社員なら理想的だ。だから、はじめに探すべきは条件に応じて時短勤務が考慮される正社員の働き口ということになる。時短といっても1時間程度でなく2〜4時間の幅、つまり1日4〜6時間勤務になるようなレベルである。そんな仕事は中々ないかもしれない。求人サイトや転職エージェントを当たってみてもいい。あとは理念が素敵な会社や、社長のメッセージやブログで働き方について既存の資本主義的精神から少し距離を置いていることが分かるような文章が上げられているところは狙い目だろう。
とにかく、収入のダメージをなるべく減らしつつ労働時間を減らすんだ。時短の理由は嘘をついてもいい。正直に話して理解してもらえるなら最高だ。あなたが持続可能に働けて、あなたがあなたのまま世界を遊べる環境を手に入れる。すると景色が変わるはずだ。
現代においてこの条件を満たせる確率が高いと思われるのは「ITエンジニア」である。時短×高単価で、かつリモートワークという場所の自由もある程度確保されるメジャーな職種はこれのみかと思われる。勉強する価値はあるだろう。生き延びるために。
あと、これは非常に大事な戦略なのだが、親類に援助を頼めるなら頼んだ方がいい。ただでさえ不利な条件で生きなくてはならない僕たちだ。音楽を奏でていないと血の気が失せる僕たちだ。アリを頼ろう。あの物語だって、キリギリスはアリに助けてもらっていた。働くことを大して苦と思っていないアリたちに。しかし、キリギリスはアリになり切る必要はない。アリの半分か3分の2くらい働いて、あとはバイオリンを弾くんだ。ちょっとだけアリに助けてもらいながら。もちろん自力でできるなら1番楽だ。しかし人は社会に自分のあり方が合っていないとき、助けてもらう権利が本来あって然るべきだ。その権利を行使せよ。
金は所詮金に過ぎない。使われてはじめて意味を為すものだ。それなのに、老後のために何千万円も自助努力で貯めなければ安心して暮らせない社会では、みんなが不安の中で金を稼ぐことになる。
金は本来、互いの能力を交換し合って、1人や数人だけでは得られないような文化的豊かさを享受するために存在する。増やせるだけ増やすポイントゲームみたいなもののためにあるんじゃない。
金を、たとえば「使わなくなった楽器」ぐらいのノリで譲り合える社会にしたい。特に資本主義にマッチしていて、そこそこ楽しく働いて、別の遊びにはさして興味がなくお金が余っている人から、そのお金があることで自分を表現する活動ができる人にサッと流せるぐらいのものになってほしい。金は神でなく、物なのだから。10円玉もあげる、みたいなノリで10万円をあげられたらいい。もちろん、その仕組みを実現するのは困難きわまりない。様々な権力や評価の問題も発生する。しかし、それを軽やかに飛び越えてしまえるような仕組みもできるのではないかと思っている。金の援助がほとんど何の支配も生まないような来るべき贈与経済が。
これが実現したときに「自由主義経済」は完成するのかもしれない。そのために非常に大事なのは「アリ型」の人たちが快く働ける社会の実現だろう。苦しんで稼いだ金は誰にも渡したくないだろうからね。そして、そのために「キリギリス型」が楽しんで働ける環境モデルは有効に機能するはずだ。
言葉を持とう。少なくとも「アリ型」「キリギリス型」という言葉は作られた。これで自己認識も変わるし、あわよくば他の人に自分を理解してもらうのにも役立つ。
僕が父に説明したときは陸上競技のモデルで伝えた。長距離走と短距離走で、どうしても合う合わないという気質の問題があるように——100メートル走が得意な人に毎日10キロ以上走らせるのが今の「フルタイム」だ——労働においてもそれは発生する。陸上なら種目を変えて、それぞれの距離で自分の能力を活かし楽しめるが、資本主義ではそれができない。みんなが10キロ走れば平等のように思えるが、内実は不公正である。アンフェアである。
難波優輝『なぜ締め切りを守れないのか』や柿内正午『サラリーマンの哲学』、ラッセル『幸福論』なども読むことをおすすめする。言葉を、手に入れるんだ。ここに書いた言葉を誰かに見せたっていい。家族や友人に(上司に見せたらスーパーファインプレーだ)。
最後にこれだけ伝えたい。
人生を楽しむことは素晴らしいことだ。今ある環境の中で小さな幸せや大きな夢を見つけて、日々心が動き、世界や自分や他の誰か・何かの新しい面に触れることは生きる喜びそのものだ。可能な限り、今の時間を楽しむ努力をしていきたい。
しかし、楽しもうにも楽しめない局面や環境というのも存在する。そこでは何か不公正なことが起きていたり、単に場と自分の相性が悪かったりする。こういうときに楽しめないのは仕方のないことだし、むしろ楽しんではならない。虚ろな笑顔で自分を殺してはいけないときがあるんだ。そんなときは嘆き、悲しみ、怒り、叫んだっていい。自分のせいにすることを止め、社会や他人のせいにしていい。きっとあなたばかりが悪いのではない。可能なら言葉にせよ。今起きていることの構造を見抜け。そのために本を読むんだ。これができるのは本しかない。
いつだって気分良くいなくていい。楽しめないのだと認めていい。そこからまた、楽しめる日々は戻ってくるのだから。
健闘を祈る。
