【小説】ガトーショコラに地獄 冬也編②(3章 完)
冬也が大学2年生、ベルたちが大学3年生になった春。特に大きな変化もなく、日々は続いていた。少し変わったことといえば、ベルがバイト先を変えたことや、明里のフォロワー数が1万人を超えたこと。修二は相変わらず服が好きなようで、古着屋巡りや、明里のインスタグラム用衣装の手配などに力を入れていた。
ただひとつ、ひとつだけの悩みの種が、冬也の心に無限に湧き続ける霧を生み出していた。
『路地裏の祠、結構話題になってきてるよ』
友人たちが噂する、水戸の路地の奥の奥にある、謎の祠。ストリートアートやステッカーだらけの暗い路地に、大量の御札が貼られた祠があるらしい。マニアの間では早くも話題になっているようで、なんでも悪い霊や縁を消してくれる、破魔の祠だとか。
冬也は両親に調べてもらおうかと思ったが、その前に聞き捨てならない単語を聞いてしまった。
『ラサ様って呼ぶと、叶いやすくなるとかなんとか聞くけどな』
ラサ。忘れもしない。あの村の神であり、幼い冬也の恋敵だった存在。冬也の心臓をぎちぎちと見えない糸が締め付ける。
不自然な点は多々あった。冬也が図書館やインターネットで伝承を調べても、水戸にラサ様関係の伝承は残っていない。さらに言うと、あの祠の存在自体、最近になって発見されたものだった。近所の人は「あんな祠、見たことなかったがねぇ」と
首を傾げるばかり。
冬也は両親にあれだけ止められた、小親村のことについても調べ始めた。小親村は今も地図上に存在し続け、村のホームページも観光案内もバスも、何もかもがまるで人間が営むように稼働し続けている。ここがもう人の村じゃないことは、冬也たち一部の霊媒師などしか知らない。誰にも言えない。化け物が人間の振りをして営む村なんて誰も信じてくれるわけがないし、そんなことを声高に発表したら、次に狙われるのは自分だ。
村が滅んだのは2年前。ちょうど、ベルが大学に進学した、春の頃だった。無関係とは到底思えない。彼女に再会したときに見た、禍々しい糸。あの糸を目印に、またラサ様が彼女を奪い取っていくのではないか。
____大丈夫。今度こそ、ベルちゃんをアイツから引き剥がしてみせる。
冬也がそう誓ったのも束の間だ。数週間後、ベルに深夜のファミレスで相談された。
「あのね冬也くん、ラサ様って、覚えてる?」
絞め殺された鳥のように、息が詰まった。
「私ね、ラサ様の祠にまた、祈り始めたんだ」
「……だめだ、絶対」
「わかってる。神様なんていないもん。頭おかしいだけだって」
違う。神様はいるんだ。人間の理解の範疇を超えた、おぞましい存在は。ベルはお冷の入ったコップを両手でギュッと包む。彼女の丸い瞳が、ぎこちなく揺れた。
「もう、神様には縋らないって決めたのに。お母さんみたいにはならないって決めたのに。でも、そうせざるを得ないの。明日はバイトで怒鳴られませんようにって、寝ても覚めてもずっとずっと湧いてくる、不安たちが消えますようにって。祈ることしか出来ないの」
「祈っても何にもならない」
「わかってる」
「そんなつまんないバイトなんてやめてさ、オレがいいバイト一緒に探すよ」
「大丈夫」
「それかさ、シュージさんたちに相談するとか」
「だめ!」
ベルの大きな声が響く。「すみません、うるさくして」と周囲に軽く頭を下げた彼女は、叱られた子供のように背を丸くしていた。
「私、普通の人間になりたい。グズで馬鹿でなにもないけど、もう、昔みたいに惨めな自分に戻りたくない。ラサ様以外のことはちゃんとするから、普通にするから、だから、修二くんと明里ちゃんには言わないで。お願い」
「じゃあ、なんでオレには言ったの?」
ベルは口をきゅっと結ぶ。
「怖いの。この世のすべてが」
冬也は何か言いかけて、言葉を切らす。ベルは、泣いていた。声を必死に押し殺して、ぽつぽつと通り雨のような涙を降らせて。
「どうしてちゃんと、ちゃんとした人間になれないんだろう。どうしてみんなみたいに、普通にできないんだろう」
昔と変わらない彼女の泣き顔だ。あまりに昔のままだから、余計に冬也は胸のあたりが鈍く痛む。
彼女の怯えるものの正体に、なんとなく冬也は心当たりがあった。彼女は真っ直ぐで、純粋だ。痛々しいくらいに。どんなに明里のインスタグラム経由で自身の人気が出ても、友達が増えても、曲がったことはしない。友達の悪口も言わないし、人との約束も破らない。けれど、この世の中は正直者には冷徹だった。悪口を言わなくちゃいけない場面も、誰かをわざと孤立させなくちゃいけない場面だってある。それが正義のときが、ある。
ベルは優しい。優しすぎる。悪意はあるけれど穏やかな村から出て、この悪意しか無い荒れた海に出るには、非力すぎた。
「だから誰かに話して安心したかった。わかってる、あの祠、本当はあんまよくないものなのかもって。現にこの前祈ったら、後輩の女の子が骨折で休みになったし……。かといって私は、何かに縋らずに生きていけるほど、強くも賢くもないんだ」
「ベルちゃん、それは」
違うよ。君は確かに強くないけれど、この世に欠けているきれいな光を持っている。そう言いかけた。
「こんなこと言えるの、この世で冬也くんだけだから」
ベルはそう言ってまた、静かに涙を流し続けた。
言葉が見つからないって、こういうことを言うんだと実感した。頭がはっきりしてるのに身体がうまく動かない。唇さえも。彼女の手を無理にでも引いて、夜の街へ駆け出して、駅のホームで抱きしめたかった。このまま2人きりで、誰にも見つからないところへ電車で行って、海でプロポーズをして、将来は花屋さんでもやりながら細々と、人生ってやつをしようよ。なんて、子供の夢物語が心に浮かんでは儚く消えた。
どうすればよかったのだろう。彼女をどうすれば救えるのだろう。ざわめきだけが漂う深夜のファミレスで、冬也はただひとつ、彼女の支えになろうと決めた。修二にも明里にも頼らない。彼女が望む生き方を手伝う。もう子供の頃のように、一方的に否定して、何も言わずにお別れで終わり、なんてことにはさせない。どんなときでも傍らにいて、どんなときでも彼女の望むままにしよう。
浮気、と噂されない程度に傍にいて、彼女が少しでも不安になったらいつ何時でも電話した。修二とのデートのために服選びもしたし、明里の機嫌が悪そうなときはベルが彼女に会う前に機嫌取りをした。24時間が、手足から頭の奥の奥まで全ての細胞が、ベルのためにある。まったく苦ではなかった。それで、彼女の傍らにいられる権利がもらえるのならば。
それだけで、満足などしていいはずがなかったのに。
*
ベッドの上、電話越しに震える声を聞いて、あぁやっぱり、あいつら皆殺しにしておけばよかったと後悔の渦に溺れた。
バレンタイン翌日の夜、ベルから電話があった。途切れ途切れの話によると、手作りチョコレートを頑張って作ったけれど、全部ゴミ箱に捨ててあった。それを修二が見ないふりして去っていったところを、見てしまった。翌日、悪口を言っているのも聞いてしまった、と。聞いているだけで、怒りで脳髄が溢れ出しそうになった。「ベルちゃんの所為じゃない」と何度も何度も口にした。
電話を切った瞬間、スマートフォンをシーツの上に叩きつけた。あの男、松長修二、松長、松長。あんな男に一瞬でも気を許したのが馬鹿だった。三毛門明里に関してはもっと憎い。彼女がベルに意地が悪い態度をたくさんとってきたのは知っていた。ゴミ箱に捨てるように差し向けたのも、直接的ではないにしても彼女が要因だろう。すぐにそう予測がつくほどに、明里はベルを目の敵にしていたから。
数日後、大学の廊下で明里と顔を合わせた時には、心の中で唾を吐きそうになってしまった。彼女が「相変わらずベルにべったりね、冬也。チョコはもらえた?」と皮肉を言ってきた際には、縊り殺してやろうかと作り笑いが凍ってしまった。
「残念ながらもらえませんでした。誰かさんたちがか弱い女の子のチョコ、大学のゴミ箱に見せつけるように捨てたからじゃないですか?」
明里が立ち止まり、小声で囁く。
「言っとくけどあたしの指示じゃないわよ」
「えぇ。指示がどうかなんてこの際どうでもいいんすけど。あ、やっぱインスタでバラされたりしたら大変だから、そういう細々したくっだらねぇこと気にするんすか? 心の綺麗な女の子をいじめる性悪女にとっては、重要なことっすもんね」
「随分とおしゃべりね。そんなこと言ったところで、ベルはあんたのものにはならないから。馬鹿犬」
「ほざいてろ、強欲女」
明里が眉間に皺を寄せて、真っ直ぐな背筋でつかつかと去っていく。明里がベルを嫌い始めてから、冬也と明里は水面下でバチバチと稲光が似合うほどに敵対していた。4人で花火をしたあの夏の日はもう、戻ってくることはないだろう。それでも冬也はベルに、明里は修二に心配をかけたくがないために、ベルと修二の2人の前では最低限の無難な態度をとるようにしていた。
ベルは大学のホールの、大きな木のオブジェの近くに座っていた。
「冬也くん」
充血した目を携えた彼女を抱きしめそうになった。必死に堪えて「大変だったね」と彼女の背を優しく叩いた。
「どうする? 今からシュージさん呼んでオレがぶん殴ってこようか」
「いいよ、大丈夫」
「ベルさんは大丈夫じゃないじゃん」
2人きりじゃないときは、冬也はベル「さん」と呼んでいた。あまり馴れ馴れしくするのも修二に悪いから、せめてもの礼儀だった。けれど、こんなことが起こってからはもうどうでもいいことだ。
場所を移そう、と2人はまたファミレスに行った。店内は混んでいて、高校生ぐらいの客が多かった。
「お願い、練習に付き合ってほしいの。普通の人の、練習」
ベルは注文が終わってすぐに、頭を下げる。どういうことか話がよく見えなくて、瞬きを繰り返した。話を詳しく聞くと、デートの下見や服選びはもちろん、話し方の練習や姿勢など、冬也が独学で今まで身につけたことを、指南してくれないかという話だった。以前ベルに「なんで冬也くんはそんなに人付き合いが上手なの?」と聞かれて、誰にも話したことがない、惨めな努力を打ち明けたことがある。それ故に、ベルは冬也にこんなお願いをしたのだろう。
冬也は二つ返事で了承した。これが修二や明里だったら「何を言ってるんだ」と眉の角度を変えるだろうが、あの2人と己は違うと、冬也には自負があった。ベルと冬也は、自分たちは繋がっている。心のどん底で、拭えない劣等感を持つ同志として。そして、ひだまりのような思い出で彩られた、誰にも切れない幼馴染の絆で。
「少しはマシな自分になるまで、修二くんには会わない。ちょっと、気持ちの整理もしたいし」とベルは悲しそうに微笑んだ。冬也は心を痛めつつも、安堵していた。同時にこれはいい機会だと期待に胸が膨らむ。あの薄汚い修二の手から、ベルを引き離すチャンスだ。
普通の人になるために練習が必要な人間は、この世にたくさんいる。それを自覚して、年下の人間に頭を下げることができる人間は、どれくらいいるだろう。やはりベルは、己の初恋の人は、光だ。この腐った世の中に射す、孤独な心を照らしてくれる春の木漏れ日。神格化しているわけじゃない。これは紛れもない事実だ。彼女の存在だけが、冬也の心の宿り木だった。
その少し後だ。ベルが飲み会に出るという話を聞いた。つむじまで溺れるほどの、嫌な予感が飽和していた。冬也はその日バイトの別店舗の応援にどうしても行かなくてはいけなくて、参加することは出来ない。しかも、明里の代わりに出席する、との話。何度も何度も、急用とかで欠席しようよ、と持ちかけた。でもベルは、変なところで頑固だった。
「私こう見えても、少しは成長したと思うの。だから大丈夫。冬也くんに頼らないでも、頑張れるから」
小さな声で、このチャンスを逃したくない、とも言っていた。確かに彼女は話し方も気をつけるようになったし、背筋も伸びてきたけれど、でもそういう問題じゃない。人の評価ほど築き上げるのが大変なものはない。大変なくせに一瞬で崩れる。ベルの評価は未だ、チョコレートを捨てられたときのまま。そんな人が飲み会に出ようものなら格好の悪口の的か、空気のように見えないもの扱いされるだけだ。傷つくのは、ベルだ。冬也はベルに、あたたかで安らかな場所にいてほしかった。頼むからもう、何も犠牲にしてほしくなかった。その身も、尊い心も。
「今度、冬也くんとも飲みにいきたいね。久しぶりに」
「……いこいこ! オレ、とびっきりいい店予約しとくよ。2人で朝まで飲もうぜ」
「朝までかあ。浮気になっちゃうかな」
「いいじゃーん。オレが無理やり誘ったことにするもん」
だから、どうか無理はしないでね。願うように笑って、冬也はその日、ベルと別れた。
それが、ベルとの最後の会話だった。
*
大学のロビーの隅、女子生徒3人がひそひそと顔を合わせて相談している。
「……やっぱ警察に言ったほうがいいって」
「でも先輩たちに目ぇつけらえるよ……! ヤクザとも繋がりあるのに」
「まさか退学なんて、あたしたちの所為で」
「なーにが『あたしたちの所為』なんすか? センパイ方」
女子生徒たちの肩がびしりとぎこちない音を立てて固まる。会話に割り込んだ冬也の口元は笑っているのに、目は今にも刺し殺しそうなほど、鋭かった。
ベルが消えて3日が経った。冬也はその間、ほぼ寝ていない。寝ようとしても、無意識のうちにベルに関係しそうなSNSアカウントをひたすら調べてしまい、眠れなかった。
最初はもちろん、明里を問いただした。けれど明里は「違うの、あたしもまさか、違う」とうわ言を繰り返すばかりで、なんの役にも立たない。修二は「家庭のこと、ベルはあまり触れてほしくなかったもんな。それに、俺たちとの思い出が邪魔になるなら」と故郷に乗り込んで探す気概もなく、彼女と連絡もなしに破局した彼氏ごっこをしていた腑抜けだった。たった何十回連絡した程度で探すのをやめるなんて、浅ましいことこの上ない。
冬也は手探りで、大体の情報を自力で掴んだ。どうやら飲み会のあとの二次会で、ベルを含む数名の女子は無理やり、たちの悪い男どもにホテルに連れ込まれたようだ。一緒に連れ込まれた女子によると、薬のようなものを嗅がされて、ベルは半狂乱でドアを蹴破り、逃げ出した。男たちがベルを追いかけている間に、他の女子はなんとか逃げ出したとのことだった。
「あたしたち、小山さんに助けられたんです。なのに全然連絡つかないし、大学もやめたって。お母さんの体調とかじゃなく、多分、あのときのことが原因で……」
女子生徒は言い終える前に嗚咽をこぼして泣き始めた。冬也は軽く頭を下げて、その場を早歩きで去った。一歩一歩を踏みしめる度に、足元から炎が湧き上がるのではないかと思うくらいに、怒りが湧いていた。
ベルの故郷はもう怪物の村だ。母親もとっくに死んでいる。ベルは、どこへ消えたのだろう。もしかして、もしかしなくとも、この世には、もう。
冬也は冷静さと判断力を欠いていた。ベルを探しだしてもう一度会う前に、手土産にクソ野郎共の首を持っていこう。誰に言われるわけでもなくそう決めていた。
大学をサボり、ホームセンターでガソリンとマッチとロープを買った。包丁も3本バッグに忍ばせた。もう、何もかもどうでもいい。ベルを失った今、光を失った今、この世界に価値はない。彼女を守りきれなかった、己自身にも。
サングラスにマスク、全身真っ黒のジャージに身を包んで、冬也は件のクソ野郎共が頻繁に出入りするというクラブを張り込んだ。
そこで、運命の歯車を歪ませる出会いをした。
冬也のターゲットたちは現れた瞬間、首をありえないほど直角に歪ませて、血を吹いて倒れた。あまりの急なことに、冬也も瞬きを繰り返すだけだ。
「あっれー、もしかしなくても君の獲物だった感じ? ごめーん半殺しちゃった。あ、ちなみにトドメは館に運んだ後、ラサラサが刺すからさぁ」
全身を寒気が襲う。薄暗くて血生臭いこの場に似合わぬ、軽い声が背後から投げかけられる。声さえも嫌な気配がして仕方がない。振り返るのが、怖い。
「あれ? 君、ベルベルの周りうろついてた子じゃん。もしかして復讐しに来た感じ? すごいじゃん!」
おずおずと振り返る先にいたのは、金髪の大柄な男だった。顔と体にべっとりと返り血がついている。なのに顔は明るい派手な笑みを浮かべていた。
「あんた、人間じゃないだろ」
「おぉ、わかるんだ。勘もいいときた。ますます面白い」
男は愉しげに笑う。
「俺、芦田。ね、ちょっと手伝ってよ。こいつらの死体、あ、まだ死んでないから半殺死体? 運びたいんだよね」
彼はどこまでも軽い声で歩み寄り、呆然とする冬也の手を引いた。
死体の片付けは案外簡単で、引越し業者のトラックに黒い袋に入れた死体を放り投げるだけだった。トラックの運転手は中年の男だったが、目の黒目と白目の色、右手と左手が逆になっており、到底普通の人間には見えない。
トラックを見送り終わった後、血塗れの芦田に肩を思い切り抱かれた。
「おつかれちゃーん! ね、着替えて飯行かね?」
「あの、でも」
「君の愛しの『ベルちゃん』がどうなったかさぁ、知りたくない?」
いざないのような芦田の囁きに、冬也はまんまと乗せられてしまった。
ベルとよく来たファミレスに、未だ血の匂いが残る大男と着てしまう。冬也は何故かこのとき、ベルがこの場に居ない喪失感をひしひしと感じて、席に案内されるなりちょっとだけ泣きそうになった。
冬也はフライドポテトとドリンクバー、芦田は包み焼きチーズハンバーグとチョコレートバナナパフェを頼み、メニューを置く。
「ベルベルはね、俺たちの手引で今はラサラサの館にいるよ」
「無事なんですか?」
「無事無事! でもいろんなモノ食わせたから、もう普通の人間じゃないけどね」
あっけらかんとした言葉に、息が死んだ。あの世のものを食べると、この世には戻れなくなる。霊媒師の家系である冬也は当然知っていた。
「いろいろって」
「人魚のミイラとか、ラサの血液とか、両手で数え切れないくらい、いろいろ! あ、ねぇここ箸あるよ箸。優しいレストランだわ。俺、江戸時代生まれだからフォークより箸派なんだよね」
芦田はガチャガチャとカトラリー入れを漁る。
冬也の脳裏にベルの姿が浮かんでは消える。手が届かないほど、遠くに消えていく。
「ベルちゃんはもう、オレのところには戻ってこないんですか」
芦田への恐怖を置き去りに、冬也は思わず呟いていた。
刹那、ガン! とテーブルの真ん中に、食事用のナイフが刺さる。芦田は血管の浮いた腕でナイフの柄を握ったまま、場に似合わぬ軽い笑みで、冬也を見つめる。
「なーんか勘違いしてる感じ? 元から君のものじゃないよ? あの御方は」
声は先ほどとあまり変わらないのに、妙な威圧感があった。静まり返った店内で、空気の読めない明るいBGMが響いている。
「ひとつ取引をしよっか、少年。俺たちは今、もっともっと力を拡大するために、餌が必要なんだ。君には働き蜂になってもらいたい」
「働き蜂、ですか」
「君に誰でも殺していい権利をあげる。ムカつくヤツいくら殺しても、俺たちが隠蔽してあげるよ。その代わり、死体を祠に納めてほしいなぁ。それを食って、俺たちはまた強くなる。そしたらいつか、君を俺たちの仲間にして、ベルベルに会わせてあげよう」
芦田はテーブルに刺さったナイフを抜く。ひゅん、と振り下ろし、見ているだけで痛いほど光る銀色を、真っ直ぐに冬也に向けた。
「復讐、したいだろ?」
*
あれから、何人が祠に消えていっただろう。
大学卒業後、冬也は東京で働きはじめた。知り合いの知り合いがホストクラブを営んでいると聞いて、そこに身を寄せた。茨城で就職しなかったのは、せめてもの避難だ。冬也の家族が霊媒師の一族であることはもう、芦田たちにはバレているだろう。少しでも家族に被害が及ばないよう、冬也は茨城を離れることに決めた。両親の連絡先を消去したとき、鼻の奥がつんと痛んだ。
東京の路地裏にも、ラサを祀る祠が作られた。祠と言っても、ゴミ捨て場にあった木材を簡単に組み立てたものだ。屋根と柱と鳥居、依代さえあれば祠は作れる。
冬也は持ち前の話術で言葉巧みに人をいざない、祠に吸い込ませた。掛けをとばした客、出禁になったのに何回も来る客、新人をパワハラで何人も辞めさせるほどに追い込んだホストの先輩。それからネットで暴言を吐いている見知らぬ奴には、親しくなったふりをして会う約束をこじつけ、殺してから祠に放り込んだ。あまりに自分の身の回りばかり殺すと怪しまれるから、芦田の手配した手下の蜘蛛たちに依頼し、殺したやつの皮を使って、何年か生活してもらったりもした。
全員殺した。ムカつくやつも、嫌いなやつも。次第に冬也はわからなくなっていく。何のために殺して、何のために祠に納めて。生きるために、ベルにもう一度会うために殺しているはずだった。なのに今は、少しでもムカついたやつは、騙して、殺して、納めて。ムカつくから殺しているのか、悪人だから殺しているのか、何のために殺しているのか。もうわからなくなっていく。
頻繁に夢を見る。子供の頃、ベルとあの神社で遊ぶ夢。ベルと手を繋いで走っていくのに、自分の手は次第に真っ赤に染まって、どろどろの血が溢れてくるのだ。大抵息を切らして目が覚めて、客からのメッセージに返信をして、また眠っての繰り返し。少なくとも、あの頃ベルと夢見た大人には程遠い存在になってしまった。むしろ返り血でいっぱいのこの身は、人間ですらないかもしれない。
人間に戻りたい。何も考えずに笑えていたあの頃のように。この殺し続けるだけの地獄から解放されたい。あの神からベルを取り戻したい。ベルをひと目見てから死にたい。光がない。もう、生きていく気力が湧かない。
そう願って数年が経ち、とうとう「人間としての」ベルを死んだことにすると同時に、彼女を軽んじた全てに復讐する舞台が整おうとしていた。小親村で葬式を開くことにしたのは、コロナ禍で観光客という名の獲物がなかなかやってこないからだ。
『あ、あとこれだけ。松長修二と三毛門明里とは、仲良くしといて? 2人はラサラサ直々に殺すって。ベルベルを手酷く裏切ったあいつらに関しては、ラサラサ激おこだから』
芦田と出会ったあのファミレスでそう言われた。縁を切っては、盛大に苦しませて殺せないから、と。冬也はこのときの、復讐のために、憎い修二や明里とも連絡を取っていたのだ。
冬也は数年ぶりに、茨城に帰ってきた。ほんの気まぐれで、実家の様子をこっそり見に行くことにした。きっともう、人ならざるモノと深く関わりを持った自分は、家には入れてもらえないだろう。それなのに、足は慣れ親しんだ家に向かっていた。
「冬也……! おかえり、おかえり……!」
なのに、なのに。母は庭で泣き崩れ、父は涙目のまま浄化の結界を準備した。嬉しさが滲むとともに、申し訳無さでいっぱいになる。こんなに優しくしてもらえるほど、もう自分の手は清らかではないのに。
事情は詳しくは言えないが、人間を辞めてでも会いたい人がいること、もうこの家には戻れないことを伝えると、父と母は霊を祓う時に使う道具や札やらを、ダンボールいっぱいに渡してくれた。形は少しおかしくとも、ダンボールの重さは、愛の重量だった。
同時に、冬也に希望を抱かせる言葉も。
「この御札はね、とても強いものなの。貼り付けたものの一切の気配を、まるで透明にしたかのように消せるから、身を隠して逃げることもできる。同時に、強い波動を打ち消す力もね。例のあの神にも効くと思うわ」
一切の気配。冬也は思わず口にしていた。
「例えば、武器とかの気配を消すことも?」
冬也の中に、一抹の希望が生まれた。同時に死への覚悟であった。
あの神からベルを取り戻す。たとえそれで死んだとしても、悔いはない。冬也の心のなかに、神殺しという大罪の芽が生まれた。仮に、ラサを殺すことに成功しても、クズにもゴミにも、なんにもならないことは重々わかっている。現に、ベルはもう「あちら側」の存在になってしまっている。もう彼女は人間には戻れない。でも、それでもいい。何もせずに手駒のまま死んでいくより、このまま生き地獄を歩んでいくより、ずっと。
人生最期の一瞬でもいいから、彼女を取り戻したかった。幼い頃からずっとずっと恨めしかった、あの神を殺して。
*
葬式を終えたその日の夜、餌の樽保管庫で冬也は額を拭う。修二と明里以外の外部からの参列者の死体をようやくジュース用の樽に片付け終えた。2人以外の参列者は皆、とうに死んでいる。1回目はバスに乗り込む時。修二たちが乗っていない方のバスに乗車した者は皆、芦田の手によって殺され、バスは発車することなく血の海に染まった。2回目はラサが意識をのっとった明里の手によって。
慣れたはずの死体の重さが、今は特に重くのしかかる。覚悟の重さだろうか。冬也は修二が死んだ「はず」の井戸へと歩みを進めた。逸る鼓動の所為か、足取りだけは不思議と軽かった。
数分後、井戸の横で気絶する、修二を蹴って起こす。
「げほっ、かはっ!」
彼の首には、ラサに絞められた後が真っ赤に残っていた。痛々しいその傷を、冬也は苦虫を噛み潰したかのように睨む。
「と、とうや、助けてくれた、のか?」
「あんた意外と耐性あるんすね。ラサの圧に負けないとか、割とやるじゃん。薄々、ラサの姿にも気づいてたみたいだし」
修二がゆらりと上半身を起こす。彼は土だらけの手で、シャツの胸ポケットからあるものを取り出した。それは、葬儀の前、バスに乗るときに冬也がくれたお守りだった。
「お前からもらったお守りが、助けてくれた。なんかきらきらして、爆発? して」
「えぇ、全て計算の内です。あんたを生かしとかないと計画が狂う」
冬也は膝を折り、しゃがんで修二と目線を合わせる。真っ直ぐに、力強く。
「さぁ、答え合わせといきましょうか。この大罪人」
真実の語り部は、この惨劇のすべてを語り始めた。ベルが消えた理由、バレンタイン後の飲み会で起こったこと、この村の正体、ベルは今、どこにいるか。
修二は表情を変えないまま、たまに鼻を啜って聞いていた。罪の意識からか、泣くのは自分じゃない、泣くのはベルだ、と色のない表情が言っていた。
「で、ここからが未来の話だ。松長修二、あんた、これからどうする。俺と手を組んでラサを殺す手駒になり死ぬか、ここで俺に殺されるか、選びなよ」
「……ベルはまだ、人間じゃなくともこの村にいるんだよな」
「あぁ」
修二に、がしり、と手首をとられる。彼は大きな骨ばった手で、冬也の手首をぎりぎりと握りしめた。
「じゃあ、何を俺に尋ねることがある? その神とやらを消せばいい。この世からも、あの世からも、永劫に」
充血した覚悟の瞳がこちらを睨み続ける。命乞いの意味ではない、正真正銘の殺意を肌で感じる。冬也は手を振り払いながらも、口角を上げた。あぁこの人も、こちら側にようやく来たか、と。
がしん、と地に手をついて、修二は立ち上がる。その瞳にもはや、何も己で決めることが出来ない、透明なマネキンの面影はない。
「俺はベルに、人間として幸せになってもらいたい。たとえ隣に俺がいなくとも、この世に俺がいなくなっても。化け物になってこの村に骨を埋めるのが運命だなんて、あんまりだ」
迷いのない声は硬く、冬也の鼓膜をしっかり揺らす。しっかりと己の足で暗闇に立つ彼。冬也は何も言わず、鼻で笑って肩を小突いた。
「なんだ、覚悟決まってんじゃないすか」
「なんでだろうな。わかんないけど、死にかけてようやくわかった。俺はベルに幸せになってもらうために、その礎のために、生まれてきたんだって。それなのに罪を犯した。大罪人の大馬鹿者。だから命で償う。だからもう、背負うことから逃げない。それだけ」
「そ。かっこつけちゃって」
冬也は相変わらず嘲るように笑う。けれどそこには、ひとつまみの懐かしさがあった。修二の善性に対する、あの頃と同じ呆れと、心の奥底の羨望。結局この人はこういう、いい子ちゃんな人なんだな、やれやれ。そう思うと同時に、自分にはない真性の心の清廉さを羨ましく思う、矛盾した気持ち。
結局この人は、松長修二は、愚かだった。鈍感だった。馬鹿みたいに人を信じた。でもそれら全てが冬也に無いものだったから、自分には無いものをくれるから、冬也は松長修二という男に、彼と紡いだ思い出に、未だナイフでトドメをさすことができない。恨めしいのに、憎いのに、今もこうやって殺せずにいるのだ。
「うっ」
「無茶しないほうがいいっすよ」
「……腹減った」
「あー……。あんた、虫の卵とかしか食ってないですからね」
「え」
「あんたが美味しい美味しい言ってた料理、全部虫の卵とか、泥や砂で出来たものですよ」
「お前っ、だから食わなかったのかよ!」
「はは! せいかーい」
「この馬鹿ピンク頭!」
冬也は数年ぶりに、素で吹き出し笑いを零す。何も笑える状況じゃないのに、不思議と可笑しい。
____あーあ。ほんのちょっとだけ惜しくなってきたな、シュージさんと俺が死ぬの。
*
そして時は巡り、冬也は今、決意とともにラサの前にいる。地下にある人智を超えた広さの絢爛な屋敷。その真ん中にある部屋の真ん中の、ソファにかの神は鎮座している。
冬也は入念に準備をしてきた。現に今、この喪服の中には札を貼ったナイフが2本、邪な者を祓う数珠、札が山程入っている。母の言う通り、それらの存在は気づかれていないようだ。
「で、この冬也という男が、ラサたちの下僕になりたいと?」
ラサの低くも艷やかな声が鼓膜を撫でる。声を聞いただけなのに、背筋に汗が伝った。ラサの問いに「そうそう!」と芦田が明るく返す。
「ちょうどそろそろ、金もなくなりそうじゃん? こいつ結構な量の餌を納めてくれたし、金稼ぎ用として下僕にするのもありかなって! それか、ベルベルみたいに人間やめさせて」
「だめだ。人間のまま飼う」
「あ、やっぱり?」
ラサは肘を付き、冬也をぎろりと睨んだ。
「ベルちゃんは特別だ。それにラサは、家族にしたい者しか眷属にしない。次は息子か娘がほしいけど、ベルちゃんと元同い年の息子はいらない」
まるでおもちゃをいるかいらないか話す、子供のようだ。ぐ、と拳に力が入る。この神は人間を、人の人生をなんだと思っているんだ。霊媒師として人ならざるものの無常識さなんて、幼い頃から勉強してきたというのに、神に常識を問うなどしてしまう。それくらいに冬也の脳は緊張と焦りと怒りが混ざりあっていた。
芦田は「あー残念」と、微塵も残念そうに感じない声を上げ、冬也の肩をぽん、と叩いた。
「じゃあ、そういうことで。とうとう君は今後も今まで通り、東京から餌を持ってくる係として働いてもらおっか」
冬也は上着の内ポケットの中にある、ナイフを取り出そうと手をゆっくり身体に近づける。
刹那。
「その必要はないよ」
身体が強張る。かつて、聞き慣れた声。あまりに聞きたくて聞きたすぎて、もう忘れてしまった己の記憶を恨んだ、忘れたくなかった、声。
「……ベル、ちゃん」
冬也の口から、ずっとずっと会いたかった人の名が零れ落ちた。
白いフリルのロングワンピースを身につけたベルは、部屋奥の階段をこつん、こつん、と音を鳴らして降りてくる。足音が脳髄の奥まで響く。こつん、こつん。愛しい人の足音が。
階段を降りたベルはつかつかと、冬也の元へとやってくる。呆気にとられて何も言えない、体が動かない。ベルは冬也の顔を覗き込んだ。瞳孔の開いた瞳としっかり目が合う。足元から絡め取られるように、体の力が抜ける。
ベルは冬也の喪服の内ポケットをがすり! と強い力で剥ぎ取る。からん、と落ちたナイフは、人ならざるものには存在がわかるはずがないのに、ないのに。
ベルはナイフを拾う。そして目にも止まらぬ速さで、己の肩の付け根を刺した。ナイフは肩を貫通し、血飛沫が床に溢れる。ベルはそのまま膝を折って、床に崩れ落ちた。
「あ、あ……」
「ベルちゃん!!」
尻餅をつき、狼狽えて声が声にならない冬也と、悲鳴のようなラサの声。違う、違う、と冬也は首を左右に振る。自分が殺したかったのは彼女じゃない、自分が殺したかったのは。
呆然とする冬也の腹を、水之助が思い切り蹴り飛ばした。彼の顔には血管が浮いて、怒りの塊のようだ。
「お前、お前! ベルによくも! ラサ様の御前でよくも!」
「はは、やってくれるじゃん。君もう死んだよ? ねーラサラサ」
ごうん、と象の地団駄のような轟音を地響きが響く。ラサは目にも止まらぬ速さで冬也に馬乗りになった。神の首元から黒い大きな手が、触手のように生える。
「殺してやる! 殺してやる殺してやる殺してやるっ!」
ビリビリと声が、鼓膜を破りそうなほど響く。冬也は覚悟を決めた。もう、この神を殺すのは、手負いの獣を鎮めるのは無理だと。
____こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかった。ベルちゃんを傷つけたくなかったのに、こいつを、神を殺したかっただけなのに。
後悔に唇を噛む。何の価値もない愚かにもほどがある後悔が、脳を埋め尽くす。
「あははっ! ぴきーん!」
場に似合わぬ明るい声が空気を裂く。出処は、芦田に背中を支えられていたベルだった。ベルはにこりと、あの頃よりもずっと楽しそうな笑みで、今にも取れそうな腕をぐっともう片方の腕で押す。図画工作でのりで貼り付けるみたいに、身体にもう一度腕をくっつけようとしていた。
「じゅくじゅくじゅくー」
彼女の肩から白い糸が出る。血はどろどろじゅくじゅくとゼリー状に溢れ、糸がそれを縫うように身体に腕を固定していく。おぞましい。もう彼女は、人間じゃない。それをありありと見せつけられたようで、冬也の瞼に1ミリグラムの涙が浮かんだ。
ぐるん、ぐるん、とすっかり元通りの肩を回し、彼女は立ち上がる。
「あーあ、やっぱり『私達』対策がされた武器だったね。私、まだ人間やめて日が浅いし、昔の血が残ってるからわかるんだよ? あぁよかった、まだ半人前で」
「ベルちゃん!」
ラサが子供のように、己より一回り小さい身体のベルに抱きつく。勢いは車のようだったのに、ベルは難なく神を受け止めていた。
「ベルちゃん、痛い? 痛いか? ラサが痛いの痛いの飛んでいけしてあげる」
「ありがと。ラサちゃんはやっぱり優しい女の子だね」
「うん。ラサ、優しい子だろ? 人間も神も超えた完璧な存在だろ?」
「そうだよ。有史以来の最高の存在だよ」
「ベルちゃん、よしよしして?」
ベルは微笑みながらラサの頭を撫でた。撫でながら芦田と目を合わせ、言葉もなく互いに頷く。
「ねぇラサちゃん」
「なに?」
「私の記念すべき初殺人、特等席で見てて?」
芦田が白い鞘の短刀を放り投げる。ベルは視線をラサに向けたまま、短刀をしっかりと受け取った。
冬也は服の中に手をやり、もう1本のナイフに触れる。戦わなきゃ死ぬ、殺さなきゃ死ぬ。ベルを、もう怪物になったベルを。
冬也とベルの視線がパチリと合う。するとベルが途端に「あ!」と嬉しそうに声を上げた。
「あなた、私の初恋の人に似てる! とうやくんっていうの」
冬也はひゅ、と息を吸った。
ベルがしゃらり、と短刀を抜く。こつん、こつん、と彼女の足のヒールが鳴る。
「もう顔も思い出せないし、私はラサちゃんのものだけど」
_____無理だ。オレには君を殺せない。初恋を殺せないよ。
全身の力が抜けて、だらん、と腕が降りた。ベルは冬也の顔を蹴りとばす。躊躇いのない足使いで。もう彼女に情は無い。人間だった頃の弱さも優しさも、無い。あるのは怪物ゆえの自由奔放さと、この人間の道理から外れた怪物共との禍々しい絆だけだ。
痛みと後悔の中、冬也の脳裏に思い出が蘇っていく。これが走馬灯か、と冬也は己を嘲笑う。
本当に愚かでしかない人生だった。人を貶めて、殺して、見下して。一番の愚か者は、一番の悪人は、一番殺すべきは自分だったのに。幼い頃からずるくて卑怯な人間だった。初恋の女の子が苦しんでいたのに、自分の都合で手を差し伸べなかった。あの頃、両親に直談判して、家に呼んで温かいご飯や甘いお菓子を一緒に食べていたなら、何か違ったかも知れないのに。
再会してからもそうだ。彼女の望むままにさせてあげたいなんて言っても、結局は何もせずとも側にいたいという、傲慢極まりない思想の言い訳でしかない。
なんにもない人生だった。なんにもない人間だった。でも楽しかった思い出の中にはいつも、あの子がいた。彼女という光が射していた。その光を守れなかった。暗闇の中で死んでいくのは当然だった。
ベルは冬也に馬乗りになり、彼の心臓をとん、と指で小突く。
「こんにちは、初恋。そしてさよーなら」
大きく振りかぶって、彼女は短刀を冬也の心臓めがけて振り下ろす。彼女の澄んだ美しい瞳の奥に、力なく笑う己が映る。
あぁ、ベルちゃん。君はやっぱり、世界で一番きれいな、光のような____
ぐちゃっ!
続
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