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1050グラム、脳性麻痺、自閉症。障害のある母が、障害のある子を育てたらこうなった。

「もっとやさしく、そっとですよ」

看護師さんに何度もそう注意されながら、それでも私は、この小さな手を強く握りしめたかった。
我が子の体温を、自分の手のひらに刻みつけておきたかったから。

1050グラム、35センチ。
保育器の中で眠るその子の腕は、私の指で触れただけでポキリと折れてしまいそうなほど細かった。

2001年12月13日、予定日より3ヶ月も早く、まーくんは生まれてきた。

自分自身が腎不全で透析を経験し、体の弱さを誰よりも知っていたはずの私でさえ、この日だけは、命のもろさをどう受け止めていいかわからなかった。

小さな生命、大きな覚悟

腎不全になり、透析と移植を経験して身体障害1級となった私と、障害とは無縁の人生を送ってきた夫。そんな私たちの間に、長男として生まれてきたのがまーくんだった。

「まーくんは、ただ早く生まれてきたかっただけ」

そう自分に言い聞かせながら、NICUに毎日のように通った。面会時間になると病院へ駆けつけ、保育器越しにまーくんの指先にそっと触れる。肌と肌をふれあわせるだっこ、カンガルーケアをする。それだけで、その日一日を生きていけるような気がしていた。

生後1ヶ月、頭部のMRIを撮った日、主治医から電話がかかってきた。
「まーくんのことを直接お話ししたいので、ご両親お二人でお越しください」
何の不安もなく、夫と二人で病院へ向かうと、そこで待ち受けていたのは、思いもよらない告知だった。

脳室周囲白質軟化症(PVL)。脳性麻痺。

私が妊娠中に切迫早産から破水してしまったとき、脳室の周りに虚血が起こってしまったのだろう、という説明だった。主に下肢に麻痺が出るだろう、と告げられた。

頭の中は真っ白になった。当時の日記にはこう書いている。

「頭の中は真っ白だったけど、今は悶々としつつも、なんとか落ち着きました。2人して泣いたりわめいたり大騒ぎ、ってことはなかったんですが。ある意味障害慣れって、辛いなーって」

自分でも不思議だった。あれほどの告知を受けたのに、取り乱すことができなかった。学生時代から腎臓を患い、透析を経て、障害を抱えながら生きてきた私にとって、「障害」はどこか馴染みのあるものだった。
「まーくんにどんな障害があろうが、楽しい人生が送れるはず」――そう前を向くことができた。

けれど、隣にいる夫は違った。障害と無縁の人生を歩んできた彼は、「親に言えない。どうしよう」と、声にならない声で崩れそうになっていた。同じ子どもの障害を告げられても、私たち夫婦の受け止め方はまるで違った。私の「障害慣れ」は、ある意味では強さであり、ある意味では悲しい防御反応でもあったのだと、今なら思う。

私たちが落ち込もうが、メソメソしようが、そんなことにはおかまいなしに、まーくんはスクスクと保育器の中で大きくなっていった。1050グラムだった体は、告知の頃には1500グラムを超えていた。酸素が外れたと思えば、また呼吸を忘れて酸素に戻る。そんな一進一退を繰り返しながら、2ヶ月近くNICUで過ごし、小児科へ転科。リハビリと、両親のお風呂介助やミルクをあげる練習が始まった。

そして3月12日、まーくんはコット(新生児用のキャリーベッド)のお家から、本当のお家「まーくんのおうち」へ、家族3人で帰ってきた。

イモムシみたい、と言われた日

1歳になった頃、私は勇気を出して、市内の赤ちゃんサークルに顔を出した。周りにママ友がいなかったからだ。

和室のあちこちを、他の赤ちゃんたちはハイハイで高速移動していた。まだハイハイができず、ズリバイで進むまーくんを見て、あるママが一言、こう言った。

「まーくん、イモムシみたい!」

・・・・。

ショックだった。体の大きさも、みんなの方がずっと大きい。この日を境に、私の頭の中は「どうしたらみんなに追いつけるのか」「どうしたらふつうのお子さんのようになれるのか」という問いでいっぱいになった。障害があっても歩けるようになる、という民間療法や療育の文言に惹かれては、あちこちに通った。すでにリハビリや発達外来、神経外来にも通っていたのに、それでも足りない気がして、私は焦り続けていた。

保育園に入れれば、お友達にもまれてぐんと成長するかもしれない。そう思い認可保育園に応募したが、「今歩けないのなら、身体障害者手帳を取得したら障害枠で入れるかもしれません」と言われて手帳を取得した。ところが今度は、手帳があっても「歩けないお子さんは入れません」とピシャリと断られた。
ご縁があって、無認可の保育園に2歳になる前に入ることができ、毎日の送迎生活が始まった。

障害のあるお母さんは、家にいてください

保育園に入れたのだから、次は私の職場復帰だ。ずっとやりたいと思っていた医療事務の資格を取り、ハローワークに通い始めた。

当時、私は移植者だったが、気をつけることさえ守れば健康な人と変わらない生活を送っていたので、堂々と面接に臨んだ。

しかし、なかなか内定が出ない。あるクリニックの院長との面談で、私は忘れられない言葉を受け取ることになる。

「障害のあるお子さんを育てておられて、大変素晴らしいと思います。ですが、お母さんに障害があるならなおのこと、お母さんは仕事をしないで、障害のあるお子さんのそばにいてあげてください」

真顔で話す院長には、悪意すらないのだろう。だからこそ、その言葉は深く刺さった。私自身のことはさておき、

「障害のある子がいると、母親は働くことすら許されないのか」

という現実を、目の前に突きつけられた気がした。

その後、働くことを諦め、まーくんの療育と外来、そして日々の送迎に専念する毎日になった。あの日の悔しさは、20年以上経った今も、私の中で色褪せずに残っている。

追いつこうとすることをやめた日

保育園に入っても、まーくんは、あーとかうーとか泣くことはできても、おしゃべりはできない。立つことも、歩くこともできない。同じ年頃の子どもたちが当たり前にできることが、まーくんにはできないのだ。その差が日に日に開いていくのが、辛くて、悲しくて仕方がなかった。

「なんでまーくんだけ、しゃべれないんだろう。歩けないんだろう」

そう悶々としながらも、私は今できることをすべてしようとした。毎週のリハビリ、作業療法、言語療法。当時は保険適用がされていなかった心理療法にも自費で通った。電車が大好きだったから、週末はあちこちへ連れ出した。とにかく刺激を与え続ければ、いつかみんなに追いつくはずだと信じていた。

そんな私に、心理の先生がこう告げた。

「まーくんがみんなに追いつく事は不可能です。まーくんがみんなに追いつく頃には、みんなはもっと先へ進んでしまいます」

残酷なようで、これ以上ないほど誠実な言葉だった。目の前が暗くなった。それでも、その言葉を持ち帰って何日も何日も反芻した。追いつけない、という事実を突きつけられたことで、かえって「追いつく」ということそのものを手放す準備ができたのかもしれない。

夜、まーくんの寝顔を見ながら、私は自分自身の透析生活を思い出していた。同世代のお友達が元気に人生を謳歌している姿を横目に、「どうして自分だけ」と落ち込んだ夜が何度もあった。比べれば比べるほど、自分がすり減るようだった。その感覚と、まーくんを見る自分の焦りが、ある日ぴたりと重なり、「他のお子さんと比べる事は意味がないんじゃないか。まーくんだけを見て、まーくんの成長・発達を、喜び、慈しんで行こう」と。

思えば私自身も、他の透析者や移植者と自分を比べて、落ち込んだり焦ったりしていた時期があった。まーくんのことも同じだったのだ。比べる相手は、他の誰かではなく、昨日のまーくん自身でいい。

不思議なことに、その考えに至った頃から、まーくんの様子が変わり始めた。だんまりで無表情だったのが一変し、笑顔がみられるようになり、喃語が出るようになった。子どもは、親の焦りを敏感に感じ取っているのかもしれない。私が肩の力を抜いた瞬間、まーくんもまた、少しだけ自由になれたのかな。

手術、決めたよ

とはいえ、まーくんの体は、楽観的に構えていられる状態ではなく、特別支援学校小学部に入学した頃、それまで歩行器で歩けていたのに、急に足の緊張が強まり、歩行器でも歩けなくなっていった。自分で動けることがあれほど嬉しそうだったまーくんが、だ。

学校の整形外科の先生から「早く手術を」と勧められた。整形外科での手術か、脳神経外科での手術か。二つの選択肢の間で、私たちはしばらく悩み続けた。

小学部2年のとき、神経の束の中から足を緊張させる神経だけを切除する、脊髄後根切断術を受けることを決めた。悩みに悩んだ末、すべてをこの手術にかけようと腹をくくった。

家族や友人、当時私のブログを読んでくださっていた多くの方々の思いに支えられて、手術は大成功。自閉スペクトラム症のあるまーくんが、覚醒後にパニックを起こして針や管を引き抜いてしまわないか心配だったため、ICUで1週間鎮静をかけ、回復を待ってから病棟に戻ることになった。

手術当日は近くのホテルに泊まり、それからはICUにいられる間、夫婦で毎日付き添った。
私は、こんなことになってしまったことがまーくんに申し訳なくて、切なくて仕方がなかった。私たち夫婦が望んで鎮静をかけ、ICUで管理してもらっているというのに、まーくんに会いに行く道中からもう涙が止まらない。そばにいる間も、ずっと泣いていた。どうしてこんなに涙が出るのだろう、と自分でも不思議になるくらい、涙、涙、涙の一週間だった。

入院中はほぼ泊まりで付き添った。消灯が近づくと、まーくんはレンタルの布団が収納されている方を指差し、ふんふんと言いながら「今晩もお布団を取って来て、ここで寝てね」と訴えてくる。寝返りもできない椅子ベッドが入院中のメインの寝床だったが、私が自分の外来や着替えを取りに戻り、たまに一晩まーくんが一人になることもあった。夜中に母がいないことに気づいて暴れ、ベッドごとナースセンターの横に移動されていたこともあった。翌朝それを見て驚いて切なかったことも、今となっては懐かしい思い出だ。同室のお子さんたちや付き添いのママたちと寝食を共にした日々も、良い思い出として残っている。

手術から2ヶ月後、まーくんは無事に退院した。術後、身体はみるみるしっかりとし、歩く体力もついた。自立歩行はできないものの、車椅子に乗っている時間の方が少ないほどになった。生まれた直後は「首から下全部麻痺」と診断書に書かれていたまーくんが、今では自分の車椅子を押しながら歩いている。駅の階段の上り下りさえ、自分の足でできるようになった。

退院後、玄関先で靴を履かせながら、私は数ヶ月前の自分を思い出していた。ICUの廊下で涙が止まらなかった私。あの日の私に「大丈夫、まーくんは歩けるようになるよ」と言ってあげられたら、どんなに楽だっただろう。けれど、あの涙の一週間がなければ、この今もなかった。散々悩んだ末に決めたあの日あの時に、最高の外科チームの先生方がいてくださったこと、すべてのタイミングが噛み合ったこと――今思い出しても、「あの時で本当に良かった」と思う。

「あるく」よりも「おしゃべり」を

私はずっと、「あるく」ことよりも「おしゃべり」をしてほしいと、「ママ」って呼んでほしい願っていた。その願いは、術後1年目くらいから、ポツポツと言葉になって現れ始めた。それが二語文になり、三語文になり、今では車掌さんのマネをしてアナウンスをしたり、YouTuberのセリフを真似て動画と一緒におしゃべりをしたりするまでになった。

あれほど「おしゃべりしてほしい」と願っていたのに、今では「少しだまっててー」と言いたくなるほどだ。人の願いというのは、叶ってしまうと、いとも簡単に日常の風景なるものらしい。

駅のホームで、まーくんが車掌さんそっくりの声で「まもなく、電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」とアナウンスすると、周りの人たちがくすっと笑う。その笑いには、悪意など微塵もない。むしろ、まーくんの世界に一瞬だけお邪魔させてもらったような、温かい笑いだ。私はその光景を見るたび、あの「イモムシみたい」と言われた日から、ずいぶん遠くまで歩いてきたのだなと思う。

自閉スペクトラム症のこだわり、全開

まーくんが生まれた時からおしゃべりをしないことから、脳性麻痺だけでなく他にも障害があるのではと、私は調べ続けた。インターネットや専門書を読み、通信制の大学で発達障害を学んだ。そうしてわかったのが、まーくんは自閉スペクトラム症でもあるということだった。

通院先のペアレントトレーニングに通い、同じようなお子さんを持つ親御さんたちと知り合い、部屋の中を構造化し、絵カードを量産する日々。学校のPTA活動からのご縁から支援機器の夏のイベントに参加した際、主催の金森先生から「おめめどう」の存在を教えていただいた。
まーくんは、パニックのときには音声言語よりも、書いて見せた方が断然伝わりやすい。それがわかってから、スケジュールと併用しながら、まーくんが自分で選び、自分が主人公の生活を送れるようにしていった。今ではこのコミュニケーションメモ帳は、まーくんにとっても我が家にとっても、なくてはならない支援グッズになっている。

5年後、生きているかな

そんな矢先、今度は母である私に試練が訪れた。乳がんが発覚したのだ。

「5年後に私は生きているだろうか。まーくんはお父さんと二人で生きていけるだろうか。まだ死にたくない。まーくんの成長を、まだまだ見守っていたい」

そんな弱気な考えが、頭の中を何度も駆け巡った。けれど、「今ここで病に倒れて死ぬわけにはいかないのだ」と、病と戦う勇気を奮い起こした。どんなに大変な治療でもすべて乗り越えると決めて、手術を受け、放射線治療をし、ホルモン剤を5年間服用した。

乳がんの手術から10年目の外来で、「もう外来には来なくて大丈夫です。今日で終診です」と告げられたとき、心底ホッとした。透析、移植、そして乳がん。何度も命の際に立たされながら、それでも私はここにいる。家族で元気に毎日を過ごせることが何よりの幸せなのだと、今、しみじみと実感している。

まーくんと言えば電車ツアー

移植者だった私は、腎機能の悪化とともに、再び透析に戻ることになった。母が夕方まで不在になる土曜日、父子二人で家の中にこもっているのが辛いということで、その頃から「土曜日は電車ツアーの日!」が始まった。

最初は近所の私鉄をぐるりと回るだけで満足していたまーくんが、やがてタブレットを使い、自分で検索できるようになり、時刻表アプリを駆使して、行動範囲をどんどん広げていった。行き先は父と相談しながら決め、毎週のように楽しんでいる。

コロナ禍前には、お気に入りの特急に乗るためだけに岡山から愛媛へ行き、足湯だけ浸かって飛行機で帰ってきたこともある。トワイライトエクスプレスにも、何度かの挑戦の末、父子で乗ることができた。それがだんだんとエスカレートし、YouTuberの旅を真似したいと、南は鹿児島・枕崎から、北は北海道・稚内までを、夏休みを使って6泊7日で走破したこともあった。

今も父とスケジュールや行き先を相談しながら、日々の電車ツアーに加え、年に数回の旅を楽しみにしている。1050グラムで生まれ、首から下が麻痺していると言われたあの子が、今やアプリを片手に日本中を旅する青年になった。

PVL*cafe、今も続けています

私にはライフワークとして続けている活動がある。PVL*cafe。インターネット上で運営している、脳性麻痺・脳室周囲白質軟化症(PVL)のお子さんを持つ保護者のためのコミュニティだ(現在は当事者の方も参加してくださっている)。

今でこそインターネットは当たり前で、スマホで検索すればいくらでも体験談や親の会が出てくる。けれど、まーくんが生まれた当時、身近には「まーくんのような障害のある子」は誰もいなかった。私はただひたすらネットに発信し続けた。すると、同じように我が子が脳性麻痺だ、PVLだというママやパパたちが、掲示板に集まってくるようになった。2006年にはSNSのコミュニティへと移行し、それ以降メンバーは爆発的に増えて、一時期は500人を超えた。

当時は皆が、藁にもすがる思いだった。「うちの子と同じようなお子さんはいないか」「うちの子は将来どうなっていくのか」その不安を共有できる場所が、PVL*cafeだった。年に2、3回オフ会を開き、年齢も性別も違うけれど、PVLという病気で繋がった仲間同士、悩みや不安を語り合った。まーくんを連れて、北は北海道から南は佐賀まで、旅のついでにオフ会を開くこともあった。

お子さんたちが成長するにつれ、オフ会について来なくなり、開催頻度も少しずつ減っていった。
3年前、久しぶりにリアル開催が実現。古くからのメンバーが、車椅子やベビーカーでも快適に過ごせるバリアフリーの「スロースカフェ」を立ち上げられたので、お店のお休みを利用し貸切のオフ会を7月に開いた。
合計7組12名。ランチやデザート、オリジナルドリンクを頂きながら、近況や今の悩みを語り合う時間は、お子さんの状態はそれぞれ違っても、「同じ脳性麻痺、PVLの子の親」として、かけがえのない時間になった。
当事者であるお子さんのお一人はヘルパーさん同席で参加してくださり、自らの一人暮らし体験を語ってくれた。親たちは皆、興味津々でその話に耳を傾けた。

「始めた当時は0歳、1歳だったのに、こんなに大きくなったんだね」

そんな言葉が、あちこちから聞こえてきた。私のホームページを見つけてくださった皆さんのおかげで、20年を超える年月、それぞれの成長をネット越しに見守りながら、細く長く繋がり続けることができた。皆さんが親子ともに笑顔で帰っていく姿を見るたびに、

「長く続けてきて本当に良かった」

と思う。

元気で毎日生きてる

まーくんは24歳になった。父も母も、それぞれ親歴24年になった。
卒業後はなかなか就労先が決まらなかったが、最初に面接に行った生活介護の事業所にご縁があり4年間お世話になり、昨年2月から長年慣れ親しんだ東京を離れ、夫の実家のある佐賀県へ「最後の親孝行がしたい」という願いを叶えるために移住した。
父も母も在宅勤務をしていて、家族が皆家にいるからか、まーくんが通所するのは、週に1度だけ。そこも先日やめる決断をし、また新たな通所先へと体験に通っている。
相変わらず本人さんの希望で母のお迎えは続いている。
まーくんは、1050グラムの極小未熟児として生まれたとは思えない成長ぶりで、体重はあの頃の60倍になった。

日々の暮らしには、色々なことがある。それでも、こうして今、「元気で毎日生きてる」ということ――それは実はとてもすごいことなんじゃないか、と私は思う。透析をしていた時期があったからこそ、そう思うのかもしれない。命があることが当たり前ではないことを、私は自分の身をもって知っている。

透析のベッドの上で、天井の模様をぼんやりと眺めながら、私は何度も自分に問いかけた。この体で、どこまで生きられるだろう、と。それでも献腎移植を受け、夫婦間生体腎移植も受け、二度の移植を経てもなお、私はここにいる。まーくんを産んだのも、育てているのも、何度も命の限界を見たこの身体だ。健康な人ならば意識もしないであろう「今日も元気で生きている」という事実が、私にとってはいつも少しだけ奇跡なのだ。その奇跡のような日々の先に、まーくんの存在がある。

脳性麻痺でも、知的障害があっても、自閉スペクトラム症でも、「元気で毎日生きている」まーくんの姿を、以前ほどの頻度ではないけれど、楽しかったことも、辛かったことも、私はこれからもSNSに綴っていくつもりだ。
そんなまーくんの存在が、いつか、どこかで同じように悩む誰かの「勇気や希望」になれたらいい、と。

移植者の時に子を産み、透析をしながら障害児育児をし、告知に打ちのめされ、比べることをやめ、差別的な言葉に傷つき、手術室の前で泣き、乳がんと闘い、それでも今日も家族は一緒に生きている。私という車輪と、まーくんという車輪。二つの車輪がぶつかりながら、支え合いながら、我が家という一台の車を前に進めてきた。

「まーくん」を中心に、我が家はまわってゆく。

そしてこれからも、「まーくん」の旅は、続いていく。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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クハラヨウコ|二度の腎臓移植者・息子と講演活動 ありがとうございます!いただいたチップは「まーくん」のお給料のために使わせていただきます!